パタンジャリのヨガスートラに書かれている最終段階のサマディについての解説です。
かなり深く難解なものですが、アサナだけでなく瞑想の練習の先には何があるのかを知っておくのもいいかもしれません。
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紀元前350年以降のいつ頃か、賢人パタンジャリとして知られる偉大なヨギがヨガの解説書を識し、現在では古典ヨガとして知られる伝統の定義的な書物であると見做されている。この書物はヨガスートラで、今まで地球上で作られた高度な意識の最も詳細な地図のひとつである。主に精神の本質について、そしてカイヴァリヤ、つまり解脱の状態がついに現れるまでサマディ(三昧)の異なる段階を通して精神がどのように変化していくのかについて書かれている。また、理論と実践が驚くほどまでに統合がされている。ヨガスートラにおいてパタンジャリは、ヨガの二つのシステムについて言及している。クリヤヨガ(禁欲、自己探求、神への帰服)と有名な8段階の道アシュタンガヨガである。これらがヨガの実践を体系的に解き明かし、ヨガの実践の目標とその目標へと到達する方法を非常にはっきりと示している。
ではここで、アシュタンガヨガ(ラジャヨガ)の観点から瞑想体験を詳しくみていくが、パタンジャリのシステムは実際には直接的に瞑想体験については述べていないことを理解しなければならない。そうではなく、我々が何年間ものサダーナ(霊的鍛錬)の間に展開する精神の変化について述べられており、精神と瞑想の対象との関係性に注目している。これは、瞑想鍛錬過程の中で起こるべきことについてあまりにも間接的なアプローチであるため多くの瞑想者が全く関係付けられないように思えるが、パタンジャリがこのようにしたのは相当な理由がある。
サムプラジュニャータ・サマディ(高度な知識のサマディ)の最も低い段階で起こる体験の多くは、個人的そして文化的な要素が含まれる(例えば宗教など)。さらに、それらは瞑想者が選択した特定の対象に関係する。サムプラジュニャータ・サマディのより高い段階では多くの普遍的要素が存在するが、それは全てのものは同じ根源を持つためである。しかしそれでも、この段階を得た瞑想者の体験は必ずしも全てにおいて一致するわけではない。その体験そのものの内容に焦点を当てるのではなく、瞑想の対象との関係性において精神の活動を述べることで、パタンジャリはより普遍的に応用できるシステムを作り上げたのである。したがって瞑想体験は、その段階の基準全てにあてはまると見えた時においてのみ、サマディの特定の段階に到達しうる。この論説で私は、私の博士号論文の準備中にインタビューしたヨギである私の兄弟姉妹たちの瞑想体験(ふさわしい実例だと私は信じている)を提示することで、精神と体験の間のギャップを埋めるのを助けられればと考えている。
以下のサマディの解説を理解するには、最初に3つの基本的な点を理解すると良いだろう。まずは、サマディはインドの洞窟に住む禁欲したヨギだけが体験できるものではないということだ。20年間ヨガを指導してきた私がしばしば驚かされるのは、アサナは勤勉に練習しているがプラナヤマや瞑想を練習しない北米の人たちの数である。彼らは世帯を持っていては瞑想をしても前進できないと信じているのだ。しかし、ウパニシャッドやプラーナ、ヨガ・バシシュタなどの中には、世帯をもったり親であったりする偉大なヨギやヨギニたちの話が多く存在する。また、ヨガの実践者やアサナの指導者であっても多くの人が瞑想をしない。彼らは瞑想の価値を理解していないか、ヨガのより深い教えを気にしないからであろう。また、プラナヤマや瞑想はアサナを完璧にしてからでないと始められないと間違って信じている人もいるが、人生の最も重要な活動を始めるのを漠然と遅らせる致命的な誤解である。
実際のところ、サマディの第一段階サヴィタルカは、ディヤナを単純に深めたものである。私の師であるババ・ハリ・ダスによれば、毎日休まず1、2時間実践するほとんどの瞑想者は、正しい指導を受けていればこの段階まで数年で到達する。1977年のババジのヨガスートラのあるクラスで、サヴィタルカ・サマディ中心の議論をしたことを私は覚えている。ある時、ババジが20人ほどの瞑想者たちのいる部屋をぐるりと指で示し「ここにいるほとんど全員がこれを得る」と書いた。だから、実践が実際に望んだ結果をもたらし得るからこそヨガ・マスター達は私たちに実践しなさいと言うのだということを、まず信じなければならない。実践が進むにつれて、体験が私たちの信じたものは間違っていないと裏付けてくれる。サマディに到達するのは容易ではないが、確実に可能である。
第2に、人は瞑想の実践中にサマディを得るというのは、精神は常にその状態にあり長時間絶え間なく存続することを必ずしも意味するものではないと理解することが重要である。これが起こる時には、瞑想者のサマディ体験は大抵の場合短時間であり、精神はまた外へと出てしまい意識の低いレベルへと落ちてしまう。この精神の外へ流れることをヴィユッターナと呼び、私たちの外の世界に関する思考、執着、欲望、記憶など(サマディでは一時的に抑えられている)が再び活動的になる時に起こる。精神が同じ深さの集中へと戻ることが可能なら、またサマディに入ることも可能だろう。このように、一回の瞑想の中で何度もサマディに入ったり出たりするものである。サマディとヴィユッターナのプロセスを通し、精神はこの2つの状態を比較しサマディ状態の微細と平穏をより感じる。これにより瞑想者はより高度な状態を得ようとする。
第3に、サマディはひとつの状態ではなく、進歩することで展開する一連の段階である。サマディの全ての段階は変わることなく2種類の結果をもたらす。いくつかのタイプの直接体験「知識」といくつかの度合の非執着である。ヨギがサーダナの道を進むにつれ得られる知識は一層深く、非執着はより深く長い効果を精神に与える。段階を達成するのにそれぞれ数ヶ月から数年を要し定着させるにはより時間がかかる。どれだけかかるのかは人により大きく異なり、瞑想者の解脱への欲求の強さや、実践の回数や深さ、そして過去の人生で行った瞑想の実践によるその人のサムスカラ(精神印象)による。そして、パタンジャリが言うよう、サマディは神への帰依によっても得られる。サマディの全ての段階において、修行者はまずその段階が示すものを完全に体験し、次に進む前にそれに対する興味を捨てる必要がある。サマディの段階を通して進むことはまた、浄化のプロセスでもある。全ての段階は精神を浄化し、精神をより微細にする。つまり、到達すべき次段階のため宇宙の存在のレベルまで深く洞察する能力を得る。
精神の準備をする
瞑想プロセスの第一段階が最も困難であるとしばしば言われるが、アシュタンガヨガの初めの部分はそれぞれサマディを得ることに一助している。ヤマとニヤマは精神を浄化する、アサナは長時間快適に座り続けることを可能にする、プラナヤマはより深く集中するエネルギーを与えてくれる。しかし実際にはパタンジャリは、ヨガは精神の中の思考の波の静止であると定義し(1:2)、このゴールへの最初の段階は (2:54 と 3:1)気付きを外界から引き込んで(プラティヤハラ)、対象物へと精神を集中することによって思考の波の現れをコントロールすること(ダーラナ)であると定義している。この「対象物」という言葉は物理的な対象物を指しているわけではない。瞑想者にとって霊的に意味のあるものなら何でも可能で、特定のチャクラや神の像、呼吸、悟りを得た存在の像、内なる光、内なる音、マントラなどである。究極的には、サマディによって作られる集中そのものであり、対象物ではない。そしてすべてのものの源は、より高い段階が得られた時に精神に自然に現れるものであるが、全て同じである。しかし、精神をひとつの本質だけに集中することを教えてくれるのは厳しい修業であり、個人的な親近感を感じる対象物を選択して瞑想することでそれを容易にすることができる。
ダーラナ(瞑想の間、それぞれの瞑想の対象物へ精神を戻すため繰り返す作業)は、ついにはディヤナ(精神から対象物への気付きの比較的努力を要しない流れ)へと発展し、ディヤナは時を経てサマディへと発展する。ディヤナが繰り返し得られると、湧き上がる平穏あるいは幸福に満ちた感情が、集中という修練への精神の憤りとのバランスを取り始める。サマディが始まるのは、精神と対象物の関係性が深まって、集中しているという精神への気付きが小さくなり対象物への気付きが精神そのものを圧した時である。
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