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2026年8月30日日曜日

ギータを生きる 
The Gita in Action

インドの叙事詩マハーバーラタの中で、戦士のアルジュナと従者でありながら神の生まれ変わりであるクリシュナとが会話する場面があります。この問答はまた、ヨガに関する有名な文献でもあります。今回はそんなバガヴァドギータの解説をご紹介します。

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バガヴァドギータ(神の詩)は、二人の類稀な人物の間で交わされた会話です。才能あふれるヨギであり大軍隊の将軍でもあるアルジュナと、生命の神の生まれ変わりであるクリシュナ。ギータは、クリシュナがアルジュナの戦車を戦場の中心部へと走らせているなか、アルジュナがおびただしい数の戦士が集まっているのを見渡しているところから始まります。彼自身の軍隊と敵とがどちらも集まり、厳しい内戦を戦うのです。しかし、尊敬する師と愛する家族が軍隊にいるのを見たアルジュナは呆然とします。戦車の床に倒れ落ち、戦うべきかどうか確信を得られずにいました。クリシュナの助言を得るために彼は懇願するのでした。「明らかに良いのはどちらなのか、教えてください」クリシュナは、すべての世俗者から脱俗者まで届くよう、そして現在まで力強く響き渡るように答えました。


並外れて雄大で劇的なギータですが、最初に読んだ人の多くはよくわからないと感じます。もっとずっと長い叙事詩であるマハーバーラタから抜粋されたギータには、アルジュナの危機に繋がる出来事への手がかりがたくさんあります。その文節のかなり多くは何度も繰り返されているように見えます。そしてわかりにくい信仰的、哲学的言及を多く含んでいます。加えて多くの場合、ギータが重要なヨガの文献だと聞いた現代のヨガの生徒たちは戸惑います。通常ヨガのマニュアルに書かれている練習についてはほとんど語られず、ギータで使われているヨガという言葉は、どうも聞き慣れたものではなさそうです。概して、この3000年前のマスターピースに取り組むことは難しいことが多いのです。



ヨガの3つの道


ギータの不可解さは、始めから現れます。序章でアルジュナは、この戦争は忌まわしいと嘆き悲しんでいます。彼の王国を引き裂かれるのを見るよりも、戦いを放棄したいと考えます。精神的な信念がこの考えを正当化してくれることを、彼は望むのです。


しかしクリシュナは、戦わなければ、臆病で愚かだと歴史に残るだろうとアルジュナを譴責します。アルジュナが戦いを離れて当惑した思考へ逃げ込むのなら、決して精神的な平穏は訪れないと断言します。クリシュナによれば、アルジュナの当惑がヨガに導くことはなく、ヨガから遠ざけます。アルジュナへの「詩」の中でクリシュナ神は、行動のヨガ、献身のヨガ、識別のヨガという3つの精神的な道について述べています。最終的には、どの道も精神の均衡を保ちながら活動的な人生を生きる方法を与えてくれます。しかし、これらヨガの道とはどんなものなのでしょうか?それらの基礎になる信念とは?クリシュナがある人生がよりヨガ的だと確信できるのはなぜでしょう?この記事では、行動のヨガ、つまりカルマヨガから引き出されるこれらの問いへの答えに注目していきます。



行動の果報


クリシュナのアルジュナに対する助言は、単純で説得力のある観察によるもので、2つの要因の間にある因果関係として現れます。


行動と結果:行動は結果につながる:どんな行動も「行動の果報」とギータの言葉にある結果を伴います。いずれかの結果を伴わない行動はありません。単純な例がすぐに思い浮かべられます。皿洗いをすればお皿がきれいになる、走れば心拍が上がる、まぶたを閉じれば目に入る光が減る、などです。すべての行動には結果が伴います。


しかし、行動と結果の関係性は、これらの例のように単純に現れることは稀です。多くの場合、行動は複数の結果につながり、正確な結果は予測不可能なことがほとんどです。また、行動の結果が予測できるとしても、その行動をした人が意図したことではないこともあるでしょう。時と共に、例えば、皿洗いの途中でお皿が何枚か割れてしまうのは、洗っている人の意図ではないとしても、避けられません。走れば心拍が上がりますが、脚の筋肉もまた固くなります。まぶたを閉じると目に入る光が減りますが、眠くもなるでしょう。


行動の様々な結果を見極めるのは、深刻な問題にもなり得ます。医師が患者の投薬の選別に考えを巡らす際は、本来の薬の効能と意図しない効果、つまり副作用とを念入りに検討しなければなりません。本当に、注意深く調べれば、すべての行動は複数の影響を与えます。行動した人が意図した結果もあれば、そうでないものもあるのです。


アルジュナは、多くの場合、行動の副次的影響というのは避けられないのだとよくわかっていました。軍隊を戦争へ導くことで、両軍にいる尊敬する長老たちが殺されるとあろうこと、そして女性や子どもの命もまた壊れてしまうだろうことを理解しています。戦うことをやめればこうした結果な避けることができる、だからこそ彼は悲しみに暮れているのです。


しかし、アルジュナのジレンマを考察する前に、因果応報についてもう少し深く議論する必要があります。クリシュナによれば、私たちの思考に影響を与えるもうひとつ要素があります。動機の要素です。



動機が行動より先行する


動機から行動、結果(意図した、意図しない)へ:先ほどの例に戻りましょう:食べ物の残りを取り除くための必要(動機)から、皿洗い(行動)をします。お皿を洗うことできれいになります(結果)。心臓が弱いので(動機)走ることにします(行動)。走ることで心臓がより強く働きます(結果)。明るい光を避ける必要性(動機)から、まぶたを閉じます(行動)。まぶたを閉じると目に入る光が減ります(結果)。どのケースも、動機が行動より先行し、結果が行動の後に続きます。




ものごとがうまくいかない時


さて、クリシュナの行動のヨガの分析は、ほとんど理解できたでしょう。最後の課題は、動機>行動>結果という3要素がどのように裏目に出るかを見るだけです。一緒に見ていきましょう。


あなたは、家族の庭の世話をする役目をしているとしましょう。戸外で植物の世話をするのを楽しんでいて、自分の努力でたくさんの花や野菜ができたときに幸せを感じています。ある夏の午後、あなたは地元のガーデニング・コンペに参加することを思い付きます。あなたと家族の名を挙げるチャンスです。優勝賞金もまた、シーズンを通した努力の嬉しいご褒美になるだろうとあなたは考えます。そこでそんな考えから、あなたはもっともっと庭で過ごし始め、家族と過ごす時間がどんどん減ります。近所の誰よりも良い庭をつくりあげようと、ますます没頭していきます。そのつもりもなかったのですが、自分の仕事をガーデニングコンテストに勝つことだと考えるようになりました。賞金への思いが頭から離れず、ガーデニングの喜びがどんどん遠のいていきました。今あなたは行動の結果に動機づけられていますが、行動そのものは動機ではありません。


「行動=結果」は「行動から結果」とは異なる:行動を結果と同一視すると、焦点がぶれます。やることと得ることの区別が曖昧になります。結果のために行動することが動機となり始め、クリシュナによれば、トラブルの種を撒くことになっています。この瞬間と調和して生き行動するという感覚を失います。ヨガから遠のいているのです。


行動が、気持ちのいい結果への願望で動機づけられたとき、人生はギャンブルになります。願望の実現を願っていると、行動が成功すれば幸せで、結果が悪いと不幸せになります。幸せと不幸せはどちらも未来の予測できない影に隠れていて、その未来が来るまで不安に付き纏われるのは避けられません。このように心が願望に支配された人のことをギータでは、ボークタ「結果のためだけに行動する人」と呼びます。そんな人は「気の毒である」とクリシュナは言います。




行動のヨガ


私たちがみなしなければならないのは、今ここに心を保つことだとクリシュナは言います。しかし、行動の果報に動機を探すべきでないという訓告にも関わらず、そうした結果に盲目かのように行動するのは賢明ではないと思われます。勝つ願望を全く持たずに競走に出るでしょうか?きれいにすることを意図せずしてお皿を洗うでしょうか?

 
ギータの4つの問いによって、クリシュナのメッセージを明確しやすくなり、正しい行動の道へ導いてくれます。

  • この行動をするのは私の性質からなのか、私の義務なのか?

  • その行動は正しいか間違っているか?

  • この行動の結果を受け取って欲しいのは誰なのか?

  • 特定の結果に執着しているか?

  • これらの質問を少し見ていきましょう



個人の性質:私たちはみな個人的な性質を持ち、それは成長するに連れて徐々に明らかになっていきます。幸運ならば、経験によってその性質が強化され、自信がつきます。クリシュナの説明によれば、私たちはみな自分の性質に合った行動をとる傾向があり、自然に現れる義務を果たすことになります。自分には実際には合わないことや、他人の義務を行おうともがくことは過ちなのです。


ですから、アルジュナが俗世を離れて森の中で修行僧として生きると夢見た時、これまでの人生、アルジュナは正義を守ることに尽くしてきたことをクリシュナは思い出させるのです。彼は戦士です。彼の本質は、世捨てした僧のものとは違います。彼の王国を盗もうとする軍隊に直面した彼は、戦わなければならないのです。


同様に、私たちが何者なのか、自分の本質と義務に相応しい行いをせよという状況がきます。陸上選手なら、レースに勝たなければなりません。詩人なら、自身を言葉で表現しなければなりません。そして今、皿洗いをすることが仕事なら、皿をきれいにしなければなりません。そんなとき、行動の結果は動機ではありません。それはどのみち私がすることをしたことの結果にすぎません。これを理解して行動することがヨガです。これこそが、「自身のダルマ(天性)に従って行動する」というよく聞くヨガの言葉の基本的な意味なのです。




正しいか間違いか:ヨガの行動はまた、有害な行動とそうでない行動、すなわち、正しい行いと間違った行いのどちらを選択するかを身につけることも含まれます。難しいことですが、その結果、行動を遅らせたり行動しないことになるかもしれません。


クリシュナによれば、この葛藤を解決するのに役立つのがヨガです。内面の識別と決断の能力であるブッディに訴えることでこれが可能になります。クリシュナは、ブッディとは鏡のようであり、客観的に見られるように内面の体験を映し出したり意識を表現するのだと説明します。日常の思考のおしゃべりを意識的にしずませれば、その鏡を磨いて活性化させることができる。そして自身の欲望や出来事への反応、記憶、目標などすべてが瞑想の時に目に見えるようになる。ブッディの鏡のような静けさに映し出されるのだと。覚醒したブッディはまた、内側から映し出される性質である平穏や正義、内面のバランスなどの性質へのつながりを与えてくれるのだと。


しかし心が欲望で曇っていれば、客観性は失います。欲望は、まさにその性質により、感情で思考プロセスに色付けをし、混乱へと導きます。その意味で、欲望は賢明でない行動の中核に存在します。そのため、クリシュナは意識的にブッディを覚醒させることを身につけよと私たちを促します。そうすることで、内面の明晰さから現れる「ブッディヨガ」というものの精神で、バランスの取れた心で行動を見ることが可能になります。そのような瞬間には、正しい行動と誤った行動の違いが直感的に明確になります。私たちのなかで引き起こる欲望と混乱を超えるのです。



行動の果報を手放す:私たちにはみな、決められた人生の義務巣あります。自身に食物を与え、住む場所を見つけ、個人的な出来事を処理しなければなりません。また、親、配偶者、家族、同僚、そして人間としての義務を果たさなければなりません。こうした義務を仕方なく負うこともできますし、負担を軽減させる愛とともに快く果たすこともできます。「愛で行動をなめらかにする」すなわち、思いやりを持って自身や他者への責務を行うことがカルマヨガの重要な側面です。


しかし行動は全てが義務によって動機づけられているわけではありません。それ以上のものもあります。例えば、他者のためにドアを開ける、価値ある大義にお金や時間を提供する、「ヨガセンター清掃日」に参加するなどの行動は異なる感覚をくれるでしょう。それらはある種の犠牲のようなもので、果報を手放す行為です。この種の行動は清新な気分を感じさせます。これらの心地よさを記憶した私たちは、精神的な自由を経験します。あなたのヨガクラスで「カルマヨガ」をいう言葉が使われている時、多くの場合はこうした行動を示しているのです。



執着を捨てる:人の性質、その時の義務、行動の正義、愛を持って人間関係をスムーズにしたいという願望、また純粋な親切心や無私無欲などどんな動機による行動であれ、もうひとつ不可欠な質である行動の結果を考慮しない、つまり「執着を捨て」なければカルマヨガは完成しません。クリシュナがアルジュナに語ったように、「成功や失敗に心を動かされてはいけない、心の平穏がヨガだと言われている」


無執着の概念の導入部で、クリシュナは庭づくりにも進行中の戦にもあてはまる3つの行動指標について述べています。動機を誠実に評価すること、巧みに決意を持ちながらも結果に執着しない行動を行うこと、それがカルマヨガです。アルジュナの思考プロセスがまだこの指標に至っていないことをクリシュナは指摘し、彼が陥っている執着を克服するべきだと言います。勝利するかどうかに関わらず、十分な決意をもって戦わねばならないと。ギータが終わるまでにクリシュナは、この教えの真意をアルジュナに説き、ヨガの力で彼の信念を改めさせます。



行動を超えて


バガヴァドギータの会話は、執着の無知との戦いを示して、人の行動の謎を解いています。しかし最後には、クリシュナの教えは既知の行動の概念を超えたところへと導いていきます。あらゆる行動の行為者は実際は誰なのか、そして行動全ての性質について洞察しています。もし読んだことがないのなら、あるいは読むのをやめてしまったのなら、ギータの表紙のほこりをはらってみましょう。カルマヨガの道に焦点をおいた1章から6章までを読んでください。これら古代の概念を熟考し、あなたを待っている全く新しいヨガの世界を見つけるでしょう。それは、あなたの人生を変容させる力を持つヨガの道です。


2026年7月13日月曜日

変化の恐怖を克服する方法:未知の中を進む8つ方法 

今回は精神的な健康についての記事です。
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変化を恐れることを変化恐怖症といいますが、それは誰にでもよくあることです。新しい環境に面した時、日々の習慣を変える時に不安を感じるのは全く普通のことです。しかし、この恐怖が私たちの成長や心の平穏を妨害するなら、変化を肯定的に捉えることが役立つかもしれません。



変化恐怖症とは?


変化恐怖症とは変化への恐怖ですが、心地良い一貫性のある暮らしを続けたいという人間の欲求に根付いているのかもしれません。常に激変する生活というのはとてもストレスの多いものですから、安定を好む人もいるのです。
問題は、人生は常に変化するものであり、一定の回復力は生きていくのに必須だということです。周囲の変化に恐怖を感じるなら、人生はとてもストレスの多いイライラするものになるでしょう。






未知に恐れを抱いているという8つの兆候


将来の変化に不安を感じるのと、変化そのものに実際の恐怖を感じる変化恐怖症との間には違いがあります。その違いを示すのは容易ではありませんが、不安が恐怖になったことを認識することが、克服するための重要な一歩になります。

1. 習慣の変化が不安

日々の習慣が変わるという考えだけで落ち着かなくなるなら、それは明らかな恐怖の兆候です。その変化があなたの人生に与える影響について、過剰に不安を感じていることに気づくでしょう。

2. 予期不安がある

大なり小なり将来の変化に思い悩むことがありますか?予期不安とは、すぐに起こりそうなことでなくても、何が起こるのかについて心配することです。

3. 新しい体験を避けがちである

恐怖のせいで新しい機会や体験を避けようとするのは、よくある兆候です。新しい趣味を始めたり、引っ越しや人との交流を避ける傾向があるかもしれません。

4. パニック発作を起こしたことがある

変化の可能性に直面したときに、激しい動悸や発汗、破滅感などの症状など強い不安を感じますか?

5. 否定的な予測をしている

変化があると常に最悪の事態を予測していませんか?否定的な予測とは、その裏付けがなくても物事が良くない方に進むと予測することです。

7. 完全主義の傾向がある

考え過ぎる傾向や全てを「完全」にしなければならないという欲求は、未知への恐怖から来ているかもしれません。頭の中で、全てが正しいのなら変化する必要はない、という思いがあるのかもしれません。

8. 身体的な症状を感じる

変化への恐怖は、時に身体の状態に現れます。変化を予感した時に胃痛や頭痛、不眠すら体験することもあります。



変化を恐ろしく感じる理由


一般的に、人はいつも変化を好むわけではありません。それは私たちの脳が、パターンを認識し慣れたものに固執し、安全であり続けるよう作られているからです。先史時代には、新しいものや異なったものが現れた時、それは脳が活発なるための進化的な利点となりました。しかし今日では、変化への恐怖は、自身を守るというより阻害するものになり得ます。


また、変化への抵抗は、過去の体験によるものかもしれません。過去に困難に面したことがあったけれど、変化があまり良くない結果をもたらしたことを脳が覚えているのかもしれません。幸運なことに、脳の反応を克服するために思考パターンをつなぎ直すことは可能です。ですから、変化が今度現れそうになったら、脳が警告を出したら、「おっと、この間のこと覚えている?大丈夫、前にもあった」と脳に言ってみましょう。新鮮な視線で変化へ進むことができるかもしれません。



変化に対峙することが大切な理由


変化に真正面から対峙することは、人生のターニングポイントかもしれません。それは多くの場合、最も成長をもたらす変容の時です。変化を受け入れることで、豊かな経験に心を開くだけでなく、学びや自己鍛錬を通して人生をよりよくできます。


新しい機会: 新しい仕事や人間関係、住む場所など、変化は学んだり成長したり人生を豊かにすることのできる刺激的な機会への都ボイラを開いてくれます。

個人的、職業的な成長:変化は、コンフォートゾーン(安全地帯)の外側へ踏み出す挑戦です。変化の困難に直面し克服する時、私たちは回復力を高め、新しいスキルを学び、未来の困難に立ち向かうための能力を身につけます。

自信が高まる:変化の中をうまく通り抜ける度、私たちは自身の能力により自信をもつようになります。この自己肯定感の高まりが、より積極的に前進するための力となり勇気になるのです。

回復力と柔軟性:変化は不可避で、順応することを身につけるのは人生の欠くことのできないスキルです。困難に直面すればするほど、私たちはより回復力が高まり柔軟になります。これらは、より回復力を持って人生の浮き沈みを通り抜けるのに役立つかけがえのない性質です。

よりよい意思決定:変化を受け入れるときは、しばしば決断を下す必要にせまられます。このプロセスを通して、人生のあらゆる面においてよりよい意思決定をするというかけがえのないスキルが身につきます。

ウェルビーイングが高まる:肯定的な変化は、新しいエネルギーと刺激を人生にもたらすことでウェルビーイングが高まる一方で、停滞は不満や不幸せ感につながります。

学びと革新:変化は革新や学びを促進します。新しい状況や考えに出会った時、さらに豊かにしてくれる新しい体験に触れることになります。

人間関係の向上:変化はまた、人間関係にも肯定的な影響を与えます。共に困難と克服することは、絆を強め、愛する人により近づきます。

過去を手放す:時に変化は、自身をとどまらせている過去の体験を手放すことを促進してくれます。

自己発見:変化は自己発見につながります。新しい状況をうまく切り抜けるとき、自分の強さや成長した場所、価値、そして欲求をより知ることになります。




変化や未知への恐怖を克服する8つの方法


変化の恐怖を克服することは、進んで未知に立ち向かうことから始まります。それはまたプロセスでもあるので、時間をかけても構いません。変化を受け入れることに対処する時、誰かのサポートを得ようするのをためらわないでください。では、心を開いて変化を受け入れやすくするために行える8つの方法をお伝えしましょう。

 

1. 恐怖にうちかつための価値観の成長を高める

生きてきたことで、これまでいくつもの変化を生き抜いてきたことを思い起こします。変化に適応してきたことが、あなたを形作りあなたがあなたであるよう作り上げてきました。困難を脅威ではなく成長の機会だと捉え、学びや向上の可能性を受け入れてみましょう。

2. 変化への不安を小さくするマインドフルネスを行う

瞑想や呼吸法などのテクニックを使って、今に落ち着き、将来の変化への不安をやわらげましょう。マインドフルネスはまた、変化は避けられないものだと受け止める助けとなります。受け入れることで恐怖が小さくなり、より楽に順応できるようになります。

3. 未知への不安を感じたらその感情を書きおこす

あなたの恐怖や希望、内省などを書き起こすと、明快さが得られて圧倒的な感情から解放されます。日記を書く時間をとって、頭の中の考えを取り出して上に書くことは癒しになります。最初は難しく感じるかもしれませんが、好きなことを判断せずに何でも書くようにしてみましょう。

4. サポート体制を作る

周りに、あなたの心配ごとを話す時にそれを聞いたり自身の体験をシェアしてくれる支えとなる友人や家族のそばにいてもらいましょう。あなたが今感じているのと同じように感じたことのある人がきっといるでしょう。

5. 直面している変化についての情報で武装する

あなたが拒否している変化について知る時間を取りましょう。その変化についてできるだけ知ることで、未知を明らかにし恐怖を小さくできるかもしれません。

6. 圧倒されていると感じたら少しずつ歩く

変化をより小さく扱えるほどの大きさに分けて、自信をもてるようひとつずつ取り組みましょう。一度に何もかもする必要はありません。そうしたプレッシャーを解けば、少しずつ前に進みことができます。自信を得るにつれて、変化に対して感じている抵抗が徐々に小さくなるのに気づくかもしれません。

 7. ストレスマネジメントのテクニックを使う

ヨガやエクササイズ、または楽しめる趣味など、リラクゼーションやストレス解消の活動をしてみましょう。毎日の日課にストレスマネジメントのテクニックを取り入れれば、予期しなかった変化にもよりよく対処できるようになるでしょう。

8. 恐怖の克服をサポートしてくれる専門家を見つける

変化の恐怖に圧倒されそうになったら、切り抜けるのを助けてくれるセラピストに相談しましょう。不安を抱いているなら、ひとりぼっちだとか孤独だとか感じるべきではありません。



最も多い恐怖症は?


他の恐怖症や治療法について興味がありますか?広場恐怖症や高所恐怖症などよくある恐怖症を深く知ることで、自分自身をより理解し、恐怖症を治療したり症状を緩和するツールを見つけられるかもしれません。




変化恐怖症 FAQs


変化の恐怖の原因は?

変化への恐怖は、多くの場合、過去の体験や慣れ親しんだものに執着するという人間の自然な傾向が原因です。私たちの脳は、安心感を作り出すルーティンや予測可能なものを好むよう設計されています。変化に対峙した時、未知のことが不安を引き起こしますが、それは脅威や困難の可能性を表すためです。背後にある原因を理解することが、変化への恐怖を克服する確かな一歩になります。


変化への恐怖は精神疾患ですか?

変化への恐怖自体は精神疾患ではありません。しかし、その恐怖が過度になったり生活の質を下げるようになったら、それは不安症の兆候かもしれません。変化への恐怖があなたの生活に著しい影響を与えていると感じるなら、専門家に指導やサポートの相談をしましょう。


変化が怖いという人にどう言えば良い?

変化に恐怖を感じているひとをサポートする時は、理解を示し、忍耐強く共感を表しましょう。「変化が難しいことはわかっているけれど、それは成長や新しい経験の機会もくれることを忘れないで。怖がっても大丈夫、一人で立ち向かわなくていい。何かしてあげられることはある?」 など言うのもいいでしょう。心を開いた会話を促し、耳を傾けることが、変化の恐怖に対峙している人に安心感を与えることができるでしょう。


変化への恐怖は病的な恐怖症ですか?

変化への強い恐怖は、変化恐怖症と言われます。他の恐怖症と同様、変化恐怖症は深刻な不安やパニック発作を引き起こします。変化に面したときに多くの人が感じる典型的な不快感を超えて、より消耗させる恐怖になります。あなたや知り合いが変化恐怖症かもしれないと思ったら、専門家を見つければ、この恐怖をうまく対処し克服する方策を見つけられることになるかもしれません。










2026年6月2日火曜日

プラナを理解する Vol.2 
Understanding Prana


前回の続きです。

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プラナと心


精神エネルギーは、食物や呼吸、外界から受け取る印象から派生します。プラナは印象の取り込みを司り、サマナは精神的な消化を調整、ヴィヤナは精神的循環を管理します。アパナは有害な思考やマイナスの感情を排出します。ウダナはプラスの精神エネルギー、力、熱意をもたらします。


精神レベルでは、プラナは栄養や感情のプラスの源、そして心や感覚を通した知識の感受性を司ります。混乱すると、不健康な欲望や底なしの強い欲求が起こり、わたしたちは間違った方向へ導かれ進み、一般的にはバランスを崩します。


アパナは、負の志向や感情を取り除く能力を支配します。これが混乱すると、鬱状態を起こし、重荷となる未消化の体験でいっぱいになり不安で抑圧され脆くなっていきます。


サマナは栄養や満足感、そしてバランスの取れた心を与えてくれます。混乱すると、執着や貪欲さに繋がります。物に固執し、狭量で沈滞した独占欲の強い行動を起こすようになります。


ヴィヤナは心の動きや独立性を与えてくれます。混乱すると、孤独感や嫌悪感、疎外感を生み出します。他社と結束することができなくなり、自分がしていることだけに繋がり続けます。


ウダナは、喜びと熱意を与えてくれ、より高次の精神や創造的な可能性を覚醒するのを助けます。混乱すると、プライドや傲慢さを引き起こし、不安定で高すぎる目標に向かおうとしたり、自身の根源へのつながりを失います。






プラナの精神的な観点


ヨガの実践において、プラナは多くの特別な機能を持ちます。精神的なレベルでは、サマナが心臓の中の空間を調整し、そこには真我が7つの炎をもつ火として存在しています。サマナは、むらなく燃えなくてはならない内なる火を調整します。サマナが作り出す平和やバランスがなければ、自身の中心部に戻ることも心を集中することもできません。
 

ヴィヤナは、ナディを開き、その機能においても澱みないきれいな状態に保つことを通してプラナの動きを司ります。アパナは負の霊的影響や架空の体験から私たちを守っています。プラナ・ヴァーユは、精神を開発するために必要な正しい欲望をあたえてくれます。
 

ウダナは、意識の成長を司り、心を夢を見ている深い眠りの状態へ、そして死後の世界へと連れて行ってくれます。ウダナはまた、シュシュムナの上方へ動きも調整しています。精神はウダナ・ヴァーユとともに動くため、精神的な成長には最も重要なプラナだと言われます。


ヨガを実践していると、こうしたプラナの微細な面が覚醒し、クリヤと呼ばれる無意識に起こる様々な動きなどの普通ではない心身エネルギーの動きを引き起こすことがあります。エネルギーの新しい広がり(微細なヴィヤナ)を感じるかもしれませんし、大きな平穏(微細なサマナ)、空中に浮くような軽さ(微細なウダナ)、深い根付きや安定性(微細なアパナ)、あるいは活力や感受性(微細なプラナ)が高まったと感じるかもしれません。




プラナに働きかける


物質レベルでは、正しい栄養がプラナを増やします。正しい排出もまたそうです。アーユルヴェーダ的な考えにおいては、食物からのプラナは大腸、特に最初の3分の1の部分で吸収されます。そのため、体の健康のためにはアパナが最も重要なプラナです。


ヴェーダによれば、この世の人間は食物をアパナで食べますが、神はプラナで食べます。人間は物理的な組織の集まりで正しい食物によって維持されます。神は感覚で、感覚印象という形でプラナそのものを通して食物を取り込みまやす。プラナを強めるには、儀式や視覚化などの実践とともに、色や音、香りに関した感覚の癒しや自然との接触が重要です。


プラナに働きかける主な方法はプラナヤマで、特にヨガの呼吸法という形になります。ヨガは自己実現の手段として心身どちらもの浄化を重要視し、そのためプラナが豊富なベジタリアンの食事(つまり生命力に満ちた食べ物)、精神修練や誠実や非暴力などの倫理観に根ざした心を重要視しています。不純で有害、乱れた心身は高次の自己を実現することはできません。心身を浄化する鍵はプラナで、この2つに繋がっています。主な方法はプラナが流れているナディを浄化することです。


この面においてヨガの呼吸法は有用で、最も重要なのはナディ・ショーダナ(片鼻交互の呼吸)で、左右のプラナの流れのバランスを取ることができます。ヨガのシステムによれば、体や経絡は左右どちらかが優勢です。右は太陽の性質を持ちます。消化や労働、意識の集中などの行動を助け、ピッタ、火のような性質を持ちます。左側は月の性質で、ナディはカファ的、水の性質が優勢です。休養や睡眠、リラクゼーションなどの行動を促進します。


プラナやエネルギーのバランスを維持するためには習慣的な肩鼻呼吸が最も重要ですが、他にも方法があり、プラナとアパナを繋げることです。アパナ・ヴァーユは重力に沿っていて通常は下向きに動きますが、そのため病気や死だけでなく意識の下降にも繋がります。一方でプラナ・ヴァーユは精神や感覚を通して上方へ分散する傾向があり、上方へのエネルギーの道筋でもあります。ヨガの実践はアパナを上方へプラナを下方へ動かして2つをつなげることが求められますが、これがプラナすべてのバランスをとるのに役立ちます。そうすれば、うちなる火であるクンダリニがおへそのあたりで燃え立つようになります。ムーラ・バンダ(根の鍵)はこの面において重要な実践です。


マントラと瞑想


精神のプラナへは直接働きかけることができます。心や感覚に働きかけるプラナヤマのテクニックがありますが、それらは呼吸に限られていません。色や音(音楽)は、エネルギーを心に向ける重要な方法ですが、最良のテクニックは特に「オーム」など一音節のマントラで、プラスのエネルギーを無意識に向けるのを促す振動が作られます。心に空間を作り上げる瞑想そのものはより多くのプラナを作り、精神が空の広がりのように穏やかで受け入れる状態になった時、新しいエネルギーが現れて偉大なる変容に向かわせてくれます。


ヨガで進む道は、プラナをコントロールすることが基本となっています。献身のヨガであるバクティ・ヨガは、聖なるプラナとつながることでプラナの変容をもたらします。奉仕のカルマ・ヨガは聖なる意志に従うことで、外に向いた行動だけでなく精神の成長を含むより多くのプラナを与えてくれます。
 

伝統的ヨガであるラジャ・ヨガは、精神活動のコントロール(チッタ・ヴリッティ)が基本となっています。心の振動(チッタ・スパンダ)はプラナの振動(プラナ・スパンダ)に従うため、心を制御するのにプラナヤマが役立ちます。また、五感から離れて内側の気づきへと引き入れられるため、五感の調整(プラティヤハラ)にも役立ちます。ハタヨガそのものが主にプラナに関することであり、ヨガのポーズはプラナの動きの現れであり、多くの偉大なヨギたちは、機械的な練習を通してではなく、覚醒したプラナの力を通してをヨガポーズ学んできました。


知識のヨガであるジナナ・ヨガは、強い意思と集中を要します。このヨガでは、精神的なものだけでなく日々の活動すべてにおいて、私たちが得ることのできない発達したウダナ・ヴァーユなしで、プラナへの問いかけ、すなわち真我に対する問いかけが必要です。


まさにヴェーダが語る通り、私たちはみなプラナのコントロール下にあります。プラナは太陽であり、命や光をみなに分け与え、生きとし生けるものすべての真我として心の中に存在しています。私たちのなかにあるプラナは、命を与えてくれ、行動させてくれます。このより大きな力に心を開き迎え入れることを学び、より多くを人生や行動に取り入れるよう求めなければなりません。これこそがヨガの最も偉大な秘伝のひとつなのです。



2026年5月19日火曜日

プラナを理解する Vol.1 
Understanding Prana

ヨガやアーユルヴェーダでよく出てくる「プラナ」
生命力だったり呼吸だったり「気」だったり。
今回はそんなプラナについてです。

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この3つの世界に存在するもの全てはプラナのコントロール下にある。母親が子どもを守るが如く、おおプラナよ、我らを守り、輝きと知恵を与えたまえ

ープラシュナ・ウパニシャッド 2.13

私たちが生まれ持つ5つの主な能力である精神、呼吸(プラナ)、話す力、聞く力、見る力は、どれが最も重要なのかについて議論していた。その争いを解決するため、欠けた時に最も困ることになるのはどれかを見ようと、彼らはそれぞれ体を離れることにした。まず話す力が離れたものの、無言にはなってしまったが体は元気なままだった。次に目が去ったが、盲目ながらも体は元気だった。そして耳が離れたが、聞こえないものの体は成長し続けた。ついに精神が去り、今度は無意識になったが体は生き続けた。しかしプラナが離れ始めると、体は死に向かい始めた。他の力はすぐに生命力を失っていったのでプラナのもとへ急ぎ、プラナの優位性を認めてとどまる様に懇願した。



これは古いヴェーダの物語で、少しずつ違うバージョンがさまざまなウパニシャッドの中で見られます。最初の議論が意味するのは、私たちの能力が統合されず意識をコントロールしようとそれぞれが競い合うというよくある人間の状態です。プラナが離れる時、全ての能力にエネルギーを与えているのがプラナであり、プラナがなければ何も機能できないということが明確になります。この物語の教訓は、これらの能力をコントロールするにはプラナをコントロールしなければならないということです。


心身に良い変容をもたらすためには、エネルギーの働きを理解しなければなりません。この力をサンスクリット語で「第一のエネルギー」の意味でプラナと呼び、「呼吸」や「生命力」とも訳されることがありますが、実際にはそれ以上の意味を持ちます。プラナそのものが表すさまざまな形について、西洋のヨガ文献ではあまり語られないため、その広大で深淵なプラナの科学が理解されることは稀です。


プラナには、体の呼吸から意識そのもののエネルギーに至るまで多くのレベルの意味があります。プラナは単なる基本的な生命力ではなく、原始の創造力です。私たちの存在のすべてのレベルで働く全てのエネルギーを支配しています。この全世界はまさにプラナの現れです。意識を変容させるうちなるエネルギーである大蛇の力、クンダリニ・シャクティでさえ、プラナが覚醒することで起こります。


宇宙のレベルでは、プラナには2つの局面があります。ひとつは出現していない純粋意識のエネルギーであり、全ての創造物を超越しています。ふたつめは出現したプラナで、意識そのもののエネルギーであり、デヴァトマ・シャクティやチティ・シャクティと呼ばれます。出現していない純粋意識のプラナから、全宇宙が存在物へと成り、創造のプラナの出現となります。


自然そのものは3つのグナ(質)から成ります。サットヴァ(調和)は精神を生じさせ、ラジャス(動)はプラナを生じ、タマス(不活発)は身体を生じさせます。自然は動的、ラジャス的なエネルギーです。高次の自己、純粋意識の引力に応えて、このエネルギーはサットヴァ的となります。無知の不活発さによって、この同じエネルギーはタマス的になります。


身体の存在と比較すると、生命力であるプラナは呼吸する酸素から主に起こる「風」要素の変容したものです。微細なレベルでは、空要素は触覚に対応し、触覚を通じて私たちは生きていると感じ、生命力を他の人に伝えることができます。



コーシャ

人間の存在は5つのコーシャ(鞘)から成る

  • アンナマヤ・コーシャ(食物でできた鞘)。これは物質であり、私たちが摂取する5つの要素(地、水、風、火、空)で作られています。

  • プラナマヤ・コーシャ(呼吸でできた鞘)。これは生命力である、ヴァーユという5つのプラナから作られています。

  • マノマヤ・コーシャ(印象の鞘)。これは外側にある低次の精神で五感の印象で満たされています。

  • ヴィジュナーナマヤ・コーシャ(概念の鞘)。これは知性そのもので、方向性を持った精神活動です。

  • アーナンダマヤ・コーシャ(体験の鞘)。これはより深い精神で、記憶、潜在意識、超意識の精神を含みます。



プラナマヤ・コーシャは生命エネルギーの領域です。この鞘は、物理的な体と、3つの精神的な鞘(外側の精神、知性、内側の精神)を媒介しています。また、5つの粗い要素と5つの感覚印象の媒介をも行なっています。
  

プラナマヤ・コーシャは、5つの運動器官(外分泌、泌尿生殖、足、手、発声器官)を繋げており、生存、生殖、運動、自己表現の欲求を含みます。行動への熱意や動機をもたらします。


ほとんどの人は、物理的な身体とそれに深く存在する欲求に支配されており、それは生き続けるためには不可欠なことです。身体は無意識のエゴが存在する場所であり、様々な恐怖や欲望、執着がとどまるところです。私たちの多くが、このコーシャを通して、感覚的な楽しみや形ある物質を得ることといった形で喜びを得ようとして人生を過ごします。
 

強い身体を持つ人には個性を世界に認めさせる能力があって、傑出した人生を歩む人が多いです。身体が弱い人は、多くを成し遂げるエネルギーが少なく、多くの場合は従属的な地位に留まります。一般的には、体力があり自我の強い性質を持った人が世界を動かします。しかし、この性質は精神的な道のりでは最大の障害のひとつとなります。というのも、彼らにとっては、自身の欲望に基づいた衝動に疑問を持つために必要なより大きな力に身を委ねることが困難だからです。


そのため、精神的な人生はプラナを押さえ込まなければならないと考える人もいますが、プラナマヤ・コーシャが強いということは、利己的あるいは欲望志向の活力とは全く異なります。それは個人の力から得られる強さではなく、聖なるエネルギーへの降伏から得られるものです。霊化された強いプラナマヤ・コーシャがなければ、持続的な集中した実践を行うエネルギーを持つことはできません。


ヒンズーの神話では、このより高次のプラナは風の子である猿の神様ハヌマンに象徴され、古代神話ラーマーヤナの中で語られています。ハヌマンは神の生まれ変わりであるラーマとその妻シータに仕えており、それによって望む通りの大きさになり、あらゆる敵や障害を乗り越え、奇跡を成し遂げる能力を得るのです。そうした精神的な方向へ向かう性質によりエネルギーや好奇心、熱意を持つことができ、五感や身体的な衝動(低次から高次まで全ての意思や野望)をコントロールする能力をも得るのです。



ヨガにおける5つのプラナ


プラナマヤ・コーシャは、ヴァーユまたは「風の力」とも呼ばれる5つのプラナから成っています。これら5つのプラナは、動きと方向によって分類されます。これは、アーユルヴェーダ医学でもヨガの実践においても重要なテーマです。


プラナ・ヴァーユ

プラナ・ヴァーユは文字通り「前進する風」という意味で、内向きに動き、食べることから、飲むこと、息を吸うこと、感覚を得ること、精神的な体験に至るまでの体の中に受け入れるあらゆる種類のものを調整しています。もともと推進力があり、物事を動かして導き、日々の中で私たちを動かす基本的なエネルギーを与えてくれます。
 

アパナ・ヴァーユ

「立ちさる風」であるアパナ・ヴァーユは、下方そして外側へ動き、あらゆる形の排泄や生殖(下方への動きもある)を司っています。便や尿の排泄、射精、月経液や胎児の放出、そして呼吸を通した二酸化炭素の排出を制御しています。より深いレベルでは、負の感覚、感情、精神的な体験などのを排除を支配します。私たちの免疫機能の基礎となります。


ウダナ・ヴァーユ

「上へ動く風」のウダナ・ヴァーユは、上方へ動き生命エネルギーの質的、変容的動きをもたらします。体の成長を司り、立つ能力や話す能力、努力や熱意、意思を調整します。主なプラスのエネルギーで、さまざまな鞘での成長や意識の発達を助けます。


サマナ・ヴァーユ

「バランスをとる風」であるサマナ・ヴァーユは、攪拌や識別を通して周囲から中心へと動きます。すべてのレベルでの消化を助け、消化管では食べ物を消化し、肺では空気を消化あるいは酸素を吸収し、精神では感覚、感情、精神の体験を消化します。


ヴィヤナ・ヴァーユ

「外に向かう風」のヴィヤナ・ヴァーユは中心から周囲へと動き、すべてのレベルでの循環を制御します。食物、水、酸素を身体中に運び、精神の中で感情や思考を循環させ続け、勢いを授け強さを与えます。







5つのプラナはまた、体の場所という観点でも見られます。プラナ・ヴァーユは、頭から、身体のプラナの中心であるおへそへのエネルギーの動きを制御します。アパナ・ヴァーユは、おへそから背骨の先端である根のチャクラまでのエネルギーの動きを制御します。サマナ・ヴァーユが司るのは、おへそから全身へのエネルギーの動きです。ウダナ・ヴァーユは、おへそから頭へのエネルギーの動きをコントロールします。


簡単に言えば、プラナ・ヴァーユは物質の取り込み、サマナはその消化、そしてヴィヤナは栄養の循環を司っています。ウダナはプラスのエネルギーの解放、そしてアパナは老廃物の排泄を調整します。これは効率的な機械の働きにとても似ています。プラナは燃料をもたらし、サマナがその燃料をエネルギーに換え、ヴィヤナがそのエネルギーを様々な現場に循環させます。アパナは変換プロセスでできた廃棄物を処理します。ウダナはこうして造られたエネルギーを管理し、機械が効率的に機能させます。


健康の秘訣は、プラナを調和し続けることです。ひとつのプラナのバランスが崩れると、すべて繋がっているため、他も均衡を崩しやすくなります。大抵の場合、プラナとウダナはアパナのバランスを取っていますが、それはエネルギーを作る力が排泄のバランスをとるためです。同様にヴィヤナとサマナは、拡張や収縮という側面でお互いに調整し合っています。




プラナはどのように物理的な体を作り上げているのか


プラナがなければ、体はただの泥人形に過ぎません。プラナが、様々な微細の神経経路(ナディ)を造って、それ通して操作してエネルギーを与えて粗い物質を様々な組織や臓器の形に変え、このゼラチン質の塊りから手足や様々な内臓などを形作っています。


プラナ・ヴァーユは、頭部や脳から心臓までの開口部や経路を作っています。頭には、2つの目、2つの耳、2つの鼻の穴、そして口と7つの開口部があります。ウダナ・ヴァーユは、上半身の開口部、特に口と発声器官を作るプラナを補助します。口は、頭だけでなく全身のための開口部だからです。実際、ある意味では、身体は食べたり自己表現の主な臓器である口の延長なのです。


アパナ・ヴァーユは、尿生殖器と排泄など下半身の開口部を造ります。サマナ・ヴァーユは身体の中央部にある開口部、おへそを中心とした消化器をつくります。肝臓、膵臓などの臓器と腸との経路を開けています。ヴィヤナ・ヴァーユは身体の周囲を走る腕や脚などの経路を作ります。静脈や動脈、そして筋肉、腱、関節、骨などを形作ります。


おへそは、主に消化器官からなっている物理的な身体、つまりアンナマナヤ・コーシャの主なプラナの中心です。粗いプラナが食物として、小腸を中心とした消化プロセスに取り入れられ、主に筋肉などより重い組織に保持されます。しかし、プラナにはより微細なレベルでの機能に基づいた中心もあります。心臓はプラナマヤ・コーシャのエネルギーの主な中心です。呼吸で取り込まれたプラナは、心臓の機能で血液にのって運ばれていきます。頭は精神的な鞘であるマノヤマ・コーシャの中心で、主に目や耳からの感覚受容によってエネルギーがもたらされます。


呼吸は、体内のプラナ活動の主な形です。プラナ・ヴァーユが吸気を調整しサマナが酸素の吸収を司りますが、それは主に呼吸を止めている間に起こります。ヴィヤナはその循環を調整します。アパナは、
特に二酸化炭素の排出を管理しします。ウダナは会話や歌など呼吸を通したプラスのエネルギーを解放することで呼気を調整します。






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2026年3月6日金曜日

悟りを得たエゴ 
The Enlightened Ego


私たちの奥底には、ミステリアスで力強い意識の道具である「精神」が潜んでいます。精神の主な機能には、マナス、ブッディ、チッタ、アハムカラの4つがあると言われます。今回は最後の機能、アハムカラ、すなわち個人としての自分、エゴについて深く見ていきましょう。まずは、自己認識、自我とは何を指すのか、それが瞑想でどのように変わるのかを詳しく見
ていきます。



真我とは誰なのか?


自分自身のことを表す時、わたしたちは「私、自分」という言葉を使います。この言葉にはたくさんの役割があります。自己認識感覚や、他人と区別する印をつける、周りの世界に自分自身を広げる際の所有物を示す(「これは私の自動車です」)などです。いつの瞬間にも精神からもたらされる自分という馴染みのある感覚は、サンスクリット語でアハムカラと言います。これは「アハム(自分)」と「カラ(作り手、行為者)」の2つの言葉から成っています。アハムカラとしての心は、「自分」の作り手です。全ての行動で、「私は行為者だ」「これらの行動は私のもの」と宣言しています。このように、「私、自分」という言葉を使う時、精神そのものの中で作られた自己を意味します。あなたの「私、自分」は特定の体、特定の個性、特定の思考パターン、特定の人生の独自性なのです。


わたしたちが、自分の独自性を詳しく調べることはほとんどありません。ただ役割(親、先生、テニスプレーヤーなど)や、特質(魅力的、率直など)を演じているだけです。このように、「自分とは何?」と正直に自問した時、好奇心が湧いてより質問がでてくるでしょう。「自分で認識していない自分の他の面があるだろうか?自分で思っているような自分なのだろうか?」


人の自己認識は、そう見えている以下でもあり以上であるという認識は、ヨガ哲学の中心にある矛盾です。自我の性質について言及している数多くの聖典のひとつであるバガヴァット・ギータ(6.6)の一節を考えてみましょう。「真我(Self)とは、その自我(self)こそがその真我(Self)によって克服された自我(self)の友である(心を克服した人にとって、心は最良のともである((田中嫺玉氏の訳))」


翻訳者らは、個人的な自我(self)は小文字で、そして超越した真実を表す真我(Self)を大文字で表すことで「自己(self、アートマン)」という言葉の曖昧さを読み解こうとしてきました。より下位の面では、私たちは制限された自我にしがみついていて、エゴやエゴが認識する物を掴んで離しません。しかし、誰もがまた見えている以上に永続的な何かの現れでもあるのです。海面の波がその下の大きな水の広がりの一部でしかないように、私たちもまた純粋な意識、Self、真我の一部なのです。



アイデンティティの性質


二元性を唱えるインド古典哲学であるサンキャの伝統によれば、人のアイデンティティとは集合体です。意識のある真我(体験の対象、知る者、プルシャ)、無意識の心身(意識の道具、体験の対象、プラクリティ)から成っています。あなたには体がありますが、体はあなたの全てではありません。あなたは考えますが、あなたの思考もまらあなたの全てではありません。私たち全ての中に内なる純粋な目撃者、知る者、意識が存在します。


心はピカピカに磨いた鏡のようで、意識の光を受け止めて、最も奥にある表面にその光を反射し、意識そのものの姿を真似ます。聖ヴィヤサによれば、それらが近しいものであるために、私たちは思考を「意識と同じ」だと認識します。


このプロセスは「私というもの」という意味のサンスクリット語、アシュミタと呼ばれ、真の気づきにとても似ています。この言葉はアイデンティティの誤った感覚、誤解を意味します。意識は、一旦、心に反射されればそれが純粋ではないことがわからないため誤解してしまうのです。そうでなければ制限のない、至福かつ永遠であるものによって、アシュミタの混乱を通して心は意識そのものに見えます。そして、アハムカラによって、心が「私」という制限された感覚を私たちに与えるのです。自身を深く知らない限り、アハムカラによって心の中に作られた有限のアイデンティティに執着することになります。


残念ながら、これには大きな痛みがあります。時間が経つにつれ、体を自分自身だと感じていることからくる不快な現実、すなわち当てにならない健康、常に忍び寄る老化のプロセス、確実に訪れる死に対処する方法を学ばなければなりません。


人生には、誤った自己認識からくる苦痛以外の選択肢はあるのでしょうか?その答えは、ヨガの中心にあります。深く染み込んだ誤った認識パターンにも関わらず、人生には知るべきものがまだあるのだと何かが囁きます。それが瞑想です。



瞑想の中の真我


聖人らによれば、瞑想は自己認識の誤りを徐々に取り除き、深い真の自己を露わにします。そのためには、エゴを浄化するプロセスが必要となります。


聖典では、瞑想中のアハムカラを浄化するために、補完し合う2つの方法を薦めています。まずは、「私は単なる身体ではない」「私は世俗的な欲望のみによって支配されているわけではない」などの言葉を熟考することで、制限された自己への執着を緩めます。次に、心をマントラに集中することで、心を無限の存在へと落ち着かせます。


バガヴァットギータ(6.25)では、

「十分な確信をもって一歩また一歩と
 知性に導かれてサマーディの峯に登れ
 そして心をただ一つ真我に固定し
 ほかの一切を思うな 考えるな」  (田中嫺玉「神の詩」より)


ヨガ・ヴァシシュタ(5.59)にも同様に、


「理解しやすいもの、物体を放棄せよ
 そこに残るのは純粋な意識であり、すべての疑念は去る
 我は無限の真我 この真我に限界はないからである
 すべての美であり、すべての光である」



この2つの方法の実践を通し、瞑想によって拡大した自身へと導かれます。徐々に、思い込んでいた限りあるアイデンティティの中に「私」は永遠の幸福を見つけられるという概念が薄れていき、純粋意識の存在の中に全面的な信頼とともに留まれるようになります。


しかし、聖典に書かれているからといって恐怖はまだ残るかもしれません。「瞑想で本当にリラックスしたら何が起こるのだろう?『私』が消える?今の自分を失うのだろうか?」と思うかもしれません。


実際のところ、私たちの真のアイデンティティは単に失われることはないと瞑想が気づかせてくれます。意識は、気づきの平穏な主体であり、束の間の物質ではありません。瞑想では、自己は真我の完全性を感じます。障害や誤ったアイデンティティは徐々に消えていき、全体性を取り戻します。喪失ではなく、自己を満たすのです。


このように、瞑想の本質は自己の拡大です。バガヴァットが言うところの「真我の無限の幸せ」を選択し、制限された自己の狭い境界を徐々に超越していくプロセスなのです。瞑想することは、深く喜びに満ちたその本質に留まることです。下位の心であるマナスは集中し、ブッディは内なる観察者として目覚め、前回の瞑想で得たチッタの印象が精神の支えとして現れ、そしてアハムカラによって作られた自己は徐々に真我という上位の感覚へとリラックスしていきます。これが瞑想の本質であり、自身の存在に落ち着くための心の調整なのです。



2026年2月10日火曜日

無意識を見出す:感情的な癒しのための瞑想
Uncovering the Unconscious: Meditation for Emotional Healing



ヨガの視点からみれば、精神とは意識の洗練された道具です。外の世界と繋がり、精神体験の膨大な領域を与え、純粋な意識そのものへの橋わたしの役割を果たしています。精神の全体像を理解することで瞑想や日常生活がより楽に行えるようになります。


ヨガでは精神活動を、マナス(下位あるいは感覚的な精神)、ブッディ(内なる目撃者)、チッタ(記憶の基盤)、アハムカラ(自性)の4つに区別しています。最初の2つのマナスとブッディは前回「瞑想のための精神世界への地図」の中心でした。


瞑想中、意識している精神であるマナスは静かに集中しています。感覚(マナスと外の世界の間の通路)は感覚の対象への接触をやめます。想像力は弛緩し、穏やかな集中が築かれ、通常の精神を今という瞬間へともたらします。そのように、瞑想中は精神活動の日常の行動が集められ統合されます。


マナスのこうした変容は、ブッディの変化でより深くなります。ブッディは、道徳感を持ち、自己認識が可能な精神です。マナスが静まるとともに、ブッディが覚醒します。これは、意識の静かな展開として体験されます。ブッディが覚醒すると、意識はよりはっきりと輝きます。意識と心の中身の間にかすかな距離ができます。そうして、瞑想者は精神体験の静かな目撃者となるのです。



記憶


チッタは体験を記憶に留めることのできる精神です。印象や習慣、欲求などを溜めた広大な貯水地です。この無意識の貯蔵庫では、未来の種が、今の体験によって植え付けられます。


チッタは湖のようであり、体験のさまざまな川がその水の中にいつも流れこんでいます。こうした川は周囲の世界での敬遠から湧き起こります。見て、聞いて、味わって、匂いを嗅いで、触れます。しかしチッタはまた、精神そのものの中で起こったプロセスの経験も記録します。好きな歌の歌詞を思い出す度、より深くチッタに固定されていきます。


これらの経験で集めた情報は、無意識の中で停止しています。しかし記憶は、新鮮な体験に役立つためこの湖の表面に現れます。そのようにして、シャワーをしている時に突然好きな歌が頭に浮かんだりするのです。


しかし、無意識の中に貯蔵されたものをあまりにも狭い意味で定義するなら、チッタの本当の重要性の理解を見誤るでしょう。精神は、単に事実を不毛な情報だと保存するわけではありません。経験はもっと複雑なのです。それは感情的です。


桃を食べるのは好きだ。梨は、なぜか、好きではない。あの店でみたシャツは魅力的だが、その価格には狼狽してしまう。感情を体験に貼り付け、そして真実と心の中にある感情の組み合わせを残すのです。


喜びや痛みは感情の源です。それらによって、好き嫌い、欲しい物、願い、反感、切望、嫌悪、向上心などが起こります。誰もが幸福を追い求め、痛みを避けます。よって、チッタに保存された体験の種は無作為に置かれているのではなく、適切であろうがなかろうが、未来のための欲望が付いてきます。



動く心


瞑想中、精神の意識的な活動は主としてマナスとブッディの領域ですが、徐々に認識されうまく操れるようになります。これが瞑想の主な目的です。しかし、これまで見てきたように、心は無意識の中の印象も保存しています。こうした印象はサムスカラと呼ばれ、活動を始めるまでは姿を現しません。瞑想では、こうした隠れた印象にもある方法で取り組まなければなりません。その時に初めて、瞑想によって奥深くにある癒しや精神の本質的な要素の統合が可能になります。


スワミ・ラーマは、瞑想の始まりを覚えやすい方法で表現しました。あなたの足の親指を掴もうとしている人がいるとしましょう、と彼は言います。初めは面白がってあなたにもちょっとした影響があるふりをするかもしれません。しかし時間が経つにつれて、あなたは指をくねくね動かしてその人が掴もうとするのをやめさせようとするかもしれません。それが失敗に終わると、あなたはもっと力を入れて足を振り、それでもダメなら、そのやっかいな指つかみ屋を蹴って苛立ちを取り除こうとするかもしれません。


彼によれば、瞑想中に挑む苦悩もそれにとても似ています。精神を集中させるのは、足の指で精神を掴むようなものです。最初、心は勝手に動き回りって、ほんの時々あなたが真剣かどうか見るためにくねくねします。しかしそのうち、心の中の力が自由を求めて外に出ようとします。心はどんどん落ち着かなくなって、とうとう瞑想のプロセスを蹴って集中を振り切ろうとします。


こうした心の反応への解決法は、マナスを休ませる訓練をすることで、集中を深める際に自然に湧き起こるプロセスです。内なる目撃者であるブッディの本来の機能もまた、心の不安定さを鎮めます。


しかし、心の落ち着かなさというのは、多くは無意識、すなわち認識に向かって上へと押し上げるサムスカラの力の結果です。全ての瞑想者は、そうした思考に邪魔される体験を経験しています。一瞬で、「ここ」からどこか遠くの「あっち」に移動したり、一点集中から「あれを友達に言わなきゃよかった」に移動してしまいます。気を逸らす印象は、チッタの本質の一部です。機会があれば、瞑想の静けさの中に現れます。


こうした印象のいくつかは、気をつけなければいけない義務や時事問題だったり、希望や将来設計だったり、ニュースや天気予報、娯楽番組の映像だったり、ずっと忘れていた夢だったりします。良くも悪くも、感情は、水面を求めて湧き上がる泡のように、そうした印象とともに認識されるのです。


瞑想でのこうした印象の影響は、それらにどれほどの注意を払うかに拠ります。ある思考は重要で熟考する必要があるでしょう。他の思考は、不安や欲求によって掻き立てられ、瞑想のプロセスには必要がないでしょう。瞑想が深まるにつれ、前向きな思考ですら落ち着いた集中に道を開けるよう傍に移動します。



無意識の変容


そこにある印象の集まりを変化させたり取り除くために、無意識へと直接入っていくことはできません。しかし、瞑想はそれでもやはり無意識に影響を与えます。問題はどのように、です。


チッタの働きを思い出してみましょう。体験の倉庫であり、隠れた印象の貯蔵庫です。そこには楽しい体験も不快な体験もあって、後にこの同じ印象によって影響されます。こうして、心はさまざまに異なる質や強さの数えきれない体験によって色付けされています。


瞑想そのものは体験あり、チッタに蓄積されます。瞑想体験は、他の体験と同じくチッタの色を変化させます。記憶の中で他の体験が蓄積されるのと同様に、瞑想は心の奥深くに到達しその微かな印象を残します。しかし、瞑想は単なる新しい色ではありません。瞑想は色の変容です。微笑みが憂鬱な表情を変えるように、無意識を変容させます。



集中と手放し


チッタを変容するために瞑想では二つの方法が使われ、お互いに補完し合っています。一つ目は穏やかな集中です。二つ目は、気を散らし邪魔をする思考の洗練された手放しです。これらは伝統的な瞑想テクニックで、パタンジャリのヨガスートラ(1.12)やバガヴァットギータ(6.35)のどちらにも書かれています。


瞑想中、注意を徐々に瞑想的な集中へと移動することを身につけます。心を中心に集めることに集中します。この忍耐の必要な作業の成果は深遠です。瞑想は非生産的でつまらないように見えるかもしれませんが、真実はその真逆です。どの瞬間も、リラックスした集中の印象がチッタに蓄積されます。こうした印象が、心を明晰さと穏やかさへと導き、心を鎮めて瞑想の質を高めます。


しかし、手放しを養う努力はどうなのでしょう?瞑想中の非執着は、逆説的なアプローチが必要とされます。最初は湧き上がる気を散らす思考を、押しのけるのではなく受け入れることを学ばなければなりません。自分自身と戦っても仕方がないのです。瞑想で現れる思考、欲望、希望、夢、恐怖などは全て、少なくとも今の段階では、私たちの一部なのです。ですから、そうした思考が邪魔だったりつらいものであっても、受け入れることが必要なのです。そうすることで初めて、それをそのままの姿で見ることができ、その繊細さと動機の力を見ることが可能になります。


しかし、こうした気を散らす物を、意識の主な集中点にしてはいけません。通り過ぎる思考を見て、新しいエネルギーを与えることなく、それらの飢えた性質を観察するのです。心の表面に現れるものをしっかりと受け入れながら、執着せずに見ることで、チッタを浄化し、雑念の動きを緩め、心の集中力を高めるのです。


集中と手放し。これが深い瞑想の方法です。忍耐と自己需要の種を植え付けます。隠れた動機をあらわにし、利己的でない意思を強めます。自身の意識と無意識の要素間の会話を行い、チッタの変容の中で、心のより長く続く幸福への道を開くのです。







(出典)https://yogainternational.com/article/view/uncovering-the-unconscious-meditation-for-emotional-healing/


2026年2月6日金曜日

瞑想のための精神世界への地図 
A Meditator’s Map to the Mind


精神はまさに束縛と解脱の原因である
アムリタビンドゥ・ウパニシャッド(第二節)



ヨガの文献は、精神は心の道具だと述べています。記憶を保管し、希望や欲望を示し、日々の活動を調整します。しかし、日々の暮らしで中心の役割であるにもかかわらず、私たちはその精神そのものについてあまり考えません。「精神」とは何なのかを簡単にでも定義できる人もほとんどいません。


瞑想の実践者にとって、精神世界の実用的な知識とは地図のような者です。瞑想でどこに向かうのかどのように向かうのかを教えてくれます。幸い、ヨガ哲学は瞑想の実践を補う精神の地図を与えてくれています。物事を新しい方法で見るための扉を開け、私たちが何なのかの問題を解く手助けをしてくれます。では、瞑想でこの地図が示してくれる精神について見ていきましょう。



精神の風景


体験をまとめるためには、精神は体とつながらなければなりません。精神が外の世界の印象を受けとって外の世界で行動するのは、感覚の経路や感覚器(目、耳、手足など)を通してです。ですから精神と体は巧妙に統合されたチームなのです。


精神の機能に途切れはありませんが、ヨガではその活動を4つの領域に分けています。ひとつ目は日々の意識的な精神、マナスです。次に、微細で静かな体験の目撃者、ブッディ。三つ目は、個人、自己像という感覚であるアハムカラ。最後に、習慣や潜在的な印象(サムスカラ)の保管庫として働く、無意識にあるチッタです。






日々の精神


日々の精神であるマナスは、多くの場合「下位の」精神あるいは「世俗的な」精神と呼ばれます。マナスは、意識のスクリーンとして働き、外の世界の感覚的印象とすでに精神に保存された体験とを混ぜ合わせます。マナスの作用を通して、私たちは、錆色の腹をした羽の生えた生き物を見て、朝早くに始める歌を聞き、そしてその名前はロビンだと覚えているのです。


マナスまた、「どっちつかずの」精神とも呼ばれますが、それは情報を集めたり表示するのは得意なのに決断をするのは苦手だからです。休暇の行き先を選び、旅行に最適の日を選び、ルートを計画し、全旅程の費用を計算できます。しかし、行くか行かないかの決断はしないのです。結論には辿り着けません。そのため、行動の価値を特定する役目をもつ精神であるブッディを使う必要があります。


少し時間をとって、あなたのマナスの働きを確認してみましょう。以下を読んでから、少しとどまってあなたの周りの環境を受け止めてみましょう。

  • 意識のスクリーンに映り出される世界を見る

  • 耳から入ってくる周りの音を聞く

  • 触覚、味覚、嗅覚ももまた認識の多次元的なスクリーンにある意識に完全に溶け込んでいる様子に気づく

  • いかに周囲の物をすぐに認識できるか(名前がわかる、あるいはただ認識できる)、そして一貫性のある環境を組み立てることができるかに気づく

重要なのは、精神のスクリーンは外の世界からの印象を記録するだけでなく、印象を色付けすることにも気づいておくことです。過去の記憶は世界、未来のイメージ、現在の形と直面します。ブンブン飛ぶ蜂から逃げて、ふわふわの子猫を抱き上げます。セイリングのイメージは魅力的ですが、あなたのマナスが「日焼け止めを忘れないで!」と言います。欲望も記憶のどちらも常に思考の内容を形作っているのです。




静かなる目撃者


日々の精神というたくさんの活動を考えると、マナスが精神のCEOだと考えるかもしれません。その光景はいつも忙しく、歩いている時も夢を見ている時、夢を見ないで寝ている時もずっと続いています。しかし、その活動は仮面のような物で、人生のより深い次元を隠しています。瞑想者は、慌ただしいこのマスクに隠されたものを見て、もっと心を掴む精神の自然な穏やかさを見出せるようになります。


まさに、マナスの活動は眠りのようなものだと表現されることもあります。マナスは感覚的な体験や直感的な衝動を満足させること、日々の快楽の追求に焦点を向けています。ですから、うちから湧き上がる声は「起きろ!自分自身に戻れ!」と言っているのです。これが瞑想の目的であり精神的な旅のゴールです。けれど、それはどのようにして達成できるのでしょうか?


瞑想者にとっての第一歩は、下位の精神に安定した集中をすることです。通常その集中は呼吸やマントラなどです。これが意識を休ませるプロセスの始まりです。これを行うと、忙しい感覚が(空想の感覚も含む)あとからついてきます。静まりリラックスします。このように、精神に焦点を与えることでマナスの活動を落ち着かせることができます。


マナスが静まって落ち着くと、あなたは覚醒し始めます。静かな目撃者としての自分自身、すなわち他の精神活動を静かに観察する意識の中心への気づきを養います。


こうした覚醒が可能な意識の機能がブッディです。この言葉はサンスクリット語で覚醒するという意味の「Budh」からきています。興味深いことに、これはまさに瞑想中に起こっていることです。意識の静かな変化が起こり、マナスの注意散漫な感情が静まり、より穏やかで安定した精神が覚醒します。


ブッディの語源の動詞には他の意味もあり、どちらも瞑想中の精神の質に関係します。例えば、「意識を取り戻す」すなわちより深みにある自身の認識を取り戻すということ、または「注意を払う」すなわち精神を散漫にさせずに意識を集中させるということです。



これを感じるための簡単な実験をしましょう。目を閉じて呼吸の流れを感じ、以下の指示通りに行ってみましょう。

  • 数分間、力が抜けて吐く息と吸う息の心地よい感覚に意識が向くまで呼吸に集中します

  • 自身が呼吸をしているのではないというとてもシンプルなことに気づき始めます。自分は意識であり、呼吸の感覚を体験しているのです。

  • ブッディが何かをしているのを感じることはありません、が、静かに存在していることを感じます。ブッディである自身は、静かで穏やかな意識です。

  • そのまま呼吸を見つめながら精神を休ませます。マナスが落ち着いたら、そしてこのように注意が落ち着いたら、下位の精神を超えて進むことが可能です。精神活動を見ている自身に気づきます。


旅はここで終わりません。瞑想中は、無意識であるチッタに保存された体験の多数の層へ注意喚起する雑念が現れます。ブッディは、思考や感情、のちに日々の習慣やふるまいという形をとるこれらの印象を深く調べます。このプロセスで、ブッディは、思考(「休暇だ!」)を観察して保存し、その意味(「一年ぶりだ!」)の理解を形づくり、そして決定します。この決定は、執着に基づく物であれば馬鹿げた物にもなり得ますし(「何がなんでも行くぞ!」)、本当の必要性の評価に基づいていれば賢明なものにもなり得ます(「待望の休息が取れる」)。ブッディは決定者であり、覚醒していれば賢明な決定をすることを学びます。


しかしブッディが覚醒している間、日々の生活で助けてくれますが、瞑想の目的はただより良い決定をすることでも、より多くの人生経験を可能にすることでもありません。ブッディの覚醒は、自分自身に戻るのに役立つのです。自覚している意識の源であるうちなる真我の覚醒を取り戻す方法を示してくれるのです。


このプロセスはゆっくりと徐々に展開しますが、地図のない領域というわけではありません。自身を落ち着かせることから始め、下位の精神の活動を観察することを学び、内なる目撃者ブッディを覚醒させます。次回は、瞑想中の、無意識(チッタ)に対処する方法、自性(アハムカラ)を操る方法についてお話しましょう。ですが、今は、瞑想のために座って、精神の領域を認識するところから始めましょう。これ以上に美しく複雑な光景は、この世にありません。




2026年2月2日月曜日

精神の仕組み 
Anatomy of the Mind



ここでは、人間の精神の4つの局面と、瞑想がそれぞれの局面に与える影響について簡単に説明しましょう。







マナスは、日々の意識的な精神で、感覚の調整役であり、思考や印象を映し出す精神のスクリーンです。瞑想ではマナスは鎮静しています。マナスのエネルギーは、移り変わるのではなく集められます。感覚の動きは静まり、とりとめのない思考は落ち着き、注意が明瞭になります。


マナスが鎮まると、より洞察のある精神のブッディが目覚めます。ブッディは体験に意味や価値を与えます。瞑想の実践を通して、ブッディは精神活動を目撃し、心に平穏をもたらします。ブッディが清められると、意識そのものが洗練されて現れます。


チッタは、過去の思考や体験の無意識的な倉庫で、記憶が休む場所です。印象を蓄積し今の心象と混ぜ合わせて、体験を理解し豊かにします。蓄積された印象は、習慣や欲望という形をとってマナスへと戻ります。瞑想をしていると、これが空想や雑念、単なる欲望、強い感情の衝動という形をとることもあります。しかし、瞑想とは、チッタにおける平穏の印象や集中のプロセスです。それが次の瞑想を助けてくれるでしょう。


アハムカラという精神は、「私」の作り手です。「私」という言葉を使う時、この精神そのものに築かれた個人というアイデンティティを指します。あまり重要でない意味では、私たちは制限された自分自身に固執しています。エゴとそれが同一視するものを離しません。しかし、私たちはみな純粋意識、真我という広大な領域の現れでもあります。瞑想は徐々に間違った個人の認識を消し、深い真我に気づかせてくれます。







2026年1月9日金曜日

ヨガと認知症 Vol.2 
Yoga and Dementia

前回からの続きです。

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認知症の方にヨガを指導する際の秘訣


SPECALの黄金律


1. 直接的な質問をしない


「認知症の方の対応でひとつだけ覚えておくとすれば、直接的な質問をしない、ということです」とペニーさんは言います。ヨガティーチャーもそうでない人も、「今朝はどうですか?」から「今、三角のポーズをしたいですか?」まで、情報を得ようとしたり、思いやりを示したり、関係性を築き始めようとして質問をします。けれど、認知症の人は質問されると、それに応えるために必要な事実情報がわからないことで、急に苦痛を感じてしまいます。


「その人のアルバムにある今日のページには多くの事実が欠けていて、そのため簡単な質問であっても答えるのが難しいのです。結局は、三角のポーズをしたいかどうかは、三角のポーズとは何なのかなどアルバムの中の事実情報に依存します。さらに複雑なのは、今した質問が保存されないことです」その場合、答えを待っているというあなたの期待した表情そのものもより深い混乱の原因となり得ます。「どちらにとってもあっという間に困難な日になってしまう可能性があります」ペニーさんはそう認めました。


しかしながら、認知症の生徒と会話するのは不可欠であるため、例えばあなたが言ったことをすぐに理解できる方法で普通に会話するとか、もし会話を始めたら相槌を打つなど他の方法を試しましょう。「まるで釣り人が擬似餌を変えるように」ペニーさんは勧めました。「魅力を感じたら魚は来ます」また彼女の「質問のない質問テクニック」を試すこともできます。例えば「今、三角のポーズをするのはいい感じかしら?」といった感じです。「多分」とか「・・かしら」とか、「・・するのもいいかも」など生徒を困らせない方法で参加を促しましょう。



2. 専門家(つまり認知症の生徒)の声を聞いて学ぶ


「生徒の声を聞いてそこから学ぶ必要があります。彼らが話し始めたらすぐ、自分は話すのをやめてその話や質問を聞けば、それは金の粒のようなもので、どんな言葉を使うべきなのか、彼らは何が知りたいのか、何を話したがっているのかなど、とても価値のあるヒントが得られます」ペニーさんは述べました。


また、認知症患者の介護者から、ペニーさんが言う「最高の出来事」を聞くことができるかもしれません。彼らが最も話したがる体験であり、彼らのアルバムの一番好きなページです。(もし介護者からは何も聞いたことがなければ、そうした記憶を質問のない質問テクニックで聞き出してみましょう)


こうした話をするときは、あなたの生徒は馴染みのあるしっかりとした土台の上にいます。あなたの生徒が不安そうだったり自信をなくしたように見えたとき、また彼らとただ繋がりを強くしたいと思ったときはいつでも、大好きな話の中でよく使うキーワードを言ってそのお話に導きましょう。






例えば、あなたが「ずっとインドに行きたいと思っています」と言ったら、インドに旅行した時の大好きな話しを急に始めるかもしれません。(しかし、『あなたが以前したインド旅行は楽しそうでしたね』など直接的な旅行の話には注意しましょう。あなたにその話をした事実は記憶していないかもしれず、どうして個人的な情報を知っているのか不思議に思って困ることになる可能性があります。『だれでも自分のことを知られすぎている感じたり、アルバムの中にあなたの情報が見つけられないと不安に思うものです!』ペニーさんは注意を促しました。)



3. 否定しない


認知症の生徒は、時々事実に反する内容を言うこともあります。ペニーさんによれば、それを正さない方がいいです。「『それは正しいか間違いか』という質問でなく、『誰のアルバムについて話しているか』です。話している時は自分のアルバム、自分の体験に基づいています。だから彼らが選んだ写真について議論しないでください。注意深く聞いてそこから始めます」


例えば今やったばかりなのに、生徒が「まだ肩回しをしていない」と言ったら、否定しないで彼女の言う通りまた肩回しをしましょう。


(もし、例えば『逆立ち(あるいは体の能力を超えたポーズ)をしましょう』などと生徒に不適切だったりかなり危険なことを提案されたら、彼らではなく自分自身の能力不足のせいにして一旦休憩を促すことをペニーさんは勧めました。「本心から、先に進む前に少し休憩しようと言うことに全く問題はありません。逆立ちをする提案などはきっと時系列的に記憶されていないことをふまえて、休憩のあとは全く新しい章が始められます。このように認知症患者の障害に前向きに対応しましょう」)





さらに・・


4. 複雑な言葉による指示ではなく、実演やジェスチャーを最大限に活用


私たち指導者が実演をするのは大抵はほんのちょっとだけで、多くを長く細かい指示を言葉で伝えます。「足指の付け根とかかとに向かって根付かせて、膝関節は2番目の足指先に向けて。今度は背骨を伸ばして頭頂へと持ち上げて。肩は後ろへ回します・・」いうように。


直近の事実情報の記憶がどんどん不確かになっていく困難認知症の生徒には、もっと単純な方法が必要です。たくさんの指示を与える代わりに、「足で下に押して」など動きを身振りで伝えながらできるだけ簡単なフレーズを使います。


可能なときはいつも実演し、連帯感を作るための視線を合わせることを優先し、ジェスチャーを使いましょう。「ジェスチャーは1000の言葉を伝えます」とペニーさんは言いました。
「ジェスチャーは気もちを伝え、それが新しい写真すべてに保存されますが、言葉は事実であり言った後からすぐに消えてしまいがちです」おそらく「胸を引き上げて」とか「頭頂へ持ち上げて」という意味の言葉の指示に代わるエネルギーにあふれたジェスチャーがあるでしょう。


もし、より細かいアライメントを整えなければ安全とはいえないポーズがあれば、そのポーズは省きましょう。



5. 良いニュースだけ伝える


あなたの認知症の生徒が通常通りに事実情報を記憶できないと感じたなら、否定的な情報を伝えれば落ち着いて見えても不安にさせるかもしれないことは理解できるでしょう。ペニーさんは例を挙げました。「あなたがクラスに遅れて、事故渋滞のために時間がかかったと説明します。まあ、認知症でない人は理解します。『ああ、渋滞ね、あなたが無事に来れてよかった』と思うでしょう。けれど認知症の人は事故のところだけ記憶して、後で不安が引き起こされて『誰が事故にあった?何があった?誰が?何をするべき?』と自問するかもしれません。これは良い写真ではありません。あなたが到着したら心から笑顔で『ああ着いてよかった!』とただ言って練習を始める方がずっといいのです」


あなたの生徒はやる気があるふりに気づくかもしれないので、状況の中で肯定的な面を見るようにするのが大切で、それが自然にあなたの感情に影響します。否定的なニュースや沈んだ感情で認知症の人を困らせないでください。「結局のところ、あなたが遅刻してひどい事故を見たとしても、無事に到着して生徒と会えたら嬉しいでしょう?」


悪いニュースを伝えないのは事実と違う話を作っていると思うかもしれませんが、ぺニーさんが言うには「彼らはもう一生分も悪いニュースを聞いてきたんです!」認知症であるためにすでに耐えている困難のことを忘れないでください。余計なストレスを避ける理由がわかるでしょう。あなたが見た自動車事故やニュースで見た大災害のことは話さないでください。クラスの間ずっと、今練習している部屋の中も外の広い世界も、全ては大丈夫だというサインを出してください。「『大丈夫』という信頼感は記憶されて説明のない不安よりもずっと役に立ちます」ペニーさんは確認しました。


6. 惜しみなく賞賛を送る


ヨガの間はずっと「これ上手ですね!」などと褒め言葉を散りばめましょう。2、3種類の褒め言葉があればより良いです。「完璧!すごい!最高!」


「認知症の診断は、生徒のウェルビーイングを左右します。記憶力の変化に直面しているという明白な兆候があり、それは不安に感じさせるものです」ペニーさんは言います。「自信が低いとき、認知症の人はアルバムの中を探るのが特に難しくなります。自信の低さが、認知症前のアルバムから役に立つ組み合わせを見つける能力が下がることに繋がります」あなたにはヨガティーチャーとして、生徒にうまくやっていると感じさせることで、彼らの自信や自尊心を引き上げる力があります。


ペニーさんが指摘したのは、良いニュースだけを伝えるのと同様に「親切にするのと上に立った態度をとるのとの間には小さな違いがあります」重要なのは本心からということ。信じられないほど困難な状況であなたの生徒はよくやっているということに気づき、何度も心から賞賛を与えてください。ペニーさんは言います「いつも筋の通った事実が記憶されるわけではありませんが、ずっと感情は記憶し続けていて、新しい事実の記憶が小さくなるにつれて感情のスペースが大きくなります。事実よりも感情により依存しているので、そのためあなたの不誠実さにはすぐ気づくのです」



7. 言葉とジェスチャーで生徒との関係を築く


ペニーさんは彼女の言うところの「私たち」関係を築くことを推奨しています。「あなたと生徒はここで一緒にいて、二人ともヨガクラブのメンバーだという印象を作ってください」この連帯感を、「私たち」「一緒にしましょう」などの言葉やフレーズを使って、そしてしっかり目を見て、彼らのジェスチャーやポーズを真似て、彼らの発言や提案に熱心に耳を傾けましょう。


もし生徒がポーズをしたがったら、ポーズをやめたいと思ったら、水を飲むために休みたがったら、賛成してください。「私もそう思っていたところです!」



8. 生徒を専門家として扱う


「ふさわしい話し方をする必要があります。彼らよりもいくらか能力が低いと考えてください。可能な限り、生徒をティーチャーだとしてください」ペニーさんは助言します。


自尊心を上げるために、生徒から受ける指示や確認は快く受け入れましょう。例えば、「三角のポーズはこんな感じかしら」と言ったらきっと「そう!」「その通り!」などコメントが帰ってくるでしょう。


「側から見たら誰が教えていて誰が教わっているのかわからないかもしれません」ペニーさんは言います。もしやろうとしているポーズを生徒がやろうとしなかったら、そんなときは、忘れましょう。彼女のやっている形を真似して、そのリードについて行きましょう。それもまた生徒の肯定感や二人の連帯感を築くのに役立つかもしれません。「そこから、その良い感情を踏み台にして、まるで独り言を言うかように変えることをさりげなく提案します」例えば、指示したり質問するのではなく、「それはいいポーズですね。肩をもうちょっと後ろに回したらどうなるかしら」と言えるかもしれません。


9. 異なる言葉、ジェスチャー、戦略を試して何がベストかを探る


会話や練習の間、いろいろ試して何に効果があって何にないかに気をつけましょう。会話を始めるのに良い天気の話は効果がない?あなたのお母さんや夫がヨガをしてくれたらいいのにという話は?会話は続きましたか?一歩下がるのは効果がありませんか?もう一方の足を前に出すとポーズに入れますか?生徒がシャヴァサナでじっとしていられませんか?肩に手をおいたら少しは長く休んでいられそうですか?質問をするのでなく、どんなときどんなことがうまくいってうまくいかないのかを観察してください。「できるだけ早く見つけられたら、最悪を最小限に最高を最大限にすることができます」ペニーさんは勧めます。


10. 生徒のウェルビーイングを高めるものは何でも喜んで繰り返すことを学ぶ


ヨガティーチャーは、新しいクラスを作ろうと大抵の場合は考えますが、認知症の生徒を教えるなら新しいものを考える重荷から解放されます。新しいポーズを教えるのではなく、よく知っているものを尊重します。


“One of the joys of working with individuals with dementia is that they will never tire of the repetition of what they enjoy,” assured Penny. The shoulder rolls they enjoy will delight them 「認知症の人に対応する際の喜びのひとつは、彼らが楽しんでいることを何度繰り返しても決して飽きないところです」楽しんでいる肩回しに何度でも何度でも大喜びします。ハッピーベイビーのポーズを「死んだ虫」と呼んで彼らが大笑いしたら、毎回大笑いします。生徒から肯定的なリアクションを引き出す言葉を見つけたら、繰り返し同じものを使い続けましょう。


11. 可能性を信じる


本当に効果があることは何かといえば、生徒の手を握ることです。手を握りましょう。好きなポーズがシャヴァサナだけだったら、ヨガクラスはそれに集中させましょう。もし生徒が本当にやりたいことは、お茶を飲みながら好きな話しすることなら、一緒にお茶を飲んで興味をもって喜んで話を聞きましょう。できる限り、ヨガクラスとは何かというあなたの概念を広げることになるにしても、彼らに寄り添いましょう。ペニーさんが言うように「SPECALのヨガは、SPECALを知らないひとにとっては『伝統的な』ヨガには見えないかもしれません。けれど、それは無駄なセッションというわけではありません。反対に、SPECALの基準で測れば、生徒のウェルビーイングを高めるものであるので成功なのです」


認知症の生徒とのヨガクラスの終わりには、新しいポーズも覚えていないし、膝とつま先の向きを合わせるのがうまくなりもしていないかもしれません。汗をかいたかどうか、最後のシャヴァサナでリラックスできたかどうかもわかりません。けれど、生徒の自己肯定感、自立性、社会的快適性、安心感に対して、価値のある貢献ができるはずです。「彼らの声を聞いて、『私たち』関係性の中で一緒に練習することを探ることで、持続的な方法で彼らの生活の質を高められるのです」ペニーさんはそう締めくくりました。「それが値段のつけられない非常に価値のあるもので、SPECALのすべてのケアが目指すところなのです」








2025年12月29日月曜日

ヨガと認知症 Vol.1 
Yoga and Dementia



現在アメリカ人の500万人がアルツハイマー病を患っており、高齢者の三分の一が亡くなる際にアルツハイマーなどの認知症にかかっています。近年、認知症は全体的に減少しましたが、アメリカの人口でこの障害に最もかかりやすい世代である90歳以上の数が最も急速に伸びているため、今後の罹患数は増えることが予想されます。


近年の研究では、ストレスを軽減し記憶機能を向上させるヨガの可能性が、老人ホームで暮らす人々の認知機能を改善することを示唆しています。瞑想とヨガを使ったある多面的プログラムでは、記憶機能をいくらか取り戻すことに成功しています。また、英国の小規模試験プログラムでは、認知症患者が優しいヨガを介護人と一緒に行うことで、より行いやすくまた参加者に受け入れられやすいことが分かりました。


ヨガの効果を考えれば、ヨガは認知症の家族や友人、患者に良いのではと考える人もいるでしょう。


「そうかもしれないし、そうでないかもしれません」と電話インタビューでペニー・ガーナー氏は言いました。ペニーさんは、英国バーフォードの中核的研究拠点にあるコンテンテッド・デメンシア・トラストの創設者であり医療ディレクターです。


この施設は、統合されて開発改良されたペニーさんの「SPECAL(スペックル)法」を用いており、現在ロンドンのキングスカレッジで科学的に研究されています。SPECALという頭字語が初めて使用されたのは約27年前で、ペニーさんがアルツハイマー病と関連する認知症のための特別な早期ケアを開発し始めたころです。ヨガが認知症患者に良いかもしれないしそうでないかもしれない、というペニーさんの言葉を理解するには、この手法の中核にある類似点をまず理解する必要があります。それは、「SPECALフォトアルバム」というものであり、通常の記憶がどのように機能しているかの概念、歳をとると何が起こるのかということ、そして認知症によって起こるある変化についてです。



SPECALフォトアルバム ー 記憶の象徴


この進行性の障害の、基本的に記憶システムに新しい出来事を保存する際の問題だというペニーさんの洞察は、1970年代にアルツハイマー病を患った母親の介護を通して得られました。「私たちは記憶システムを持って生まれます。それがフォトアルバムで、体験したものは全て写真として自身のアルバムに無意識に保存されます。このアルバムは、私たちの基準点であり大切な資産です。今何をしていたかが全て保存され続け、事実やそれに関する感情が含まれます。「ええっと」という度に、私たちは「アルバムを見てみよう」としているのだとペニーさんは説明しました。


「いつも自身のアルバムを参照して、光速でこの簡単に繋がれるデータベースから情報を取り出して、今何を、誰と、どこで、いつ、なぜしているのかの意味を理解するのです。そうやって今ここで何が起きているかのスピードについて行っている訳です。歳をとると、アルバムの写真を無意識に取り出したり保管するプロセスは変わりませんが、必要な時にアクセスする速さが遅くなります。遅くなることは普通のことで認知症とは関係がありません」そうペニーさんは指摘しました。「しかし認知症患者には、新しいタイプの写真が現れるのです。この新しい写真は、日常生活で今起きたことに関係のある現実は含まれないのですが、それに関連する感情だけは感じます。この認知症に関連した写真を『ブランク』と呼んでいます。まず、ブランクは現実の情報が途切れたほんの数秒に現れますが、ランダムで散発的に、そしてより頻繁にブランクが起こるようになり、やがて認知症と診断され、アルバムの半分が感情だけの写真となり、ブランクの長いリボンとなっていきます」


認知症患者は理性を失っているわけでもなく、少し前の現実を判断する能力を失っているわけでもないと、ペニーさんは強調しました。「アルバムのずっと昔のページは、現実もその時の感情もとても理性的に開くことができて、今日見たことをちゃんと説明することができます」


SPECAL法は、この対処手法でプラスに効果を出すことを探っています。その人にとってどの古い写真が最も卓に立つのかに注目し、そうした古い写真と毎日の日課との間に有用なリンクを作るのです。SPECALが尊重するのは、その人の過去の活動や体験を試すことであり、新しい活動には挑戦しません。「私たちのモットーのひとつは『新しいことは何も無い!』」だとペニーさんは言います。「新しい活動をするには順序立った新しい現実が必要ですが、認知症患者の新しい現実の保存機能はどんどん損なわれて行くことがわかっています」


何か新しいことを日課に取り入れると、自分のアルバムに役立つものをあまり見つけられないことの多い認知症患者は、自問して不安になってしまう傾向があります。「答えのない自問は疲弊しますし恐怖です」認知症の人は苦痛が起こる前にこう感じているのだろうとペニーさんは述べました。「ええっと、自分のアルバムを見てみよう、確かめなきゃ、私はどこにいる?どれくらいここにいる?どうやってここに来た?おやまあ、今していることの情報があまりない、本当に不安になってしまう、知ってるはずだけど・・?」






「鳩の群れに猫を投げ入れるようなことはしていないと願います」ペニーさんは続けました。「けれど、認知症患者が初めてヨガをしようとしたら、ヨガクラスですることは彼らのアルバムに筋が通るものは何一つないのです。今日の現実という情報のいくつかは今日のページにばらばらの順番で保存されます。認知症が進行するに従ってそれも少なくなっていきます。そして、少し時間が経って確認しても意味が通らなくなってしまいます。今の体験の内容が明確とは程遠いものになるのです」


「認知症にもかかわらずヨガの体験を楽しめる人を見つけることはできないという意味ではありません。けれど、ヨガをしたいという気持ちは、認知症患者自身から出てこなければなりません。楽しめたかどうかがはっきりとわかっていなくても、ヨガをした後も『あれをもっとやりたいからあの場所に戻りたい』と言うようであるべきです。患者からしか知ることができないこと、つまり患者と患者が記憶している感情に導かれない限り、うまく行うためにはあるべきでない余計なプレッシャーを与えてしまうことになります」


ヨガに効果がると介護人が確信していたら?「そうですね、ヨガをすべきなのは介護人のほうでしょう。けれどヨガは、認知症になる前にヨガをしていた人にとってはとても良い考えかもしれません。つまり、ヨガの写真がすでにアルバムに入っていたら、認知症以前の場所にあるものを参照することができるからです」


当初ベビーブーマー世代のアメリカ人に広く行われていたヨガは、それ以降ますます人気となり認知症になる可能性のある人の写真アルバムの大切な部分となっているかもしれません。ペニーさんによれば、そうした生徒たちにとって、特にウェルビーイングを高める技術に精通している指導者や仲間がいれば、人生を通してヨガを練習することには価値があるでしょう。



認知症の生徒のためのヨガへのアプローチ


もし長期間ヨガを実践してきた認知症の人から、もう一度練習をしたいと言われたらどこから始めればいいでしょう?


最初のステップは目標を明らかにすることです。「認知症を克服するという目標はありえません」ペニーさんは助言しました。「認知症はすでにそこにあります。それよりも、どのように寄り添えるかです。何がプラスで何がマイナスか。私たちの目標は、彼らの状況にかかわらず、生涯を通して24時間週7日間ウェルビーイングを維持することです。そしてそれは可能です」


SPECAL法が目指すところは、オリバー・ジェームズ氏によって Contented Dementia という本の中でより明らかにされていますが、ペニーさんが考えているウェルビーイングの要素、すなわち全ての人間に不可欠であり認知症患者の介護者がとても注意深く認識する必要があることを養うことです。価値があるという感覚(自己肯定感)、自立性(決断能力とそれが行われるのを目撃する)、社会的快適性(他者とのつながり)、そして安心感(基本的に全ては大丈夫だという信頼感)です。


「これらウェルビーイングの4要素がきっちりとあるべき場所にあれば、人は自信を持つことができます。その自信によって最大の能力が引き出されます」とペニーさんは述べました。(注:この4要素は、患者中心の認知症ケア分野の先駆者であるトム・キットウッドさんとの1990年代初期に行われた対話に基づいています)


以下のSPECAL法にから得られる助言は、認知症患者個人や患者グループに対応するヨガインストラクターに対応するためのものです。ペニーさんは、全参加者がSPECALの方針に馴染みがあるのでなければ、認知症患者が通常のグループに参加すること、またその生徒のために作った練習に介護者が参加することもお勧めはできないと言います。


というのは、認知症はさまざまな身体的要求を伴い、アプローチよりも内容が懸念されるからです。身体的に兼好でハタヨガの立位ポーズをたくさんすることができる人もいるでしょう。また運動により制限があったり空間的関係性に困難がある人もいるでしょう。そうした人にはリストラティブヨガやチェアヨガの方が良いかもしれません。以下の8番で説明しているように、「ヨガ」という概念を広げるような、認知症患者らの提案に敏感にオープンでありながら、彼らの能力を尊重した練習を作り、彼らが導いていくようにすることが重要です。


ペニーさんは、SPECALの基本原理である(以下の)3つの黄金律は、直感に反したものかもしれないと認めています。彼女の言うように「『根底を覆せと言われている!』と思うかもしれません。しかし、私たちには認知症患者の言葉を学ぶ必要があります。その人を変えようというわけではありません。彼らとどう関わるかを変えることができ、それこそが私たちが人のためにただすべきことです」



認知症患者に対応できるヨガティーチャーとは?


ペニーさんによれば、より高度なヨガの訓練を受ける必要はありませんが、SPACAL写真アルバムや3つの黄金律、以下のコツなどに精通した人であり、Contented Dementia Trust などによるコースを使ってSPECAL基本原理の理解をより深めた人が適していると言えるでしょう。また、認知症患者とのさまざまな交流のなかでその理解を練習に活かしていける経験を持つ必要もあります。



「SPECALのアプローチを基本理念を理解するには、ヨガの範疇外で開発し実践する必要があります。そうすることでのみ、ヨガティーチャーはそうした基本原理を、長期間慣れ親しんだヨガの練習を続けたいと思っている認知症患者に、最もうまく適用する方法を考慮できるのです」



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次回に続きます

2025年8月29日金曜日

キルタン・クリヤ:ヨガとアルツハイマー予防としてのメディカルメディテーション Vol.2 
Yoga and Medical Meditation As Alzheimer's Prevention Medicine


キルタン・クリヤの実践法


キルタン・クリヤは何千年も実践されてきた12分間の歌うエクササイズです。呼吸、歌やチャンティング、指の動き(ムードラ)、心に思い浮かべるなどいくつかの動きが組み合わされています。ですので、多面性のある多感覚のエクササイズで、脳全体を使って脳内血流を増加します。


姿勢:椅子に心地よく座り、両足をぴったりと床につける
または、足を組んで床に座っても良いですが、高齢者は床に座りたがらないかもしれません。重要なのは心地よいこと、背骨が自然な湾曲のみを残してまっすぐにして座ることです。

両目:目は閉じます

チャントやマントラ:「さぁ」「たぁ」「なぁ」「まぁ」の音を使います。続けて言うと古代の言葉で「真我」あるいは「最高の自己」という意味になります。
メロディーは、みんなよく知っている「メリーさんの羊」の最初の4音で歌います。つまり「メーリさんの♪」までです。

指の動き、ムードラ:親指で他の指に順番に触れます。両手で同時に同じ形を作ります。
• 「さぁ」の時は、親指と人差し指をつけます
• 「たぁ」の時は、親指と中指をつけます
• 「なぁ」の時は、親指と薬指をつけます
• 「まぁ」の時は、親指と小指をつけます
常に人差し指から始めて、中指、薬指、小指と続けて逆行しません。





心に思い浮かべる:エネルギーが頭上から頭頂の中心に降りてきてくるのを思い浮かべます。そして、頭の中に真っ直ぐおりたら、方向が垂直に変わって眉間の鼻のちょうど上の一点(いわゆる第3の目)へと進むのをイメージします。つまり、エネルギーはL字にたどっていくのを思い浮かべるのです。まるでほうきのようにすうっと流れるのをイメージできるかもしれません。




順序:「さぁ」「たぁ」「なぁ」「まぁ」と歌いながら、両手の指でそれぞれムードラを作りましょう。同時に、その音が頭頂から流れてL字に額の中心から出ていくのを思い浮かべます。

1. 2分間、声を出して歌います

2. 次の2分間、ささやき声で歌います

3. 次の4分間、心の中で歌います

4. そしてささやき声で2分間、声を出して2分間、合計12分間歌いましょう

エクササイズを終えるには、とても深く息を吸って、両手を頭の上に伸ばし、弧を描くようにゆっくりとおろしながら息を吐きます。




脳全体を活性化


ヨギ・バジャンによるクンダリニ・ヨガの伝統では、キルタン・クリヤが持つ効果にはいくつかのメカニズムがあります。キルタン・クリヤのチャンティングで舌を使うことは、口蓋の84のツボを一定の順序と組み合わせで刺激し、視床下部や松果体、脳そのものに信号を送っていると考えられています。また、アセチルコリンやノルエピネフリン、ドーパミンなど脳の重要な化学物質が増加することで脳のシナプスを若返らせる可能性もあります。


また、指先や唇、舌にある密集した神経末端は、脳の運動野、感覚野での高レベルの表現に関連しています。ですから、音を組み合わせて指先を使うと、脳の特定の部分が活性化します。私たちの最新の発表では、キルタン・クリヤの各面で脳の異なる部分が刺激されていることがわかりました。キルタン・クリヤで思い描くことがどのような効果をもたらすのかが謎でした。今では、この思い浮かべるテクニックで、身体的レベルでもより大きな面においても、脳の後頭葉が実際に活性化していることがわかっています。そしてまた、目的を持つことがアルツハイマー病予防効果を持つことも示されてきているのです。



(出典)www.alzheimersprevention.org

2024年11月15日金曜日

プラティヤハラ:忘れられたヨガの支則 Vol.3 
Pratyahara: Yoga’s Forgotten Limb


前回の続き、最終回です。

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1. 同一の印象に集中する

精神を浄化し感覚をコントロールするもうひとつの方法は、例えば海や青い空を見つめるなど、同一の印象に意識を向けることです。不規則な食生活や相入れない質の食べ物が消化機能をショートさせるように、耳障りで過剰な印象によって印象を消化する能力も混乱します。そして消化力を向上させるには断食や、モノ・ダイエット(アーユルヴェーダでお米とムング豆のキチャリを食べるように)が必要であるのと同様に、精神の消化力も自然で同一の印象を取り入れて印象を断つ期間が必要なのかもしれません。


2. 肯定的な印象を作る


五感を制御するもうひとつの方法は、肯定的で自然な印象を作り上げることです。これには数多くのやり方があります。木や花、岩などの自然のものに対して瞑想する、または公的的な印象や思考の宝庫である寺院や聖地などを訪れるなどす。肯定的な印象はまた、お香や花、ギーのランプ、祭壇や礼拝に関する工芸品などを使うことで作り出すことも可能です。



3. 内的な印象を作る 


五感から離れるテクニックは他に、内側にある印象に精神を集中する、すなわち外側の印象から意識を遠ざけることです。想像力を働かせることで自身の内側にある印象は作り出すことができ、肉体の感覚が静まって初めて作用し始める微細な感覚に繋がることもできます。



視覚化すること


視覚化するることは、内側の印象を作り出す最も簡単な方法です。実際に、ヨガの瞑想の実践は、神やグル、自然の美しい景色などを思い浮かべることから始まります。神やその世界を思い浮かべる、または想像した神様に花や宝石をお供えするなど心の中で儀式を行うなどで、より複雑に視覚化することができます。心の中の景色に没頭するアーチストや、音楽を作り上げるミュージシャンも心の中で視覚化しています。これらはみなプラティヤハラなのですが、なぜならこれらは外的印象の精神域をクリアにし、瞑想の基盤となる肯定的な内的印象を作り上げるからです。準備としての視覚化は、ほとんどの瞑想に有用となり、他の霊的な実践に取り入れることもできます。





ラヤ・ヨガ


内なる音や光の流れのヨガであるラヤ・ヨガでは、粗い感覚から身を引いて微細な感覚へと集中します。この内なる音や光へと身をひくことは、精神を変容させる方法のひとつでインドリヤ・プラティヤハラのもうひとつの形でもあります。




プラナをコントロールする


五感のコントロールには、プラナの成長とコントロールが必要となりますが、それは五感がプラナ(生命力)の流れであるからです。プラナが強くなければ、五感をコントロールする力を持つことはできません。プラナが乱れたり混乱していれば、五感もまた乱れたり混乱します。


プラナヤマは、プラティヤハラの準備です。プラナはプラナヤマで集められ、プラティヤハラで内に入ります。ヨガの文献では、体のあらゆる部分からプラナを内にひく方法が述べられています。つま先から始め、頭頂や第3の目、心臓、あるいは他のチャクラなど意識を留めたいと思う場所で終えます。


おそらくプラナ・プラティヤハラの最良の方法は、死のプロセスを心に浮かべることでしょう。生命力であるプラナが体から離れ、足から頭まで全ての感覚が遮断されます。ラマナ・マハリシは、彼がたった17歳の少年の時にこれによって自己実現を果たしました。真我を深く探る前に、彼は自分の体が死にプラナが精神へ、精神が心臓へとと引き込まれるのを心に浮かべました。このような完全で集中したプラティヤハラがなければ、彼の瞑想のプロセスは成功しなかったでしょう。




行動をコントロールする


感覚器(目や耳など)に加えて、私たちはまた(手や舌など)運動器官を持っています。運動器官を制御することなくしては感覚器官をコントロールすることはできません。実際、運動器官は外界と直接関係しています。感覚を通して入ってくる衝動は運動器官を通して現れ、そしてこれがより強い感覚を得たいと想わせるのです。しかし、欲望は終わりがないため、幸福を得るためには、私たちが欲しているものを得ることではなく、外の世界からもう何も必要がなくなった時なのです。


印象の正しい取り込みが感覚器官のコントロールを可能にするように、正しい仕事や正しい行動は運動器官のコントロールを可能にします。これは、カルマ・ヨガで、人生に必要な行動を取ること、そして欲望や自己満足に基づく行動を避けることです。カルマ・ヨガには二段階あり、外に向けた行動や奉仕(セーヴァ)、そして様々な形式の儀式から成る内に向けた行動です。


カルマ・プラティヤハラは、神や人類全体に対する奉仕として行動することで、自分の行いに対する個人的な報酬に関するあらゆる思考を放棄することで実践することができます。バガヴァッド・ギータでは、「あなたの義務は行動することであり、行いに対する報酬を求めることではない」と書かれています。これは一種のプラティヤハラです。それはまた、運動器官のコントロールにつながる禁欲の実践も含まれます。例えば、アサナは手足をコントロールするために使われることがありますが、それは長時間、静かに座る際に必要とされるコントロールです。




精神を引いていく


ヨギたちは、精神は6つめの感覚器であり、他のすべての感覚器を調整する役割を持つといいます。感覚の印象は、精神の気づきがある場所でのみ受け取ることができます。例えば、テーブルからコップを。持ち上げる時に手の動きに合わせて目が見るものを関連づけることで、精神もまた感覚器官や運動器官を調整します。ある意味では、私たちは常にプラティヤハラを実践しているのです。精神の気づきには限界があり、精神を他の印象から遠ざけることである一つの印象に注意を向けることができます。私たちが意識を向ける場所がどこであっても、その他のものは自然に見落としてしまうものなのです。


意識をそこから遠ざけることで、私たちは感覚をコントロールしています。ヨガ・スートラによれば、「感覚がその対象そのものを確認するのではなく精神の本質を再現する時、それはプラティヤハラである」より明確に言えば、それはマノ・プラティヤハラ、つまり感覚を対象物から引いて精神の本質という内面、つまり形のないものへと向けることです。ヨガ・スートラにおいてヴィヤサは、精神は女王蜂のようなものであり、感覚は働き蜂のようなものだと解説しています。女王蜂が向かうところはどこでも他のすべての働きバチが従います。ですから、マノ・プラティヤハラは感覚のコントロールというよりは精神のコントロールなのですが、それは精神がコントロールされれば感覚もまた自然にコントロールされるからです。


不健全な印象が現れた時は、そこから意識的に注意を逸らすことで、マノ・プラティヤハラを実践することができます。これはプラティヤハラの最も高度な形で最も困難です。感覚や運動器官、プラナをコントロールすることに熟達していなければ、機能することは困難です。野生動物のように、プラナや感覚は弱い心を簡単に打ち負かすため、多くの場合、より実際的なプラティヤハラから始める方が良いでしょう。




プラティヤハラとヨガの他の支則


プラティヤハラは、ヨガの全ての支則に関係しています。アサナからサマディに至るまですべての支則にはプラティヤハラの局面があります。例えば、アサナの最も重要な面である座位のポーズでは、感覚器官と運動器官のどちらもがコントロールされています。プラナヤマはプラティヤハラの要素を含んでいて、呼吸を通して注意を内面に引き込みます。ヤマとニヤマは非暴力や知足など様々な原理や実践を含みますが、それは感覚をコントロールするのに役立ちます。言い換えれば、プラティヤハラはヨガの高度な実践のための基礎を与えてくれ、そしてそれは瞑想の基礎となります。プラナのコントロールであるプラナヤマの後、精神とプラナを結びつけることで、肉体という領域から出ていくのです。



プラティヤハラはまた、ダーラナとも関連性があります。プラティヤハラでは、通常の障害となる心の乱れから注意を引いていきます。ダーラナでは、マントラなど特定の対象物にそうした注意を意識的に集中させます。プラティヤハラはマイナスの実践ですが、ダーラナは同じ基本的機能でプラスの局面を持っています。




最も重要な支則


瞑想の実践を何年も行ってきたけれど、期待通りには達していないと感じる人は多いでしょう。ある程度のプラティヤハラのない瞑想を実践しようとするのは、穴の空いた器で水を汲もうとするのに似ています。どんなに水を入れても、それはまた流れていきます。感覚とは心の器の穴のようなものです。穴を閉じなければ、精神は真実の蜜を保つことはできません。瞑想をしたり感覚に耽ったりする人にはプラティヤハラが必要です。


プラティヤハラは、瞑想のために心を準備する様々な方法を与えてくれます。また、心理的な痛みのもとである環境的な障害を避ける手助けとなります。プラティヤハラは、人生をコントロールし、内面の存在を開くための素晴らしいツールです。何人かの偉大なヨギが
「ヨガの最も重要な支則」だと呼んだのも不思議ではありません。私たちは皆、実践にプラティヤハラを含めることを忘れてはならないのです。







2024年10月27日日曜日

プラティヤハラ:忘れられたヨガの支則 Vol.2 
Pratyahara: Yoga’s Forgotten Limb


前回の続きです。
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五感の制御


五感の制御、インドリア・プラティヤハラは、プラティヤハラで最も重要とされますが、マス・メディア志向の文化にいる私たちにはあまり耳にしたくないものでしょう。テレビやラジオ、コンピューター、新聞や雑誌、本など常にありとあらゆる刺激により、ほとんどの人が感覚過剰な状態になっています。商業主義の社会は、五感を通して興味を刺激することで機能しています。いつも明るい色や騒がしい音、ドラマチックな感覚を突きつけられています。ますますより多くの感覚的な楽しみにふけるようになっています。そして私たちの社会での娯楽とはとういったものがほとんどです。


問題は、そういった感覚というのは、躾されていない子供のように自分の意思を持ちとても衝動的な性質を持っていることです。五感は何がしたいかを心に伝えます。もし躾しなければ、五感は私たちを支配し、その終わりのない要求が心を乱します。私たちはいつも知覚が働くことに慣れていて、心を静かに保つ方法を見失っています。感覚の世界とその魅力の人質となってしまっています。五感に訴えるものを追い求めて、人生のより高度な目標を忘れています。こうした理由から、プラティヤハラは現代の私たちにとって最も重要なヨガの支則なのでしょう。


昔のことわざ「精神には意思があるが、肉体は弱い」は、五感を正しく制御する方法を学んでいない私たちに当てはまります。インドリア・プラティヤハラは、精神を強くし肉体への依存を減らすためのツールを与えてくれます。そうした制御は抑制(最終的に反発を起こしてしまう)ではなく、正しい調整と動機づけなのです。




印象を正しく受け入れる


プラティヤハラは、印象を正しい受け入れることです。私たちの多くは、何を食べるか誰と居るかに注意を向けますが、五感から入ってくる印象については同様の識別を行いません。個人の生活では決して許さないような印象をマスメディアを通して受け入れています。現実の生活では決して家に入れないような人々が、テレビや映画を通して家の中に入ってくるのを許しているのです!


毎日どんな印象を取り込んでいるのでしょう?それが私たちに影響を及ぼすことなどないと考えられるでしょうか?強い感覚は精神を鈍らせ、鈍った精神によって私たちの行動は無神経で軽率で、暴力的ですらなり得ます。


アーユルヴェーダでは、五感による印象は精神の主な食物です。精神域の背景は、五感の印象に支配されています。これは、精神が最後に聞いた歌や最後に見た映画などの印象を思い出す時に見られます。ジャンクフードが体を不快にするのと同じく、ジャンクな印象は精神を不快にします。ジャンクフードはたくさんの塩や砂糖、スパイスで味つけられていますが、それはほとんどが死んだ食物だからです。同様に、ジャンクな印象は強くドラマチックな印象(セックスや暴力)で現実であるかのように感じさせますが、それは実はそれらがただスクリーンに映し出された色にすぎないからです。


私たちが何者なのかについて、五感の印象の役割は無視することはできません。というのも、印象が潜在意識を築き、その中にある潜在的な傾向を強めるからです。印象をコントロールせずに瞑想をしようとすれば、潜在意識は私たちと闘うこととなり、精神の安定や明快さを作り出すことはできません。




五感から離れる


幸運なことに、私たちは五感の印象の嵐の前でどうすることもできないというわけではありません。プラティヤハラが正しく管理する実際的なツールをたくさん与えてくれます。おそらく印象をコントロールする最も簡単な方法は排除する、つまり五感から入ってくる全てのインプットからしばらく離れることです。断食が肉体に効果があるように、印象を断つことは精神に効果があります。これは、目を閉じて座って瞑想する、通常の五感の嵐から離れた場所(例えば山小屋など)に逃避するなど簡単にできます。


ヨニ・ムードラ(またはシャンムクティ・ムードラ)は、五感を閉じるための最も重要なプラティヤハラのテクニックの一つです。手の指を使って、頭部の感覚器(目、耳、鼻、口)をブロックして、意識とエネルギーを内側へと動かします。プラナヤマの練習をしたすぐ後など、プラナのエネルギーが強い時は短時間で効果があります。(もちろん、酸欠になるほど口や鼻を閉じてはいけません)


五感から離れるもうひとつの方法は、感覚器は開いたまま注意を内側へと引き込むことです。この方法では、実際に感覚器を閉じてしまうことなく、印象の取り込みをやめます。最も一般的な方法はシャムバーヴィ・ムードラで、目を開けたまま座りながら意識を内側に向けますが、いくつかの仏教の瞑想で使われるテクニックです。この感覚を内側に向けることは他の感覚、特に聴覚も同時に行うことができます。日々の生活のまま五感が働いている時でも、精神とコントロールするのに役立ちます。


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次回にまだまだ続きます。


2024年10月25日金曜日

プラティヤハラ:忘れられたヨガの支則 Vol.1 
Pratyahara: Yoga’s Forgotten Limb

ヨガって何でしたっけ?
やせるため、健康のための運動?若々しく綺麗でいるためのストレッチ?
さて、大事な物を忘れてしまっているかもしれません。

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プラティヤハラそのものがヨガと呼ばれるのは、ヨガ・サダナ(日々の鍛錬)の中で最も重要なものだからである ー スワミ・シヴァナンダ







ヨガは、精神修練の広大なシステムで、精神の成長のための手段を与えてくれます。私たちの本質の様々な側面を理解する方法や、そんな本質と私たちの内側や周りに存在するより大きな世界とを調和させる方法を授けてくれます。この素晴らしい精神科学は、私たちの可能性が最大に展開するのを実現する方法を示しています。


この目的を果たすため、伝統的なヨガのシステム(アシュタンガ・ヨガ)は8つの支則を取り入れており、それぞれが役割や機能を持っています。8つがまとまって精神を解放するための完全なシステムを作り上げている。この8支則とは、ヤマ(禁戒)、二ヤマ(勧戒)、アサナ(坐法)、プラナヤマ(調気法)、プラティヤハラ(制感)、ダーラナ(集中)、ディヤナ(瞑想)、そしてサマディ(三昧)です。これらの中で、プラティヤハラが最も知られていないでしょう。ヨガの指導者であっても、どれだけの人がプラティヤハラを明確に示せるでしょうか?プラティヤハラのクラスに出たことがありますか?プラティヤハラについての本をみたことがありますか?重要なプラティヤハラのテクニックのいくつかを思いつきますか?ヨガの実践の中でプラティヤハラを行っていますか?しかし、プラティヤハラを理解しなければ、ヨガの不可欠な部分を欠いていることになります。この側面がなければ、このシステムは機能しないのです。




ヨガの内側と外側の側面



ヨガの外的側面は、正しい生き方、正しい体の使い方、そして生命力を高めることから成っています。これが、ヤマやニヤマ、アサナ、プラナヤマです。ヤマとニヤマは、非暴力や誠実などの価値観や清浄や知足などの実践を通して正しい鼓動の基礎を作ります。アサナは体を強く柔軟にさせ、プラなヤマは生命力を高めてくれます。


ヨガには、瞑想やより高度な意識の開発などの内的側面もあります。これこそがヨガの目的であるダーラナ、ディヤナ、サマディがひとつのプロセスとして形を成したサンヤマで、広い意味では瞑想のことです。


八支則の5段階目として、プラティヤハラは中心に存在します。ヨガの外的側面のひとつだとする人もいれば、内的側面とする人もいます。どちらの分類も正しく、その理由はプラティヤハラがヨガの内外的側面の関係への鍵であるからです。次へどう進むのかを教えてくれます。


アサナから瞑想へと直接に進むことが可能な人はほとんどいません。これは、体から精神の間に何が存在しているのかを見失ったままジャンプしなければいけないからです。この移行を行うためには、まず体と精神を繋いでいる呼吸や五感を制御して正しく開発しなければなりません。ここでプラナヤマとプラティヤハラの出番です。プラナヤマによって生命力と心拍をコントロールし、プラティヤハラによって手に負えない五感を制御します。このどちらもが、瞑想を正しく行うために必要不可欠です。



プラティヤハラとは?



「プラティヤハラ」という言葉は「Prati」と「Ahara」という二つのサンスクリット語から成っています。「Ahara」の意味は「食物」あるいは「外側から自分自身へ取り込むもの」です。「Prati」は「逆らって」や「離れて」を意味する前置詞です。つまり「Pratyahara」とは文字通り「aharaの制御」あるいは「外的影響の統制」という意味です。これはこれまでカメが甲羅の中に引っ込むことに例えられてきました。甲羅は精神で脚は感覚です。一般的に「感覚から離れる」と訳されますが、より多くの意味を含んでいます。


ヨガの考えでは、アハラつまり食物には3つの段階があります。まずひとつめは、体を育むために必要な5要素(土、水、火、風、空)をもたらす物理的な食物です。ふたつめは、精神を育むために必要な微細物質をもたらす五感(聴覚、触覚、視覚、味覚、嗅覚)です。各感覚は、聴覚が空、触覚が風、視覚が火、味覚は水、嗅覚は土というように微細な要素から成っています。みっつめのアハラは私たちの人間関係で、魂を育み私たちのグナ(サットヴァ、ラジャス、タマス:調和、混乱、怠性の根本的質)に影響を与える心の中にある人々です。


プラティヤハラには二面性があります。間違った食物、間違った感覚、間違った人間関係から離れると同時に、正しい食物、正しい感覚、正しい人間関係へと向かっていきます。正しい食生活や正しい人間関係がなければ精神的な印象を制御することはできませんが、プラティヤハラで最も大切なのは、感覚が作る印象から離れ制御することであり、それによって内側へと向かう精神を自由にすることができます。


否定的な感覚から意識を離すことによって、プラティヤハラは精神的な抵抗力を強化します。健康な体が毒素や病原菌に抵抗するのと同じく、健康な精神は否定的な感覚が周囲に影響を与えるようとするのに抵抗します。もし周りの騒音や混乱ですぐに心が乱れてしまうなら、プラティヤハラを実践する必要があります。それがなければ、瞑想することはできません。


プラティヤハラには主に4つの形があります。インドリア・プラティヤハラ(五感の制御)、カルマ・プラティヤハラ(行動の制御)、プラナ・プラティヤハラ(プラナの制御)、そしてマノ・プラティヤハラ(五感から離れる)です。それぞれに特別な方法があります。


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次回に続きます。







2024年5月10日金曜日

マインドフルネスはビジネスやファイナンスで墜落させられているのか? 
Is mindfulness being corrupted by business and finance?

このGuardian の記事は実は10年前のものです。
世界状況や企業の環境も変化しティクナットハーン氏もいなくなった今、改めて読み返してみたいと思います。
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禅マスター GoogleなどIT巨大企業が世界のために善を促進する力となるようにという自身の助言について語る





マインドフルネスは、ビジネスリーダーたちの中でますます人気のトピックとなっており、利益を向上させるのに役立っていると公に語る重要な役員たちも存在している。


例えば、Intemix の CEO カジャク・ケルジアンは先週、彼の心の平穏の秘密を Wall Street Journal に打ち明けた。Huffington Post のチーフエディターであるアリアンナ・ハフィントンは、今週発売になった著書「Thrive」の中でマインドフルネスについて語っている。その他、Aetna の CEO マーク・ベルトリーニ、Salesforce.com の CEO マーク・ベノフ、Zappos.com の CEO トニー・シーなど枚挙にいとまがない。


先月のブログで、ハフィントンはこう書いている。「利益増加については大袈裟なことは何もない。経営は厳しい。ストレス解消やマインドフルネスは私たちをただより幸せにより健康にするだけではない。どんなビジネスでも必要なもののための競争の裏付けされた優位性なのだ」



しかし、マインドフルネスの効果が利益にあると焦点を当てたビジネスリーダーたちは、仏教徒の実践を腐敗させていることにならないのだろうか?


西洋で多くの人からマインドフルネスの父と知られている、87歳の禅マスター、ティク・ナット・ハーンは言う。ビジネスリーダーたちが「真の」マインドフルネスを実践している限り、その最初の意図が生産性を上げたりより大きな利益を得るため始めたものであっても構わない。なぜなら実践することで、より大きな哀れみに心を開いたり他者の苦難を終わらせたいという思いが自然に身についてくると、彼らの人生に対する考え方が根本的に変わるためである、と。


フランスはボルドー近郊にあるプラム・ビレッジの僧院で、蓮華座で座った彼はGuardian にこう語った。「マインドフルネスの実践法を知っているなら、今ここにある平穏や喜びを気づくことができます。そしてそれに感謝するようになり、自分が変わります。最初は、一番にならない限り幸せにはなれないと信じていますが、マインドフルネスを実践するとすぐにそうした思いから解放されます。マインドフルネスが結果ではなく手段にだけになるかもしれないと恐る必要はありません。なぜならマインドフルネスでは、手段も結果も同じだからです。幸せへの道はないのです、幸せこそが道なのです」


しかし世界中に何十万人もの信奉者がいる禅マスターのテイはこう指摘する。経営者らが利己的な動機のために実践するのなら、彼らの体験はマインドフルネスのまがいものにすぎないと。


「もしマインドフルネスを多くの金銭を得るための手段とみなすのなら、その真の目的に触れたことがないのです。それはマインドフルネスの実践に見えるかもしれませんが、内面には平穏も喜びも幸せも生み出されてはいません。ただの模倣です。みんな同胞だというエネルギーが感じられず、あなたの行いからも発散されないのなら、それはマインドフルネスではありません」


彼の言うように「もしあなたが幸福なら、自身の幸福の犠牲にはなり得ません。しかし、あなたが成功者なら、自身の成功の犠牲になり得るのです」



嘲笑のリスク


マインドフルネスがますます普及しているにも関わらず、多くの組織の中では、古い仏教の実践法に直接結びつけて嘲笑されることに対するピリピリ感がまだ多く残っている。


最近テイは、世界銀行ワシントン本部へ総裁のジム・ヨン・キムに招かれ、そのイベントはスタッフに大変好評だった。キム氏の愛読書はテイの著書 「The Miracle of MIndfulness」で、「苦しんでいる人々に哀れみ深く、大変情熱的な」禅僧の実践を讃えている。


それでも、周りからどう見られるか神経質になっていた上層部たちは、イベント前にこの決定を非難した。実際、Economist 誌は批判的な記事を発表している。


しかし、キム氏の決意は堅かった。彼は、マインドフルネスの効果を表す科学的研究を複数示すことで非難を回避したとガーディアン誌に語った。



マインドフルネスとテクノロジーとの交点


おそらく、ビジネス界で最も興味深い交点は、全く反対の方向に向いているように見えるマインドフルネスとテクノロジーだろう。マインドフルネスの実践は心のスピードを落とし落ち着かせるが、デジタル革命は我々の生活をスピードアップし頭の中を大量の情報で満たす。


しかし、このふたつは長い歴史を持つ。Apple の CEO だったスティーブ・ジョブスは禅の仏教に魅せられていたが、ひとつにはテクノロジー企業が拠点を持つカリフォルニアのライフスタイルにマインドフルネスが数十年に渡ってつながりを持っていることだ。


だから、米国で200万冊以上の著書が売れているテイが Google にシリコンバレーへ招かれ、また世界でもっと強い15のテクノロジー企業たちに向けたマインドフルネスのプライベートセッションを依頼されたことは、大して驚くことでもない。


出会ったテクノロジー企業のリーダーたちにテイが伝えたかったことは、彼らの世界に及ぼす影響力を、できる限り多くの富を得ることではなく、どうすればより良い世界を作る貢献ができるかに使うべきだということだった。


彼と僧侶たちは Google 本社での1日を、上層部や約700名の社員たちとマインドフルネスのディスカッションや瞑想をして過ごした。あまりにも多くのスタッフが参加を希望したため、講義のライブストリームのために2箇所を追加しなければならなかったほどだ。


テイは、Google での通常の仕事の慌ただしさと、Googleplex 構内で静かに座るマインドフルネスからもたらされる穏やかな感覚との著しいコントラストについて語った。「その場の雰囲気は全く違っていました。静けさがあり、何もしないことから来る平穏があります。彼らは、あの場にいると時間の大切さに気づくことができます」




テクノロジー業界への助言


「意志、確信、洞察」をテーマにした訪問の中でテイは、多くの Google 上級技術者らと会い、Google が人々のストレスや孤独感を増大するのではなく、世界に良い変化をお互いにまた自然からもたらすため、どうすればより思いやりをもって効果的にテクノロジーを使うことができるかについて議論した。


「電子機器を作り出す時、その新製品が人々を家族や自然から遠ざけるのではないかとよく考えることです。そうではなく、自分自身に戻ったり感情に対処するのに役立つ機器やソフトを作る。そうすれば、社会に良いことをしているのですから良い気持ちになるはずです」


CEOたちを過ごした日、テイは静かな瞑想を指導し禅の茶会を行なったあと、億万長者が大勢いるグループの前で、個人として家族との時間を犠牲にして仕事で疲弊しないことの大切さを語った。「時間はお金ではありません。時間は人生です。時間は愛情です」


ボルドー近郊のPlum Village の僧院に戻った彼が語ったのは「全ての訪問で、会社の全ての人が幸せになれる方法でビジネスを行わければならないと伝えています。もっと辛くなるのにもっとお金を使いますか?良い野望があればより幸せになれることを理解するべきです。なぜなら社会を変えるのを手助けすることが人生に意味を与えてくれるからです」


この旅はまだ始まりに過ぎないと彼は言います。「たくさんの種を蒔いてきたと思います。その種が実るには時間がかかるでしょう。彼らがマインドフルネスを実践し始めたら、喜びや幸せ、変容を体験し、他の野望を持つようになれます。名声や権力、富は実際には、自身の体や心を大切にできるような生活を送っている時のような真の幸福をもたらしてはくれないのです」


2024年3月18日月曜日

欲望との和解 
Making Peace with Desire

今回はヨガ哲学です。
ちょっと難しいかもしれませんが、自分とは何者なのか、真の自由についてどう捉えればいいのかの参考になればと思います。





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私は今、郊外の自宅で椅子に座って外の緑の丘を眺めている。そこには、鳥たち、花々、動物たち、樹々、心地よさ、誠実な家族、そして無私の奉仕の素晴らしい機会というような私を満たすものが全てある。ここには幸せに必要なものがいつも揃っている。それでも、このコテージの窓の外に、キャンピングカーが遠くの道を走ってくのが見えた時、心のどこかであのキャンピングカーに乗って虹を追いかけたい、そしていつか夢を叶えたいという落ち着きのない欲望が渦巻く。どこかに素晴らしい場所があるという思いが、どこに行っても追いかけてくるのだ。どこに行ったとしてもそれには辿り着けない、なぜなら「どこか」は絶対に「ここ」にはならないから。それに対して、もし喜びを今ここに、自分の中に見つけることができれば、それをどこにいてもどんな状況でも手にし続けることができる。これこそがキリストが言う「天の王国は内にある」ということなのだ。


欲望の対象は、「ここにある」もの、内側にあるもの、その価値次第だ。チョコレートケーキが食べたいと思っている限り、それはいくらかの喜びを与えてくれる、その欲望がなくなれば、チョコレートケーキに魅力を感じなくなる。目の前のテーブルの上に置くこともできるけれど、私に言わせれば、存在しなくなる。どんな欲望の対象にもその価値を与えるのは、欲望そのものだ。


少年が少女と出会って初めて手を握る時、彼はその興奮が一生続くと思うだろう。一年後にその少女に触れたところで意味はない。魅力が肉体的なものなら、その欲望が色褪せて消えてしまうのに長くはかからない。そこで少年は、他の少女に触れることで幸せが長く続くかもと考える、が、またがっかりするだけ。こういうことは何度も繰り返される。問題は少女のせいでも少年のせいでもない、ただ欲望は通り過ぎるものだからだ。


心というのは、終わりのない欲望だということができるだろう。ひとつ欲望が現れて、それが満たされて消え去ると、次から次から次へと現れてくる。心は欲望を持つものであり、そして欲望は変化するものだ。したがって、欲望を満たすことで永続的な喜びを見つけようというのは失敗に終わる運命にある。


例えば、ヨットが欲しいと思っている限りは、ヨットで航海することで幸せになれると信じている。もちろん、ヨットを所有してカリブ海に航海することでいくらか満足感はあるだろう。しかし、この満足感は欲望を持ち続けている間だけだ。その欲望が薄れ始めると(それは必然なのだが)その満足感もまた小さくなり始める。その欲望がついに消え去ると、満足感があった場所に退屈がおさまることになる。


欲望は何も悪いことではない。家を灯したり人を感電死させたりする電気のように、欲望に善も悪もない。私たちに行動させる最も強い力だ。悲劇が起こるのは、欲望が知性や意識的な意欲に対するものではない時だ。そして、私たちは運転席が空っぽでスピードをあげていくパワフルな車を持っている。あなたの街の全部の車が、運転手がいないままガレージから出てきてあちこち走り回る様子を想像してみてください。どれだけ事故が起こって、どれだけの命や物が失われるでしょう!自分の個人的な欲望に走れば、同じことが国家間や民族間、家族間、そして個々人で起こってしまう。私は欲しいものを追い求め、あなたも同じことをし、そうすれば遅かれ早かれ衝突する。



二元性の牢獄


圧倒的大多数の人間が、お金や所有物、快楽や名声を追い求めながら人生を過ごしている。これらは、泡のように持ち上げようとすると弾けてしまうはかないゴールに過ぎない。例えば、百万ドルを稼ごうとしている人は、その欲望の支配者というよりも被害者である。彼の目は自分の利益だけを見ていて、他者の幸福のことなど気づかない。


芸術もまた限界がある。多くの人に喜びを与えるかもしれないが、芸術家が自己中心的である限り全てを理解することはできない。目や耳といった感覚に制限された彼自身の人格に閉じ込められている。


科学者もまた二元性の牢獄に制限されている。彼らは「ここ」に座って「どこかの」星やバクテリアを研究する。最もパワフルな知能でさえ制限された道具にすぎず、物を分ける役にはたたない。絶えず一部分が働きその他が反応するという生きている全体像を見落としている。


命をひとつの全体として見るためには、個人的な快楽や利益、名声、権力のための欲望全てを削ぎ落とす必要がある。これらが私たちを突き動かしている限り、個人的な条件を通してしか命を見ることができない。命を、そのままではなく、自分の欲望に条件づけてとらえている。私があなたであるときのみ、私があなたを完全に知ることができるし、私が私である限り決して知ることはできない。誰かあるいは何かを完全に知るために、自分の人格だと信じている何かを削ぎ落とさなければならない。自分の人格だと信じているもの、それはサンスクリット語のアハムカラ、自分が世界の他のものとは異なる「私」であるとするものだ。


これは、マハトマ・ガンジーが言うところの彼自身をゼロにまで小さくが最後の目標だということだ。私は、こんな野望を抱く芸術家や科学者を知らない。ガンジーが何年もの霊的な修行を通してやがて自身をゼロにまで小さくできた時、命とは、その最も小さな部分が傷ついたとしてもそれは全体に及ぶ、分けることの出来ないひとつの命であるということを理解した。この命の一体化の認識により彼は暴力を放棄し、非暴力つまりアヒムサこそが地球上の国々や民族、家族を愛や奉仕によって一体にする最大の力であると明らかに示した。


偉大な芸術家の文化的貢献と偉大な神秘家の霊的貢献との極めて重要な相違を私たちは決して忘れてはならない。私にとって20世紀はスペース・エイジではなくガンジー・エイジだ。全ての命はひとつであるという不変の法則によって調和して生きる方法をこの時代に示してくれたのがガンジーだからだ。命のつながりについて絵を描いたり歌を作ったり、はたまた月に旅した訳ではなく(これらは価値のあることではあるが)、私たちの時代の最も恐ろしい問題に非暴力で直面することによってである。


もちろん文明は、芸術家や科学者、非凡な政治家たちのおかげで豊かになってきた。しかし、正しい道へと連れ戻し、自らの生涯を通して、全世界が試行錯誤を繰り返しながら向かう輝くゴールを垣間見させてくれたのは、偉大な神秘家たちである。ガンジーは自身の死ぬべき運命の肉体を脱ぎ捨てたが、彼の不死の魂、つまりアートマンは人々が暴力に背を向ける時はいつも体験することができる。


私のある友人は、瞑想でゾンビーにならないようにと知り合いから注意されたらしい。こんんな話を、意識から「私」という感覚を取り除くと人格を失うかもしれないと恐れる多く人から聞く。私は「人格(personality)という言葉はラテン語の仮面(persona)に関連している」のだよと気づかせる。アレクサンドル・ドュマの小説の中で、ルイ16世の双子の兄弟が鉄仮面を長年着けさせられたためにそれが彼の一部になるという話がある。どんなに試して見ても、仮面を取って彼の本当の顔を見せることができなかった。これは私たち皆と同じである。何年間も(あるいは人生何回分も)、私たちの心は、個人的な快楽や利益、権力、名声に対する欲望を満たすための終わりのない努力を通して、利己的で個人的でいるクセを身につけてきた。この分離の仮面を取払うことができたら、真の人格であるアートマンは美しく叡智と愛に輝くことだろう。


個人的な欲望がなければ、行動する動機などあり得ないではないかと言う人もいる。この問いに対してもまたガンジーの人生が最良の答えだ。彼の人格とゲームを楽しんでいる間、若いガンジーはロンドンで弁護士のディナーを食べ、バイオリンを練習し、ダンスを覚えようとした毎日を過ごして満足していた。その後南アフリカで、そこで酷く搾取されていた何千人ものインド人のために働くため自分の快楽や利益に背を向けた時、ガンジーは夢にも見たことのない深い心の源を見出した。自分の欲望を満たして生きていた間は、愛や叡智、勇気、素晴らしい行動の宝庫には気づかなかった。しかし自分のために生きるという小さな取るに足らない動機を放棄した途端、長く健康的で行動的かつ満たされた人生を過ごすための深い意識レベルにある途切れのない動機を見つけたのだ。




真の操縦者


自分のために生き、個人の功績への欲望に駆られている時は、自分自身が操縦者であり全てを行なっており、ハンドルを握っているのは自分だと信じずにはいられない。その結果、自分の行動の結果に固執し、成功に浮かれ失敗にがっかりすることになる。偉大な博愛家であっても神秘家らが締めそうとしている壮大な真実を垣間見ることもない。真の操縦者はこの小さな個人的な「私」ではなく、アートマン、真の我である。これが理解できていないと、努力が勝利となるか敗北となるかに悩んで消耗するのだ。ガンジーはインドの人々の社会的地位向上のため不断に働いたが、「行動の結果(個人の利益)」を放棄することによって、操縦者あるいは行うものとしての重圧から自由になった。


「あなたには行動する権利がある」とバガヴァド・ギータにある。「しかし行動の結果に対してはない」結果に対する不安、自分の思ったようにならない恐怖、見たところ最善の結果にならない恐怖は、消耗や疲弊をもたらす。行動の結果への欲望を捨て、無我の方法で無我の目的に向かって一所懸命働くことができれば、成功であろうと敗北であろうと最善の状態で働くことだろう。そして、敗北すらもまた機会となる。


行動の結果への執着を捨てることは、幾分か深いレベルの霊的な体験がなくては不可能である。霊的な気づきが深くなればなるほど、自分が行動の媒体であると信じさせる自己意志の制圧から自由になれる。


「自分が操縦者であるという思いからどうすれば自由になれるか?『神の意志が行われ」るためにどうすれば自己意志の自身を空にできる?自分の意思とは何か神の意思とは何かどうすればわかる?自分の自己を空にして、どうすれば聖フランシスコが言った「完全な神の平和の道具」になれるのか?」これらの問いは、誠実に、計画的に、そして持続的な熱意を持って実践すれば瞑想で得ることができる。答えは声や視覚では現れないが、ゆっくりと安定した識別と非執着の成長を通して得られる。古い欲望は私たちを掻き立てる力を失い、目の前にあったベイルが一枚ずつ落ちていき、視野が穏やかで明確になり、以前は自身の小さな部分しかなかった場所に全体を捉えることが可能になるのだ。


私はここに居て喜びはあちらにあると考えるのは、命の自分の一角だけを見ている時だ。一度全体を見れば、サマディと呼ばれる瞑想の境地を知れば、私はそこにもここにも居ることがわかる。私は誰の中にも何の中にも存在し、誰もかも何もかもが私の中にある。もう虹を追いかける必要もないし、人や物を所有する必要に駆られることもない。私は完全である。





 (出典)https://yogainternational.com/article/view/making-peace-with-desire/

2024年3月12日火曜日

心臓の健康へのヨガの5つの効果 
5 Heart-Health Benefits of Yoga

ヨガが高齢者の健康に大きな効果をもたらすことはすでに知られています。
そのひとつは、心臓にとても良いということです。






ヨガが心身に良いのは、柔軟性や体力増強、エネルギーや気分向上などの効果をもたらすからです。また、心臓にも良いというますます多くのエビデンスが出てきています。


何千年も前のインドに起源を持つヨガは、これまで数多くの臨床研究の対象となっており、太陽礼拝やダウンドッグなどに対するエビデンスは強固になってきています。一例を挙げれば、米国心臓学会の2023年アジア会議で発表された研究では、ヨガが心不全患者の循環器機能向上とともに、忍耐力、体力、バランス、そしてQOLを向上させることが認められました。


もし心臓に問題があるのなら、どのレベルのヨガがあなたに適しているのか医師に確認しましょう。もしヨガを始めようと思っている、あるいは健康に不安がある場合は、クラスの前にインストラクターに相談しましょう。インストラクターが、一緒にクラスが受けられるようにコツやバリエーションを教えてくれるはずです。



1. ヨガは体の運動を促す


CDC(米国疾病予防管理センター)によれば、運動不足は、米国の男女No.1の死因である心臓病の原因になります。


しかし、遅すぎることはありません。研究によれば、ヨガをする人はより活動的で健康的な食事をする傾向が高く、それが心臓を守ってくれています。2018年5月「International Journal of Behavioral Nutrition and Physical Activity」で発表された研究では、ヨガを習慣的に実践している若年層はより健康的な食生活を送っており、より中高レベルの運動をより長時間行っているとわかりました。2020年8月の「International Journal of Environmental Research and Public Health」に発表された他の調査では、ストレッチをするエクササイズは、心臓や全身に血液を送り出す動脈硬化を著しく減少させ、中高年層における心機能を向上させることを示しています。


米国心臓協会(AHA)が薦めるのは、総合的な心臓の健康のためには中程度の有酸素運動を少なくとも30分、週に5日以上行うことです。中強程度の筋トレを週に2日以上行うと、より効果が得られるそうです。



2. ヨガがストレス解消に


ストレスがどれほど心臓病に関係しているのかを研究者もはっきりとは確定することはできない一方で、ストレスが心臓病のリスクを上げる習慣や要因を増加させる可能性があります。これには、喫煙や運動不足、過食、高血圧などが含まれます。


ヨガの実践者には、精神衛生の向上、リラックス感の増加、気分の向上などがみられると研究で示されています。心身の実践は、落ち着こうとする神経である副交感神経を調整するのに役立ちます。2020年8月「Stress & Health」で発表された研究では、呼吸法や瞑想をするヨガクラスの参加者のストレス受容減少とマインドフルネスの高まりが示されました。


「ほとんどのストレス解消テクニックでは、呼吸に意識を向けます」ミシガン州ビンガムファームスの「Kahn Center for Cardiac Longevity」の循環器医師ジョエル・カーン博士はそういいます。「全てのヨガで不可欠なもののひとつは、呼吸への気づきとよりマインドフルであることです。つまり、外から見てわかる、あるいはわからないストレス解消の意識付けが、ほとんど全てのヨガクラスに内在しているのです」



3. ヨガが高血圧リスクを下げる可能性も


2021年9月の「Scientific World Journal」で発表の系統的な再調査では、ヨガで高血圧をコントロールできる可能性を示しました。


瞑想や呼吸、ヨガの練習が、高血圧前症の患者における拡張期・収縮期血圧(血圧の最高と最低の値)を下げるとされる数多くの研究を再調査しました。再調査では、体系化されたヨガポーズや呼吸法の「服用量」は確認できなかったものの、高血圧や心臓病を起こす可能性をヨガが減らすことができると研究者らは結論づけました。


「ヨガの生理学的な効果は、神経系の福交換神経を高めることだということはわかっています」コロンビア州のミズーリ医科大学の産科医であり、ヨガの血圧に対する効果の研究を行っているシャミタ・ミスラ医師は述べています。「心拍を下げ、心臓の働きを抑えます。心拍が少なくなればなるほど、そのひとつひとつはより強くなります」



4. ヨガは不整脈を落ち着かせる可能性も


心房性細動は、早かったり不規則に打つ異常な心拍リズムのことで、心不全やその他合併症の原因となります。2022年の「European Society of Cardiology Congress」で発表された研究では、ヨガが心房性細動患者の症状を抑える可能性を示唆しました。研究は、2012年から2017年、538人に対して実施されました。被験者らは、12週間ヨガをしないで、その後16週間毎日、ポーズや呼吸を含めたヨガのセッションに30分参加しました。その16週間の間は、被験者たちの発作の回数が減少しました。


「心房性細動患者の治療の中で、発作回数を減らすのにヨガが役立つ可能性があるかもしれない」ニューヨークのブロンクスにある「Cardiac Wellness Program at Montefiore Medical Center」の創設者であり管理者のロバート・オストフェルド博士はそう述べています。



5. ヨガは共同体意識を促す


心不全など深刻な心臓疾患を経験した患者の多くは、社会からの孤立感を感じたり、うつ状態になったりすることがあります。「外出するのが安全ではない、外出するほど元気でないと感じるのです」オストフェルド博士は言います。「初めて自らの死に向き合っているからでしょう。あるいは、今まで可能だったこと全てができるわけではないという事実に直面したからかもしれません」


ヨガがそれに役立つかもしれないというエビデンスがあります。米国医学協会の機関誌に発表された研究では、メイン州の農村で、循環器リスク要因と行動変化を対象とした共同体プログラムに参加することが、死亡率や入院率の低下と関係があることがわかりました。


ヨガは共同体意識をもたらすことができ、それが鬱や孤独感を和らげます。「ヨガクラスでは、安全な環境の中で、他の人と一緒に流れるように動いて繋がることができます」カーン博士は述べてます。「社会的交流の効果を数値化することは困難ですが、もし健康問題のある人たちが自宅にいるような心地よい環境にいられれば、人はより健康的な選択ができるようになると考えています」


ヨガはまた、特に認知行動療法など通常の治療と組み合わせると鬱症状を緩和することができると、2019年5月に「American Family Physician」に掲載された研究が示しています。また2023年9月に「International Journal of Old People Nursing」で発表された再調査では、60才以上の成人で、鬱や不安症のレベルがヨガで向上することがわかりました。




自分に合ったヨガクラスを選ぶ方法


ヨガクラスを試したくなりましたか?ヨガには多くのスタイルがありますが、ひとつだけにこだわる必要はありません。また、難しい1時間のクラスに飛び込んでもすぐに効果があるというわけでもない、とミスラ博士は言います。
「そんなに長い時間は必要ありません。私の研究では、ただヨガの呼吸を15分行っただけで結果がみられたからです。しかし、有益な結果を得るために何分間のヨガが必要なのかというような情報はありません」


  • ハタヨガは、西洋社会で通常行われているヨガの流派で、身体的なポーズの練習のことを示します。ヴィンヤサ、アイアンガー、アシュタンガなどのヨガがありますが、これらすべてはハタヨガに分類されます。どんな運動でもm始める前に医師に確認しておきましょう。

  • ヴィンヤサ・ヨガは「フローヨガ」とも呼ばれ、呼吸と動きの組み合わせが中心となります。クラスは、パワーヨガやアシュタンガなどペースが速く強度の高いものから、スロー・フローやアライメントを重視したクラスなど健康状態や身体的な制限がある人やビギナーに適したより穏やかなものまであります。

  • ホットヨガは熱した室内で行われます。今は様々なタイプのホットヨガがありますが、最も人気があり最も熱いのがビクラムヨガで、40°Cにまで熱した室内で26のポーズと2つの呼吸法を行います。心臓に何か問題がある人や極度の暑さに敏感な人などは体調を悪化させる恐れがあるので、オストフェルド医師によれば、このヨガは避ける方が良いでしょう。

  • アイアンガーヨガは異なるポーズを通して体のアライメントに注目するタイプのヨガです。他のスタイルのヨガとは異なり、個々人のスキルレベルや体のタイプに適合するよう、椅子やブロック、ベルトなどのプロップスを使います。

  • 「トグロを巻いた蛇」という意味のクンダリニヨガは、呼吸法、チャンティング、音楽、瞑想、そして動きを組み合わせたものです。その目的は「蛇を解」き、背骨の基底部から頭頂までのエネルギーを解いて7つのチャクラ(体内のエネルギーがある場所)を目覚めさせることです。よりスピリチュアルなヨガであるクンダリニは、ストレスや不安を解消するのによい選択となるでしょう。

  • よりゆっくりとしたスタイルの陰ヨガは、同じポーズを5分以上保つので、ビギナーが始めるには難しいかもしれません。またこのスタイルは瞑想的な性格を持っているので、クンダリニヨガよりは少し身体を動かしたいけれどヴィンヤサヨガほど動かないクラスを探している人にはぴったりかもしれません。

  • ゆっくりと穏やかなリストラティブヨガは、呼吸に集中できるような長く保つストレッチで全身を開くことに重点を置いています。様々なポーズで全身をサポートするため、ブロックや枕、クッションなどプロップスが使われます。この安らぎを与えてくれるヨガは、痛みを緩和し精神的な幸福感を高めるのに良い方法です。