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2026年8月30日日曜日

ギータを生きる 
The Gita in Action

インドの叙事詩マハーバーラタの中で、戦士のアルジュナと従者でありながら神の生まれ変わりであるクリシュナとが会話する場面があります。この問答はまた、ヨガに関する有名な文献でもあります。今回はそんなバガヴァドギータの解説をご紹介します。

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バガヴァドギータ(神の詩)は、二人の類稀な人物の間で交わされた会話です。才能あふれるヨギであり大軍隊の将軍でもあるアルジュナと、生命の神の生まれ変わりであるクリシュナ。ギータは、クリシュナがアルジュナの戦車を戦場の中心部へと走らせているなか、アルジュナがおびただしい数の戦士が集まっているのを見渡しているところから始まります。彼自身の軍隊と敵とがどちらも集まり、厳しい内戦を戦うのです。しかし、尊敬する師と愛する家族が軍隊にいるのを見たアルジュナは呆然とします。戦車の床に倒れ落ち、戦うべきかどうか確信を得られずにいました。クリシュナの助言を得るために彼は懇願するのでした。「明らかに良いのはどちらなのか、教えてください」クリシュナは、すべての世俗者から脱俗者まで届くよう、そして現在まで力強く響き渡るように答えました。


並外れて雄大で劇的なギータですが、最初に読んだ人の多くはよくわからないと感じます。もっとずっと長い叙事詩であるマハーバーラタから抜粋されたギータには、アルジュナの危機に繋がる出来事への手がかりがたくさんあります。その文節のかなり多くは何度も繰り返されているように見えます。そしてわかりにくい信仰的、哲学的言及を多く含んでいます。加えて多くの場合、ギータが重要なヨガの文献だと聞いた現代のヨガの生徒たちは戸惑います。通常ヨガのマニュアルに書かれている練習についてはほとんど語られず、ギータで使われているヨガという言葉は、どうも聞き慣れたものではなさそうです。概して、この3000年前のマスターピースに取り組むことは難しいことが多いのです。



ヨガの3つの道


ギータの不可解さは、始めから現れます。序章でアルジュナは、この戦争は忌まわしいと嘆き悲しんでいます。彼の王国を引き裂かれるのを見るよりも、戦いを放棄したいと考えます。精神的な信念がこの考えを正当化してくれることを、彼は望むのです。


しかしクリシュナは、戦わなければ、臆病で愚かだと歴史に残るだろうとアルジュナを譴責します。アルジュナが戦いを離れて当惑した思考へ逃げ込むのなら、決して精神的な平穏は訪れないと断言します。クリシュナによれば、アルジュナの当惑がヨガに導くことはなく、ヨガから遠ざけます。アルジュナへの「詩」の中でクリシュナ神は、行動のヨガ、献身のヨガ、識別のヨガという3つの精神的な道について述べています。最終的には、どの道も精神の均衡を保ちながら活動的な人生を生きる方法を与えてくれます。しかし、これらヨガの道とはどんなものなのでしょうか?それらの基礎になる信念とは?クリシュナがある人生がよりヨガ的だと確信できるのはなぜでしょう?この記事では、行動のヨガ、つまりカルマヨガから引き出されるこれらの問いへの答えに注目していきます。



行動の果報


クリシュナのアルジュナに対する助言は、単純で説得力のある観察によるもので、2つの要因の間にある因果関係として現れます。


行動と結果:行動は結果につながる:どんな行動も「行動の果報」とギータの言葉にある結果を伴います。いずれかの結果を伴わない行動はありません。単純な例がすぐに思い浮かべられます。皿洗いをすればお皿がきれいになる、走れば心拍が上がる、まぶたを閉じれば目に入る光が減る、などです。すべての行動には結果が伴います。


しかし、行動と結果の関係性は、これらの例のように単純に現れることは稀です。多くの場合、行動は複数の結果につながり、正確な結果は予測不可能なことがほとんどです。また、行動の結果が予測できるとしても、その行動をした人が意図したことではないこともあるでしょう。時と共に、例えば、皿洗いの途中でお皿が何枚か割れてしまうのは、洗っている人の意図ではないとしても、避けられません。走れば心拍が上がりますが、脚の筋肉もまた固くなります。まぶたを閉じると目に入る光が減りますが、眠くもなるでしょう。


行動の様々な結果を見極めるのは、深刻な問題にもなり得ます。医師が患者の投薬の選別に考えを巡らす際は、本来の薬の効能と意図しない効果、つまり副作用とを念入りに検討しなければなりません。本当に、注意深く調べれば、すべての行動は複数の影響を与えます。行動した人が意図した結果もあれば、そうでないものもあるのです。


アルジュナは、多くの場合、行動の副次的影響というのは避けられないのだとよくわかっていました。軍隊を戦争へ導くことで、両軍にいる尊敬する長老たちが殺されるとあろうこと、そして女性や子どもの命もまた壊れてしまうだろうことを理解しています。戦うことをやめればこうした結果な避けることができる、だからこそ彼は悲しみに暮れているのです。


しかし、アルジュナのジレンマを考察する前に、因果応報についてもう少し深く議論する必要があります。クリシュナによれば、私たちの思考に影響を与えるもうひとつ要素があります。動機の要素です。



動機が行動より先行する


動機から行動、結果(意図した、意図しない)へ:先ほどの例に戻りましょう:食べ物の残りを取り除くための必要(動機)から、皿洗い(行動)をします。お皿を洗うことできれいになります(結果)。心臓が弱いので(動機)走ることにします(行動)。走ることで心臓がより強く働きます(結果)。明るい光を避ける必要性(動機)から、まぶたを閉じます(行動)。まぶたを閉じると目に入る光が減ります(結果)。どのケースも、動機が行動より先行し、結果が行動の後に続きます。




ものごとがうまくいかない時


さて、クリシュナの行動のヨガの分析は、ほとんど理解できたでしょう。最後の課題は、動機>行動>結果という3要素がどのように裏目に出るかを見るだけです。一緒に見ていきましょう。


あなたは、家族の庭の世話をする役目をしているとしましょう。戸外で植物の世話をするのを楽しんでいて、自分の努力でたくさんの花や野菜ができたときに幸せを感じています。ある夏の午後、あなたは地元のガーデニング・コンペに参加することを思い付きます。あなたと家族の名を挙げるチャンスです。優勝賞金もまた、シーズンを通した努力の嬉しいご褒美になるだろうとあなたは考えます。そこでそんな考えから、あなたはもっともっと庭で過ごし始め、家族と過ごす時間がどんどん減ります。近所の誰よりも良い庭をつくりあげようと、ますます没頭していきます。そのつもりもなかったのですが、自分の仕事をガーデニングコンテストに勝つことだと考えるようになりました。賞金への思いが頭から離れず、ガーデニングの喜びがどんどん遠のいていきました。今あなたは行動の結果に動機づけられていますが、行動そのものは動機ではありません。


「行動=結果」は「行動から結果」とは異なる:行動を結果と同一視すると、焦点がぶれます。やることと得ることの区別が曖昧になります。結果のために行動することが動機となり始め、クリシュナによれば、トラブルの種を撒くことになっています。この瞬間と調和して生き行動するという感覚を失います。ヨガから遠のいているのです。


行動が、気持ちのいい結果への願望で動機づけられたとき、人生はギャンブルになります。願望の実現を願っていると、行動が成功すれば幸せで、結果が悪いと不幸せになります。幸せと不幸せはどちらも未来の予測できない影に隠れていて、その未来が来るまで不安に付き纏われるのは避けられません。このように心が願望に支配された人のことをギータでは、ボークタ「結果のためだけに行動する人」と呼びます。そんな人は「気の毒である」とクリシュナは言います。




行動のヨガ


私たちがみなしなければならないのは、今ここに心を保つことだとクリシュナは言います。しかし、行動の果報に動機を探すべきでないという訓告にも関わらず、そうした結果に盲目かのように行動するのは賢明ではないと思われます。勝つ願望を全く持たずに競走に出るでしょうか?きれいにすることを意図せずしてお皿を洗うでしょうか?

 
ギータの4つの問いによって、クリシュナのメッセージを明確しやすくなり、正しい行動の道へ導いてくれます。

  • この行動をするのは私の性質からなのか、私の義務なのか?

  • その行動は正しいか間違っているか?

  • この行動の結果を受け取って欲しいのは誰なのか?

  • 特定の結果に執着しているか?

  • これらの質問を少し見ていきましょう



個人の性質:私たちはみな個人的な性質を持ち、それは成長するに連れて徐々に明らかになっていきます。幸運ならば、経験によってその性質が強化され、自信がつきます。クリシュナの説明によれば、私たちはみな自分の性質に合った行動をとる傾向があり、自然に現れる義務を果たすことになります。自分には実際には合わないことや、他人の義務を行おうともがくことは過ちなのです。


ですから、アルジュナが俗世を離れて森の中で修行僧として生きると夢見た時、これまでの人生、アルジュナは正義を守ることに尽くしてきたことをクリシュナは思い出させるのです。彼は戦士です。彼の本質は、世捨てした僧のものとは違います。彼の王国を盗もうとする軍隊に直面した彼は、戦わなければならないのです。


同様に、私たちが何者なのか、自分の本質と義務に相応しい行いをせよという状況がきます。陸上選手なら、レースに勝たなければなりません。詩人なら、自身を言葉で表現しなければなりません。そして今、皿洗いをすることが仕事なら、皿をきれいにしなければなりません。そんなとき、行動の結果は動機ではありません。それはどのみち私がすることをしたことの結果にすぎません。これを理解して行動することがヨガです。これこそが、「自身のダルマ(天性)に従って行動する」というよく聞くヨガの言葉の基本的な意味なのです。




正しいか間違いか:ヨガの行動はまた、有害な行動とそうでない行動、すなわち、正しい行いと間違った行いのどちらを選択するかを身につけることも含まれます。難しいことですが、その結果、行動を遅らせたり行動しないことになるかもしれません。


クリシュナによれば、この葛藤を解決するのに役立つのがヨガです。内面の識別と決断の能力であるブッディに訴えることでこれが可能になります。クリシュナは、ブッディとは鏡のようであり、客観的に見られるように内面の体験を映し出したり意識を表現するのだと説明します。日常の思考のおしゃべりを意識的にしずませれば、その鏡を磨いて活性化させることができる。そして自身の欲望や出来事への反応、記憶、目標などすべてが瞑想の時に目に見えるようになる。ブッディの鏡のような静けさに映し出されるのだと。覚醒したブッディはまた、内側から映し出される性質である平穏や正義、内面のバランスなどの性質へのつながりを与えてくれるのだと。


しかし心が欲望で曇っていれば、客観性は失います。欲望は、まさにその性質により、感情で思考プロセスに色付けをし、混乱へと導きます。その意味で、欲望は賢明でない行動の中核に存在します。そのため、クリシュナは意識的にブッディを覚醒させることを身につけよと私たちを促します。そうすることで、内面の明晰さから現れる「ブッディヨガ」というものの精神で、バランスの取れた心で行動を見ることが可能になります。そのような瞬間には、正しい行動と誤った行動の違いが直感的に明確になります。私たちのなかで引き起こる欲望と混乱を超えるのです。



行動の果報を手放す:私たちにはみな、決められた人生の義務巣あります。自身に食物を与え、住む場所を見つけ、個人的な出来事を処理しなければなりません。また、親、配偶者、家族、同僚、そして人間としての義務を果たさなければなりません。こうした義務を仕方なく負うこともできますし、負担を軽減させる愛とともに快く果たすこともできます。「愛で行動をなめらかにする」すなわち、思いやりを持って自身や他者への責務を行うことがカルマヨガの重要な側面です。


しかし行動は全てが義務によって動機づけられているわけではありません。それ以上のものもあります。例えば、他者のためにドアを開ける、価値ある大義にお金や時間を提供する、「ヨガセンター清掃日」に参加するなどの行動は異なる感覚をくれるでしょう。それらはある種の犠牲のようなもので、果報を手放す行為です。この種の行動は清新な気分を感じさせます。これらの心地よさを記憶した私たちは、精神的な自由を経験します。あなたのヨガクラスで「カルマヨガ」をいう言葉が使われている時、多くの場合はこうした行動を示しているのです。



執着を捨てる:人の性質、その時の義務、行動の正義、愛を持って人間関係をスムーズにしたいという願望、また純粋な親切心や無私無欲などどんな動機による行動であれ、もうひとつ不可欠な質である行動の結果を考慮しない、つまり「執着を捨て」なければカルマヨガは完成しません。クリシュナがアルジュナに語ったように、「成功や失敗に心を動かされてはいけない、心の平穏がヨガだと言われている」


無執着の概念の導入部で、クリシュナは庭づくりにも進行中の戦にもあてはまる3つの行動指標について述べています。動機を誠実に評価すること、巧みに決意を持ちながらも結果に執着しない行動を行うこと、それがカルマヨガです。アルジュナの思考プロセスがまだこの指標に至っていないことをクリシュナは指摘し、彼が陥っている執着を克服するべきだと言います。勝利するかどうかに関わらず、十分な決意をもって戦わねばならないと。ギータが終わるまでにクリシュナは、この教えの真意をアルジュナに説き、ヨガの力で彼の信念を改めさせます。



行動を超えて


バガヴァドギータの会話は、執着の無知との戦いを示して、人の行動の謎を解いています。しかし最後には、クリシュナの教えは既知の行動の概念を超えたところへと導いていきます。あらゆる行動の行為者は実際は誰なのか、そして行動全ての性質について洞察しています。もし読んだことがないのなら、あるいは読むのをやめてしまったのなら、ギータの表紙のほこりをはらってみましょう。カルマヨガの道に焦点をおいた1章から6章までを読んでください。これら古代の概念を熟考し、あなたを待っている全く新しいヨガの世界を見つけるでしょう。それは、あなたの人生を変容させる力を持つヨガの道です。


2026年6月2日火曜日

プラナを理解する Vol.2 
Understanding Prana


前回の続きです。

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プラナと心


精神エネルギーは、食物や呼吸、外界から受け取る印象から派生します。プラナは印象の取り込みを司り、サマナは精神的な消化を調整、ヴィヤナは精神的循環を管理します。アパナは有害な思考やマイナスの感情を排出します。ウダナはプラスの精神エネルギー、力、熱意をもたらします。


精神レベルでは、プラナは栄養や感情のプラスの源、そして心や感覚を通した知識の感受性を司ります。混乱すると、不健康な欲望や底なしの強い欲求が起こり、わたしたちは間違った方向へ導かれ進み、一般的にはバランスを崩します。


アパナは、負の志向や感情を取り除く能力を支配します。これが混乱すると、鬱状態を起こし、重荷となる未消化の体験でいっぱいになり不安で抑圧され脆くなっていきます。


サマナは栄養や満足感、そしてバランスの取れた心を与えてくれます。混乱すると、執着や貪欲さに繋がります。物に固執し、狭量で沈滞した独占欲の強い行動を起こすようになります。


ヴィヤナは心の動きや独立性を与えてくれます。混乱すると、孤独感や嫌悪感、疎外感を生み出します。他社と結束することができなくなり、自分がしていることだけに繋がり続けます。


ウダナは、喜びと熱意を与えてくれ、より高次の精神や創造的な可能性を覚醒するのを助けます。混乱すると、プライドや傲慢さを引き起こし、不安定で高すぎる目標に向かおうとしたり、自身の根源へのつながりを失います。






プラナの精神的な観点


ヨガの実践において、プラナは多くの特別な機能を持ちます。精神的なレベルでは、サマナが心臓の中の空間を調整し、そこには真我が7つの炎をもつ火として存在しています。サマナは、むらなく燃えなくてはならない内なる火を調整します。サマナが作り出す平和やバランスがなければ、自身の中心部に戻ることも心を集中することもできません。
 

ヴィヤナは、ナディを開き、その機能においても澱みないきれいな状態に保つことを通してプラナの動きを司ります。アパナは負の霊的影響や架空の体験から私たちを守っています。プラナ・ヴァーユは、精神を開発するために必要な正しい欲望をあたえてくれます。
 

ウダナは、意識の成長を司り、心を夢を見ている深い眠りの状態へ、そして死後の世界へと連れて行ってくれます。ウダナはまた、シュシュムナの上方へ動きも調整しています。精神はウダナ・ヴァーユとともに動くため、精神的な成長には最も重要なプラナだと言われます。


ヨガを実践していると、こうしたプラナの微細な面が覚醒し、クリヤと呼ばれる無意識に起こる様々な動きなどの普通ではない心身エネルギーの動きを引き起こすことがあります。エネルギーの新しい広がり(微細なヴィヤナ)を感じるかもしれませんし、大きな平穏(微細なサマナ)、空中に浮くような軽さ(微細なウダナ)、深い根付きや安定性(微細なアパナ)、あるいは活力や感受性(微細なプラナ)が高まったと感じるかもしれません。




プラナに働きかける


物質レベルでは、正しい栄養がプラナを増やします。正しい排出もまたそうです。アーユルヴェーダ的な考えにおいては、食物からのプラナは大腸、特に最初の3分の1の部分で吸収されます。そのため、体の健康のためにはアパナが最も重要なプラナです。


ヴェーダによれば、この世の人間は食物をアパナで食べますが、神はプラナで食べます。人間は物理的な組織の集まりで正しい食物によって維持されます。神は感覚で、感覚印象という形でプラナそのものを通して食物を取り込みまやす。プラナを強めるには、儀式や視覚化などの実践とともに、色や音、香りに関した感覚の癒しや自然との接触が重要です。


プラナに働きかける主な方法はプラナヤマで、特にヨガの呼吸法という形になります。ヨガは自己実現の手段として心身どちらもの浄化を重要視し、そのためプラナが豊富なベジタリアンの食事(つまり生命力に満ちた食べ物)、精神修練や誠実や非暴力などの倫理観に根ざした心を重要視しています。不純で有害、乱れた心身は高次の自己を実現することはできません。心身を浄化する鍵はプラナで、この2つに繋がっています。主な方法はプラナが流れているナディを浄化することです。


この面においてヨガの呼吸法は有用で、最も重要なのはナディ・ショーダナ(片鼻交互の呼吸)で、左右のプラナの流れのバランスを取ることができます。ヨガのシステムによれば、体や経絡は左右どちらかが優勢です。右は太陽の性質を持ちます。消化や労働、意識の集中などの行動を助け、ピッタ、火のような性質を持ちます。左側は月の性質で、ナディはカファ的、水の性質が優勢です。休養や睡眠、リラクゼーションなどの行動を促進します。


プラナやエネルギーのバランスを維持するためには習慣的な肩鼻呼吸が最も重要ですが、他にも方法があり、プラナとアパナを繋げることです。アパナ・ヴァーユは重力に沿っていて通常は下向きに動きますが、そのため病気や死だけでなく意識の下降にも繋がります。一方でプラナ・ヴァーユは精神や感覚を通して上方へ分散する傾向があり、上方へのエネルギーの道筋でもあります。ヨガの実践はアパナを上方へプラナを下方へ動かして2つをつなげることが求められますが、これがプラナすべてのバランスをとるのに役立ちます。そうすれば、うちなる火であるクンダリニがおへそのあたりで燃え立つようになります。ムーラ・バンダ(根の鍵)はこの面において重要な実践です。


マントラと瞑想


精神のプラナへは直接働きかけることができます。心や感覚に働きかけるプラナヤマのテクニックがありますが、それらは呼吸に限られていません。色や音(音楽)は、エネルギーを心に向ける重要な方法ですが、最良のテクニックは特に「オーム」など一音節のマントラで、プラスのエネルギーを無意識に向けるのを促す振動が作られます。心に空間を作り上げる瞑想そのものはより多くのプラナを作り、精神が空の広がりのように穏やかで受け入れる状態になった時、新しいエネルギーが現れて偉大なる変容に向かわせてくれます。


ヨガで進む道は、プラナをコントロールすることが基本となっています。献身のヨガであるバクティ・ヨガは、聖なるプラナとつながることでプラナの変容をもたらします。奉仕のカルマ・ヨガは聖なる意志に従うことで、外に向いた行動だけでなく精神の成長を含むより多くのプラナを与えてくれます。
 

伝統的ヨガであるラジャ・ヨガは、精神活動のコントロール(チッタ・ヴリッティ)が基本となっています。心の振動(チッタ・スパンダ)はプラナの振動(プラナ・スパンダ)に従うため、心を制御するのにプラナヤマが役立ちます。また、五感から離れて内側の気づきへと引き入れられるため、五感の調整(プラティヤハラ)にも役立ちます。ハタヨガそのものが主にプラナに関することであり、ヨガのポーズはプラナの動きの現れであり、多くの偉大なヨギたちは、機械的な練習を通してではなく、覚醒したプラナの力を通してをヨガポーズ学んできました。


知識のヨガであるジナナ・ヨガは、強い意思と集中を要します。このヨガでは、精神的なものだけでなく日々の活動すべてにおいて、私たちが得ることのできない発達したウダナ・ヴァーユなしで、プラナへの問いかけ、すなわち真我に対する問いかけが必要です。


まさにヴェーダが語る通り、私たちはみなプラナのコントロール下にあります。プラナは太陽であり、命や光をみなに分け与え、生きとし生けるものすべての真我として心の中に存在しています。私たちのなかにあるプラナは、命を与えてくれ、行動させてくれます。このより大きな力に心を開き迎え入れることを学び、より多くを人生や行動に取り入れるよう求めなければなりません。これこそがヨガの最も偉大な秘伝のひとつなのです。



2026年5月19日火曜日

プラナを理解する Vol.1 
Understanding Prana

ヨガやアーユルヴェーダでよく出てくる「プラナ」
生命力だったり呼吸だったり「気」だったり。
今回はそんなプラナについてです。

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この3つの世界に存在するもの全てはプラナのコントロール下にある。母親が子どもを守るが如く、おおプラナよ、我らを守り、輝きと知恵を与えたまえ

ープラシュナ・ウパニシャッド 2.13

私たちが生まれ持つ5つの主な能力である精神、呼吸(プラナ)、話す力、聞く力、見る力は、どれが最も重要なのかについて議論していた。その争いを解決するため、欠けた時に最も困ることになるのはどれかを見ようと、彼らはそれぞれ体を離れることにした。まず話す力が離れたものの、無言にはなってしまったが体は元気なままだった。次に目が去ったが、盲目ながらも体は元気だった。そして耳が離れたが、聞こえないものの体は成長し続けた。ついに精神が去り、今度は無意識になったが体は生き続けた。しかしプラナが離れ始めると、体は死に向かい始めた。他の力はすぐに生命力を失っていったのでプラナのもとへ急ぎ、プラナの優位性を認めてとどまる様に懇願した。



これは古いヴェーダの物語で、少しずつ違うバージョンがさまざまなウパニシャッドの中で見られます。最初の議論が意味するのは、私たちの能力が統合されず意識をコントロールしようとそれぞれが競い合うというよくある人間の状態です。プラナが離れる時、全ての能力にエネルギーを与えているのがプラナであり、プラナがなければ何も機能できないということが明確になります。この物語の教訓は、これらの能力をコントロールするにはプラナをコントロールしなければならないということです。


心身に良い変容をもたらすためには、エネルギーの働きを理解しなければなりません。この力をサンスクリット語で「第一のエネルギー」の意味でプラナと呼び、「呼吸」や「生命力」とも訳されることがありますが、実際にはそれ以上の意味を持ちます。プラナそのものが表すさまざまな形について、西洋のヨガ文献ではあまり語られないため、その広大で深淵なプラナの科学が理解されることは稀です。


プラナには、体の呼吸から意識そのもののエネルギーに至るまで多くのレベルの意味があります。プラナは単なる基本的な生命力ではなく、原始の創造力です。私たちの存在のすべてのレベルで働く全てのエネルギーを支配しています。この全世界はまさにプラナの現れです。意識を変容させるうちなるエネルギーである大蛇の力、クンダリニ・シャクティでさえ、プラナが覚醒することで起こります。


宇宙のレベルでは、プラナには2つの局面があります。ひとつは出現していない純粋意識のエネルギーであり、全ての創造物を超越しています。ふたつめは出現したプラナで、意識そのもののエネルギーであり、デヴァトマ・シャクティやチティ・シャクティと呼ばれます。出現していない純粋意識のプラナから、全宇宙が存在物へと成り、創造のプラナの出現となります。


自然そのものは3つのグナ(質)から成ります。サットヴァ(調和)は精神を生じさせ、ラジャス(動)はプラナを生じ、タマス(不活発)は身体を生じさせます。自然は動的、ラジャス的なエネルギーです。高次の自己、純粋意識の引力に応えて、このエネルギーはサットヴァ的となります。無知の不活発さによって、この同じエネルギーはタマス的になります。


身体の存在と比較すると、生命力であるプラナは呼吸する酸素から主に起こる「風」要素の変容したものです。微細なレベルでは、空要素は触覚に対応し、触覚を通じて私たちは生きていると感じ、生命力を他の人に伝えることができます。



コーシャ

人間の存在は5つのコーシャ(鞘)から成る

  • アンナマヤ・コーシャ(食物でできた鞘)。これは物質であり、私たちが摂取する5つの要素(地、水、風、火、空)で作られています。

  • プラナマヤ・コーシャ(呼吸でできた鞘)。これは生命力である、ヴァーユという5つのプラナから作られています。

  • マノマヤ・コーシャ(印象の鞘)。これは外側にある低次の精神で五感の印象で満たされています。

  • ヴィジュナーナマヤ・コーシャ(概念の鞘)。これは知性そのもので、方向性を持った精神活動です。

  • アーナンダマヤ・コーシャ(体験の鞘)。これはより深い精神で、記憶、潜在意識、超意識の精神を含みます。



プラナマヤ・コーシャは生命エネルギーの領域です。この鞘は、物理的な体と、3つの精神的な鞘(外側の精神、知性、内側の精神)を媒介しています。また、5つの粗い要素と5つの感覚印象の媒介をも行なっています。
  

プラナマヤ・コーシャは、5つの運動器官(外分泌、泌尿生殖、足、手、発声器官)を繋げており、生存、生殖、運動、自己表現の欲求を含みます。行動への熱意や動機をもたらします。


ほとんどの人は、物理的な身体とそれに深く存在する欲求に支配されており、それは生き続けるためには不可欠なことです。身体は無意識のエゴが存在する場所であり、様々な恐怖や欲望、執着がとどまるところです。私たちの多くが、このコーシャを通して、感覚的な楽しみや形ある物質を得ることといった形で喜びを得ようとして人生を過ごします。
 

強い身体を持つ人には個性を世界に認めさせる能力があって、傑出した人生を歩む人が多いです。身体が弱い人は、多くを成し遂げるエネルギーが少なく、多くの場合は従属的な地位に留まります。一般的には、体力があり自我の強い性質を持った人が世界を動かします。しかし、この性質は精神的な道のりでは最大の障害のひとつとなります。というのも、彼らにとっては、自身の欲望に基づいた衝動に疑問を持つために必要なより大きな力に身を委ねることが困難だからです。


そのため、精神的な人生はプラナを押さえ込まなければならないと考える人もいますが、プラナマヤ・コーシャが強いということは、利己的あるいは欲望志向の活力とは全く異なります。それは個人の力から得られる強さではなく、聖なるエネルギーへの降伏から得られるものです。霊化された強いプラナマヤ・コーシャがなければ、持続的な集中した実践を行うエネルギーを持つことはできません。


ヒンズーの神話では、このより高次のプラナは風の子である猿の神様ハヌマンに象徴され、古代神話ラーマーヤナの中で語られています。ハヌマンは神の生まれ変わりであるラーマとその妻シータに仕えており、それによって望む通りの大きさになり、あらゆる敵や障害を乗り越え、奇跡を成し遂げる能力を得るのです。そうした精神的な方向へ向かう性質によりエネルギーや好奇心、熱意を持つことができ、五感や身体的な衝動(低次から高次まで全ての意思や野望)をコントロールする能力をも得るのです。



ヨガにおける5つのプラナ


プラナマヤ・コーシャは、ヴァーユまたは「風の力」とも呼ばれる5つのプラナから成っています。これら5つのプラナは、動きと方向によって分類されます。これは、アーユルヴェーダ医学でもヨガの実践においても重要なテーマです。


プラナ・ヴァーユ

プラナ・ヴァーユは文字通り「前進する風」という意味で、内向きに動き、食べることから、飲むこと、息を吸うこと、感覚を得ること、精神的な体験に至るまでの体の中に受け入れるあらゆる種類のものを調整しています。もともと推進力があり、物事を動かして導き、日々の中で私たちを動かす基本的なエネルギーを与えてくれます。
 

アパナ・ヴァーユ

「立ちさる風」であるアパナ・ヴァーユは、下方そして外側へ動き、あらゆる形の排泄や生殖(下方への動きもある)を司っています。便や尿の排泄、射精、月経液や胎児の放出、そして呼吸を通した二酸化炭素の排出を制御しています。より深いレベルでは、負の感覚、感情、精神的な体験などのを排除を支配します。私たちの免疫機能の基礎となります。


ウダナ・ヴァーユ

「上へ動く風」のウダナ・ヴァーユは、上方へ動き生命エネルギーの質的、変容的動きをもたらします。体の成長を司り、立つ能力や話す能力、努力や熱意、意思を調整します。主なプラスのエネルギーで、さまざまな鞘での成長や意識の発達を助けます。


サマナ・ヴァーユ

「バランスをとる風」であるサマナ・ヴァーユは、攪拌や識別を通して周囲から中心へと動きます。すべてのレベルでの消化を助け、消化管では食べ物を消化し、肺では空気を消化あるいは酸素を吸収し、精神では感覚、感情、精神の体験を消化します。


ヴィヤナ・ヴァーユ

「外に向かう風」のヴィヤナ・ヴァーユは中心から周囲へと動き、すべてのレベルでの循環を制御します。食物、水、酸素を身体中に運び、精神の中で感情や思考を循環させ続け、勢いを授け強さを与えます。







5つのプラナはまた、体の場所という観点でも見られます。プラナ・ヴァーユは、頭から、身体のプラナの中心であるおへそへのエネルギーの動きを制御します。アパナ・ヴァーユは、おへそから背骨の先端である根のチャクラまでのエネルギーの動きを制御します。サマナ・ヴァーユが司るのは、おへそから全身へのエネルギーの動きです。ウダナ・ヴァーユは、おへそから頭へのエネルギーの動きをコントロールします。


簡単に言えば、プラナ・ヴァーユは物質の取り込み、サマナはその消化、そしてヴィヤナは栄養の循環を司っています。ウダナはプラスのエネルギーの解放、そしてアパナは老廃物の排泄を調整します。これは効率的な機械の働きにとても似ています。プラナは燃料をもたらし、サマナがその燃料をエネルギーに換え、ヴィヤナがそのエネルギーを様々な現場に循環させます。アパナは変換プロセスでできた廃棄物を処理します。ウダナはこうして造られたエネルギーを管理し、機械が効率的に機能させます。


健康の秘訣は、プラナを調和し続けることです。ひとつのプラナのバランスが崩れると、すべて繋がっているため、他も均衡を崩しやすくなります。大抵の場合、プラナとウダナはアパナのバランスを取っていますが、それはエネルギーを作る力が排泄のバランスをとるためです。同様にヴィヤナとサマナは、拡張や収縮という側面でお互いに調整し合っています。




プラナはどのように物理的な体を作り上げているのか


プラナがなければ、体はただの泥人形に過ぎません。プラナが、様々な微細の神経経路(ナディ)を造って、それ通して操作してエネルギーを与えて粗い物質を様々な組織や臓器の形に変え、このゼラチン質の塊りから手足や様々な内臓などを形作っています。


プラナ・ヴァーユは、頭部や脳から心臓までの開口部や経路を作っています。頭には、2つの目、2つの耳、2つの鼻の穴、そして口と7つの開口部があります。ウダナ・ヴァーユは、上半身の開口部、特に口と発声器官を作るプラナを補助します。口は、頭だけでなく全身のための開口部だからです。実際、ある意味では、身体は食べたり自己表現の主な臓器である口の延長なのです。


アパナ・ヴァーユは、尿生殖器と排泄など下半身の開口部を造ります。サマナ・ヴァーユは身体の中央部にある開口部、おへそを中心とした消化器をつくります。肝臓、膵臓などの臓器と腸との経路を開けています。ヴィヤナ・ヴァーユは身体の周囲を走る腕や脚などの経路を作ります。静脈や動脈、そして筋肉、腱、関節、骨などを形作ります。


おへそは、主に消化器官からなっている物理的な身体、つまりアンナマナヤ・コーシャの主なプラナの中心です。粗いプラナが食物として、小腸を中心とした消化プロセスに取り入れられ、主に筋肉などより重い組織に保持されます。しかし、プラナにはより微細なレベルでの機能に基づいた中心もあります。心臓はプラナマヤ・コーシャのエネルギーの主な中心です。呼吸で取り込まれたプラナは、心臓の機能で血液にのって運ばれていきます。頭は精神的な鞘であるマノヤマ・コーシャの中心で、主に目や耳からの感覚受容によってエネルギーがもたらされます。


呼吸は、体内のプラナ活動の主な形です。プラナ・ヴァーユが吸気を調整しサマナが酸素の吸収を司りますが、それは主に呼吸を止めている間に起こります。ヴィヤナはその循環を調整します。アパナは、
特に二酸化炭素の排出を管理しします。ウダナは会話や歌など呼吸を通したプラスのエネルギーを解放することで呼気を調整します。






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2026年3月9日月曜日

アナンターサナ(ヴィシュヌの寝椅子)の神話 
The Mythology Behind Anantasana (Vishnu's Couch)



「終わりのない」「無限」という意味のアナンタは、永遠、誕生や成長、死などすべての変化の超越などを表し、喜びや幸福感が無限である状態を表します。感じられる物質を超えたこの甘く自然な状態は、アナンタという巨大な神話上の蛇で表されます。アナンタのとぐろは宇宙を支え、ヴィシュヌ神が次の生まれ変わりの前に休む際の寝椅子となります。アナンタにアサナを付けるとヨガポーズの名前となり、この生まれ持った幸福感、平穏、永遠の感覚を養うのに役立ちます。


アナンタ(アディシェシャとも言われます)はヨギにとっては重要な人物です。ヨガスートラを編纂したパタンジャリはアナンタの生まれ変わりだと言われます。バガヴァットギータでクリシュナは「蛇の中でも、私はアナンタである」と言います。アナンタは、宇宙を支える者の一人で、時が始まる前から存在していました。


神たちが乳海を撹拌して世界を作った時、アナンタの体はロープとして使われました。アナンタは、他の世界であるパティアーラの海に浮かび、彼のとぐろの上で保護者であるヴィシュヌとともに永遠に住んでいました。700年ごと、あるいは創造物が本当に困ったことになった時、アナンタはとぐろをかすかに動かしヴィシュヌ神が形をとって地上に現れ、そして時代が始まります。時代の終わりには、ヴィシュヌは休息へと戻るのです。どんな時も、創造物が生まれ、育ち、愛し、争い、死ぬ時も、アナンタは下で地上のあらゆる活動の影響は受けず、究極の目撃者であり続けます。


パタンジャリの頭上にはコブラが被さっており、世界の考えうる全ての悪や困難からの究極の保護を表しています。7匹の蛇が、パタンジャリや彼に師事した全ての弟子らを守るための聖なる傘を形作っています。この7つの蛇は、地水火風空の5行を完全に理解したこと、また解脱と悟り、モクシャとサマディを得たことを象徴しています。




個人的な世界でのアナンタ


個人の世界においては、背骨が体の土台で支柱であり、中枢神経の存在する場所です。下界から危険が迫ると、アナンタがヴィシュヌ神を呼び起こして地上の危機に対処するように、体の交感神経が動き出して反応を刺激します。心拍数や呼吸数が増え、消化に影響を与え、筋肉に血液が送られ、闘争逃走行動の準備をします。危機が去れば、副交感神経が体と心を落ち着かせ、心拍数呼吸数がゆっくりになり、心もまた落ち着き、ヴィシュヌはアナンタのとぐろへと戻っていきます。


興味深いことに脳の基部は「爬虫類脳」とも呼ばれ、呼吸のような生命維持のための最も基本的な行動を司っています。それは知覚には全く関係がありません。もし呼吸について考えなければならないとすれば、注意散漫になったり眠ってしまったらすぐに死んでしまうでしょう。感じられる世界の変化や要求に反応する時、警戒する役目を果たすのは前頭葉(認知脳)で、何が起こっているのか、どう反応すべきかを理解します。アナンターサナは、深い内側へと降りていき、爬虫類脳の本能的な認識、静けさ、休息の深い感覚を体験するよう促してくれます。







アナンタサナのポーズ




  1. 左を下に横たわります。両膝はやや曲げても構いません。バランスをとるため右手を体の前の床におき、左腕は床の上で左耳の横に伸ばします。体の左側を、股関節から腋の下まで伸ばします。できれば、左の腋の下は床に下ろします。

  2. 腋の下を下げ続けながら、左肘を曲げます。左手を左耳につけます。肘はできるだけ耳の横に置いておきましょう。三頭筋を伸ばします。

  3. 床で左脚を踵に向かって伸ばします。腋の下から踵まで体の左側を床に押しましょう。右脚を左脚の上に重ねます。

  4. 仙骨を前へ引きます。左脚を腰から踵まで落ち着かせます。横たわってはいますが、これはバランスをとるポーズです(股関節屈筋にも効きます)。両膝は伸ばしたまま、頭から尾骨まで長く一直線にしましょう。左側全体を押し下げて体を安定させます。まっすぐ前を見て、目の高さで床の上の安定した点を見つけて見つめましょう。

  5. 呼吸を一旦止めます。尾骨へと息を吐きます。コブラの頭のように、頭骨の基部にある骨を広げます。頭頂を通って息を吐きます。呼吸と意識を、両足の下20センチと頭の上20センチまで広げましょう。

  6. 次に、右膝を曲げます。右脚を外旋させて左脚の内側まで踵を引きます。右足の親指を右手の親指と人差し指で掴みます。右肩を回し下ろしましょう(親指がつかめない、肩が開かない場合はストラップを使います)。

  7. 息を吐きながら、指を掴んだまま右脚を伸ばします。右腕の上端を肩関節に向かって引き寄せ、右肩甲骨を下げます。脚は前方に右臀部は後方に向くはずです。仙骨を引き寄せて、右の坐骨を左踵に向かって伸ばしましょ
    う。

  8. 舌をやわらげます。全ての力を抜きます。体全体を呼吸で下ろします。呼吸を背骨に沿って、ゆっくりと心地よい、蛇のような動きで波立たせます。呼吸が背骨を支えて地面が体を支えているのを感じます。目の力を和らげて、コブラの頭の基部である頭骨の底へと脳を休ませます。表面で起こっている事柄は流して、アナンタと共に、深く、根源的で、無限で不変の状態になりましょう。


  9. 無限の700年が終わったら、長くゆっくりと息を吐きます。少しシューッと音が出るかもしれません。体を回して座位にもどり、とぐろを調整して、反対側でも繰り返します。そうでシューッ。



ヨガスートラの2.47でパタンジャリはこう書いています。「無理な努力をやめ、心を無限(アナンタ)集中することでアーサナは完全なものになる」さて、これをあなたの練習に取り入れたらどんな感じがするでしょうか?

2026年3月6日金曜日

悟りを得たエゴ 
The Enlightened Ego


私たちの奥底には、ミステリアスで力強い意識の道具である「精神」が潜んでいます。精神の主な機能には、マナス、ブッディ、チッタ、アハムカラの4つがあると言われます。今回は最後の機能、アハムカラ、すなわち個人としての自分、エゴについて深く見ていきましょう。まずは、自己認識、自我とは何を指すのか、それが瞑想でどのように変わるのかを詳しく見
ていきます。



真我とは誰なのか?


自分自身のことを表す時、わたしたちは「私、自分」という言葉を使います。この言葉にはたくさんの役割があります。自己認識感覚や、他人と区別する印をつける、周りの世界に自分自身を広げる際の所有物を示す(「これは私の自動車です」)などです。いつの瞬間にも精神からもたらされる自分という馴染みのある感覚は、サンスクリット語でアハムカラと言います。これは「アハム(自分)」と「カラ(作り手、行為者)」の2つの言葉から成っています。アハムカラとしての心は、「自分」の作り手です。全ての行動で、「私は行為者だ」「これらの行動は私のもの」と宣言しています。このように、「私、自分」という言葉を使う時、精神そのものの中で作られた自己を意味します。あなたの「私、自分」は特定の体、特定の個性、特定の思考パターン、特定の人生の独自性なのです。


わたしたちが、自分の独自性を詳しく調べることはほとんどありません。ただ役割(親、先生、テニスプレーヤーなど)や、特質(魅力的、率直など)を演じているだけです。このように、「自分とは何?」と正直に自問した時、好奇心が湧いてより質問がでてくるでしょう。「自分で認識していない自分の他の面があるだろうか?自分で思っているような自分なのだろうか?」


人の自己認識は、そう見えている以下でもあり以上であるという認識は、ヨガ哲学の中心にある矛盾です。自我の性質について言及している数多くの聖典のひとつであるバガヴァット・ギータ(6.6)の一節を考えてみましょう。「真我(Self)とは、その自我(self)こそがその真我(Self)によって克服された自我(self)の友である(心を克服した人にとって、心は最良のともである((田中嫺玉氏の訳))」


翻訳者らは、個人的な自我(self)は小文字で、そして超越した真実を表す真我(Self)を大文字で表すことで「自己(self、アートマン)」という言葉の曖昧さを読み解こうとしてきました。より下位の面では、私たちは制限された自我にしがみついていて、エゴやエゴが認識する物を掴んで離しません。しかし、誰もがまた見えている以上に永続的な何かの現れでもあるのです。海面の波がその下の大きな水の広がりの一部でしかないように、私たちもまた純粋な意識、Self、真我の一部なのです。



アイデンティティの性質


二元性を唱えるインド古典哲学であるサンキャの伝統によれば、人のアイデンティティとは集合体です。意識のある真我(体験の対象、知る者、プルシャ)、無意識の心身(意識の道具、体験の対象、プラクリティ)から成っています。あなたには体がありますが、体はあなたの全てではありません。あなたは考えますが、あなたの思考もまらあなたの全てではありません。私たち全ての中に内なる純粋な目撃者、知る者、意識が存在します。


心はピカピカに磨いた鏡のようで、意識の光を受け止めて、最も奥にある表面にその光を反射し、意識そのものの姿を真似ます。聖ヴィヤサによれば、それらが近しいものであるために、私たちは思考を「意識と同じ」だと認識します。


このプロセスは「私というもの」という意味のサンスクリット語、アシュミタと呼ばれ、真の気づきにとても似ています。この言葉はアイデンティティの誤った感覚、誤解を意味します。意識は、一旦、心に反射されればそれが純粋ではないことがわからないため誤解してしまうのです。そうでなければ制限のない、至福かつ永遠であるものによって、アシュミタの混乱を通して心は意識そのものに見えます。そして、アハムカラによって、心が「私」という制限された感覚を私たちに与えるのです。自身を深く知らない限り、アハムカラによって心の中に作られた有限のアイデンティティに執着することになります。


残念ながら、これには大きな痛みがあります。時間が経つにつれ、体を自分自身だと感じていることからくる不快な現実、すなわち当てにならない健康、常に忍び寄る老化のプロセス、確実に訪れる死に対処する方法を学ばなければなりません。


人生には、誤った自己認識からくる苦痛以外の選択肢はあるのでしょうか?その答えは、ヨガの中心にあります。深く染み込んだ誤った認識パターンにも関わらず、人生には知るべきものがまだあるのだと何かが囁きます。それが瞑想です。



瞑想の中の真我


聖人らによれば、瞑想は自己認識の誤りを徐々に取り除き、深い真の自己を露わにします。そのためには、エゴを浄化するプロセスが必要となります。


聖典では、瞑想中のアハムカラを浄化するために、補完し合う2つの方法を薦めています。まずは、「私は単なる身体ではない」「私は世俗的な欲望のみによって支配されているわけではない」などの言葉を熟考することで、制限された自己への執着を緩めます。次に、心をマントラに集中することで、心を無限の存在へと落ち着かせます。


バガヴァットギータ(6.25)では、

「十分な確信をもって一歩また一歩と
 知性に導かれてサマーディの峯に登れ
 そして心をただ一つ真我に固定し
 ほかの一切を思うな 考えるな」  (田中嫺玉「神の詩」より)


ヨガ・ヴァシシュタ(5.59)にも同様に、


「理解しやすいもの、物体を放棄せよ
 そこに残るのは純粋な意識であり、すべての疑念は去る
 我は無限の真我 この真我に限界はないからである
 すべての美であり、すべての光である」



この2つの方法の実践を通し、瞑想によって拡大した自身へと導かれます。徐々に、思い込んでいた限りあるアイデンティティの中に「私」は永遠の幸福を見つけられるという概念が薄れていき、純粋意識の存在の中に全面的な信頼とともに留まれるようになります。


しかし、聖典に書かれているからといって恐怖はまだ残るかもしれません。「瞑想で本当にリラックスしたら何が起こるのだろう?『私』が消える?今の自分を失うのだろうか?」と思うかもしれません。


実際のところ、私たちの真のアイデンティティは単に失われることはないと瞑想が気づかせてくれます。意識は、気づきの平穏な主体であり、束の間の物質ではありません。瞑想では、自己は真我の完全性を感じます。障害や誤ったアイデンティティは徐々に消えていき、全体性を取り戻します。喪失ではなく、自己を満たすのです。


このように、瞑想の本質は自己の拡大です。バガヴァットが言うところの「真我の無限の幸せ」を選択し、制限された自己の狭い境界を徐々に超越していくプロセスなのです。瞑想することは、深く喜びに満ちたその本質に留まることです。下位の心であるマナスは集中し、ブッディは内なる観察者として目覚め、前回の瞑想で得たチッタの印象が精神の支えとして現れ、そしてアハムカラによって作られた自己は徐々に真我という上位の感覚へとリラックスしていきます。これが瞑想の本質であり、自身の存在に落ち着くための心の調整なのです。



2026年2月10日火曜日

無意識を見出す:感情的な癒しのための瞑想
Uncovering the Unconscious: Meditation for Emotional Healing



ヨガの視点からみれば、精神とは意識の洗練された道具です。外の世界と繋がり、精神体験の膨大な領域を与え、純粋な意識そのものへの橋わたしの役割を果たしています。精神の全体像を理解することで瞑想や日常生活がより楽に行えるようになります。


ヨガでは精神活動を、マナス(下位あるいは感覚的な精神)、ブッディ(内なる目撃者)、チッタ(記憶の基盤)、アハムカラ(自性)の4つに区別しています。最初の2つのマナスとブッディは前回「瞑想のための精神世界への地図」の中心でした。


瞑想中、意識している精神であるマナスは静かに集中しています。感覚(マナスと外の世界の間の通路)は感覚の対象への接触をやめます。想像力は弛緩し、穏やかな集中が築かれ、通常の精神を今という瞬間へともたらします。そのように、瞑想中は精神活動の日常の行動が集められ統合されます。


マナスのこうした変容は、ブッディの変化でより深くなります。ブッディは、道徳感を持ち、自己認識が可能な精神です。マナスが静まるとともに、ブッディが覚醒します。これは、意識の静かな展開として体験されます。ブッディが覚醒すると、意識はよりはっきりと輝きます。意識と心の中身の間にかすかな距離ができます。そうして、瞑想者は精神体験の静かな目撃者となるのです。



記憶


チッタは体験を記憶に留めることのできる精神です。印象や習慣、欲求などを溜めた広大な貯水地です。この無意識の貯蔵庫では、未来の種が、今の体験によって植え付けられます。


チッタは湖のようであり、体験のさまざまな川がその水の中にいつも流れこんでいます。こうした川は周囲の世界での敬遠から湧き起こります。見て、聞いて、味わって、匂いを嗅いで、触れます。しかしチッタはまた、精神そのものの中で起こったプロセスの経験も記録します。好きな歌の歌詞を思い出す度、より深くチッタに固定されていきます。


これらの経験で集めた情報は、無意識の中で停止しています。しかし記憶は、新鮮な体験に役立つためこの湖の表面に現れます。そのようにして、シャワーをしている時に突然好きな歌が頭に浮かんだりするのです。


しかし、無意識の中に貯蔵されたものをあまりにも狭い意味で定義するなら、チッタの本当の重要性の理解を見誤るでしょう。精神は、単に事実を不毛な情報だと保存するわけではありません。経験はもっと複雑なのです。それは感情的です。


桃を食べるのは好きだ。梨は、なぜか、好きではない。あの店でみたシャツは魅力的だが、その価格には狼狽してしまう。感情を体験に貼り付け、そして真実と心の中にある感情の組み合わせを残すのです。


喜びや痛みは感情の源です。それらによって、好き嫌い、欲しい物、願い、反感、切望、嫌悪、向上心などが起こります。誰もが幸福を追い求め、痛みを避けます。よって、チッタに保存された体験の種は無作為に置かれているのではなく、適切であろうがなかろうが、未来のための欲望が付いてきます。



動く心


瞑想中、精神の意識的な活動は主としてマナスとブッディの領域ですが、徐々に認識されうまく操れるようになります。これが瞑想の主な目的です。しかし、これまで見てきたように、心は無意識の中の印象も保存しています。こうした印象はサムスカラと呼ばれ、活動を始めるまでは姿を現しません。瞑想では、こうした隠れた印象にもある方法で取り組まなければなりません。その時に初めて、瞑想によって奥深くにある癒しや精神の本質的な要素の統合が可能になります。


スワミ・ラーマは、瞑想の始まりを覚えやすい方法で表現しました。あなたの足の親指を掴もうとしている人がいるとしましょう、と彼は言います。初めは面白がってあなたにもちょっとした影響があるふりをするかもしれません。しかし時間が経つにつれて、あなたは指をくねくね動かしてその人が掴もうとするのをやめさせようとするかもしれません。それが失敗に終わると、あなたはもっと力を入れて足を振り、それでもダメなら、そのやっかいな指つかみ屋を蹴って苛立ちを取り除こうとするかもしれません。


彼によれば、瞑想中に挑む苦悩もそれにとても似ています。精神を集中させるのは、足の指で精神を掴むようなものです。最初、心は勝手に動き回りって、ほんの時々あなたが真剣かどうか見るためにくねくねします。しかしそのうち、心の中の力が自由を求めて外に出ようとします。心はどんどん落ち着かなくなって、とうとう瞑想のプロセスを蹴って集中を振り切ろうとします。


こうした心の反応への解決法は、マナスを休ませる訓練をすることで、集中を深める際に自然に湧き起こるプロセスです。内なる目撃者であるブッディの本来の機能もまた、心の不安定さを鎮めます。


しかし、心の落ち着かなさというのは、多くは無意識、すなわち認識に向かって上へと押し上げるサムスカラの力の結果です。全ての瞑想者は、そうした思考に邪魔される体験を経験しています。一瞬で、「ここ」からどこか遠くの「あっち」に移動したり、一点集中から「あれを友達に言わなきゃよかった」に移動してしまいます。気を逸らす印象は、チッタの本質の一部です。機会があれば、瞑想の静けさの中に現れます。


こうした印象のいくつかは、気をつけなければいけない義務や時事問題だったり、希望や将来設計だったり、ニュースや天気予報、娯楽番組の映像だったり、ずっと忘れていた夢だったりします。良くも悪くも、感情は、水面を求めて湧き上がる泡のように、そうした印象とともに認識されるのです。


瞑想でのこうした印象の影響は、それらにどれほどの注意を払うかに拠ります。ある思考は重要で熟考する必要があるでしょう。他の思考は、不安や欲求によって掻き立てられ、瞑想のプロセスには必要がないでしょう。瞑想が深まるにつれ、前向きな思考ですら落ち着いた集中に道を開けるよう傍に移動します。



無意識の変容


そこにある印象の集まりを変化させたり取り除くために、無意識へと直接入っていくことはできません。しかし、瞑想はそれでもやはり無意識に影響を与えます。問題はどのように、です。


チッタの働きを思い出してみましょう。体験の倉庫であり、隠れた印象の貯蔵庫です。そこには楽しい体験も不快な体験もあって、後にこの同じ印象によって影響されます。こうして、心はさまざまに異なる質や強さの数えきれない体験によって色付けされています。


瞑想そのものは体験あり、チッタに蓄積されます。瞑想体験は、他の体験と同じくチッタの色を変化させます。記憶の中で他の体験が蓄積されるのと同様に、瞑想は心の奥深くに到達しその微かな印象を残します。しかし、瞑想は単なる新しい色ではありません。瞑想は色の変容です。微笑みが憂鬱な表情を変えるように、無意識を変容させます。



集中と手放し


チッタを変容するために瞑想では二つの方法が使われ、お互いに補完し合っています。一つ目は穏やかな集中です。二つ目は、気を散らし邪魔をする思考の洗練された手放しです。これらは伝統的な瞑想テクニックで、パタンジャリのヨガスートラ(1.12)やバガヴァットギータ(6.35)のどちらにも書かれています。


瞑想中、注意を徐々に瞑想的な集中へと移動することを身につけます。心を中心に集めることに集中します。この忍耐の必要な作業の成果は深遠です。瞑想は非生産的でつまらないように見えるかもしれませんが、真実はその真逆です。どの瞬間も、リラックスした集中の印象がチッタに蓄積されます。こうした印象が、心を明晰さと穏やかさへと導き、心を鎮めて瞑想の質を高めます。


しかし、手放しを養う努力はどうなのでしょう?瞑想中の非執着は、逆説的なアプローチが必要とされます。最初は湧き上がる気を散らす思考を、押しのけるのではなく受け入れることを学ばなければなりません。自分自身と戦っても仕方がないのです。瞑想で現れる思考、欲望、希望、夢、恐怖などは全て、少なくとも今の段階では、私たちの一部なのです。ですから、そうした思考が邪魔だったりつらいものであっても、受け入れることが必要なのです。そうすることで初めて、それをそのままの姿で見ることができ、その繊細さと動機の力を見ることが可能になります。


しかし、こうした気を散らす物を、意識の主な集中点にしてはいけません。通り過ぎる思考を見て、新しいエネルギーを与えることなく、それらの飢えた性質を観察するのです。心の表面に現れるものをしっかりと受け入れながら、執着せずに見ることで、チッタを浄化し、雑念の動きを緩め、心の集中力を高めるのです。


集中と手放し。これが深い瞑想の方法です。忍耐と自己需要の種を植え付けます。隠れた動機をあらわにし、利己的でない意思を強めます。自身の意識と無意識の要素間の会話を行い、チッタの変容の中で、心のより長く続く幸福への道を開くのです。







(出典)https://yogainternational.com/article/view/uncovering-the-unconscious-meditation-for-emotional-healing/


2026年2月6日金曜日

瞑想のための精神世界への地図 
A Meditator’s Map to the Mind


精神はまさに束縛と解脱の原因である
アムリタビンドゥ・ウパニシャッド(第二節)



ヨガの文献は、精神は心の道具だと述べています。記憶を保管し、希望や欲望を示し、日々の活動を調整します。しかし、日々の暮らしで中心の役割であるにもかかわらず、私たちはその精神そのものについてあまり考えません。「精神」とは何なのかを簡単にでも定義できる人もほとんどいません。


瞑想の実践者にとって、精神世界の実用的な知識とは地図のような者です。瞑想でどこに向かうのかどのように向かうのかを教えてくれます。幸い、ヨガ哲学は瞑想の実践を補う精神の地図を与えてくれています。物事を新しい方法で見るための扉を開け、私たちが何なのかの問題を解く手助けをしてくれます。では、瞑想でこの地図が示してくれる精神について見ていきましょう。



精神の風景


体験をまとめるためには、精神は体とつながらなければなりません。精神が外の世界の印象を受けとって外の世界で行動するのは、感覚の経路や感覚器(目、耳、手足など)を通してです。ですから精神と体は巧妙に統合されたチームなのです。


精神の機能に途切れはありませんが、ヨガではその活動を4つの領域に分けています。ひとつ目は日々の意識的な精神、マナスです。次に、微細で静かな体験の目撃者、ブッディ。三つ目は、個人、自己像という感覚であるアハムカラ。最後に、習慣や潜在的な印象(サムスカラ)の保管庫として働く、無意識にあるチッタです。






日々の精神


日々の精神であるマナスは、多くの場合「下位の」精神あるいは「世俗的な」精神と呼ばれます。マナスは、意識のスクリーンとして働き、外の世界の感覚的印象とすでに精神に保存された体験とを混ぜ合わせます。マナスの作用を通して、私たちは、錆色の腹をした羽の生えた生き物を見て、朝早くに始める歌を聞き、そしてその名前はロビンだと覚えているのです。


マナスまた、「どっちつかずの」精神とも呼ばれますが、それは情報を集めたり表示するのは得意なのに決断をするのは苦手だからです。休暇の行き先を選び、旅行に最適の日を選び、ルートを計画し、全旅程の費用を計算できます。しかし、行くか行かないかの決断はしないのです。結論には辿り着けません。そのため、行動の価値を特定する役目をもつ精神であるブッディを使う必要があります。


少し時間をとって、あなたのマナスの働きを確認してみましょう。以下を読んでから、少しとどまってあなたの周りの環境を受け止めてみましょう。

  • 意識のスクリーンに映り出される世界を見る

  • 耳から入ってくる周りの音を聞く

  • 触覚、味覚、嗅覚ももまた認識の多次元的なスクリーンにある意識に完全に溶け込んでいる様子に気づく

  • いかに周囲の物をすぐに認識できるか(名前がわかる、あるいはただ認識できる)、そして一貫性のある環境を組み立てることができるかに気づく

重要なのは、精神のスクリーンは外の世界からの印象を記録するだけでなく、印象を色付けすることにも気づいておくことです。過去の記憶は世界、未来のイメージ、現在の形と直面します。ブンブン飛ぶ蜂から逃げて、ふわふわの子猫を抱き上げます。セイリングのイメージは魅力的ですが、あなたのマナスが「日焼け止めを忘れないで!」と言います。欲望も記憶のどちらも常に思考の内容を形作っているのです。




静かなる目撃者


日々の精神というたくさんの活動を考えると、マナスが精神のCEOだと考えるかもしれません。その光景はいつも忙しく、歩いている時も夢を見ている時、夢を見ないで寝ている時もずっと続いています。しかし、その活動は仮面のような物で、人生のより深い次元を隠しています。瞑想者は、慌ただしいこのマスクに隠されたものを見て、もっと心を掴む精神の自然な穏やかさを見出せるようになります。


まさに、マナスの活動は眠りのようなものだと表現されることもあります。マナスは感覚的な体験や直感的な衝動を満足させること、日々の快楽の追求に焦点を向けています。ですから、うちから湧き上がる声は「起きろ!自分自身に戻れ!」と言っているのです。これが瞑想の目的であり精神的な旅のゴールです。けれど、それはどのようにして達成できるのでしょうか?


瞑想者にとっての第一歩は、下位の精神に安定した集中をすることです。通常その集中は呼吸やマントラなどです。これが意識を休ませるプロセスの始まりです。これを行うと、忙しい感覚が(空想の感覚も含む)あとからついてきます。静まりリラックスします。このように、精神に焦点を与えることでマナスの活動を落ち着かせることができます。


マナスが静まって落ち着くと、あなたは覚醒し始めます。静かな目撃者としての自分自身、すなわち他の精神活動を静かに観察する意識の中心への気づきを養います。


こうした覚醒が可能な意識の機能がブッディです。この言葉はサンスクリット語で覚醒するという意味の「Budh」からきています。興味深いことに、これはまさに瞑想中に起こっていることです。意識の静かな変化が起こり、マナスの注意散漫な感情が静まり、より穏やかで安定した精神が覚醒します。


ブッディの語源の動詞には他の意味もあり、どちらも瞑想中の精神の質に関係します。例えば、「意識を取り戻す」すなわちより深みにある自身の認識を取り戻すということ、または「注意を払う」すなわち精神を散漫にさせずに意識を集中させるということです。



これを感じるための簡単な実験をしましょう。目を閉じて呼吸の流れを感じ、以下の指示通りに行ってみましょう。

  • 数分間、力が抜けて吐く息と吸う息の心地よい感覚に意識が向くまで呼吸に集中します

  • 自身が呼吸をしているのではないというとてもシンプルなことに気づき始めます。自分は意識であり、呼吸の感覚を体験しているのです。

  • ブッディが何かをしているのを感じることはありません、が、静かに存在していることを感じます。ブッディである自身は、静かで穏やかな意識です。

  • そのまま呼吸を見つめながら精神を休ませます。マナスが落ち着いたら、そしてこのように注意が落ち着いたら、下位の精神を超えて進むことが可能です。精神活動を見ている自身に気づきます。


旅はここで終わりません。瞑想中は、無意識であるチッタに保存された体験の多数の層へ注意喚起する雑念が現れます。ブッディは、思考や感情、のちに日々の習慣やふるまいという形をとるこれらの印象を深く調べます。このプロセスで、ブッディは、思考(「休暇だ!」)を観察して保存し、その意味(「一年ぶりだ!」)の理解を形づくり、そして決定します。この決定は、執着に基づく物であれば馬鹿げた物にもなり得ますし(「何がなんでも行くぞ!」)、本当の必要性の評価に基づいていれば賢明なものにもなり得ます(「待望の休息が取れる」)。ブッディは決定者であり、覚醒していれば賢明な決定をすることを学びます。


しかしブッディが覚醒している間、日々の生活で助けてくれますが、瞑想の目的はただより良い決定をすることでも、より多くの人生経験を可能にすることでもありません。ブッディの覚醒は、自分自身に戻るのに役立つのです。自覚している意識の源であるうちなる真我の覚醒を取り戻す方法を示してくれるのです。


このプロセスはゆっくりと徐々に展開しますが、地図のない領域というわけではありません。自身を落ち着かせることから始め、下位の精神の活動を観察することを学び、内なる目撃者ブッディを覚醒させます。次回は、瞑想中の、無意識(チッタ)に対処する方法、自性(アハムカラ)を操る方法についてお話しましょう。ですが、今は、瞑想のために座って、精神の領域を認識するところから始めましょう。これ以上に美しく複雑な光景は、この世にありません。




2026年2月2日月曜日

精神の仕組み 
Anatomy of the Mind



ここでは、人間の精神の4つの局面と、瞑想がそれぞれの局面に与える影響について簡単に説明しましょう。







マナスは、日々の意識的な精神で、感覚の調整役であり、思考や印象を映し出す精神のスクリーンです。瞑想ではマナスは鎮静しています。マナスのエネルギーは、移り変わるのではなく集められます。感覚の動きは静まり、とりとめのない思考は落ち着き、注意が明瞭になります。


マナスが鎮まると、より洞察のある精神のブッディが目覚めます。ブッディは体験に意味や価値を与えます。瞑想の実践を通して、ブッディは精神活動を目撃し、心に平穏をもたらします。ブッディが清められると、意識そのものが洗練されて現れます。


チッタは、過去の思考や体験の無意識的な倉庫で、記憶が休む場所です。印象を蓄積し今の心象と混ぜ合わせて、体験を理解し豊かにします。蓄積された印象は、習慣や欲望という形をとってマナスへと戻ります。瞑想をしていると、これが空想や雑念、単なる欲望、強い感情の衝動という形をとることもあります。しかし、瞑想とは、チッタにおける平穏の印象や集中のプロセスです。それが次の瞑想を助けてくれるでしょう。


アハムカラという精神は、「私」の作り手です。「私」という言葉を使う時、この精神そのものに築かれた個人というアイデンティティを指します。あまり重要でない意味では、私たちは制限された自分自身に固執しています。エゴとそれが同一視するものを離しません。しかし、私たちはみな純粋意識、真我という広大な領域の現れでもあります。瞑想は徐々に間違った個人の認識を消し、深い真我に気づかせてくれます。







2026年1月30日金曜日

ヨガセラピー:今も生きる癒しの伝統
Yoga Therapy: A Living Healing Tradition

ヨガセラピーの背景にある哲学、考え方についての記事です。
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ヨガセラピーは現代社会の新しい新興の職業ではありますが、その起源はヴェーダの教えや科学など数千年前にさかのぼります。古人は自らの深い精神の旅から、人の健康状態の本質への深淵な洞察を生み出し、またその理解や全てのレベルにおける苦痛を変換することについての広範囲の教えや力強い実践法をも生み出しました。



この伝統によればヨガセラピーとは、ヨガとアーユルヴェーダを合成したヨガの一種であり、多くの場合、ジョティシュ(ヴェーダの占星術)やさまざまな派閥の信仰から派生した儀式慣習の概念を含みます。この療法におけるヨガの手法やテクニックの応用はヨガ・チキッサと呼ばれていました。新興の職業としてのヨガ・チキッサは伝統的な治療法であり、体調や感情、考え方、食事、行動パターン、ライフスタイルや人間関係、生活し働く環境など全てが密接に関係し合っており私たちの健康にも関係しているいう認識のもとに成り立っています。



ヨガセラピーは、現代の西洋医学における問題のいくつかを改善するためにきわめて重要な役割を持っています。その役割とは、ひとつには、病気や医師中心の枠組みから、ウェルネスやホリスティックなセルフケアに基づいた枠組みへの移行を促すことです。ヨガのコミュニティは、こうした教えを信頼できる合法的な方法で伝えていくという素晴らしい機会と責任の両方を担っています。その責任を果たすには、こうした教えを研究し続けること、伝統の深い洞察を熟慮すること、そして変換の可能性を実践を通して経験することなどによって可能になります。ヨガセラピーの幅広さ深さ、ヨガ哲学との本質的な関連性を解明するために、基本的な見識や中心にある教え、ヨガセラピーの真の伝統のための基礎を築いている元となる実践法を、私はよく垣間見ています。






ヨガの起源は、シュルティと総称されているインド亜大陸に発生した古代文化の文献ヴェーダの中にあります。ヴェーダから、文化や文脈に関係なく全ての人間に永遠に関連すると考えられ発展した、現存する一連の教えが生まれました。こうした教えは、人生のあらゆる場面での体験すべての局面を網羅する深い洞察と実践法を与えてくれます。



ヴェーダの文献は、論証的な哲学様式で編纂されてはいません。詩的であり非直線的で、つまり理解するには複雑で困難です。それらを説明するために偉大な指導者らが解説しました。こうした解説文は哲学的な散文形式をとり、総じてシュルティを呼ばれる口頭で伝えられ、そのように記憶されました。こうしたシステムの最古のものがサンキャで、偉大なる聖カピラによって作られました。サンキャのシステムは、ヨガスートラに記録されたパタンジャリのヨガ哲学の形而上の基礎を形作りました。このように、ヨガは実用的なサンキャ哲学だと考えられるでしょう。



ヨガの観点を伝えるヴェーダ文献にある最も基本となる洞察のいくつかは、アートマン(純粋意識)とブラフマン(絶対的真実)の概念を含みます。ドゥーカ(苦痛)の真実、苦痛を乗り越えるためのヴィディヤ(知識)の探究、そして人間の多次元的モデルなどです。
ヴェーダの哲学的解説の中には、万物の基本要素の法則を列挙するサンキャによる形而上の宇宙論があります。このシステムの中にカピラが示すのは二元性であり、見る者プルシャ、そして見られる者プラクリティです。基本的な前提は、見る者と見られる者を識別することで私たちは苦痛から解放されるということです。



この基本の上に築かれたヨガの伝統が主張するのは、私たちは本質的には変化し続ける多元的な宇宙の中に存在する純粋な意識の変化しない源だということです。純粋意識の中心はヴェーダではアートマンと呼ばれ、サンキャ哲学やヨガではプルシャと呼ばれます。文字通り「街に住む者」であるプルシャは多元的宇宙に住んでいますが、その宇宙とは、思考や感情、身体など自分自身の一部だと通常思っているもの、そして家族や社会ネットワーク、自然界など自分自身の外側にあると思っているものという観念を含みます。この視点から見ると、この見える存在全ては変わり続ける広大さの中のはかない収束現象としてのみ存在しています。基本的にヨガは、私たちはこうした変化するものではなく、間違って自分を認識しそれに執着することで苦痛が起こるのだといいます。



実際的レベルでは、プルシャから生じる知性の応用を通して、そして正しい方法で行うことで、これらの次元すべての変化の方向に影響を与えることができるとヨガは教えてくれます。それぞれの次元での関係性を向上すれば、誤った識別をし続け苦痛を感じ続けるよりも、自分が何なのかを明らかに見られるようになるのです。






2025年12月5日金曜日

科学と意識 
Science and Consciousness


意識とは何か、科学が意識(真実)を探求できるのかについての考察です。

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ここ数年、より多くの科学者らが現実の非二元性という性質に対する洞察を主張してきている。しかし、この主張は基本的な真実、つまり「意識は、科学的究明の範疇を超えている」ということを見落としている。したがって、その真の性質のため、こうした主張は有効ではありえない。


これまで科学と精神性の間には、いつもなんらかの反目が存在している。地球が宇宙の中心ではないと主張したガリレオに対するカトリック教会の迫害だけでなく、天地創造を主張する人々とより現実的なダーウィンの進化論を好む人々との間にある現在の議論も頭に思い浮かぶ。それゆえに、科学者らが非二元性について著したより多くの書籍や論説を目にする機会も多いのだろう。「科学と非二元性」と題された年次大会すら存在し、同じフォーラムでこの2つの知識を探求することも可能になっている。


逆説的に、現実の性質を探求する道具としての科学の力とその決定的な欠点は、その客観性にある。実験的観測とその後の論理的思考の科学的手法は、ヴェーダンタと共通するものであり、前に経験した者の発見を受容するということも含まれる(より新しい発見と矛盾がない場合に限る)。


この世界が私たちの限られた知覚器官で感じ取れるままではない可能性を、人々に考えさせることに、科学は大きな貢献をしてきた。極論を言えば、走査型電子顕微鏡によって指先の物質の想定されている硬さを調べられる。その一方で、ハッブル望遠鏡によって裸眼では見ることのできない銀河の渦まく雲の無限まで覗くことができる。「現実」とは日常の体験によって私たちが信じているよりもずっと微細なのだ。私が今、書き物をしているテーブルの硬さは、電子の回転と原子の周りの共通軌道に関する覆ることのない法則によるものだ。宇宙の膨大なエネルギー源は、ブラックホールに吸い込まれていく数々の星雲からきている。私たちの体の感覚は周りの出来事を説明するにはほとんど役に立たないが、科学には可能であるように見える。


科学によれば、すべては原子でできており、原子はより小さい粒子の集合で、同様にその粒子はより基本的なもので形作られているという。光ですらエネルギーの塊でできていて、時には粒子のように、時には波のように振る舞う。最終的には、全ては純粋なエネルギーに還元され、それ自身が作られたり壊されたりすることはなく、ただ変化していくだけだ。すなわち全ては「ひとつ」である ー そしてこれこそがアドヴァイタ(ヒンズーの一派、非二元論を謳う)もまた述べていることではないか?そして、量子力学者ハイゼンベルクは観察者と被観察者は複雑につながっていると示し、この非二元性の観念を支持していたのではないか?


少なくとも、科学がどのように古代の文献に示された真実を立証し、より洗練された現代の精神により受け入れられる言葉で表現しているかを説明する表面的な論争に至る。残念ながら、この整理された説明には著しい欠落がある。意識を物質の体系内に置いていることだ。その結果、科学はそれを附帯現象だと、ある程度の複雑性に達した物質進化の偶然の結果だと言い逃れをするしかない。もちろんこれは、物質は意識の現実化であるというアドヴィイタとは全く相反している。


表面的には、意識と物質ははっきりと分かれた「もの」だ。サンキャ哲学とヨガ哲学において宇宙の材料はプラクリティやプラダーハナと呼ばれ、プルシャと呼ばれる意識の原理とは異なる。主要なインド哲学の他方は(ニャイヤとヴァイシェーシカ)、宇宙の要素は「原子」あるいはパリマヌスと考え、ここでも意識とはまったく別のものとしている。プールヴァ・ミマンシャカとウッターラ・ミマンシャカ(アドバイティンを含む)のみが意識を創造物の要素と認識している。


アドヴィイタによる科学が意識を調査できない理由は難なく理解可能である。この意識はブラフマン、真我であり、究極の対象である。ケーナ・ウパニシャッド(1.4–7 and 2.3) では、「言葉で悟らぬもの、精神で考えられぬもの、目で見えぬ、耳で聞こえぬもの。理解していると思う者はそれを理解しない」また、シャンカラの弟子であるシュレシュヴァーラがナイシカルミャ・シッディ(3.48)に記したように「真我は、知覚力などという知識の経験的手段を通しては理解することはできない。命への渇望によって喀出された痰にすぎない。全くもって経験的認知の対象ではなく、それは最も奥にある真我である(そして感覚と分つことなく感じることもない)からだ」


科学の手法はまた、因果関係という概念に縛られている。常に探しているのは観察した現象を説明するための原因である。しかし、ゴウダパーダがマンドゥキャ・ウパニシャッドに関するカリカで指摘するように、非二元的現実、チュリヤはカリヤ・カルナ・ヴィラクシャナであり、原因と現象に関連性はない。空間や時間、因果関係を超越ている。それゆえに、科学に基づいた現実の探索は矛盾でしかない。


科学とその手法は、表面的な世界の物質やメカニズムを観察するには素晴らしいものだ。事象の最も見込みのない中でのその巧妙さは、おそらく果てしない。そしてこれらの究明の中には、私たち以外のものへの究明に価値があるものもある。例えば、アドヴァイタのネティネティ(ブラフマンが何なのかを探求するために、何がブラフマンでないのかを自問する方法)などだ。



しかし、科学が物質を探求するのに素晴らしい方法であるとしても、物質の本質は究極的には非二元的現実と同じであるため、失敗に終わるしかない。「Notes on Spiritual Discourses (1386)」でアトマンダ・クリシュナ・メノンが記したように、「主観性の影が少しでも残る限り、客観性が消えることはない。そして客観性が完全に消えない限り、対象の真の性質は決して視覚化できることはない。これこそが、インドの内外どちらにおいても、精神の媒体を通した真実に近づこうとする試みにおいて科学と哲学が犯す基本的間違いである」


意識なくして、何ものも知ることはできない。しかし、意識そのものが知識の対象となることはなく、それは真っ暗な部屋の中で、周りを照らせる明かりがそれ自身を照らすことはできないのと同様である。意識を知るためには、それは知りうる客観的対象でなければならず、すでに知っている主観的対象ではならない。私たちが意識を「知っている」のは、私たちが意識だからだ。意識は私たちの真の性質である。究極の観察者(本質的な自分自身)は、どのような客観的探求もただ不可能である。探求するための究極の観察者を超えるものは誰もいないからだ。


この事象の見かけの逆説的状況は、真実レベルの混乱の現れだ。科学領域である世界においては、脳などの対象の探求は精神によって行われる(意識の内省)。この世は、知るものと知られるものの二元性の世界だ。絶対的真実の視点からは、ただ意識があるのみである。世界は、名前と形の現れでしかなく、その意識からは決して分かれない。しかし、意識そのものは、この世レベルの精神では決して探求することはできない。科学で得られるものは、知識ではなく情報だ。そこには終わりがない。より多くを調べるほどにより多くを見出す。そして、どんな論理も良しとされるのは疑うべき情報が出てくるまでである。「私」は情報ではない。絶対であり覆らない。


科学の発見は常に、より深い観察のもとに修正されて行くものだ。これが方法論の性質である。しかし、自身を非二元性とする認識は客観的知識ではない。どんな感覚器官を通しても直接的に知るものではなく、どんな根拠も必要とせず、修正される対象でもない。決定的であり絶対だからだ。


科学は、どうしようもなく客観的探求の領域に制限されている。これは科学の強みであり、科学者が霊的な探求に役立つ貢献を望むなら、その道程にあるネティネティの段階で努力することに集中すればよい。ハイゼンバーグの不確実性は、主観と客観の間にある妥協できない対立によってそれ以上の情報を収集できない時に、物質のますます微細な行動を探求する地点に到達したことを明確に示していた。これが、科学的探求の終着点である。意識そのもものは主観と客観の対立そのものが消滅した時、観察をも超えた微細のなかの最も微細である。ということは、誰もそこには到達できないということなのだ。










2025年9月22日月曜日

ガルーダサナ(鷲のポーズ)の裏側にある神話 
The Mythology Behind Garudasana (Eagle Pose)



「鷲のポーズ」と呼ばれる「ガルーダサナ」は、神様の名前から来ています。南アジアではガルーダは大きな神話上の鳥で、体は人の形で金色、顔は白く、赤い翼とワシのクチバシを持っています。彼は鳥の世界の王様で、蛇の天敵、人間の友人です。ガルーダは、宇宙を維持し一人の人間として生まれ変わった神様、ヴィシュヌ神の乗り物です。ラーマーヤナのヒーローであるラーマもまたヴィシュヌ神の生まれ変わりです。


ガルーダによく似た「ジャタユ」は時に残忍なハゲワシと描写されますが、ハゲワシというよりワシ、ガルーダそのものです。ジャタユはガルーダとして、このお話のヒーローです。


ラーマーヤナでは、ラーマの妻のシータがどのように悪魔のラーヴァナによってさらわれ、空飛ぶ機械ヴィマナでランカ島へと連れ去られたのかが語られています。この出来事が起こったとき、ジャタユは樹の上で瞑想するように座り、鋭い眼で世界の果てを見渡していました。シータの叫び声を聞いた彼は、空をビュンと飛んでシータを連れ去っていくラーヴァナを見ました。彼はヴィマナに頭突きをして地面へと叩き落としました。彼は鋭い歯と引き裂く鉤爪、力強く羽ばたく翼でラーヴァナを猛烈に攻撃しましたが、魔王の10の頭と20本の腕には敵いませんでした。ラーヴァナの失った頭や腕は全て、最初のものが落ちてしまう前にどんどん生えてくるのです。ジャタユは勇敢に激しく戦いましたが、次第に形勢が悪くなっていきます。ついにラーヴァナはジャタユの2枚の翼を切り落とし、南のランカ島へと飛び去りました。シータは、美しく豪華な車の床の上でショックを受け静かにうずくまっていたのでした。





ジャタユが致命傷を負ったところに、シータを探していたラーマと弟のラクシュマナが歩いてきました。息も絶え絶えになった敗北の戦士は、細切れにこう言いました「シータ様、、ラーヴァナ、、、南へ、、ラーマ様、殺してください。ご主人の前でその手にかかって死ぬのは本望です」常に優く、けれど決して感傷的ではないラーマは、弓矢でジャタユの勇敢な心臓をサッと射抜きました。そしてラクシュマナと一緒に木を集めて薪の山を作り、家族を見送るときと同じように丁寧に葬儀を行ったのでした。




ガルーダサナに入る方法


まずはタダサナで、股関節幅に足を並行にして立ち、両腕は体の脇、頭頂は天井に向かって引き上げます。視野を広げましょう。


1. 息を吸い込んで、両腕を手のひらを上にして肩の高さに上げます。

2. 息を吐き出して、左腕を右腕の上にして、左肘が上になるように重ねます。

3. 両肘を曲げ、前腕の裏側が並行に、手の甲どうしが向きあうようにします。両手のひらが触れ合うまで前腕どうしをからめます。手首は前腕と一直線にしたまま手指を伸ばします。(手首を捻らなければ手のひらがつかなければ、手の甲どうしを着けておきましょう)前腕を反対方向へ押します。「翼(肩甲骨)」あたりのストレッチに気付きましょう。

4. 両膝を曲げ、体重を左足へと移します。

5. 右脚を左膝の上にクロスさせます。

6. 右足を左脚の下の方に巻き付け、左ふくらはぎや足首に引っ掛けられるかみてみましょう。上半身は、左側が右側に巻き付いています。下半身は、右側が左側に巻き付いています。(全体重が片足に乗せられなければ、脚を巻き付けないでおきましょう。そのかわり、両脚を並行にしたまま膝を曲げ、股関節を後ろ屁引いて椅子のポーズのように高い位置のスクワットをします)バランスをとります。骨盤の先どうしを引き寄せます。おへそを引いて持ち上げましょう。息をして。自分がまるで、外からは静かに見えていても内側は力強く動いて存在している、そんな空へ飛び立つワシであるかのように想像します。

7. スムーズに呼吸します。頭の付け根を持ち上げます。股関節の凹みから少し前へかがみますが、胸は引き上げます。前腕を反対方向へ押し続けながら、肩甲骨全体を広げます。視線は、急上昇して目を見張るワシのように、両手の内側へ集中させましょう。

呼吸や体、眼のやわらかさと硬さに注意を向けましょう。特に手に鋭く集中するとき、目が固くなって前へ動くかに気付きます。同時にやわらかく集中することはできますか?筋肉を働かせたまま呼吸を和らげられますか?吸い込む息とともに、肺の下の方へ呼吸を入れて胸郭を翼のように広げてみます。滑空する鳥のように呼吸しましょう。

このポーズを30ー60秒続けてから、タダサナに戻ります。

右腕と左脚を上にして繰り返しましょう。




ガルーダサナで内省する


ガルーダは、創造の番人・維持者・保護者であるヴィシュヌ神の乗り物です。ヴィシュヌの名前は「そこに入る」「行き渡る」という意味の「Vish」から来ています。ヴィシュヌは、宇宙の中に入ることで、ひと時も途切れることなく宇宙を維持、保存、保護しています。それは、選択した対象に意識を集中する瞑想の中で、瞑想を維持するために、何度も何度も同じ対象をどの瞬間も選び続けるのと同じです。保存し維持するとはどういう意味なのかを深く考えてみましょう。番人の乗り物であるために必要となる質とは何でしょうか?番人の乗り物としてどのように呼吸すればいいのでしょう?筋肉や骨に感じるエネルギーはどんなものですか?


もう一度ポーズを取ってみましょう。維持するとき、意識を体の全ての部分、呼吸、感覚器に行き渡らせましょう。全ての場所に均等に存在します。どこかで意識が揺れていることに気づいたら、もう一度そこに在ることに取り組みます。最も難しいと感じるのはどこでしょうか?


ジャタユやガルーダは、意識を維持した状態が自然の状態です。彼のダルマは無私無欲の奉仕で、全てが含まれる創造を保護することです。敵であるラーヴァナは自己中心主義を体現しています。ラーヴァナがシータをさらったとき、あなたの実践が湧き上がる欲望や自己主張に邪魔されるように、その行動は創造を崩壊させます。ジャタユはこの世と全ての生き物を守るという役目を果たそうとします。しかし、ジャタユが勇敢であるように、自我の頭はたくさんあって、どんな無知をも凌駕します。頭を切り落としても、すぐに次の頭が出てきます。自問してください「自我に関係した心配事が実践を邪魔しそうなとき、それを守るためにどのようにガルーダのエネルギーを集めればいいのか?」


この物語で、なぜラーマはジャタユを殺したのでしょう?それは哀れみです。ジャタユが言った通り「ご主人様の前でその手にかかって死ねるのは本望」なのです。インドの伝統では、そうした死は信者の解脱を実際に保証します。物語のこの部分は悲しいものですが、クリシュナ(ヴィシュヌのもうひとつの姿)の言葉「自身のダルマを全うすることは、それが不完全であっても、誰かのダルマを全うしようとするよりは良い(バガヴァッドギータ18:47)」ということを思い出させてくれます。ジャタユは徹底的にベストを尽くし、その結果、シータを助け出すという直近の志は叶いませんでしたが、主人その人によって苦しみから解放されたのです。ことわざ通り、戦闘で負けましたが戦争には勝ったのです。少しこのことについて考えてみましょう。あなたは困難な状況でベストを尽くし失敗したと思い、その結果は予定していたよりもずっとずっと良いものだったことはありますか?

2025年7月27日日曜日

5元素をコブラのポーズで 
Align With the Five Elements in Cobra Pose


この記事は、トッド・ノリアン氏が築いたアシャヤ・ヨガの視点から見たコブラのポーズです。アシャヤ・ヨガは、実践者の身体の力を目覚めさせるよう、タントラの哲学と瞑想法をアライメントを重視した治癒的ヨガのテクニックに融合させたものです。




多くの偉大なるヨギたちは、悟りとは子どもの目で、全てをまるで初めて見たかのように、見る能力だと述べています。非二元性であるシャイヴァ・シャクタ・タントラの伝統では、アドブータ(「驚き」という意味)は9つのラサ(味、あるいは生命の本質)のひとつとみなされています。ラサは人間の感情をすべて包含していると言われています。
 

驚きを体験する時、心は開いて空のように広大に広がります。晴れた夜空の星々を見上げること以上に私をアドブータの状態にするものはありません。おそらく多くの人が同じことを体験しているでしょうが、それはなぜでしょうか?そのひとつは、星々が美しいからです。そして、この宇宙に存在する全ての起源は星々だからです。元素周期表にある92元素全ては星々で作られています。星が死ぬ時、内側へと崩壊し極限まで熱くなり加圧され、そして爆発して超新星となり、そこでより重い元素が作られます。その後、これらは宇宙へと飛び出して他の元素と結合し、惑星や星雲、様々な星を形作るのです。このように私たちの太陽系と私たちは作られました。地球上で生命に適した条件が整った時、私たちは単細胞となり、やがて水中から歩き出して今日の私たちへと進化しました。まさに「驚き」に満ちた歴史だと思いませんか?


ヨガ哲学によれば私たちは、パンチャ・マハブータスと呼ばれる地、水、火、風、空という偉大なる5つの元素からできています。これらの元素のバランスが内面で整った時、優れた生き方ができると言われています。バランスが崩れると、「収縮している(過度の地)」、「溺れて」感情的に疲れ切っている(過度の水)と感じたり、やる気がない(火の不足)、不安で怯えている(過度の風)、落ち着かない(過度の空)と感じたりします。


タントラヨガは、私たちとは時間と空間に凝縮された宇宙だといいます。それを知るための神の願望そのものの結晶です。命は偉大な意味を持っています。5元素を知ることは私たち地震を知ることです。



アシャヤ・ヨガとは


アシャヤ・ヨガの4つの基本要素は、全てのポーズや動きでのアライメントの設計図を示すためのものです。5元素とは、エネルギー的、質的に以下のように対応しています。


1. 開く — 空

2. 引き寄せる — 地

3. 整える — 水と火

4. 広げる — 風



アサナの練習に5元素を当てはめようとしたことはありますか?ありませんか?では、コブラのポーズの練習に当てはめてみましょう。それぞれの元素が体の動きに対応していて、最適なアライメントをサポートしてくれるでしょう。


• 第1の要素は、肋骨の横を伸ばし、肌を和らげ、胸の後ろの肩甲骨の間を解放することです。


• 身体の動きの第2の要素は、骨に向かって筋肉を引き寄せ、正中線へと引き込み、周囲から中心へと引くことです。


• 第3要素の身体の動きは、相補的な2つの対照運動です。その目標は、対照的な2つのエネルギーのバランスが取れている中心を見つけることです。これによって、最適なアライメントを見つけることができます。


• 第4要素の身体の動きは、中心軸から外へ広げ、体の中心から全方向へと放射状に広げ、エネルギーを中心から周辺へと動かすことです。まずポーズの基礎へと下ろしてから、空に向けて中心を持ち上げます。


要素の概念を説明したところで、以下の練習で直接探ってみましょう。ブジャンガアサナ(コブラのポーズ)のすべての側面に密接に関連しています。




ブジャンガアサナ:コブラのポーズ

ウォームアップ:キャット&カウ


1. 四つ這いになります(硬い床の上では膝にパッドを当てましょう)。両膝は股関節の下に置きます。両手は肩の下で、手首のシワがマットの前端と並行になるよう、手指は太陽光線のように均等に開き、手首の中心は肩の外側と直線上に置きます。


2. 少し時間をとって体を感じます。呼吸を深くして、胸の中心を和らげます。(この姿勢で胸の中心を和らげるとは、肩甲骨の間にある筋肉を和らげることです。背中で最も硬いのは、概して胸椎の真ん中周りの筋肉である胸の裏側です)4箇所の土台、つまり両手と両膝にバランスよく均等に体重をかけましょう。


3. 息を吸い込みながら、坐骨を上に持ち上げて、背中を反らして見上げます。


4. 息を吐き出しながら、尾骨を引き下げて、腹部を背骨に引き込み、胸の中心の方を見ます。


5. 数回繰り返します。動きと呼吸を合わせましょう。滑らかに均等に動きます。このフローを味わいしょう。



空を開く:驚きを感じる


1. 四つ這いからうつ伏せになり、両手は肩の下、額は床に下ろしましょう。右足をできるだけ遠くに伸ばします。そして左足も後ろへ伸ばします。呼吸を感じながらリラックして、肌を和らげましょう(つまり、皮膚が筋肉の上にふわりと掛かるように筋肉をリラックスさせる)。肌のすぐ下にある捉えにくいストレスを解放して、最も大きな臓器である肌への気づきを広げます。生命の神秘を思い起こしてみましょう。


2. 腰から腋の下へと肋骨の脇を伸ばします。プラナ体(5つのコーシャと呼ばれる鞘のうちのひとつ、エネルギー体)をふくらませるのをイメージして、息を胸の裏側とウエストラインに吸い入れます。宇宙全体があなたという形であなたの中にあることを思い出してください。驚きを持って、あなたの存在の果てしない広がりに心を開きましょう。



地を引き寄せる: 安全で安心で安定


1. 息を吸い込んで、脚の筋肉を骨に向かって引き寄せて優しく収縮させます。最愛の人がしっかりと素敵に抱き寄せてくれる時のように、筋肉で骨の周り360度を包みます。筋肉が引き寄せられると、関節の周りが支えられ安定します。これが脳に安全だと信号を送り、脳が反応して、リラックスしくつろげる能力である副交感神経脳が活性になります。逆説的に言えば、アシャヤ・ヨガではリラックスするために引き寄せるのです。


2. すねと踵をぴったりと付けて、つま先が鎌足にならないようまっすぐ後ろに向けます。踵どうしをより近づけて脛に力を入れることで、腰が守られ、コブラのような後屈で椎間板にかかる圧力を和らげてくれます。


3. 正中線(両脚の間から背骨を通って走るエネルギーの線)へと引き込みます。
 

4. 足の指からふくらはぎ、腿に沿って、骨盤の中心へとエネルギーを引き上げます(周辺から中心へ)。すべてのポーズは、地球と同様に、周辺から中心へとエネルギーを引く重力の中心があります。コブラのポーズでは、その核となるのが骨盤です。


5. 徐々に手の指で地面を掴みます。すべての指の腹と付け根で押し下げ、両手でアイソメトリックに(動かさないで)後方へ引きます。両脇を同じ長さで伸ばしたまま、両手でアイソメトリックに引きましょう。



水と火を整える:流れるように燃える


1. 両脚を正中線に引き寄せ続け、腿を内側に(空に向かって内腿を持ち上げながら)回転します。腿を床から離して内に回す際、腰が反ります。鼠蹊部の前部分が凹み、腰が「波型」にアーチができて大腿骨頭が骨盤のソケットに引き戻る様子に注目しましょう。これが水の元素で、ヨガの伝統によれば骨盤に存在します(シュワディシュタナ・チャクラに関連しています)。


2. 腿を後方に引いたまま、尾骨をすくい下げます(この二つの対照的な動きを作ります)。「すくう」とは、しまい込むような動作ですが、力は抜きます。この臀筋の優しい収縮によって、腰のカーブが伸びます。すくうと、下腹部が背骨向かって引かれる様子に注目します。これが火の元素で、揺るぎない献身と考えられており、ヨギとして自分の心に従い、変化の火の中を歩むのに必要となります。この動きで体幹に引き込まれ、力と熱という形のさらなる支えを加えてくれます。
 

この2つの動きが整うと、骨盤が最適な位置に置かれ、腰と仙腸関節の圧迫が解放されます。



広げる:体を伸ばし、より高みを目指す


1. 骨盤の動き全てを保ちながら、骨盤の中心から両足に向けて体を伸ばします。そして、骨盤の中心から上半身へと伸ばします。両手で後方へアイソメトリックに押しつつ肋骨の脇を長く保ちながら、息を吸い込んで頭、肩、胸を床から持ち上げます。前へと広げながら、背骨に沿って体を伸びましょう。高さよりも長さが重要です。というのも長さが背骨の椎骨の間にあるスペースを作るからです。これは風の元素で、広げて伸ばします。エッセンシャルオイルのディフューザーからの香りのように、風の元素は均衡する点を探し、空間全体に均等に広がるのです。


2. 腕の骨頭(肩の最上部)を後方へ下げて、肩甲骨を肋骨の背中側へと引き込みます。肩甲骨の下端を胸の裏の方へ丸めて、さらに胸を持ち上げます。前腕を内側へ、上腕を外側へ回転しましょう。次にその姿勢を保ったまま、胸の中心から外側の全ての方向に少し広げます。肩甲骨をひとつにまとめたまま、肋骨の背中側へと引き込み続けましょう。


3. 背骨全体を首や頭まで長く保ち続けます。首元の横側を後ろへ下げて、頭が後ろへ引枯れている感覚が首の横側から始まっているのを感じましょう。そして口蓋も下げます。口内の上側の4分の1が丸い円盤だとイメージします。その部分を後方へ動かせる、あるいは口の天井が後ろに引いて開けられる引き出しだと想像します。口蓋が後ろへいくと頭も後ろへと動き、頸椎に曲線ができます。それによってスペースが広がって神経の圧迫が解放されるため、椎間板のためになります。口蓋を後方へ、後頭部を持ち上げます。そこから持ちあげることで、首のカーブがながくなり、頸椎の椎間板のスペースがより広がります。背骨の自然な形状に従って、首と頭を上に伸ばしましょう。


4. 息を吐き出しながら、ポーズを終えて床に下ります。






少し時間をとって、コブラの体験を思い出しましょう。より不思議に満ちていることを感じているかに注目します。より広がって整ったと感じる体の部分すべてを観察します。練習前に感じていたかもしれないあらゆる不快感が小さくなっているか、あるいは完全に消えているかにも気づきましょう。


ポーズの中で5元素を体感し均衡がとれた時、空のような広がりを感じ、体の緊張が解かれ始め(地)、閉じ込められた感情が流れ始め(水)、エネルギーは輝き(火)、そしてその前にあった制限を超えて広がり手を伸ばす(風)力が大きくなるのを感じるでしょう。


シャイヴァ・シャクタ・タントラ哲学では、私たちの本質は至福であり喜びです。5元素に寄り添うことができれば、私たちはこの喜びを認識し感じている心に戻れます。最も深い命の不思議を垣間見ることができます。それこそが私たちの中に存在する宇宙すべてなのです。





(出典)https://yogainternational.com/article/view/align-with-the-five-elements-in-cobra-pose/

2025年2月20日木曜日

パササナ(投げ輪のポーズ)のシーケンス Vol.1
A Sequence for Pasasana (Noose Pose)

今回の記事はアドバンスのポーズのための練習法です。
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「責任・義務」という言葉は時に、とても自信のある人でさえもその出口戦略を見出すことに心配や不安を感じさせるものなのかもしれません。例えば、私の友人が最近とても好きな相手を結婚しました。けれど、「その日」の数週間前、彼女は突然不安に襲われました。もし自分の気持ちが変わってしまったら?彼が愛の誓いを守れなかったら?私は彼女に何が一番
不安なのかを尋ねました。彼女は涙をポロポロ流しながら叫んだのです「私は責任とか義務には向いていないのよ!」


この友達は、アサナやプラナヤマの練習を長い間続けてきました。私は、彼女がずっとこうした練習を熱心に続けてきたことを指摘しました。「それは、また違う」彼女は言いました「それは義務じゃないの。本当にヨガがしたいの」本気で?毎日?私は言いました。「1日も欠かさず練習したがる人なんて、聞いたことないわ」もちろん彼女の毎日というわけではないけれど、でも毎日練習してきたのです。「したい時もしたくない時も私はヨガをするの。そうやって長い間続けた努力から成果を得るの」私は、うまくいった結婚みたいだと思いました。


人間関係の多くを根付かせて育てるためには、こういったタイプの持続した責任や義務が必要です。パタンジャリは、こうした考えをヨガスートラの第1章14節ではっきりと説明していて、練習に専念するということを定義づけています。練習を確立するということは、すなわち練習が自身の堅固な基盤となるということと彼は述べています。長い間、敬意と愛情を持って続ければ確立されると。


私たちはみんな、故意であるかそうでないかに関係なく、何であれ習慣的に行うことができ、確かな習慣やルーチンを作ることができます。毎晩寝る前にお茶を飲むことだったり、毎日午後4時に犬を同じ道で散歩させることだったり、毎朝、朝食前に瞑想をすることだったり。敬意をもって取り組むことで何でも実践や練習にすることができます。そしてその取り組みが自分自身への約束となり、あまり考えずに行う作業やただ決めたルールではなく、向上したいという意思となるのです。


私たちの練習は、自身の価値や熱意を持って続けるに値するその追求を確かにする手段です。献身と敬意を観念的な理想と見るのではなく、マットの上でアサナをしている時もマットの外で自分のことや人間関係について取り組んでいる時も、私たちは敬意と愛情を持ち続けることができます。長い間繰り返し練習すれば、パタンジャリの言うように、安定した基盤を作ることができ、逆説的に言えば人生の中でより大きな自由に到達するのです。


ロチェスター大学宗教学教授であるダグラス・ブルックス博士は学生たちに、ヨガでは「自由は自由から来るのではない。自由は束縛から来る」と念を押します。ブルックス氏はヨガのことを「洗練された束縛」と呼び、心の中で真実だと信じるものに従って生きる自由をその実践者に与えるのだと。有害で思慮のない習慣にはもはやとらわれず、実践者は、死と蘇りという究極の束縛、つまりサムサラからの自由を見つける力を得るための練習を完璧なものしようと献身しています。いったん精神的な安定を得られれば、自由に自身の心の叡智に耳を傾けたりそれに従って人生を生きることができます。


パササナ(投げ輪のポーズ)は、束縛と自由、義務と献身を体験させてくれます。深いねじって腕を組むこのポーズは身体的に、背骨を自由に深くねじれるような強固な土台をつくるため、両脚と股関節を強く働かせなければなりません。ねじりが深くなればなるほど、肩を開き脚の後ろで手を組みながら、胸や肺でしっかりと呼吸し、喜びと解放感を感じることが容易になります。


比喩的には、パササナの安定した土台は約束の力を、ねじりの動きは最も深い真実を中心におくという私たちのゴールを表しています。組んだ手は中心にある価値に留まることを表現します。そして練習が時間をかけて持続する努力を必要とするように、この難しいポーズは熱心に継続して繰り返し練習することのみで完成することができます。最初に試したときにこのポーズができる人はとても少ないのです。では、実際のレベルは?パササナは空腹時にだけ行いましょう。また膝や腰に問題がある、椎間板ヘルニアの場合はこのポーズは行わないでください。


今回のシーケンスを練習するときは、全てのポーズで決まった数の呼吸を続けてください。すべてのポーズでウッジャイ呼吸を5回行うこと、あるいは前もって決めた時間ポーズを保つことで、自身で境界を決めることができ、それが皮肉にも自由を与えてくれます。これで、少し不快感を感じた時にモゾモゾしたりポーズをやめようかなと思ったりすることなく、ポーズに注意を向けることができます。体力やスタミナ、経験に応じて30秒から1分間やってみましょう。


もちろん、ポーズの間痛みを感じるべきではありません。痛みが生じたり呼吸が乱れたら、ポーズをやめましょう。これらの境界は厳格ではありません。自分自身の練習に取り組んでください。最大の効果を得るために同じポーズを2回以上するのがいいと思うかもしれませんし、繰り返すことでより学び向上できると感じるかもしれません。



パササナ(投げ輪のポーズ)の準備


1. パールシュヴォッタナアサナ

タダアサナから、両手を背中で合わせて合掌します。肩が硬いと感じたら、背中で両肘を掴むか指を組みましょう。背中に肩甲骨を引いて寄せます。両腕の骨頭つまり上端を背面へと動かします。この動きによって肩が安定し、胸をより大きく開くことができます。



息を吸い込んで、両足を1ー1.5mほど開き、右脚は外側へ左脚は内側へしっかりと回転させます。まず両脚の次の3つの力強い動きに注目しましょう。筋肉を骨に向かってまとめる、両脚は強く引き寄せあう、そして足先のエネルギーを股関節に引く。尾骨は引いて下腹部をおへそに向かって引き上げ、胸を上げながら頭頂に向かって背骨を伸ばします。二重顎を作るかのように首を戻して、空に向かって顔を上げましょう。




息を吐き出して、股関節から前屈します。胴部を下げながら、右足の指の付け根でアクセルペダルを踏みこむのをイメージします。かかとを地面に着けたまま、指の付け根を通って後方の足が床の方へ重たく感じるまで押します。この動きで、重みを均等に両足にかけることができ、前方の脚が過伸展するのを防ぎます。まず額をすねに向けて、それから顎をすねに向けていきます。このポーズで5回しっかりと呼吸するか、自分で決めた時間まで保持しましょう。


息を吸って、後方の脚を押して、立ち上がります。反対側で繰り返します。



2. ガルーダアサナ

タダアサナで立ち、右脚を曲げます。左脚を右脚の周りにからませます。左足首を曲げて右脚のふくらはぎに後ろに置いて、つま先は床の方へ向けておきます。左足が安定しなければ、もう一度やってみましょう。右脚をより深く曲げて左脚をもっと高く持ち上げ右脚の上の方へからめてみます。または、左足先を右足首の外側にそっと置いておきましょう。今度は、左腕を右腕の下にして、肘と手首で交差します。できるだけ両手のひらを近づけましょう。


軸足を深く安定させ、からめた脚と強く合わせます。今度は、できるだけ後方へ上背部を引き上げます。両脚の強さを維持しながら、ウェストで前屈し、脇腹を後方へスライド、魔女の猫のように背中を膨らまします。背を丸めて両肘を上の脚の外側へ動かします。この前屈によって股関節が開いて背中が伸び、次のポーズの準備となります。ホールドして解放したら、反対側でも繰り返しましょう。



3. パリヴリッタ・パールシュヴァコナアサナ


タダアサナから両足を1.2-1.8mほど開きます。右脚を外側へ回転させて、股関節がマットの前端の並行になるまで左足指の付け根を軸に回旋します。息を吸い込んで両脚に強く働かせ、筋肉を骨にまとめ、股関節に向かってエネルギーを引きます。左腕を頭上に伸ばして背骨を伸ばします。息を吐き出して、少し背中を丸めて、前の脚の上で上半身を捻ります。左の脇の下の外側を右膝の外側におきましょう。左手は床かブロックに乗せます。


ねじりが安定していると感じたら、前屈をやめます。胸を上げて頭と尾骨が一直線になるよう上背部を開きます。ねじりを深めるには、安定性を作るため両脚に力をこめ、上半身の左右両側が同じ長さになるように右の腰と右脇の下の間を伸ばします。もっと捻っていきましょう。右腕を頭上にあげて上を見ます。ホールドして解放したら、反対側も繰り返しましょう。



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次回に続きます。








(出典)https://yogainternational.com/article/view/exquisite-bondage-pasana-noose-pose/

2024年12月20日金曜日

ガヤトリ・マントラ:歴史、意味、効果について 
Gayatri Mantra: History, Meaning, & Benefits


薄明かりの朝や夕暮れは、私たちを自身の内側へと呼び戻してくれる時間です。「おお、夜と夜明けという2つの聖なる力よ、2隻の船のように我らを向こう岸まで連れて行っておくれ」とヴェーダが唄うのはそのためです。古代、熱心な探究者らは朝早く起きて沐浴し、儀式を行い、マントラを唱え、瞑想のため座りました。そして夕方には、また瞑想の時間をとって1日の疲れを洗い流したのです。今日においてもヨガの実践者の間では、朝夕の移り変わりの時間は今も伝統的な瞑想の時間です。


この昼間と夜の移り代わりに行われる瞑想は、サンディヤ瞑想と呼ばれます(サンスクリット語でサンディヤとは繋ぎ目のことです)。ヴェーダの時代から始まったサンディヤ瞑想は、今も世界中で見ることができます。これらの瞑想は、何百万人の日常生活に信仰や内省を与えています。早朝の光が風景を照らし暗闇を一掃するように、サンディヤ瞑想は精神を浄化し、啓蒙し、養うのです。







ヴェーダの象徴性


サンディヤの霊的なテーマは、ヴェーダのシンボルを通して伝えられています。ヴェーダは聖歌を通して、実態のない真実を疑う余地のない宇宙としてあがめています。太陽や月、風、火、雨を称賛し、それらを人間の母や、娘、姉妹、兄弟、父として普遍的に表し、鍋や扉、車輪などの人による発明品を宇宙の真実の現れだと認識しています。


言い換えれば、私たちの住む宇宙は最高度の真実そのものであるが、人生の出来事や夢によって覆い隠されているのだと、ヴェーダは語ります。私たちが見ているのは全体の、つまり1日の周期、季節の移り変わり、生と死、種まきと収穫のうちのほんの一部です。これは、現れていない全体の一部が表れている姿であり、見えないものの見える一部分なのです。


しかし、海を見たとたん、地球の海の明らかな果てしなさに驚嘆する感覚が現れるのと同様に、夜明けごと夕暮れごと、生と死が訪れるたび、私たちは見えない全体への脅威の念にしばし心が溢れてしまうものです。そうして、見えるものの中の見えないものの広範性、現れているものの中の現れていないものは、リグ・ヴェーダにこう記されているのです。


リグ・ヴェーダ:
聖者の4分の3は天に上り、4分の1はここにまた現れる。その後は、すべての場所に広がる。命あるもの命なきものどちらの世界にも。(Rig Veda 10.90.4)



こうした節は道標であり、この宇宙の広大さの中に現れる時、無限の真実が啓示されます。しかし、ヴェーダではそれほど単純には考えてはいません。真実のシンボルは常に変化し続け重なり合うと認識しています。例えば、昼間の光はアディティア(太陽)の産物である一方、夜の光はアグニ(火)の産物です。ですからアディティアとアグニは兄弟と表現されます。同様に、光の強さは、宇宙の光と人間の人格にある知性のどちらにも象徴されます。ですから、言葉の光とは、太陽の光あるいは知性の力のどちらの意味ともなるでしょう。


ですから、最高の真実はひとつの象徴には制限されず、またどのような自然の力にも具現されません。ヴェーダで根源的に崇められる太陽神でも月神でも雷神でもありません。これらは宇宙の儀式の単なる「司祭」であり、人生の普遍のリズムという形で私たちの眼前でくり広げられる儀式に過ぎないのです。私たちはみな、神も人も、この儀式の一部であり果たすべき役割があるのです。




ガヤトリ・マントラ


では、この考えを個人としてどのようにシェアできるでしょうか?その答えは、ヴェーダの啓示全体の総合的な知恵を包括しているガヤトリ・マントラです。リグヴェーダ(3.62.10)で、ガヤトリ・マントラはガヤトリ韻律(24音節を8音節ずつ3行に分ける)で書かれており、それにちなんで名付けられています。しかし、ガヤトリとはまた「歌い手を守る女性(gaiが「歌う」、traiが「守る」)」という意味もあります。ですから、ガヤトリは神聖なる母の名前であり、子どもを守り自己実現へと導く存在なのです。
ガヤトリ・マントラは次のように書かれています。


Tat savitur varenyam
bhargo devasya dhimahi
dhiyo yo nah prachodayat


しかし、マントラを瞑想で唱える時は、初めに1行追加します。この行は Om の音で始まり、maha vyahritis(「偉大なる言葉」;bhur, bhuvah, svah)という3つの短い音が続きます。ですから、瞑想で使われる完全なマントラは以下です。


Om bhur, bhuvah, svah
tat savitur varenyam
bhargo devasya dhimahi
dhiyo yo nah prachodayat



チャーンドーギヤ・ウパニシャッドでは、最初の行の重要性が説明されています。それによれば、かつて宇宙の神であるプラジャパティが、地と空と天という三つの世界でできた自然を考えていました。そして深い集中によりそれらを導く基本的な力 ー 地を制する火(アグニ)、空を制するヴァーユ(生命力)、そして天空を制するアディティア(太陽)ー を見つけることができました。


プラジャパティは再度深い集中をその3つの「種」である音、導く力に向けて、それらの真髄を得ました。火からはリグ・ヴェーダの節を、生命力からヤジュール・ヴェーダを、そして太陽からはサーマ・ヴェーダを得たのです。


彼はまた集中を、今度は3つのヴェーダに向け、リグ・ヴェーダからは bhuh の音節を、ヤジュール・ヴェーダからは bhuvah の音節を、そしてサーマ・ヴェーダからは svah の音節を得ました。したがって、3つの maha vyahritis は、ヴェーダの真髄であり、火と生命力と太陽の種であり、また地と空と天の種の音なのです。


最後にプラジャパティは3つの vyahritis にまとめて集中し、深い集中を通してひとつの純粋な音である Om の音節を得ました。Om とは「全てはこれである」という意味です。


ガヤトリ・マントラの次の2行は、太陽光、エネルギー、純潔、超越、啓蒙、哀れみ(全てのための太陽光)という概念を崇めています。


tat savitur varenyam 
bhargo devasya dhimahi


これは「私たちは自身の中に呼び起こし、聖なる太陽の存在というその驚くべき真実に瞑想する」と訳されます。


最後の行(dhiyo yo nah prachodayat)では調子が変わります。ここは請願であり、精神の明晰さと直感的な気づきを求めています。マントラは「お導きください」と求めています。この最終行の本質は、最初と最後の言葉に含まれています。最後の言葉 prachodayat の意味は「お導きください、ご誘導ください、道を示してください」。最初の言葉 dhiyah (dhiyo) の意味は単に「思考」ですが、より重要なのは、精神のより高みにある直感的な見通す力を意味していることです。マントラは、精神の最も素晴らしい力である直感的な能力が「聖なる太陽の存在というその驚くべき真実」で導かれるよう求めています。ですから、ガヤトリ・マントラの完全な訳は以下となります。


オウム
万物の3つそれぞれの面において
我らは自身の中に呼び起こし、
聖なる太陽の存在というその驚くべき真実に瞑想する。
我らの内なる見通す力を導きたまえ


ガヤトリは祈りでありマントラでもあります。マントラとしては、太陽に象徴されるより高みにある意識を実現するため、一連の音として瞑想者によって使われます。祈りとしては、神に導きを請うものです。「我が精神に道を示したまえ」と嘆願するのです。この祈りのなかには、霊的な哲学が精巧に説明されています。bhargah (太陽の精神)が、サヴィトリ(太陽の存在)であり、またスーリヤ(太陽)の内なる存在であると示します。祈りとしてのガヤトリは、純粋意識の無限の光である tat を求めるものなのです。


しかし、この純粋意識とは何なのでしょうか?ヴェーダは、純粋意識はより高い天にあり(それによって万物に行き渡っている)、また全ての人間にも存在します。意識は気づきの光です。


さあ、天に上に輝く光は、全ての場所に満ち、どこにも行き渡り、
下にも世界の最も遠い場所にまでも届く。
これは人の中に輝いている光と全く同じ光である。 
(チャーアンドーギャ・ウパニシャッド 3.13.7)


マントラと祈りという二つの役割により、ガヤトリは心を浄化し気づくという素晴らしい力を招いてれくるのです。




サンディヤ瞑想


ガヤトリ・マントラを練習したいなら、朝か夕方、あるいは朝夕に時間をとりましょう。(日の出や日の入りと全く同時に瞑想する必要はありません)。簡単に練習する方法は次のとおりです。


心地よい姿勢で座ります。リラックスした呼吸で、少しの間、鼻腔に流れる呼吸を感じます。心が落ち着いて集中してくるでしょう。


今度は、金色の太陽のような球体をイメージし、その金色の光を自分の中に移していきます。眉間から中へ、そしてその光を胸の中心のあたりへとゆっくりと下ろしていきます。そこで、太陽の金色の光線が身体中に心の中へと広がっていくのを感じましょう。


少し時間をとって、ヴェーダの予言者らに感謝します。そして、胸の中心であるアナハタ・チャクラにある金色の球体の中心で、ガヤトリ・マントラを心の中で繰り返し始めます。胸にある意識が内側にある太陽と溶け合うように、そしてその声が太陽の核から流れ出るかのように暗唱します。そこから、音節の音を自身のすべてに反響させましょう。


マントラを自然だと思われるだけ回数を繰り返します。長時間の練習にはマーラ(マントラの繰り返しを数えるための108個のビーズの数珠)を使うこともできます。自身の中に音を響き渡らせましょう。内なる存在のすべてに満たしましょう。


練習を重ねるにつれ、毎日のガヤトリのリズムが静かな喜びと共にあなたの朝と夕を明るくするでしょう。マントラによって、苦しみの場所から立ち上がり、精神的な確信を取り戻すことができます。毎日の穏やかな練習と気分の高揚、それこそ精神が必要としていることです。そのどちらもをガヤトリ・マントラで得ることができるでしょう。






2024年11月15日金曜日

プラティヤハラ:忘れられたヨガの支則 Vol.3 
Pratyahara: Yoga’s Forgotten Limb


前回の続き、最終回です。

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1. 同一の印象に集中する

精神を浄化し感覚をコントロールするもうひとつの方法は、例えば海や青い空を見つめるなど、同一の印象に意識を向けることです。不規則な食生活や相入れない質の食べ物が消化機能をショートさせるように、耳障りで過剰な印象によって印象を消化する能力も混乱します。そして消化力を向上させるには断食や、モノ・ダイエット(アーユルヴェーダでお米とムング豆のキチャリを食べるように)が必要であるのと同様に、精神の消化力も自然で同一の印象を取り入れて印象を断つ期間が必要なのかもしれません。


2. 肯定的な印象を作る


五感を制御するもうひとつの方法は、肯定的で自然な印象を作り上げることです。これには数多くのやり方があります。木や花、岩などの自然のものに対して瞑想する、または公的的な印象や思考の宝庫である寺院や聖地などを訪れるなどす。肯定的な印象はまた、お香や花、ギーのランプ、祭壇や礼拝に関する工芸品などを使うことで作り出すことも可能です。



3. 内的な印象を作る 


五感から離れるテクニックは他に、内側にある印象に精神を集中する、すなわち外側の印象から意識を遠ざけることです。想像力を働かせることで自身の内側にある印象は作り出すことができ、肉体の感覚が静まって初めて作用し始める微細な感覚に繋がることもできます。



視覚化すること


視覚化するることは、内側の印象を作り出す最も簡単な方法です。実際に、ヨガの瞑想の実践は、神やグル、自然の美しい景色などを思い浮かべることから始まります。神やその世界を思い浮かべる、または想像した神様に花や宝石をお供えするなど心の中で儀式を行うなどで、より複雑に視覚化することができます。心の中の景色に没頭するアーチストや、音楽を作り上げるミュージシャンも心の中で視覚化しています。これらはみなプラティヤハラなのですが、なぜならこれらは外的印象の精神域をクリアにし、瞑想の基盤となる肯定的な内的印象を作り上げるからです。準備としての視覚化は、ほとんどの瞑想に有用となり、他の霊的な実践に取り入れることもできます。





ラヤ・ヨガ


内なる音や光の流れのヨガであるラヤ・ヨガでは、粗い感覚から身を引いて微細な感覚へと集中します。この内なる音や光へと身をひくことは、精神を変容させる方法のひとつでインドリヤ・プラティヤハラのもうひとつの形でもあります。




プラナをコントロールする


五感のコントロールには、プラナの成長とコントロールが必要となりますが、それは五感がプラナ(生命力)の流れであるからです。プラナが強くなければ、五感をコントロールする力を持つことはできません。プラナが乱れたり混乱していれば、五感もまた乱れたり混乱します。


プラナヤマは、プラティヤハラの準備です。プラナはプラナヤマで集められ、プラティヤハラで内に入ります。ヨガの文献では、体のあらゆる部分からプラナを内にひく方法が述べられています。つま先から始め、頭頂や第3の目、心臓、あるいは他のチャクラなど意識を留めたいと思う場所で終えます。


おそらくプラナ・プラティヤハラの最良の方法は、死のプロセスを心に浮かべることでしょう。生命力であるプラナが体から離れ、足から頭まで全ての感覚が遮断されます。ラマナ・マハリシは、彼がたった17歳の少年の時にこれによって自己実現を果たしました。真我を深く探る前に、彼は自分の体が死にプラナが精神へ、精神が心臓へとと引き込まれるのを心に浮かべました。このような完全で集中したプラティヤハラがなければ、彼の瞑想のプロセスは成功しなかったでしょう。




行動をコントロールする


感覚器(目や耳など)に加えて、私たちはまた(手や舌など)運動器官を持っています。運動器官を制御することなくしては感覚器官をコントロールすることはできません。実際、運動器官は外界と直接関係しています。感覚を通して入ってくる衝動は運動器官を通して現れ、そしてこれがより強い感覚を得たいと想わせるのです。しかし、欲望は終わりがないため、幸福を得るためには、私たちが欲しているものを得ることではなく、外の世界からもう何も必要がなくなった時なのです。


印象の正しい取り込みが感覚器官のコントロールを可能にするように、正しい仕事や正しい行動は運動器官のコントロールを可能にします。これは、カルマ・ヨガで、人生に必要な行動を取ること、そして欲望や自己満足に基づく行動を避けることです。カルマ・ヨガには二段階あり、外に向けた行動や奉仕(セーヴァ)、そして様々な形式の儀式から成る内に向けた行動です。


カルマ・プラティヤハラは、神や人類全体に対する奉仕として行動することで、自分の行いに対する個人的な報酬に関するあらゆる思考を放棄することで実践することができます。バガヴァッド・ギータでは、「あなたの義務は行動することであり、行いに対する報酬を求めることではない」と書かれています。これは一種のプラティヤハラです。それはまた、運動器官のコントロールにつながる禁欲の実践も含まれます。例えば、アサナは手足をコントロールするために使われることがありますが、それは長時間、静かに座る際に必要とされるコントロールです。




精神を引いていく


ヨギたちは、精神は6つめの感覚器であり、他のすべての感覚器を調整する役割を持つといいます。感覚の印象は、精神の気づきがある場所でのみ受け取ることができます。例えば、テーブルからコップを。持ち上げる時に手の動きに合わせて目が見るものを関連づけることで、精神もまた感覚器官や運動器官を調整します。ある意味では、私たちは常にプラティヤハラを実践しているのです。精神の気づきには限界があり、精神を他の印象から遠ざけることである一つの印象に注意を向けることができます。私たちが意識を向ける場所がどこであっても、その他のものは自然に見落としてしまうものなのです。


意識をそこから遠ざけることで、私たちは感覚をコントロールしています。ヨガ・スートラによれば、「感覚がその対象そのものを確認するのではなく精神の本質を再現する時、それはプラティヤハラである」より明確に言えば、それはマノ・プラティヤハラ、つまり感覚を対象物から引いて精神の本質という内面、つまり形のないものへと向けることです。ヨガ・スートラにおいてヴィヤサは、精神は女王蜂のようなものであり、感覚は働き蜂のようなものだと解説しています。女王蜂が向かうところはどこでも他のすべての働きバチが従います。ですから、マノ・プラティヤハラは感覚のコントロールというよりは精神のコントロールなのですが、それは精神がコントロールされれば感覚もまた自然にコントロールされるからです。


不健全な印象が現れた時は、そこから意識的に注意を逸らすことで、マノ・プラティヤハラを実践することができます。これはプラティヤハラの最も高度な形で最も困難です。感覚や運動器官、プラナをコントロールすることに熟達していなければ、機能することは困難です。野生動物のように、プラナや感覚は弱い心を簡単に打ち負かすため、多くの場合、より実際的なプラティヤハラから始める方が良いでしょう。




プラティヤハラとヨガの他の支則


プラティヤハラは、ヨガの全ての支則に関係しています。アサナからサマディに至るまですべての支則にはプラティヤハラの局面があります。例えば、アサナの最も重要な面である座位のポーズでは、感覚器官と運動器官のどちらもがコントロールされています。プラナヤマはプラティヤハラの要素を含んでいて、呼吸を通して注意を内面に引き込みます。ヤマとニヤマは非暴力や知足など様々な原理や実践を含みますが、それは感覚をコントロールするのに役立ちます。言い換えれば、プラティヤハラはヨガの高度な実践のための基礎を与えてくれ、そしてそれは瞑想の基礎となります。プラナのコントロールであるプラナヤマの後、精神とプラナを結びつけることで、肉体という領域から出ていくのです。



プラティヤハラはまた、ダーラナとも関連性があります。プラティヤハラでは、通常の障害となる心の乱れから注意を引いていきます。ダーラナでは、マントラなど特定の対象物にそうした注意を意識的に集中させます。プラティヤハラはマイナスの実践ですが、ダーラナは同じ基本的機能でプラスの局面を持っています。




最も重要な支則


瞑想の実践を何年も行ってきたけれど、期待通りには達していないと感じる人は多いでしょう。ある程度のプラティヤハラのない瞑想を実践しようとするのは、穴の空いた器で水を汲もうとするのに似ています。どんなに水を入れても、それはまた流れていきます。感覚とは心の器の穴のようなものです。穴を閉じなければ、精神は真実の蜜を保つことはできません。瞑想をしたり感覚に耽ったりする人にはプラティヤハラが必要です。


プラティヤハラは、瞑想のために心を準備する様々な方法を与えてくれます。また、心理的な痛みのもとである環境的な障害を避ける手助けとなります。プラティヤハラは、人生をコントロールし、内面の存在を開くための素晴らしいツールです。何人かの偉大なヨギが
「ヨガの最も重要な支則」だと呼んだのも不思議ではありません。私たちは皆、実践にプラティヤハラを含めることを忘れてはならないのです。







2024年10月27日日曜日

プラティヤハラ:忘れられたヨガの支則 Vol.2 
Pratyahara: Yoga’s Forgotten Limb


前回の続きです。
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五感の制御


五感の制御、インドリア・プラティヤハラは、プラティヤハラで最も重要とされますが、マス・メディア志向の文化にいる私たちにはあまり耳にしたくないものでしょう。テレビやラジオ、コンピューター、新聞や雑誌、本など常にありとあらゆる刺激により、ほとんどの人が感覚過剰な状態になっています。商業主義の社会は、五感を通して興味を刺激することで機能しています。いつも明るい色や騒がしい音、ドラマチックな感覚を突きつけられています。ますますより多くの感覚的な楽しみにふけるようになっています。そして私たちの社会での娯楽とはとういったものがほとんどです。


問題は、そういった感覚というのは、躾されていない子供のように自分の意思を持ちとても衝動的な性質を持っていることです。五感は何がしたいかを心に伝えます。もし躾しなければ、五感は私たちを支配し、その終わりのない要求が心を乱します。私たちはいつも知覚が働くことに慣れていて、心を静かに保つ方法を見失っています。感覚の世界とその魅力の人質となってしまっています。五感に訴えるものを追い求めて、人生のより高度な目標を忘れています。こうした理由から、プラティヤハラは現代の私たちにとって最も重要なヨガの支則なのでしょう。


昔のことわざ「精神には意思があるが、肉体は弱い」は、五感を正しく制御する方法を学んでいない私たちに当てはまります。インドリア・プラティヤハラは、精神を強くし肉体への依存を減らすためのツールを与えてくれます。そうした制御は抑制(最終的に反発を起こしてしまう)ではなく、正しい調整と動機づけなのです。




印象を正しく受け入れる


プラティヤハラは、印象を正しい受け入れることです。私たちの多くは、何を食べるか誰と居るかに注意を向けますが、五感から入ってくる印象については同様の識別を行いません。個人の生活では決して許さないような印象をマスメディアを通して受け入れています。現実の生活では決して家に入れないような人々が、テレビや映画を通して家の中に入ってくるのを許しているのです!


毎日どんな印象を取り込んでいるのでしょう?それが私たちに影響を及ぼすことなどないと考えられるでしょうか?強い感覚は精神を鈍らせ、鈍った精神によって私たちの行動は無神経で軽率で、暴力的ですらなり得ます。


アーユルヴェーダでは、五感による印象は精神の主な食物です。精神域の背景は、五感の印象に支配されています。これは、精神が最後に聞いた歌や最後に見た映画などの印象を思い出す時に見られます。ジャンクフードが体を不快にするのと同じく、ジャンクな印象は精神を不快にします。ジャンクフードはたくさんの塩や砂糖、スパイスで味つけられていますが、それはほとんどが死んだ食物だからです。同様に、ジャンクな印象は強くドラマチックな印象(セックスや暴力)で現実であるかのように感じさせますが、それは実はそれらがただスクリーンに映し出された色にすぎないからです。


私たちが何者なのかについて、五感の印象の役割は無視することはできません。というのも、印象が潜在意識を築き、その中にある潜在的な傾向を強めるからです。印象をコントロールせずに瞑想をしようとすれば、潜在意識は私たちと闘うこととなり、精神の安定や明快さを作り出すことはできません。




五感から離れる


幸運なことに、私たちは五感の印象の嵐の前でどうすることもできないというわけではありません。プラティヤハラが正しく管理する実際的なツールをたくさん与えてくれます。おそらく印象をコントロールする最も簡単な方法は排除する、つまり五感から入ってくる全てのインプットからしばらく離れることです。断食が肉体に効果があるように、印象を断つことは精神に効果があります。これは、目を閉じて座って瞑想する、通常の五感の嵐から離れた場所(例えば山小屋など)に逃避するなど簡単にできます。


ヨニ・ムードラ(またはシャンムクティ・ムードラ)は、五感を閉じるための最も重要なプラティヤハラのテクニックの一つです。手の指を使って、頭部の感覚器(目、耳、鼻、口)をブロックして、意識とエネルギーを内側へと動かします。プラナヤマの練習をしたすぐ後など、プラナのエネルギーが強い時は短時間で効果があります。(もちろん、酸欠になるほど口や鼻を閉じてはいけません)


五感から離れるもうひとつの方法は、感覚器は開いたまま注意を内側へと引き込むことです。この方法では、実際に感覚器を閉じてしまうことなく、印象の取り込みをやめます。最も一般的な方法はシャムバーヴィ・ムードラで、目を開けたまま座りながら意識を内側に向けますが、いくつかの仏教の瞑想で使われるテクニックです。この感覚を内側に向けることは他の感覚、特に聴覚も同時に行うことができます。日々の生活のまま五感が働いている時でも、精神とコントロールするのに役立ちます。


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次回にまだまだ続きます。


2024年10月25日金曜日

プラティヤハラ:忘れられたヨガの支則 Vol.1 
Pratyahara: Yoga’s Forgotten Limb

ヨガって何でしたっけ?
やせるため、健康のための運動?若々しく綺麗でいるためのストレッチ?
さて、大事な物を忘れてしまっているかもしれません。

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プラティヤハラそのものがヨガと呼ばれるのは、ヨガ・サダナ(日々の鍛錬)の中で最も重要なものだからである ー スワミ・シヴァナンダ







ヨガは、精神修練の広大なシステムで、精神の成長のための手段を与えてくれます。私たちの本質の様々な側面を理解する方法や、そんな本質と私たちの内側や周りに存在するより大きな世界とを調和させる方法を授けてくれます。この素晴らしい精神科学は、私たちの可能性が最大に展開するのを実現する方法を示しています。


この目的を果たすため、伝統的なヨガのシステム(アシュタンガ・ヨガ)は8つの支則を取り入れており、それぞれが役割や機能を持っています。8つがまとまって精神を解放するための完全なシステムを作り上げている。この8支則とは、ヤマ(禁戒)、二ヤマ(勧戒)、アサナ(坐法)、プラナヤマ(調気法)、プラティヤハラ(制感)、ダーラナ(集中)、ディヤナ(瞑想)、そしてサマディ(三昧)です。これらの中で、プラティヤハラが最も知られていないでしょう。ヨガの指導者であっても、どれだけの人がプラティヤハラを明確に示せるでしょうか?プラティヤハラのクラスに出たことがありますか?プラティヤハラについての本をみたことがありますか?重要なプラティヤハラのテクニックのいくつかを思いつきますか?ヨガの実践の中でプラティヤハラを行っていますか?しかし、プラティヤハラを理解しなければ、ヨガの不可欠な部分を欠いていることになります。この側面がなければ、このシステムは機能しないのです。




ヨガの内側と外側の側面



ヨガの外的側面は、正しい生き方、正しい体の使い方、そして生命力を高めることから成っています。これが、ヤマやニヤマ、アサナ、プラナヤマです。ヤマとニヤマは、非暴力や誠実などの価値観や清浄や知足などの実践を通して正しい鼓動の基礎を作ります。アサナは体を強く柔軟にさせ、プラなヤマは生命力を高めてくれます。


ヨガには、瞑想やより高度な意識の開発などの内的側面もあります。これこそがヨガの目的であるダーラナ、ディヤナ、サマディがひとつのプロセスとして形を成したサンヤマで、広い意味では瞑想のことです。


八支則の5段階目として、プラティヤハラは中心に存在します。ヨガの外的側面のひとつだとする人もいれば、内的側面とする人もいます。どちらの分類も正しく、その理由はプラティヤハラがヨガの内外的側面の関係への鍵であるからです。次へどう進むのかを教えてくれます。


アサナから瞑想へと直接に進むことが可能な人はほとんどいません。これは、体から精神の間に何が存在しているのかを見失ったままジャンプしなければいけないからです。この移行を行うためには、まず体と精神を繋いでいる呼吸や五感を制御して正しく開発しなければなりません。ここでプラナヤマとプラティヤハラの出番です。プラナヤマによって生命力と心拍をコントロールし、プラティヤハラによって手に負えない五感を制御します。このどちらもが、瞑想を正しく行うために必要不可欠です。



プラティヤハラとは?



「プラティヤハラ」という言葉は「Prati」と「Ahara」という二つのサンスクリット語から成っています。「Ahara」の意味は「食物」あるいは「外側から自分自身へ取り込むもの」です。「Prati」は「逆らって」や「離れて」を意味する前置詞です。つまり「Pratyahara」とは文字通り「aharaの制御」あるいは「外的影響の統制」という意味です。これはこれまでカメが甲羅の中に引っ込むことに例えられてきました。甲羅は精神で脚は感覚です。一般的に「感覚から離れる」と訳されますが、より多くの意味を含んでいます。


ヨガの考えでは、アハラつまり食物には3つの段階があります。まずひとつめは、体を育むために必要な5要素(土、水、火、風、空)をもたらす物理的な食物です。ふたつめは、精神を育むために必要な微細物質をもたらす五感(聴覚、触覚、視覚、味覚、嗅覚)です。各感覚は、聴覚が空、触覚が風、視覚が火、味覚は水、嗅覚は土というように微細な要素から成っています。みっつめのアハラは私たちの人間関係で、魂を育み私たちのグナ(サットヴァ、ラジャス、タマス:調和、混乱、怠性の根本的質)に影響を与える心の中にある人々です。


プラティヤハラには二面性があります。間違った食物、間違った感覚、間違った人間関係から離れると同時に、正しい食物、正しい感覚、正しい人間関係へと向かっていきます。正しい食生活や正しい人間関係がなければ精神的な印象を制御することはできませんが、プラティヤハラで最も大切なのは、感覚が作る印象から離れ制御することであり、それによって内側へと向かう精神を自由にすることができます。


否定的な感覚から意識を離すことによって、プラティヤハラは精神的な抵抗力を強化します。健康な体が毒素や病原菌に抵抗するのと同じく、健康な精神は否定的な感覚が周囲に影響を与えるようとするのに抵抗します。もし周りの騒音や混乱ですぐに心が乱れてしまうなら、プラティヤハラを実践する必要があります。それがなければ、瞑想することはできません。


プラティヤハラには主に4つの形があります。インドリア・プラティヤハラ(五感の制御)、カルマ・プラティヤハラ(行動の制御)、プラナ・プラティヤハラ(プラナの制御)、そしてマノ・プラティヤハラ(五感から離れる)です。それぞれに特別な方法があります。


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次回に続きます。







2024年5月24日金曜日

アシュタンガヨガ伝承(パタンジャリ)によるサマディの段階 Vol.1
The Stages of Samadhi According to the Ashtanga Yoga Tradition

パタンジャリのヨガスートラに書かれている最終段階のサマディについての解説です。
かなり深く難解なものですが、アサナだけでなく瞑想の練習の先には何があるのかを知っておくのもいいかもしれません。

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紀元前350年以降のいつ頃か、賢人パタンジャリとして知られる偉大なヨギがヨガの解説書を識し、現在では古典ヨガとして知られる伝統の定義的な書物であると見做されている。この書物はヨガスートラで、今まで地球上で作られた高度な意識の最も詳細な地図のひとつである。主に精神の本質について、そしてカイヴァリヤ、つまり解脱の状態がついに現れるまでサマディ(三昧)の異なる段階を通して精神がどのように変化していくのかについて書かれている。また、理論と実践が驚くほどまでに統合がされている。ヨガスートラにおいてパタンジャリは、ヨガの二つのシステムについて言及している。クリヤヨガ(禁欲、自己探求、神への帰服)と有名な8段階の道アシュタンガヨガである。これらがヨガの実践を体系的に解き明かし、ヨガの実践の目標とその目標へと到達する方法を非常にはっきりと示している。



ではここで、アシュタンガヨガ(ラジャヨガ)の観点から瞑想体験を詳しくみていくが、パタンジャリのシステムは実際には直接的に瞑想体験については述べていないことを理解しなければならない。そうではなく、我々が何年間ものサダーナ(霊的鍛錬)の間に展開する精神の変化について述べられており、精神と瞑想の対象との関係性に注目している。これは、瞑想鍛錬過程の中で起こるべきことについてあまりにも間接的なアプローチであるため多くの瞑想者が全く関係付けられないように思えるが、パタンジャリがこのようにしたのは相当な理由がある。



サムプラジュニャータ・サマディ(高度な知識のサマディ)の最も低い段階で起こる体験の多くは、個人的そして文化的な要素が含まれる(例えば宗教など)。さらに、それらは瞑想者が選択した特定の対象に関係する。サムプラジュニャータ・サマディのより高い段階では多くの普遍的要素が存在するが、それは全てのものは同じ根源を持つためである。しかしそれでも、この段階を得た瞑想者の体験は必ずしも全てにおいて一致するわけではない。その体験そのものの内容に焦点を当てるのではなく、瞑想の対象との関係性において精神の活動を述べることで、パタンジャリはより普遍的に応用できるシステムを作り上げたのである。したがって瞑想体験は、その段階の基準全てにあてはまると見えた時においてのみ、サマディの特定の段階に到達しうる。この論説で私は、私の博士号論文の準備中にインタビューしたヨギである私の兄弟姉妹たちの瞑想体験(ふさわしい実例だと私は信じている)を提示することで、精神と体験の間のギャップを埋めるのを助けられればと考えている。




以下のサマディの解説を理解するには、最初に3つの基本的な点を理解すると良いだろう。まずは、サマディはインドの洞窟に住む禁欲したヨギだけが体験できるものではないということだ。20年間ヨガを指導してきた私がしばしば驚かされるのは、アサナは勤勉に練習しているがプラナヤマや瞑想を練習しない北米の人たちの数である。彼らは世帯を持っていては瞑想をしても前進できないと信じているのだ。しかし、ウパニシャッドやプラーナ、ヨガ・バシシュタなどの中には、世帯をもったり親であったりする偉大なヨギやヨギニたちの話が多く存在する。また、ヨガの実践者やアサナの指導者であっても多くの人が瞑想をしない。彼らは瞑想の価値を理解していないか、ヨガのより深い教えを気にしないからであろう。また、プラナヤマや瞑想はアサナを完璧にしてからでないと始められないと間違って信じている人もいるが、人生の最も重要な活動を始めるのを漠然と遅らせる致命的な誤解である。


実際のところ、サマディの第一段階サヴィタルカは、ディヤナを単純に深めたものである。私の師であるババ・ハリ・ダスによれば、毎日休まず1、2時間実践するほとんどの瞑想者は、正しい指導を受けていればこの段階まで数年で到達する。1977年のババジのヨガスートラのあるクラスで、サヴィタルカ・サマディ中心の議論をしたことを私は覚えている。ある時、ババジが20人ほどの瞑想者たちのいる部屋をぐるりと指で示し「ここにいるほとんど全員がこれを得る」と書いた。だから、実践が実際に望んだ結果をもたらし得るからこそヨガ・マスター達は私たちに実践しなさいと言うのだということを、まず信じなければならない。実践が進むにつれて、体験が私たちの信じたものは間違っていないと裏付けてくれる。サマディに到達するのは容易ではないが、確実に可能である。



第2に、人は瞑想の実践中にサマディを得るというのは、精神は常にその状態にあり長時間絶え間なく存続することを必ずしも意味するものではないと理解することが重要である。これが起こる時には、瞑想者のサマディ体験は大抵の場合短時間であり、精神はまた外へと出てしまい意識の低いレベルへと落ちてしまう。この精神の外へ流れることをヴィユッターナと呼び、私たちの外の世界に関する思考、執着、欲望、記憶など(サマディでは一時的に抑えられている)が再び活動的になる時に起こる。精神が同じ深さの集中へと戻ることが可能なら、またサマディに入ることも可能だろう。このように、一回の瞑想の中で何度もサマディに入ったり出たりするものである。サマディとヴィユッターナのプロセスを通し、精神はこの2つの状態を比較しサマディ状態の微細と平穏をより感じる。これにより瞑想者はより高度な状態を得ようとする。



第3に、サマディはひとつの状態ではなく、進歩することで展開する一連の段階である。サマディの全ての段階は変わることなく2種類の結果をもたらす。いくつかのタイプの直接体験「知識」といくつかの度合の非執着である。ヨギがサーダナの道を進むにつれ得られる知識は一層深く、非執着はより深く長い効果を精神に与える。段階を達成するのにそれぞれ数ヶ月から数年を要し定着させるにはより時間がかかる。どれだけかかるのかは人により大きく異なり、瞑想者の解脱への欲求の強さや、実践の回数や深さ、そして過去の人生で行った瞑想の実践によるその人のサムスカラ(精神印象)による。そして、パタンジャリが言うよう、サマディは神への帰依によっても得られる。サマディの全ての段階において、修行者はまずその段階が示すものを完全に体験し、次に進む前にそれに対する興味を捨てる必要がある。サマディの段階を通して進むことはまた、浄化のプロセスでもある。全ての段階は精神を浄化し、精神をより微細にする。つまり、到達すべき次段階のため宇宙の存在のレベルまで深く洞察する能力を得る。




精神の準備をする


瞑想プロセスの第一段階が最も困難であるとしばしば言われるが、アシュタンガヨガの初めの部分はそれぞれサマディを得ることに一助している。ヤマとニヤマは精神を浄化する、アサナは長時間快適に座り続けることを可能にする、プラナヤマはより深く集中するエネルギーを与えてくれる。しかし実際にはパタンジャリは、ヨガは精神の中の思考の波の静止であると定義し(1:2)、このゴールへの最初の段階は (2:54 と 3:1)気付きを外界から引き込んで(プラティヤハラ)、対象物へと精神を集中することによって思考の波の現れをコントロールすること(ダーラナ)であると定義している。この「対象物」という言葉は物理的な対象物を指しているわけではない。瞑想者にとって霊的に意味のあるものなら何でも可能で、特定のチャクラや神の像、呼吸、悟りを得た存在の像、内なる光、内なる音、マントラなどである。究極的には、サマディによって作られる集中そのものであり、対象物ではない。そしてすべてのものの源は、より高い段階が得られた時に精神に自然に現れるものであるが、全て同じである。しかし、精神をひとつの本質だけに集中することを教えてくれるのは厳しい修業であり、個人的な親近感を感じる対象物を選択して瞑想することでそれを容易にすることができる。



ダーラナ(瞑想の間、それぞれの瞑想の対象物へ精神を戻すため繰り返す作業)は、ついにはディヤナ(精神から対象物への気付きの比較的努力を要しない流れ)へと発展し、ディヤナは時を経てサマディへと発展する。ディヤナが繰り返し得られると、湧き上がる平穏あるいは幸福に満ちた感情が、集中という修練への精神の憤りとのバランスを取り始める。サマディが始まるのは、精神と対象物の関係性が深まって、集中しているという精神への気付きが小さくなり対象物への気付きが精神そのものを圧した時である。





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