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2026年8月30日日曜日

ギータを生きる 
The Gita in Action

インドの叙事詩マハーバーラタの中で、戦士のアルジュナと従者でありながら神の生まれ変わりであるクリシュナとが会話する場面があります。この問答はまた、ヨガに関する有名な文献でもあります。今回はそんなバガヴァドギータの解説をご紹介します。

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バガヴァドギータ(神の詩)は、二人の類稀な人物の間で交わされた会話です。才能あふれるヨギであり大軍隊の将軍でもあるアルジュナと、生命の神の生まれ変わりであるクリシュナ。ギータは、クリシュナがアルジュナの戦車を戦場の中心部へと走らせているなか、アルジュナがおびただしい数の戦士が集まっているのを見渡しているところから始まります。彼自身の軍隊と敵とがどちらも集まり、厳しい内戦を戦うのです。しかし、尊敬する師と愛する家族が軍隊にいるのを見たアルジュナは呆然とします。戦車の床に倒れ落ち、戦うべきかどうか確信を得られずにいました。クリシュナの助言を得るために彼は懇願するのでした。「明らかに良いのはどちらなのか、教えてください」クリシュナは、すべての世俗者から脱俗者まで届くよう、そして現在まで力強く響き渡るように答えました。


並外れて雄大で劇的なギータですが、最初に読んだ人の多くはよくわからないと感じます。もっとずっと長い叙事詩であるマハーバーラタから抜粋されたギータには、アルジュナの危機に繋がる出来事への手がかりがたくさんあります。その文節のかなり多くは何度も繰り返されているように見えます。そしてわかりにくい信仰的、哲学的言及を多く含んでいます。加えて多くの場合、ギータが重要なヨガの文献だと聞いた現代のヨガの生徒たちは戸惑います。通常ヨガのマニュアルに書かれている練習についてはほとんど語られず、ギータで使われているヨガという言葉は、どうも聞き慣れたものではなさそうです。概して、この3000年前のマスターピースに取り組むことは難しいことが多いのです。



ヨガの3つの道


ギータの不可解さは、始めから現れます。序章でアルジュナは、この戦争は忌まわしいと嘆き悲しんでいます。彼の王国を引き裂かれるのを見るよりも、戦いを放棄したいと考えます。精神的な信念がこの考えを正当化してくれることを、彼は望むのです。


しかしクリシュナは、戦わなければ、臆病で愚かだと歴史に残るだろうとアルジュナを譴責します。アルジュナが戦いを離れて当惑した思考へ逃げ込むのなら、決して精神的な平穏は訪れないと断言します。クリシュナによれば、アルジュナの当惑がヨガに導くことはなく、ヨガから遠ざけます。アルジュナへの「詩」の中でクリシュナ神は、行動のヨガ、献身のヨガ、識別のヨガという3つの精神的な道について述べています。最終的には、どの道も精神の均衡を保ちながら活動的な人生を生きる方法を与えてくれます。しかし、これらヨガの道とはどんなものなのでしょうか?それらの基礎になる信念とは?クリシュナがある人生がよりヨガ的だと確信できるのはなぜでしょう?この記事では、行動のヨガ、つまりカルマヨガから引き出されるこれらの問いへの答えに注目していきます。



行動の果報


クリシュナのアルジュナに対する助言は、単純で説得力のある観察によるもので、2つの要因の間にある因果関係として現れます。


行動と結果:行動は結果につながる:どんな行動も「行動の果報」とギータの言葉にある結果を伴います。いずれかの結果を伴わない行動はありません。単純な例がすぐに思い浮かべられます。皿洗いをすればお皿がきれいになる、走れば心拍が上がる、まぶたを閉じれば目に入る光が減る、などです。すべての行動には結果が伴います。


しかし、行動と結果の関係性は、これらの例のように単純に現れることは稀です。多くの場合、行動は複数の結果につながり、正確な結果は予測不可能なことがほとんどです。また、行動の結果が予測できるとしても、その行動をした人が意図したことではないこともあるでしょう。時と共に、例えば、皿洗いの途中でお皿が何枚か割れてしまうのは、洗っている人の意図ではないとしても、避けられません。走れば心拍が上がりますが、脚の筋肉もまた固くなります。まぶたを閉じると目に入る光が減りますが、眠くもなるでしょう。


行動の様々な結果を見極めるのは、深刻な問題にもなり得ます。医師が患者の投薬の選別に考えを巡らす際は、本来の薬の効能と意図しない効果、つまり副作用とを念入りに検討しなければなりません。本当に、注意深く調べれば、すべての行動は複数の影響を与えます。行動した人が意図した結果もあれば、そうでないものもあるのです。


アルジュナは、多くの場合、行動の副次的影響というのは避けられないのだとよくわかっていました。軍隊を戦争へ導くことで、両軍にいる尊敬する長老たちが殺されるとあろうこと、そして女性や子どもの命もまた壊れてしまうだろうことを理解しています。戦うことをやめればこうした結果な避けることができる、だからこそ彼は悲しみに暮れているのです。


しかし、アルジュナのジレンマを考察する前に、因果応報についてもう少し深く議論する必要があります。クリシュナによれば、私たちの思考に影響を与えるもうひとつ要素があります。動機の要素です。



動機が行動より先行する


動機から行動、結果(意図した、意図しない)へ:先ほどの例に戻りましょう:食べ物の残りを取り除くための必要(動機)から、皿洗い(行動)をします。お皿を洗うことできれいになります(結果)。心臓が弱いので(動機)走ることにします(行動)。走ることで心臓がより強く働きます(結果)。明るい光を避ける必要性(動機)から、まぶたを閉じます(行動)。まぶたを閉じると目に入る光が減ります(結果)。どのケースも、動機が行動より先行し、結果が行動の後に続きます。




ものごとがうまくいかない時


さて、クリシュナの行動のヨガの分析は、ほとんど理解できたでしょう。最後の課題は、動機>行動>結果という3要素がどのように裏目に出るかを見るだけです。一緒に見ていきましょう。


あなたは、家族の庭の世話をする役目をしているとしましょう。戸外で植物の世話をするのを楽しんでいて、自分の努力でたくさんの花や野菜ができたときに幸せを感じています。ある夏の午後、あなたは地元のガーデニング・コンペに参加することを思い付きます。あなたと家族の名を挙げるチャンスです。優勝賞金もまた、シーズンを通した努力の嬉しいご褒美になるだろうとあなたは考えます。そこでそんな考えから、あなたはもっともっと庭で過ごし始め、家族と過ごす時間がどんどん減ります。近所の誰よりも良い庭をつくりあげようと、ますます没頭していきます。そのつもりもなかったのですが、自分の仕事をガーデニングコンテストに勝つことだと考えるようになりました。賞金への思いが頭から離れず、ガーデニングの喜びがどんどん遠のいていきました。今あなたは行動の結果に動機づけられていますが、行動そのものは動機ではありません。


「行動=結果」は「行動から結果」とは異なる:行動を結果と同一視すると、焦点がぶれます。やることと得ることの区別が曖昧になります。結果のために行動することが動機となり始め、クリシュナによれば、トラブルの種を撒くことになっています。この瞬間と調和して生き行動するという感覚を失います。ヨガから遠のいているのです。


行動が、気持ちのいい結果への願望で動機づけられたとき、人生はギャンブルになります。願望の実現を願っていると、行動が成功すれば幸せで、結果が悪いと不幸せになります。幸せと不幸せはどちらも未来の予測できない影に隠れていて、その未来が来るまで不安に付き纏われるのは避けられません。このように心が願望に支配された人のことをギータでは、ボークタ「結果のためだけに行動する人」と呼びます。そんな人は「気の毒である」とクリシュナは言います。




行動のヨガ


私たちがみなしなければならないのは、今ここに心を保つことだとクリシュナは言います。しかし、行動の果報に動機を探すべきでないという訓告にも関わらず、そうした結果に盲目かのように行動するのは賢明ではないと思われます。勝つ願望を全く持たずに競走に出るでしょうか?きれいにすることを意図せずしてお皿を洗うでしょうか?

 
ギータの4つの問いによって、クリシュナのメッセージを明確しやすくなり、正しい行動の道へ導いてくれます。

  • この行動をするのは私の性質からなのか、私の義務なのか?

  • その行動は正しいか間違っているか?

  • この行動の結果を受け取って欲しいのは誰なのか?

  • 特定の結果に執着しているか?

  • これらの質問を少し見ていきましょう



個人の性質:私たちはみな個人的な性質を持ち、それは成長するに連れて徐々に明らかになっていきます。幸運ならば、経験によってその性質が強化され、自信がつきます。クリシュナの説明によれば、私たちはみな自分の性質に合った行動をとる傾向があり、自然に現れる義務を果たすことになります。自分には実際には合わないことや、他人の義務を行おうともがくことは過ちなのです。


ですから、アルジュナが俗世を離れて森の中で修行僧として生きると夢見た時、これまでの人生、アルジュナは正義を守ることに尽くしてきたことをクリシュナは思い出させるのです。彼は戦士です。彼の本質は、世捨てした僧のものとは違います。彼の王国を盗もうとする軍隊に直面した彼は、戦わなければならないのです。


同様に、私たちが何者なのか、自分の本質と義務に相応しい行いをせよという状況がきます。陸上選手なら、レースに勝たなければなりません。詩人なら、自身を言葉で表現しなければなりません。そして今、皿洗いをすることが仕事なら、皿をきれいにしなければなりません。そんなとき、行動の結果は動機ではありません。それはどのみち私がすることをしたことの結果にすぎません。これを理解して行動することがヨガです。これこそが、「自身のダルマ(天性)に従って行動する」というよく聞くヨガの言葉の基本的な意味なのです。




正しいか間違いか:ヨガの行動はまた、有害な行動とそうでない行動、すなわち、正しい行いと間違った行いのどちらを選択するかを身につけることも含まれます。難しいことですが、その結果、行動を遅らせたり行動しないことになるかもしれません。


クリシュナによれば、この葛藤を解決するのに役立つのがヨガです。内面の識別と決断の能力であるブッディに訴えることでこれが可能になります。クリシュナは、ブッディとは鏡のようであり、客観的に見られるように内面の体験を映し出したり意識を表現するのだと説明します。日常の思考のおしゃべりを意識的にしずませれば、その鏡を磨いて活性化させることができる。そして自身の欲望や出来事への反応、記憶、目標などすべてが瞑想の時に目に見えるようになる。ブッディの鏡のような静けさに映し出されるのだと。覚醒したブッディはまた、内側から映し出される性質である平穏や正義、内面のバランスなどの性質へのつながりを与えてくれるのだと。


しかし心が欲望で曇っていれば、客観性は失います。欲望は、まさにその性質により、感情で思考プロセスに色付けをし、混乱へと導きます。その意味で、欲望は賢明でない行動の中核に存在します。そのため、クリシュナは意識的にブッディを覚醒させることを身につけよと私たちを促します。そうすることで、内面の明晰さから現れる「ブッディヨガ」というものの精神で、バランスの取れた心で行動を見ることが可能になります。そのような瞬間には、正しい行動と誤った行動の違いが直感的に明確になります。私たちのなかで引き起こる欲望と混乱を超えるのです。



行動の果報を手放す:私たちにはみな、決められた人生の義務巣あります。自身に食物を与え、住む場所を見つけ、個人的な出来事を処理しなければなりません。また、親、配偶者、家族、同僚、そして人間としての義務を果たさなければなりません。こうした義務を仕方なく負うこともできますし、負担を軽減させる愛とともに快く果たすこともできます。「愛で行動をなめらかにする」すなわち、思いやりを持って自身や他者への責務を行うことがカルマヨガの重要な側面です。


しかし行動は全てが義務によって動機づけられているわけではありません。それ以上のものもあります。例えば、他者のためにドアを開ける、価値ある大義にお金や時間を提供する、「ヨガセンター清掃日」に参加するなどの行動は異なる感覚をくれるでしょう。それらはある種の犠牲のようなもので、果報を手放す行為です。この種の行動は清新な気分を感じさせます。これらの心地よさを記憶した私たちは、精神的な自由を経験します。あなたのヨガクラスで「カルマヨガ」をいう言葉が使われている時、多くの場合はこうした行動を示しているのです。



執着を捨てる:人の性質、その時の義務、行動の正義、愛を持って人間関係をスムーズにしたいという願望、また純粋な親切心や無私無欲などどんな動機による行動であれ、もうひとつ不可欠な質である行動の結果を考慮しない、つまり「執着を捨て」なければカルマヨガは完成しません。クリシュナがアルジュナに語ったように、「成功や失敗に心を動かされてはいけない、心の平穏がヨガだと言われている」


無執着の概念の導入部で、クリシュナは庭づくりにも進行中の戦にもあてはまる3つの行動指標について述べています。動機を誠実に評価すること、巧みに決意を持ちながらも結果に執着しない行動を行うこと、それがカルマヨガです。アルジュナの思考プロセスがまだこの指標に至っていないことをクリシュナは指摘し、彼が陥っている執着を克服するべきだと言います。勝利するかどうかに関わらず、十分な決意をもって戦わねばならないと。ギータが終わるまでにクリシュナは、この教えの真意をアルジュナに説き、ヨガの力で彼の信念を改めさせます。



行動を超えて


バガヴァドギータの会話は、執着の無知との戦いを示して、人の行動の謎を解いています。しかし最後には、クリシュナの教えは既知の行動の概念を超えたところへと導いていきます。あらゆる行動の行為者は実際は誰なのか、そして行動全ての性質について洞察しています。もし読んだことがないのなら、あるいは読むのをやめてしまったのなら、ギータの表紙のほこりをはらってみましょう。カルマヨガの道に焦点をおいた1章から6章までを読んでください。これら古代の概念を熟考し、あなたを待っている全く新しいヨガの世界を見つけるでしょう。それは、あなたの人生を変容させる力を持つヨガの道です。


2026年6月21日日曜日

国際ヨガデイ2026
International Day of Yoga 2026

今年も夏至がやってきました。
夏至といえば、国連国際ヨガデイです。

今回は、国連が発表している情報をご紹介します。

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2026年のテーマ:健康的に歳を重ねるためのヨガ


今年12回目を迎えた国際ヨガデイのテーマは、全て年代でのヨガの重要性を強調する「健康的に歳を重ねるためのヨガ」です。ヨガは健康的に歳を重ねるための価値のある実践法であり、それは、高齢になっても活動的で、自立し、社会性を保ち続けるための能力の多くを養うことができるからです。やさしい動きやストレッチ、呼吸法、エクササイズ、そしてマインドフルネスを組み合わせることで、ヨガはバランスや柔軟性、体力、可動性を向上させる一方、精神的なウェルビーイングやストレス管理にも役立ちます。ヨガは、様々な体調や健康状態に適応させられるため、高齢者の多くにとって心身の健康を維持するための行いやすい方法となります。これらの効果は、自立性を促進すること、転倒リスクを下げること、QOLを高めること、人を中心においた健康やウェルビーイングへのアプローチを促進することなど、WHOの「健康長寿の一年」(2021ー2030)の目標のいくつかに役立ちます。




ヨガとは何か、なぜ祝うのか?


ヨガは、インドを起源とする古代からの身体的、精神的、霊的な実践です。「ヨガ」という言葉は、「つなぐ」あるいは「結合する」という意味のサンスクリット語から来ており、身体と意識の結びつきを象徴しています。

現在、世界中で様々なかたちで実践されており、ますます人気が高まり続けています。

その世界的人気を鑑みて、2014年12月11日、国連では6月21日を国際ヨガデイと宣言しました(決議69/131)。

国際ヨガデイは、ヨガを実践することの効果の多くに対する世界中の意識を高めることを目指しています。

国際ヨガデイの制定決議案はインドによって提案され、記録的にも加盟国175カ国から承認されました。当初、第69回総会開会の挨拶の中でナレンドラ・モディ首相によって提案されました。首相の発言はこうでした。「ヨガは私たちの古代からの伝統による非常に貴重な贈り物です。ヨガは、心身の結合、思考と行動の結合を包含し、そのホリスティックなアプローチは健康やウェルビーイングに有益です。ヨガは単なるエクササイズではありません。自身が世界、自然とひとつであるという感覚を見つける方法です」

決議書には「人々が健康的な選択をとり、健康を養うライフスタイルのパターンに従う重要性」が言及されています。この件についてWHOはまた、加盟国に対し市民の運動不足を解消するよう促しています。運動不足は、世界での死因の10位でもトップであり、循環器病やガン、糖尿病などの非伝染性疾病の主なリスク要因となっています。

しかし、ヨガは単なる身体的な活動ではありません。ヨガの最も有名な実践者の一人であるB.K.S.アイアンガー氏の言葉にあるように「ヨガは、日々の生活の中で、バランスの取れた姿勢を維持する方法を養い、行動の質を高めるスキルを与えてくれます」






(出典)https://www.un.org/en/observances/yoga-day

2026年6月2日火曜日

プラナを理解する Vol.2 
Understanding Prana


前回の続きです。

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プラナと心


精神エネルギーは、食物や呼吸、外界から受け取る印象から派生します。プラナは印象の取り込みを司り、サマナは精神的な消化を調整、ヴィヤナは精神的循環を管理します。アパナは有害な思考やマイナスの感情を排出します。ウダナはプラスの精神エネルギー、力、熱意をもたらします。


精神レベルでは、プラナは栄養や感情のプラスの源、そして心や感覚を通した知識の感受性を司ります。混乱すると、不健康な欲望や底なしの強い欲求が起こり、わたしたちは間違った方向へ導かれ進み、一般的にはバランスを崩します。


アパナは、負の志向や感情を取り除く能力を支配します。これが混乱すると、鬱状態を起こし、重荷となる未消化の体験でいっぱいになり不安で抑圧され脆くなっていきます。


サマナは栄養や満足感、そしてバランスの取れた心を与えてくれます。混乱すると、執着や貪欲さに繋がります。物に固執し、狭量で沈滞した独占欲の強い行動を起こすようになります。


ヴィヤナは心の動きや独立性を与えてくれます。混乱すると、孤独感や嫌悪感、疎外感を生み出します。他社と結束することができなくなり、自分がしていることだけに繋がり続けます。


ウダナは、喜びと熱意を与えてくれ、より高次の精神や創造的な可能性を覚醒するのを助けます。混乱すると、プライドや傲慢さを引き起こし、不安定で高すぎる目標に向かおうとしたり、自身の根源へのつながりを失います。






プラナの精神的な観点


ヨガの実践において、プラナは多くの特別な機能を持ちます。精神的なレベルでは、サマナが心臓の中の空間を調整し、そこには真我が7つの炎をもつ火として存在しています。サマナは、むらなく燃えなくてはならない内なる火を調整します。サマナが作り出す平和やバランスがなければ、自身の中心部に戻ることも心を集中することもできません。
 

ヴィヤナは、ナディを開き、その機能においても澱みないきれいな状態に保つことを通してプラナの動きを司ります。アパナは負の霊的影響や架空の体験から私たちを守っています。プラナ・ヴァーユは、精神を開発するために必要な正しい欲望をあたえてくれます。
 

ウダナは、意識の成長を司り、心を夢を見ている深い眠りの状態へ、そして死後の世界へと連れて行ってくれます。ウダナはまた、シュシュムナの上方へ動きも調整しています。精神はウダナ・ヴァーユとともに動くため、精神的な成長には最も重要なプラナだと言われます。


ヨガを実践していると、こうしたプラナの微細な面が覚醒し、クリヤと呼ばれる無意識に起こる様々な動きなどの普通ではない心身エネルギーの動きを引き起こすことがあります。エネルギーの新しい広がり(微細なヴィヤナ)を感じるかもしれませんし、大きな平穏(微細なサマナ)、空中に浮くような軽さ(微細なウダナ)、深い根付きや安定性(微細なアパナ)、あるいは活力や感受性(微細なプラナ)が高まったと感じるかもしれません。




プラナに働きかける


物質レベルでは、正しい栄養がプラナを増やします。正しい排出もまたそうです。アーユルヴェーダ的な考えにおいては、食物からのプラナは大腸、特に最初の3分の1の部分で吸収されます。そのため、体の健康のためにはアパナが最も重要なプラナです。


ヴェーダによれば、この世の人間は食物をアパナで食べますが、神はプラナで食べます。人間は物理的な組織の集まりで正しい食物によって維持されます。神は感覚で、感覚印象という形でプラナそのものを通して食物を取り込みまやす。プラナを強めるには、儀式や視覚化などの実践とともに、色や音、香りに関した感覚の癒しや自然との接触が重要です。


プラナに働きかける主な方法はプラナヤマで、特にヨガの呼吸法という形になります。ヨガは自己実現の手段として心身どちらもの浄化を重要視し、そのためプラナが豊富なベジタリアンの食事(つまり生命力に満ちた食べ物)、精神修練や誠実や非暴力などの倫理観に根ざした心を重要視しています。不純で有害、乱れた心身は高次の自己を実現することはできません。心身を浄化する鍵はプラナで、この2つに繋がっています。主な方法はプラナが流れているナディを浄化することです。


この面においてヨガの呼吸法は有用で、最も重要なのはナディ・ショーダナ(片鼻交互の呼吸)で、左右のプラナの流れのバランスを取ることができます。ヨガのシステムによれば、体や経絡は左右どちらかが優勢です。右は太陽の性質を持ちます。消化や労働、意識の集中などの行動を助け、ピッタ、火のような性質を持ちます。左側は月の性質で、ナディはカファ的、水の性質が優勢です。休養や睡眠、リラクゼーションなどの行動を促進します。


プラナやエネルギーのバランスを維持するためには習慣的な肩鼻呼吸が最も重要ですが、他にも方法があり、プラナとアパナを繋げることです。アパナ・ヴァーユは重力に沿っていて通常は下向きに動きますが、そのため病気や死だけでなく意識の下降にも繋がります。一方でプラナ・ヴァーユは精神や感覚を通して上方へ分散する傾向があり、上方へのエネルギーの道筋でもあります。ヨガの実践はアパナを上方へプラナを下方へ動かして2つをつなげることが求められますが、これがプラナすべてのバランスをとるのに役立ちます。そうすれば、うちなる火であるクンダリニがおへそのあたりで燃え立つようになります。ムーラ・バンダ(根の鍵)はこの面において重要な実践です。


マントラと瞑想


精神のプラナへは直接働きかけることができます。心や感覚に働きかけるプラナヤマのテクニックがありますが、それらは呼吸に限られていません。色や音(音楽)は、エネルギーを心に向ける重要な方法ですが、最良のテクニックは特に「オーム」など一音節のマントラで、プラスのエネルギーを無意識に向けるのを促す振動が作られます。心に空間を作り上げる瞑想そのものはより多くのプラナを作り、精神が空の広がりのように穏やかで受け入れる状態になった時、新しいエネルギーが現れて偉大なる変容に向かわせてくれます。


ヨガで進む道は、プラナをコントロールすることが基本となっています。献身のヨガであるバクティ・ヨガは、聖なるプラナとつながることでプラナの変容をもたらします。奉仕のカルマ・ヨガは聖なる意志に従うことで、外に向いた行動だけでなく精神の成長を含むより多くのプラナを与えてくれます。
 

伝統的ヨガであるラジャ・ヨガは、精神活動のコントロール(チッタ・ヴリッティ)が基本となっています。心の振動(チッタ・スパンダ)はプラナの振動(プラナ・スパンダ)に従うため、心を制御するのにプラナヤマが役立ちます。また、五感から離れて内側の気づきへと引き入れられるため、五感の調整(プラティヤハラ)にも役立ちます。ハタヨガそのものが主にプラナに関することであり、ヨガのポーズはプラナの動きの現れであり、多くの偉大なヨギたちは、機械的な練習を通してではなく、覚醒したプラナの力を通してをヨガポーズ学んできました。


知識のヨガであるジナナ・ヨガは、強い意思と集中を要します。このヨガでは、精神的なものだけでなく日々の活動すべてにおいて、私たちが得ることのできない発達したウダナ・ヴァーユなしで、プラナへの問いかけ、すなわち真我に対する問いかけが必要です。


まさにヴェーダが語る通り、私たちはみなプラナのコントロール下にあります。プラナは太陽であり、命や光をみなに分け与え、生きとし生けるものすべての真我として心の中に存在しています。私たちのなかにあるプラナは、命を与えてくれ、行動させてくれます。このより大きな力に心を開き迎え入れることを学び、より多くを人生や行動に取り入れるよう求めなければなりません。これこそがヨガの最も偉大な秘伝のひとつなのです。



2026年5月19日火曜日

プラナを理解する Vol.1 
Understanding Prana

ヨガやアーユルヴェーダでよく出てくる「プラナ」
生命力だったり呼吸だったり「気」だったり。
今回はそんなプラナについてです。

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この3つの世界に存在するもの全てはプラナのコントロール下にある。母親が子どもを守るが如く、おおプラナよ、我らを守り、輝きと知恵を与えたまえ

ープラシュナ・ウパニシャッド 2.13

私たちが生まれ持つ5つの主な能力である精神、呼吸(プラナ)、話す力、聞く力、見る力は、どれが最も重要なのかについて議論していた。その争いを解決するため、欠けた時に最も困ることになるのはどれかを見ようと、彼らはそれぞれ体を離れることにした。まず話す力が離れたものの、無言にはなってしまったが体は元気なままだった。次に目が去ったが、盲目ながらも体は元気だった。そして耳が離れたが、聞こえないものの体は成長し続けた。ついに精神が去り、今度は無意識になったが体は生き続けた。しかしプラナが離れ始めると、体は死に向かい始めた。他の力はすぐに生命力を失っていったのでプラナのもとへ急ぎ、プラナの優位性を認めてとどまる様に懇願した。



これは古いヴェーダの物語で、少しずつ違うバージョンがさまざまなウパニシャッドの中で見られます。最初の議論が意味するのは、私たちの能力が統合されず意識をコントロールしようとそれぞれが競い合うというよくある人間の状態です。プラナが離れる時、全ての能力にエネルギーを与えているのがプラナであり、プラナがなければ何も機能できないということが明確になります。この物語の教訓は、これらの能力をコントロールするにはプラナをコントロールしなければならないということです。


心身に良い変容をもたらすためには、エネルギーの働きを理解しなければなりません。この力をサンスクリット語で「第一のエネルギー」の意味でプラナと呼び、「呼吸」や「生命力」とも訳されることがありますが、実際にはそれ以上の意味を持ちます。プラナそのものが表すさまざまな形について、西洋のヨガ文献ではあまり語られないため、その広大で深淵なプラナの科学が理解されることは稀です。


プラナには、体の呼吸から意識そのもののエネルギーに至るまで多くのレベルの意味があります。プラナは単なる基本的な生命力ではなく、原始の創造力です。私たちの存在のすべてのレベルで働く全てのエネルギーを支配しています。この全世界はまさにプラナの現れです。意識を変容させるうちなるエネルギーである大蛇の力、クンダリニ・シャクティでさえ、プラナが覚醒することで起こります。


宇宙のレベルでは、プラナには2つの局面があります。ひとつは出現していない純粋意識のエネルギーであり、全ての創造物を超越しています。ふたつめは出現したプラナで、意識そのもののエネルギーであり、デヴァトマ・シャクティやチティ・シャクティと呼ばれます。出現していない純粋意識のプラナから、全宇宙が存在物へと成り、創造のプラナの出現となります。


自然そのものは3つのグナ(質)から成ります。サットヴァ(調和)は精神を生じさせ、ラジャス(動)はプラナを生じ、タマス(不活発)は身体を生じさせます。自然は動的、ラジャス的なエネルギーです。高次の自己、純粋意識の引力に応えて、このエネルギーはサットヴァ的となります。無知の不活発さによって、この同じエネルギーはタマス的になります。


身体の存在と比較すると、生命力であるプラナは呼吸する酸素から主に起こる「風」要素の変容したものです。微細なレベルでは、空要素は触覚に対応し、触覚を通じて私たちは生きていると感じ、生命力を他の人に伝えることができます。



コーシャ

人間の存在は5つのコーシャ(鞘)から成る

  • アンナマヤ・コーシャ(食物でできた鞘)。これは物質であり、私たちが摂取する5つの要素(地、水、風、火、空)で作られています。

  • プラナマヤ・コーシャ(呼吸でできた鞘)。これは生命力である、ヴァーユという5つのプラナから作られています。

  • マノマヤ・コーシャ(印象の鞘)。これは外側にある低次の精神で五感の印象で満たされています。

  • ヴィジュナーナマヤ・コーシャ(概念の鞘)。これは知性そのもので、方向性を持った精神活動です。

  • アーナンダマヤ・コーシャ(体験の鞘)。これはより深い精神で、記憶、潜在意識、超意識の精神を含みます。



プラナマヤ・コーシャは生命エネルギーの領域です。この鞘は、物理的な体と、3つの精神的な鞘(外側の精神、知性、内側の精神)を媒介しています。また、5つの粗い要素と5つの感覚印象の媒介をも行なっています。
  

プラナマヤ・コーシャは、5つの運動器官(外分泌、泌尿生殖、足、手、発声器官)を繋げており、生存、生殖、運動、自己表現の欲求を含みます。行動への熱意や動機をもたらします。


ほとんどの人は、物理的な身体とそれに深く存在する欲求に支配されており、それは生き続けるためには不可欠なことです。身体は無意識のエゴが存在する場所であり、様々な恐怖や欲望、執着がとどまるところです。私たちの多くが、このコーシャを通して、感覚的な楽しみや形ある物質を得ることといった形で喜びを得ようとして人生を過ごします。
 

強い身体を持つ人には個性を世界に認めさせる能力があって、傑出した人生を歩む人が多いです。身体が弱い人は、多くを成し遂げるエネルギーが少なく、多くの場合は従属的な地位に留まります。一般的には、体力があり自我の強い性質を持った人が世界を動かします。しかし、この性質は精神的な道のりでは最大の障害のひとつとなります。というのも、彼らにとっては、自身の欲望に基づいた衝動に疑問を持つために必要なより大きな力に身を委ねることが困難だからです。


そのため、精神的な人生はプラナを押さえ込まなければならないと考える人もいますが、プラナマヤ・コーシャが強いということは、利己的あるいは欲望志向の活力とは全く異なります。それは個人の力から得られる強さではなく、聖なるエネルギーへの降伏から得られるものです。霊化された強いプラナマヤ・コーシャがなければ、持続的な集中した実践を行うエネルギーを持つことはできません。


ヒンズーの神話では、このより高次のプラナは風の子である猿の神様ハヌマンに象徴され、古代神話ラーマーヤナの中で語られています。ハヌマンは神の生まれ変わりであるラーマとその妻シータに仕えており、それによって望む通りの大きさになり、あらゆる敵や障害を乗り越え、奇跡を成し遂げる能力を得るのです。そうした精神的な方向へ向かう性質によりエネルギーや好奇心、熱意を持つことができ、五感や身体的な衝動(低次から高次まで全ての意思や野望)をコントロールする能力をも得るのです。



ヨガにおける5つのプラナ


プラナマヤ・コーシャは、ヴァーユまたは「風の力」とも呼ばれる5つのプラナから成っています。これら5つのプラナは、動きと方向によって分類されます。これは、アーユルヴェーダ医学でもヨガの実践においても重要なテーマです。


プラナ・ヴァーユ

プラナ・ヴァーユは文字通り「前進する風」という意味で、内向きに動き、食べることから、飲むこと、息を吸うこと、感覚を得ること、精神的な体験に至るまでの体の中に受け入れるあらゆる種類のものを調整しています。もともと推進力があり、物事を動かして導き、日々の中で私たちを動かす基本的なエネルギーを与えてくれます。
 

アパナ・ヴァーユ

「立ちさる風」であるアパナ・ヴァーユは、下方そして外側へ動き、あらゆる形の排泄や生殖(下方への動きもある)を司っています。便や尿の排泄、射精、月経液や胎児の放出、そして呼吸を通した二酸化炭素の排出を制御しています。より深いレベルでは、負の感覚、感情、精神的な体験などのを排除を支配します。私たちの免疫機能の基礎となります。


ウダナ・ヴァーユ

「上へ動く風」のウダナ・ヴァーユは、上方へ動き生命エネルギーの質的、変容的動きをもたらします。体の成長を司り、立つ能力や話す能力、努力や熱意、意思を調整します。主なプラスのエネルギーで、さまざまな鞘での成長や意識の発達を助けます。


サマナ・ヴァーユ

「バランスをとる風」であるサマナ・ヴァーユは、攪拌や識別を通して周囲から中心へと動きます。すべてのレベルでの消化を助け、消化管では食べ物を消化し、肺では空気を消化あるいは酸素を吸収し、精神では感覚、感情、精神の体験を消化します。


ヴィヤナ・ヴァーユ

「外に向かう風」のヴィヤナ・ヴァーユは中心から周囲へと動き、すべてのレベルでの循環を制御します。食物、水、酸素を身体中に運び、精神の中で感情や思考を循環させ続け、勢いを授け強さを与えます。







5つのプラナはまた、体の場所という観点でも見られます。プラナ・ヴァーユは、頭から、身体のプラナの中心であるおへそへのエネルギーの動きを制御します。アパナ・ヴァーユは、おへそから背骨の先端である根のチャクラまでのエネルギーの動きを制御します。サマナ・ヴァーユが司るのは、おへそから全身へのエネルギーの動きです。ウダナ・ヴァーユは、おへそから頭へのエネルギーの動きをコントロールします。


簡単に言えば、プラナ・ヴァーユは物質の取り込み、サマナはその消化、そしてヴィヤナは栄養の循環を司っています。ウダナはプラスのエネルギーの解放、そしてアパナは老廃物の排泄を調整します。これは効率的な機械の働きにとても似ています。プラナは燃料をもたらし、サマナがその燃料をエネルギーに換え、ヴィヤナがそのエネルギーを様々な現場に循環させます。アパナは変換プロセスでできた廃棄物を処理します。ウダナはこうして造られたエネルギーを管理し、機械が効率的に機能させます。


健康の秘訣は、プラナを調和し続けることです。ひとつのプラナのバランスが崩れると、すべて繋がっているため、他も均衡を崩しやすくなります。大抵の場合、プラナとウダナはアパナのバランスを取っていますが、それはエネルギーを作る力が排泄のバランスをとるためです。同様にヴィヤナとサマナは、拡張や収縮という側面でお互いに調整し合っています。




プラナはどのように物理的な体を作り上げているのか


プラナがなければ、体はただの泥人形に過ぎません。プラナが、様々な微細の神経経路(ナディ)を造って、それ通して操作してエネルギーを与えて粗い物質を様々な組織や臓器の形に変え、このゼラチン質の塊りから手足や様々な内臓などを形作っています。


プラナ・ヴァーユは、頭部や脳から心臓までの開口部や経路を作っています。頭には、2つの目、2つの耳、2つの鼻の穴、そして口と7つの開口部があります。ウダナ・ヴァーユは、上半身の開口部、特に口と発声器官を作るプラナを補助します。口は、頭だけでなく全身のための開口部だからです。実際、ある意味では、身体は食べたり自己表現の主な臓器である口の延長なのです。


アパナ・ヴァーユは、尿生殖器と排泄など下半身の開口部を造ります。サマナ・ヴァーユは身体の中央部にある開口部、おへそを中心とした消化器をつくります。肝臓、膵臓などの臓器と腸との経路を開けています。ヴィヤナ・ヴァーユは身体の周囲を走る腕や脚などの経路を作ります。静脈や動脈、そして筋肉、腱、関節、骨などを形作ります。


おへそは、主に消化器官からなっている物理的な身体、つまりアンナマナヤ・コーシャの主なプラナの中心です。粗いプラナが食物として、小腸を中心とした消化プロセスに取り入れられ、主に筋肉などより重い組織に保持されます。しかし、プラナにはより微細なレベルでの機能に基づいた中心もあります。心臓はプラナマヤ・コーシャのエネルギーの主な中心です。呼吸で取り込まれたプラナは、心臓の機能で血液にのって運ばれていきます。頭は精神的な鞘であるマノヤマ・コーシャの中心で、主に目や耳からの感覚受容によってエネルギーがもたらされます。


呼吸は、体内のプラナ活動の主な形です。プラナ・ヴァーユが吸気を調整しサマナが酸素の吸収を司りますが、それは主に呼吸を止めている間に起こります。ヴィヤナはその循環を調整します。アパナは、
特に二酸化炭素の排出を管理しします。ウダナは会話や歌など呼吸を通したプラスのエネルギーを解放することで呼気を調整します。






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2026年3月9日月曜日

アナンターサナ(ヴィシュヌの寝椅子)の神話 
The Mythology Behind Anantasana (Vishnu's Couch)



「終わりのない」「無限」という意味のアナンタは、永遠、誕生や成長、死などすべての変化の超越などを表し、喜びや幸福感が無限である状態を表します。感じられる物質を超えたこの甘く自然な状態は、アナンタという巨大な神話上の蛇で表されます。アナンタのとぐろは宇宙を支え、ヴィシュヌ神が次の生まれ変わりの前に休む際の寝椅子となります。アナンタにアサナを付けるとヨガポーズの名前となり、この生まれ持った幸福感、平穏、永遠の感覚を養うのに役立ちます。


アナンタ(アディシェシャとも言われます)はヨギにとっては重要な人物です。ヨガスートラを編纂したパタンジャリはアナンタの生まれ変わりだと言われます。バガヴァットギータでクリシュナは「蛇の中でも、私はアナンタである」と言います。アナンタは、宇宙を支える者の一人で、時が始まる前から存在していました。


神たちが乳海を撹拌して世界を作った時、アナンタの体はロープとして使われました。アナンタは、他の世界であるパティアーラの海に浮かび、彼のとぐろの上で保護者であるヴィシュヌとともに永遠に住んでいました。700年ごと、あるいは創造物が本当に困ったことになった時、アナンタはとぐろをかすかに動かしヴィシュヌ神が形をとって地上に現れ、そして時代が始まります。時代の終わりには、ヴィシュヌは休息へと戻るのです。どんな時も、創造物が生まれ、育ち、愛し、争い、死ぬ時も、アナンタは下で地上のあらゆる活動の影響は受けず、究極の目撃者であり続けます。


パタンジャリの頭上にはコブラが被さっており、世界の考えうる全ての悪や困難からの究極の保護を表しています。7匹の蛇が、パタンジャリや彼に師事した全ての弟子らを守るための聖なる傘を形作っています。この7つの蛇は、地水火風空の5行を完全に理解したこと、また解脱と悟り、モクシャとサマディを得たことを象徴しています。




個人的な世界でのアナンタ


個人の世界においては、背骨が体の土台で支柱であり、中枢神経の存在する場所です。下界から危険が迫ると、アナンタがヴィシュヌ神を呼び起こして地上の危機に対処するように、体の交感神経が動き出して反応を刺激します。心拍数や呼吸数が増え、消化に影響を与え、筋肉に血液が送られ、闘争逃走行動の準備をします。危機が去れば、副交感神経が体と心を落ち着かせ、心拍数呼吸数がゆっくりになり、心もまた落ち着き、ヴィシュヌはアナンタのとぐろへと戻っていきます。


興味深いことに脳の基部は「爬虫類脳」とも呼ばれ、呼吸のような生命維持のための最も基本的な行動を司っています。それは知覚には全く関係がありません。もし呼吸について考えなければならないとすれば、注意散漫になったり眠ってしまったらすぐに死んでしまうでしょう。感じられる世界の変化や要求に反応する時、警戒する役目を果たすのは前頭葉(認知脳)で、何が起こっているのか、どう反応すべきかを理解します。アナンターサナは、深い内側へと降りていき、爬虫類脳の本能的な認識、静けさ、休息の深い感覚を体験するよう促してくれます。







アナンタサナのポーズ




  1. 左を下に横たわります。両膝はやや曲げても構いません。バランスをとるため右手を体の前の床におき、左腕は床の上で左耳の横に伸ばします。体の左側を、股関節から腋の下まで伸ばします。できれば、左の腋の下は床に下ろします。

  2. 腋の下を下げ続けながら、左肘を曲げます。左手を左耳につけます。肘はできるだけ耳の横に置いておきましょう。三頭筋を伸ばします。

  3. 床で左脚を踵に向かって伸ばします。腋の下から踵まで体の左側を床に押しましょう。右脚を左脚の上に重ねます。

  4. 仙骨を前へ引きます。左脚を腰から踵まで落ち着かせます。横たわってはいますが、これはバランスをとるポーズです(股関節屈筋にも効きます)。両膝は伸ばしたまま、頭から尾骨まで長く一直線にしましょう。左側全体を押し下げて体を安定させます。まっすぐ前を見て、目の高さで床の上の安定した点を見つけて見つめましょう。

  5. 呼吸を一旦止めます。尾骨へと息を吐きます。コブラの頭のように、頭骨の基部にある骨を広げます。頭頂を通って息を吐きます。呼吸と意識を、両足の下20センチと頭の上20センチまで広げましょう。

  6. 次に、右膝を曲げます。右脚を外旋させて左脚の内側まで踵を引きます。右足の親指を右手の親指と人差し指で掴みます。右肩を回し下ろしましょう(親指がつかめない、肩が開かない場合はストラップを使います)。

  7. 息を吐きながら、指を掴んだまま右脚を伸ばします。右腕の上端を肩関節に向かって引き寄せ、右肩甲骨を下げます。脚は前方に右臀部は後方に向くはずです。仙骨を引き寄せて、右の坐骨を左踵に向かって伸ばしましょ
    う。

  8. 舌をやわらげます。全ての力を抜きます。体全体を呼吸で下ろします。呼吸を背骨に沿って、ゆっくりと心地よい、蛇のような動きで波立たせます。呼吸が背骨を支えて地面が体を支えているのを感じます。目の力を和らげて、コブラの頭の基部である頭骨の底へと脳を休ませます。表面で起こっている事柄は流して、アナンタと共に、深く、根源的で、無限で不変の状態になりましょう。


  9. 無限の700年が終わったら、長くゆっくりと息を吐きます。少しシューッと音が出るかもしれません。体を回して座位にもどり、とぐろを調整して、反対側でも繰り返します。そうでシューッ。



ヨガスートラの2.47でパタンジャリはこう書いています。「無理な努力をやめ、心を無限(アナンタ)集中することでアーサナは完全なものになる」さて、これをあなたの練習に取り入れたらどんな感じがするでしょうか?

2025年12月5日金曜日

科学と意識 
Science and Consciousness


意識とは何か、科学が意識(真実)を探求できるのかについての考察です。

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ここ数年、より多くの科学者らが現実の非二元性という性質に対する洞察を主張してきている。しかし、この主張は基本的な真実、つまり「意識は、科学的究明の範疇を超えている」ということを見落としている。したがって、その真の性質のため、こうした主張は有効ではありえない。


これまで科学と精神性の間には、いつもなんらかの反目が存在している。地球が宇宙の中心ではないと主張したガリレオに対するカトリック教会の迫害だけでなく、天地創造を主張する人々とより現実的なダーウィンの進化論を好む人々との間にある現在の議論も頭に思い浮かぶ。それゆえに、科学者らが非二元性について著したより多くの書籍や論説を目にする機会も多いのだろう。「科学と非二元性」と題された年次大会すら存在し、同じフォーラムでこの2つの知識を探求することも可能になっている。


逆説的に、現実の性質を探求する道具としての科学の力とその決定的な欠点は、その客観性にある。実験的観測とその後の論理的思考の科学的手法は、ヴェーダンタと共通するものであり、前に経験した者の発見を受容するということも含まれる(より新しい発見と矛盾がない場合に限る)。


この世界が私たちの限られた知覚器官で感じ取れるままではない可能性を、人々に考えさせることに、科学は大きな貢献をしてきた。極論を言えば、走査型電子顕微鏡によって指先の物質の想定されている硬さを調べられる。その一方で、ハッブル望遠鏡によって裸眼では見ることのできない銀河の渦まく雲の無限まで覗くことができる。「現実」とは日常の体験によって私たちが信じているよりもずっと微細なのだ。私が今、書き物をしているテーブルの硬さは、電子の回転と原子の周りの共通軌道に関する覆ることのない法則によるものだ。宇宙の膨大なエネルギー源は、ブラックホールに吸い込まれていく数々の星雲からきている。私たちの体の感覚は周りの出来事を説明するにはほとんど役に立たないが、科学には可能であるように見える。


科学によれば、すべては原子でできており、原子はより小さい粒子の集合で、同様にその粒子はより基本的なもので形作られているという。光ですらエネルギーの塊でできていて、時には粒子のように、時には波のように振る舞う。最終的には、全ては純粋なエネルギーに還元され、それ自身が作られたり壊されたりすることはなく、ただ変化していくだけだ。すなわち全ては「ひとつ」である ー そしてこれこそがアドヴァイタ(ヒンズーの一派、非二元論を謳う)もまた述べていることではないか?そして、量子力学者ハイゼンベルクは観察者と被観察者は複雑につながっていると示し、この非二元性の観念を支持していたのではないか?


少なくとも、科学がどのように古代の文献に示された真実を立証し、より洗練された現代の精神により受け入れられる言葉で表現しているかを説明する表面的な論争に至る。残念ながら、この整理された説明には著しい欠落がある。意識を物質の体系内に置いていることだ。その結果、科学はそれを附帯現象だと、ある程度の複雑性に達した物質進化の偶然の結果だと言い逃れをするしかない。もちろんこれは、物質は意識の現実化であるというアドヴィイタとは全く相反している。


表面的には、意識と物質ははっきりと分かれた「もの」だ。サンキャ哲学とヨガ哲学において宇宙の材料はプラクリティやプラダーハナと呼ばれ、プルシャと呼ばれる意識の原理とは異なる。主要なインド哲学の他方は(ニャイヤとヴァイシェーシカ)、宇宙の要素は「原子」あるいはパリマヌスと考え、ここでも意識とはまったく別のものとしている。プールヴァ・ミマンシャカとウッターラ・ミマンシャカ(アドバイティンを含む)のみが意識を創造物の要素と認識している。


アドヴィイタによる科学が意識を調査できない理由は難なく理解可能である。この意識はブラフマン、真我であり、究極の対象である。ケーナ・ウパニシャッド(1.4–7 and 2.3) では、「言葉で悟らぬもの、精神で考えられぬもの、目で見えぬ、耳で聞こえぬもの。理解していると思う者はそれを理解しない」また、シャンカラの弟子であるシュレシュヴァーラがナイシカルミャ・シッディ(3.48)に記したように「真我は、知覚力などという知識の経験的手段を通しては理解することはできない。命への渇望によって喀出された痰にすぎない。全くもって経験的認知の対象ではなく、それは最も奥にある真我である(そして感覚と分つことなく感じることもない)からだ」


科学の手法はまた、因果関係という概念に縛られている。常に探しているのは観察した現象を説明するための原因である。しかし、ゴウダパーダがマンドゥキャ・ウパニシャッドに関するカリカで指摘するように、非二元的現実、チュリヤはカリヤ・カルナ・ヴィラクシャナであり、原因と現象に関連性はない。空間や時間、因果関係を超越ている。それゆえに、科学に基づいた現実の探索は矛盾でしかない。


科学とその手法は、表面的な世界の物質やメカニズムを観察するには素晴らしいものだ。事象の最も見込みのない中でのその巧妙さは、おそらく果てしない。そしてこれらの究明の中には、私たち以外のものへの究明に価値があるものもある。例えば、アドヴァイタのネティネティ(ブラフマンが何なのかを探求するために、何がブラフマンでないのかを自問する方法)などだ。



しかし、科学が物質を探求するのに素晴らしい方法であるとしても、物質の本質は究極的には非二元的現実と同じであるため、失敗に終わるしかない。「Notes on Spiritual Discourses (1386)」でアトマンダ・クリシュナ・メノンが記したように、「主観性の影が少しでも残る限り、客観性が消えることはない。そして客観性が完全に消えない限り、対象の真の性質は決して視覚化できることはない。これこそが、インドの内外どちらにおいても、精神の媒体を通した真実に近づこうとする試みにおいて科学と哲学が犯す基本的間違いである」


意識なくして、何ものも知ることはできない。しかし、意識そのものが知識の対象となることはなく、それは真っ暗な部屋の中で、周りを照らせる明かりがそれ自身を照らすことはできないのと同様である。意識を知るためには、それは知りうる客観的対象でなければならず、すでに知っている主観的対象ではならない。私たちが意識を「知っている」のは、私たちが意識だからだ。意識は私たちの真の性質である。究極の観察者(本質的な自分自身)は、どのような客観的探求もただ不可能である。探求するための究極の観察者を超えるものは誰もいないからだ。


この事象の見かけの逆説的状況は、真実レベルの混乱の現れだ。科学領域である世界においては、脳などの対象の探求は精神によって行われる(意識の内省)。この世は、知るものと知られるものの二元性の世界だ。絶対的真実の視点からは、ただ意識があるのみである。世界は、名前と形の現れでしかなく、その意識からは決して分かれない。しかし、意識そのものは、この世レベルの精神では決して探求することはできない。科学で得られるものは、知識ではなく情報だ。そこには終わりがない。より多くを調べるほどにより多くを見出す。そして、どんな論理も良しとされるのは疑うべき情報が出てくるまでである。「私」は情報ではない。絶対であり覆らない。


科学の発見は常に、より深い観察のもとに修正されて行くものだ。これが方法論の性質である。しかし、自身を非二元性とする認識は客観的知識ではない。どんな感覚器官を通しても直接的に知るものではなく、どんな根拠も必要とせず、修正される対象でもない。決定的であり絶対だからだ。


科学は、どうしようもなく客観的探求の領域に制限されている。これは科学の強みであり、科学者が霊的な探求に役立つ貢献を望むなら、その道程にあるネティネティの段階で努力することに集中すればよい。ハイゼンバーグの不確実性は、主観と客観の間にある妥協できない対立によってそれ以上の情報を収集できない時に、物質のますます微細な行動を探求する地点に到達したことを明確に示していた。これが、科学的探求の終着点である。意識そのもものは主観と客観の対立そのものが消滅した時、観察をも超えた微細のなかの最も微細である。ということは、誰もそこには到達できないということなのだ。










2024年12月20日金曜日

ガヤトリ・マントラ:歴史、意味、効果について 
Gayatri Mantra: History, Meaning, & Benefits


薄明かりの朝や夕暮れは、私たちを自身の内側へと呼び戻してくれる時間です。「おお、夜と夜明けという2つの聖なる力よ、2隻の船のように我らを向こう岸まで連れて行っておくれ」とヴェーダが唄うのはそのためです。古代、熱心な探究者らは朝早く起きて沐浴し、儀式を行い、マントラを唱え、瞑想のため座りました。そして夕方には、また瞑想の時間をとって1日の疲れを洗い流したのです。今日においてもヨガの実践者の間では、朝夕の移り変わりの時間は今も伝統的な瞑想の時間です。


この昼間と夜の移り代わりに行われる瞑想は、サンディヤ瞑想と呼ばれます(サンスクリット語でサンディヤとは繋ぎ目のことです)。ヴェーダの時代から始まったサンディヤ瞑想は、今も世界中で見ることができます。これらの瞑想は、何百万人の日常生活に信仰や内省を与えています。早朝の光が風景を照らし暗闇を一掃するように、サンディヤ瞑想は精神を浄化し、啓蒙し、養うのです。







ヴェーダの象徴性


サンディヤの霊的なテーマは、ヴェーダのシンボルを通して伝えられています。ヴェーダは聖歌を通して、実態のない真実を疑う余地のない宇宙としてあがめています。太陽や月、風、火、雨を称賛し、それらを人間の母や、娘、姉妹、兄弟、父として普遍的に表し、鍋や扉、車輪などの人による発明品を宇宙の真実の現れだと認識しています。


言い換えれば、私たちの住む宇宙は最高度の真実そのものであるが、人生の出来事や夢によって覆い隠されているのだと、ヴェーダは語ります。私たちが見ているのは全体の、つまり1日の周期、季節の移り変わり、生と死、種まきと収穫のうちのほんの一部です。これは、現れていない全体の一部が表れている姿であり、見えないものの見える一部分なのです。


しかし、海を見たとたん、地球の海の明らかな果てしなさに驚嘆する感覚が現れるのと同様に、夜明けごと夕暮れごと、生と死が訪れるたび、私たちは見えない全体への脅威の念にしばし心が溢れてしまうものです。そうして、見えるものの中の見えないものの広範性、現れているものの中の現れていないものは、リグ・ヴェーダにこう記されているのです。


リグ・ヴェーダ:
聖者の4分の3は天に上り、4分の1はここにまた現れる。その後は、すべての場所に広がる。命あるもの命なきものどちらの世界にも。(Rig Veda 10.90.4)



こうした節は道標であり、この宇宙の広大さの中に現れる時、無限の真実が啓示されます。しかし、ヴェーダではそれほど単純には考えてはいません。真実のシンボルは常に変化し続け重なり合うと認識しています。例えば、昼間の光はアディティア(太陽)の産物である一方、夜の光はアグニ(火)の産物です。ですからアディティアとアグニは兄弟と表現されます。同様に、光の強さは、宇宙の光と人間の人格にある知性のどちらにも象徴されます。ですから、言葉の光とは、太陽の光あるいは知性の力のどちらの意味ともなるでしょう。


ですから、最高の真実はひとつの象徴には制限されず、またどのような自然の力にも具現されません。ヴェーダで根源的に崇められる太陽神でも月神でも雷神でもありません。これらは宇宙の儀式の単なる「司祭」であり、人生の普遍のリズムという形で私たちの眼前でくり広げられる儀式に過ぎないのです。私たちはみな、神も人も、この儀式の一部であり果たすべき役割があるのです。




ガヤトリ・マントラ


では、この考えを個人としてどのようにシェアできるでしょうか?その答えは、ヴェーダの啓示全体の総合的な知恵を包括しているガヤトリ・マントラです。リグヴェーダ(3.62.10)で、ガヤトリ・マントラはガヤトリ韻律(24音節を8音節ずつ3行に分ける)で書かれており、それにちなんで名付けられています。しかし、ガヤトリとはまた「歌い手を守る女性(gaiが「歌う」、traiが「守る」)」という意味もあります。ですから、ガヤトリは神聖なる母の名前であり、子どもを守り自己実現へと導く存在なのです。
ガヤトリ・マントラは次のように書かれています。


Tat savitur varenyam
bhargo devasya dhimahi
dhiyo yo nah prachodayat


しかし、マントラを瞑想で唱える時は、初めに1行追加します。この行は Om の音で始まり、maha vyahritis(「偉大なる言葉」;bhur, bhuvah, svah)という3つの短い音が続きます。ですから、瞑想で使われる完全なマントラは以下です。


Om bhur, bhuvah, svah
tat savitur varenyam
bhargo devasya dhimahi
dhiyo yo nah prachodayat



チャーンドーギヤ・ウパニシャッドでは、最初の行の重要性が説明されています。それによれば、かつて宇宙の神であるプラジャパティが、地と空と天という三つの世界でできた自然を考えていました。そして深い集中によりそれらを導く基本的な力 ー 地を制する火(アグニ)、空を制するヴァーユ(生命力)、そして天空を制するアディティア(太陽)ー を見つけることができました。


プラジャパティは再度深い集中をその3つの「種」である音、導く力に向けて、それらの真髄を得ました。火からはリグ・ヴェーダの節を、生命力からヤジュール・ヴェーダを、そして太陽からはサーマ・ヴェーダを得たのです。


彼はまた集中を、今度は3つのヴェーダに向け、リグ・ヴェーダからは bhuh の音節を、ヤジュール・ヴェーダからは bhuvah の音節を、そしてサーマ・ヴェーダからは svah の音節を得ました。したがって、3つの maha vyahritis は、ヴェーダの真髄であり、火と生命力と太陽の種であり、また地と空と天の種の音なのです。


最後にプラジャパティは3つの vyahritis にまとめて集中し、深い集中を通してひとつの純粋な音である Om の音節を得ました。Om とは「全てはこれである」という意味です。


ガヤトリ・マントラの次の2行は、太陽光、エネルギー、純潔、超越、啓蒙、哀れみ(全てのための太陽光)という概念を崇めています。


tat savitur varenyam 
bhargo devasya dhimahi


これは「私たちは自身の中に呼び起こし、聖なる太陽の存在というその驚くべき真実に瞑想する」と訳されます。


最後の行(dhiyo yo nah prachodayat)では調子が変わります。ここは請願であり、精神の明晰さと直感的な気づきを求めています。マントラは「お導きください」と求めています。この最終行の本質は、最初と最後の言葉に含まれています。最後の言葉 prachodayat の意味は「お導きください、ご誘導ください、道を示してください」。最初の言葉 dhiyah (dhiyo) の意味は単に「思考」ですが、より重要なのは、精神のより高みにある直感的な見通す力を意味していることです。マントラは、精神の最も素晴らしい力である直感的な能力が「聖なる太陽の存在というその驚くべき真実」で導かれるよう求めています。ですから、ガヤトリ・マントラの完全な訳は以下となります。


オウム
万物の3つそれぞれの面において
我らは自身の中に呼び起こし、
聖なる太陽の存在というその驚くべき真実に瞑想する。
我らの内なる見通す力を導きたまえ


ガヤトリは祈りでありマントラでもあります。マントラとしては、太陽に象徴されるより高みにある意識を実現するため、一連の音として瞑想者によって使われます。祈りとしては、神に導きを請うものです。「我が精神に道を示したまえ」と嘆願するのです。この祈りのなかには、霊的な哲学が精巧に説明されています。bhargah (太陽の精神)が、サヴィトリ(太陽の存在)であり、またスーリヤ(太陽)の内なる存在であると示します。祈りとしてのガヤトリは、純粋意識の無限の光である tat を求めるものなのです。


しかし、この純粋意識とは何なのでしょうか?ヴェーダは、純粋意識はより高い天にあり(それによって万物に行き渡っている)、また全ての人間にも存在します。意識は気づきの光です。


さあ、天に上に輝く光は、全ての場所に満ち、どこにも行き渡り、
下にも世界の最も遠い場所にまでも届く。
これは人の中に輝いている光と全く同じ光である。 
(チャーアンドーギャ・ウパニシャッド 3.13.7)


マントラと祈りという二つの役割により、ガヤトリは心を浄化し気づくという素晴らしい力を招いてれくるのです。




サンディヤ瞑想


ガヤトリ・マントラを練習したいなら、朝か夕方、あるいは朝夕に時間をとりましょう。(日の出や日の入りと全く同時に瞑想する必要はありません)。簡単に練習する方法は次のとおりです。


心地よい姿勢で座ります。リラックスした呼吸で、少しの間、鼻腔に流れる呼吸を感じます。心が落ち着いて集中してくるでしょう。


今度は、金色の太陽のような球体をイメージし、その金色の光を自分の中に移していきます。眉間から中へ、そしてその光を胸の中心のあたりへとゆっくりと下ろしていきます。そこで、太陽の金色の光線が身体中に心の中へと広がっていくのを感じましょう。


少し時間をとって、ヴェーダの予言者らに感謝します。そして、胸の中心であるアナハタ・チャクラにある金色の球体の中心で、ガヤトリ・マントラを心の中で繰り返し始めます。胸にある意識が内側にある太陽と溶け合うように、そしてその声が太陽の核から流れ出るかのように暗唱します。そこから、音節の音を自身のすべてに反響させましょう。


マントラを自然だと思われるだけ回数を繰り返します。長時間の練習にはマーラ(マントラの繰り返しを数えるための108個のビーズの数珠)を使うこともできます。自身の中に音を響き渡らせましょう。内なる存在のすべてに満たしましょう。


練習を重ねるにつれ、毎日のガヤトリのリズムが静かな喜びと共にあなたの朝と夕を明るくするでしょう。マントラによって、苦しみの場所から立ち上がり、精神的な確信を取り戻すことができます。毎日の穏やかな練習と気分の高揚、それこそ精神が必要としていることです。そのどちらもをガヤトリ・マントラで得ることができるでしょう。






2024年11月15日金曜日

プラティヤハラ:忘れられたヨガの支則 Vol.3 
Pratyahara: Yoga’s Forgotten Limb


前回の続き、最終回です。

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1. 同一の印象に集中する

精神を浄化し感覚をコントロールするもうひとつの方法は、例えば海や青い空を見つめるなど、同一の印象に意識を向けることです。不規則な食生活や相入れない質の食べ物が消化機能をショートさせるように、耳障りで過剰な印象によって印象を消化する能力も混乱します。そして消化力を向上させるには断食や、モノ・ダイエット(アーユルヴェーダでお米とムング豆のキチャリを食べるように)が必要であるのと同様に、精神の消化力も自然で同一の印象を取り入れて印象を断つ期間が必要なのかもしれません。


2. 肯定的な印象を作る


五感を制御するもうひとつの方法は、肯定的で自然な印象を作り上げることです。これには数多くのやり方があります。木や花、岩などの自然のものに対して瞑想する、または公的的な印象や思考の宝庫である寺院や聖地などを訪れるなどす。肯定的な印象はまた、お香や花、ギーのランプ、祭壇や礼拝に関する工芸品などを使うことで作り出すことも可能です。



3. 内的な印象を作る 


五感から離れるテクニックは他に、内側にある印象に精神を集中する、すなわち外側の印象から意識を遠ざけることです。想像力を働かせることで自身の内側にある印象は作り出すことができ、肉体の感覚が静まって初めて作用し始める微細な感覚に繋がることもできます。



視覚化すること


視覚化するることは、内側の印象を作り出す最も簡単な方法です。実際に、ヨガの瞑想の実践は、神やグル、自然の美しい景色などを思い浮かべることから始まります。神やその世界を思い浮かべる、または想像した神様に花や宝石をお供えするなど心の中で儀式を行うなどで、より複雑に視覚化することができます。心の中の景色に没頭するアーチストや、音楽を作り上げるミュージシャンも心の中で視覚化しています。これらはみなプラティヤハラなのですが、なぜならこれらは外的印象の精神域をクリアにし、瞑想の基盤となる肯定的な内的印象を作り上げるからです。準備としての視覚化は、ほとんどの瞑想に有用となり、他の霊的な実践に取り入れることもできます。





ラヤ・ヨガ


内なる音や光の流れのヨガであるラヤ・ヨガでは、粗い感覚から身を引いて微細な感覚へと集中します。この内なる音や光へと身をひくことは、精神を変容させる方法のひとつでインドリヤ・プラティヤハラのもうひとつの形でもあります。




プラナをコントロールする


五感のコントロールには、プラナの成長とコントロールが必要となりますが、それは五感がプラナ(生命力)の流れであるからです。プラナが強くなければ、五感をコントロールする力を持つことはできません。プラナが乱れたり混乱していれば、五感もまた乱れたり混乱します。


プラナヤマは、プラティヤハラの準備です。プラナはプラナヤマで集められ、プラティヤハラで内に入ります。ヨガの文献では、体のあらゆる部分からプラナを内にひく方法が述べられています。つま先から始め、頭頂や第3の目、心臓、あるいは他のチャクラなど意識を留めたいと思う場所で終えます。


おそらくプラナ・プラティヤハラの最良の方法は、死のプロセスを心に浮かべることでしょう。生命力であるプラナが体から離れ、足から頭まで全ての感覚が遮断されます。ラマナ・マハリシは、彼がたった17歳の少年の時にこれによって自己実現を果たしました。真我を深く探る前に、彼は自分の体が死にプラナが精神へ、精神が心臓へとと引き込まれるのを心に浮かべました。このような完全で集中したプラティヤハラがなければ、彼の瞑想のプロセスは成功しなかったでしょう。




行動をコントロールする


感覚器(目や耳など)に加えて、私たちはまた(手や舌など)運動器官を持っています。運動器官を制御することなくしては感覚器官をコントロールすることはできません。実際、運動器官は外界と直接関係しています。感覚を通して入ってくる衝動は運動器官を通して現れ、そしてこれがより強い感覚を得たいと想わせるのです。しかし、欲望は終わりがないため、幸福を得るためには、私たちが欲しているものを得ることではなく、外の世界からもう何も必要がなくなった時なのです。


印象の正しい取り込みが感覚器官のコントロールを可能にするように、正しい仕事や正しい行動は運動器官のコントロールを可能にします。これは、カルマ・ヨガで、人生に必要な行動を取ること、そして欲望や自己満足に基づく行動を避けることです。カルマ・ヨガには二段階あり、外に向けた行動や奉仕(セーヴァ)、そして様々な形式の儀式から成る内に向けた行動です。


カルマ・プラティヤハラは、神や人類全体に対する奉仕として行動することで、自分の行いに対する個人的な報酬に関するあらゆる思考を放棄することで実践することができます。バガヴァッド・ギータでは、「あなたの義務は行動することであり、行いに対する報酬を求めることではない」と書かれています。これは一種のプラティヤハラです。それはまた、運動器官のコントロールにつながる禁欲の実践も含まれます。例えば、アサナは手足をコントロールするために使われることがありますが、それは長時間、静かに座る際に必要とされるコントロールです。




精神を引いていく


ヨギたちは、精神は6つめの感覚器であり、他のすべての感覚器を調整する役割を持つといいます。感覚の印象は、精神の気づきがある場所でのみ受け取ることができます。例えば、テーブルからコップを。持ち上げる時に手の動きに合わせて目が見るものを関連づけることで、精神もまた感覚器官や運動器官を調整します。ある意味では、私たちは常にプラティヤハラを実践しているのです。精神の気づきには限界があり、精神を他の印象から遠ざけることである一つの印象に注意を向けることができます。私たちが意識を向ける場所がどこであっても、その他のものは自然に見落としてしまうものなのです。


意識をそこから遠ざけることで、私たちは感覚をコントロールしています。ヨガ・スートラによれば、「感覚がその対象そのものを確認するのではなく精神の本質を再現する時、それはプラティヤハラである」より明確に言えば、それはマノ・プラティヤハラ、つまり感覚を対象物から引いて精神の本質という内面、つまり形のないものへと向けることです。ヨガ・スートラにおいてヴィヤサは、精神は女王蜂のようなものであり、感覚は働き蜂のようなものだと解説しています。女王蜂が向かうところはどこでも他のすべての働きバチが従います。ですから、マノ・プラティヤハラは感覚のコントロールというよりは精神のコントロールなのですが、それは精神がコントロールされれば感覚もまた自然にコントロールされるからです。


不健全な印象が現れた時は、そこから意識的に注意を逸らすことで、マノ・プラティヤハラを実践することができます。これはプラティヤハラの最も高度な形で最も困難です。感覚や運動器官、プラナをコントロールすることに熟達していなければ、機能することは困難です。野生動物のように、プラナや感覚は弱い心を簡単に打ち負かすため、多くの場合、より実際的なプラティヤハラから始める方が良いでしょう。




プラティヤハラとヨガの他の支則


プラティヤハラは、ヨガの全ての支則に関係しています。アサナからサマディに至るまですべての支則にはプラティヤハラの局面があります。例えば、アサナの最も重要な面である座位のポーズでは、感覚器官と運動器官のどちらもがコントロールされています。プラナヤマはプラティヤハラの要素を含んでいて、呼吸を通して注意を内面に引き込みます。ヤマとニヤマは非暴力や知足など様々な原理や実践を含みますが、それは感覚をコントロールするのに役立ちます。言い換えれば、プラティヤハラはヨガの高度な実践のための基礎を与えてくれ、そしてそれは瞑想の基礎となります。プラナのコントロールであるプラナヤマの後、精神とプラナを結びつけることで、肉体という領域から出ていくのです。



プラティヤハラはまた、ダーラナとも関連性があります。プラティヤハラでは、通常の障害となる心の乱れから注意を引いていきます。ダーラナでは、マントラなど特定の対象物にそうした注意を意識的に集中させます。プラティヤハラはマイナスの実践ですが、ダーラナは同じ基本的機能でプラスの局面を持っています。




最も重要な支則


瞑想の実践を何年も行ってきたけれど、期待通りには達していないと感じる人は多いでしょう。ある程度のプラティヤハラのない瞑想を実践しようとするのは、穴の空いた器で水を汲もうとするのに似ています。どんなに水を入れても、それはまた流れていきます。感覚とは心の器の穴のようなものです。穴を閉じなければ、精神は真実の蜜を保つことはできません。瞑想をしたり感覚に耽ったりする人にはプラティヤハラが必要です。


プラティヤハラは、瞑想のために心を準備する様々な方法を与えてくれます。また、心理的な痛みのもとである環境的な障害を避ける手助けとなります。プラティヤハラは、人生をコントロールし、内面の存在を開くための素晴らしいツールです。何人かの偉大なヨギが
「ヨガの最も重要な支則」だと呼んだのも不思議ではありません。私たちは皆、実践にプラティヤハラを含めることを忘れてはならないのです。







2024年10月27日日曜日

プラティヤハラ:忘れられたヨガの支則 Vol.2 
Pratyahara: Yoga’s Forgotten Limb


前回の続きです。
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五感の制御


五感の制御、インドリア・プラティヤハラは、プラティヤハラで最も重要とされますが、マス・メディア志向の文化にいる私たちにはあまり耳にしたくないものでしょう。テレビやラジオ、コンピューター、新聞や雑誌、本など常にありとあらゆる刺激により、ほとんどの人が感覚過剰な状態になっています。商業主義の社会は、五感を通して興味を刺激することで機能しています。いつも明るい色や騒がしい音、ドラマチックな感覚を突きつけられています。ますますより多くの感覚的な楽しみにふけるようになっています。そして私たちの社会での娯楽とはとういったものがほとんどです。


問題は、そういった感覚というのは、躾されていない子供のように自分の意思を持ちとても衝動的な性質を持っていることです。五感は何がしたいかを心に伝えます。もし躾しなければ、五感は私たちを支配し、その終わりのない要求が心を乱します。私たちはいつも知覚が働くことに慣れていて、心を静かに保つ方法を見失っています。感覚の世界とその魅力の人質となってしまっています。五感に訴えるものを追い求めて、人生のより高度な目標を忘れています。こうした理由から、プラティヤハラは現代の私たちにとって最も重要なヨガの支則なのでしょう。


昔のことわざ「精神には意思があるが、肉体は弱い」は、五感を正しく制御する方法を学んでいない私たちに当てはまります。インドリア・プラティヤハラは、精神を強くし肉体への依存を減らすためのツールを与えてくれます。そうした制御は抑制(最終的に反発を起こしてしまう)ではなく、正しい調整と動機づけなのです。




印象を正しく受け入れる


プラティヤハラは、印象を正しい受け入れることです。私たちの多くは、何を食べるか誰と居るかに注意を向けますが、五感から入ってくる印象については同様の識別を行いません。個人の生活では決して許さないような印象をマスメディアを通して受け入れています。現実の生活では決して家に入れないような人々が、テレビや映画を通して家の中に入ってくるのを許しているのです!


毎日どんな印象を取り込んでいるのでしょう?それが私たちに影響を及ぼすことなどないと考えられるでしょうか?強い感覚は精神を鈍らせ、鈍った精神によって私たちの行動は無神経で軽率で、暴力的ですらなり得ます。


アーユルヴェーダでは、五感による印象は精神の主な食物です。精神域の背景は、五感の印象に支配されています。これは、精神が最後に聞いた歌や最後に見た映画などの印象を思い出す時に見られます。ジャンクフードが体を不快にするのと同じく、ジャンクな印象は精神を不快にします。ジャンクフードはたくさんの塩や砂糖、スパイスで味つけられていますが、それはほとんどが死んだ食物だからです。同様に、ジャンクな印象は強くドラマチックな印象(セックスや暴力)で現実であるかのように感じさせますが、それは実はそれらがただスクリーンに映し出された色にすぎないからです。


私たちが何者なのかについて、五感の印象の役割は無視することはできません。というのも、印象が潜在意識を築き、その中にある潜在的な傾向を強めるからです。印象をコントロールせずに瞑想をしようとすれば、潜在意識は私たちと闘うこととなり、精神の安定や明快さを作り出すことはできません。




五感から離れる


幸運なことに、私たちは五感の印象の嵐の前でどうすることもできないというわけではありません。プラティヤハラが正しく管理する実際的なツールをたくさん与えてくれます。おそらく印象をコントロールする最も簡単な方法は排除する、つまり五感から入ってくる全てのインプットからしばらく離れることです。断食が肉体に効果があるように、印象を断つことは精神に効果があります。これは、目を閉じて座って瞑想する、通常の五感の嵐から離れた場所(例えば山小屋など)に逃避するなど簡単にできます。


ヨニ・ムードラ(またはシャンムクティ・ムードラ)は、五感を閉じるための最も重要なプラティヤハラのテクニックの一つです。手の指を使って、頭部の感覚器(目、耳、鼻、口)をブロックして、意識とエネルギーを内側へと動かします。プラナヤマの練習をしたすぐ後など、プラナのエネルギーが強い時は短時間で効果があります。(もちろん、酸欠になるほど口や鼻を閉じてはいけません)


五感から離れるもうひとつの方法は、感覚器は開いたまま注意を内側へと引き込むことです。この方法では、実際に感覚器を閉じてしまうことなく、印象の取り込みをやめます。最も一般的な方法はシャムバーヴィ・ムードラで、目を開けたまま座りながら意識を内側に向けますが、いくつかの仏教の瞑想で使われるテクニックです。この感覚を内側に向けることは他の感覚、特に聴覚も同時に行うことができます。日々の生活のまま五感が働いている時でも、精神とコントロールするのに役立ちます。


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次回にまだまだ続きます。


2024年10月25日金曜日

プラティヤハラ:忘れられたヨガの支則 Vol.1 
Pratyahara: Yoga’s Forgotten Limb

ヨガって何でしたっけ?
やせるため、健康のための運動?若々しく綺麗でいるためのストレッチ?
さて、大事な物を忘れてしまっているかもしれません。

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プラティヤハラそのものがヨガと呼ばれるのは、ヨガ・サダナ(日々の鍛錬)の中で最も重要なものだからである ー スワミ・シヴァナンダ







ヨガは、精神修練の広大なシステムで、精神の成長のための手段を与えてくれます。私たちの本質の様々な側面を理解する方法や、そんな本質と私たちの内側や周りに存在するより大きな世界とを調和させる方法を授けてくれます。この素晴らしい精神科学は、私たちの可能性が最大に展開するのを実現する方法を示しています。


この目的を果たすため、伝統的なヨガのシステム(アシュタンガ・ヨガ)は8つの支則を取り入れており、それぞれが役割や機能を持っています。8つがまとまって精神を解放するための完全なシステムを作り上げている。この8支則とは、ヤマ(禁戒)、二ヤマ(勧戒)、アサナ(坐法)、プラナヤマ(調気法)、プラティヤハラ(制感)、ダーラナ(集中)、ディヤナ(瞑想)、そしてサマディ(三昧)です。これらの中で、プラティヤハラが最も知られていないでしょう。ヨガの指導者であっても、どれだけの人がプラティヤハラを明確に示せるでしょうか?プラティヤハラのクラスに出たことがありますか?プラティヤハラについての本をみたことがありますか?重要なプラティヤハラのテクニックのいくつかを思いつきますか?ヨガの実践の中でプラティヤハラを行っていますか?しかし、プラティヤハラを理解しなければ、ヨガの不可欠な部分を欠いていることになります。この側面がなければ、このシステムは機能しないのです。




ヨガの内側と外側の側面



ヨガの外的側面は、正しい生き方、正しい体の使い方、そして生命力を高めることから成っています。これが、ヤマやニヤマ、アサナ、プラナヤマです。ヤマとニヤマは、非暴力や誠実などの価値観や清浄や知足などの実践を通して正しい鼓動の基礎を作ります。アサナは体を強く柔軟にさせ、プラなヤマは生命力を高めてくれます。


ヨガには、瞑想やより高度な意識の開発などの内的側面もあります。これこそがヨガの目的であるダーラナ、ディヤナ、サマディがひとつのプロセスとして形を成したサンヤマで、広い意味では瞑想のことです。


八支則の5段階目として、プラティヤハラは中心に存在します。ヨガの外的側面のひとつだとする人もいれば、内的側面とする人もいます。どちらの分類も正しく、その理由はプラティヤハラがヨガの内外的側面の関係への鍵であるからです。次へどう進むのかを教えてくれます。


アサナから瞑想へと直接に進むことが可能な人はほとんどいません。これは、体から精神の間に何が存在しているのかを見失ったままジャンプしなければいけないからです。この移行を行うためには、まず体と精神を繋いでいる呼吸や五感を制御して正しく開発しなければなりません。ここでプラナヤマとプラティヤハラの出番です。プラナヤマによって生命力と心拍をコントロールし、プラティヤハラによって手に負えない五感を制御します。このどちらもが、瞑想を正しく行うために必要不可欠です。



プラティヤハラとは?



「プラティヤハラ」という言葉は「Prati」と「Ahara」という二つのサンスクリット語から成っています。「Ahara」の意味は「食物」あるいは「外側から自分自身へ取り込むもの」です。「Prati」は「逆らって」や「離れて」を意味する前置詞です。つまり「Pratyahara」とは文字通り「aharaの制御」あるいは「外的影響の統制」という意味です。これはこれまでカメが甲羅の中に引っ込むことに例えられてきました。甲羅は精神で脚は感覚です。一般的に「感覚から離れる」と訳されますが、より多くの意味を含んでいます。


ヨガの考えでは、アハラつまり食物には3つの段階があります。まずひとつめは、体を育むために必要な5要素(土、水、火、風、空)をもたらす物理的な食物です。ふたつめは、精神を育むために必要な微細物質をもたらす五感(聴覚、触覚、視覚、味覚、嗅覚)です。各感覚は、聴覚が空、触覚が風、視覚が火、味覚は水、嗅覚は土というように微細な要素から成っています。みっつめのアハラは私たちの人間関係で、魂を育み私たちのグナ(サットヴァ、ラジャス、タマス:調和、混乱、怠性の根本的質)に影響を与える心の中にある人々です。


プラティヤハラには二面性があります。間違った食物、間違った感覚、間違った人間関係から離れると同時に、正しい食物、正しい感覚、正しい人間関係へと向かっていきます。正しい食生活や正しい人間関係がなければ精神的な印象を制御することはできませんが、プラティヤハラで最も大切なのは、感覚が作る印象から離れ制御することであり、それによって内側へと向かう精神を自由にすることができます。


否定的な感覚から意識を離すことによって、プラティヤハラは精神的な抵抗力を強化します。健康な体が毒素や病原菌に抵抗するのと同じく、健康な精神は否定的な感覚が周囲に影響を与えるようとするのに抵抗します。もし周りの騒音や混乱ですぐに心が乱れてしまうなら、プラティヤハラを実践する必要があります。それがなければ、瞑想することはできません。


プラティヤハラには主に4つの形があります。インドリア・プラティヤハラ(五感の制御)、カルマ・プラティヤハラ(行動の制御)、プラナ・プラティヤハラ(プラナの制御)、そしてマノ・プラティヤハラ(五感から離れる)です。それぞれに特別な方法があります。


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次回に続きます。







2024年8月27日火曜日

全てのレベルで癒すアーユルヴェーダの知恵 Vol.1
Ayurvedic Wisdom to Address Healing on Every Level


アーユルヴェーダは古代のヴェーダ文献を起源にしています。サンスクリット語の「命」の意味を持つ「AYUR」と「知識」である「VEDA」の2つの言葉から作られています。古代の人々によれば、科学は体系的かつ論理的に整理された知識であり、時と共にアーユルヴェーダは命の科学、すなわち体、心、精神など私たちの全てを包含する広範囲の科学となりました。



どのように私たちが存在するのか


アーユルヴェーダの文献はサンキャ哲学に基づいています。サンキャ哲学では、全ての人間は宇宙の完全な秩序(純粋意識)の創造物であり、プルシャという男性的なエネルギーとプラクリティという女性的なエネルギーの形をとっています。プルシャは選択不可の受動的な意識であり、プラクリティは選択可能な能動的意識です。プルシャは創造には加わらず、プラクリティは神聖な創造の意思です。プラクリティは世界の全ての形を創造し、プルシャはその創造を目撃するのです。


プラクリティはグナと呼ばれる3つの特性を含む根源的な物理的エネルギーで、(宇宙から生じた)自然界全てに見られます。3つのグナとは、サットヴァ(本質)、ラジャス(動き)、タマス(不活発)です。この3つがこの世の全ての基本です。プラクリティに調和をもって包含されていますが、このバランスが崩れるとグナは互いに作用し合い、そうして宇宙の発展を生じさせるのです。


最初にプラクリティから現れるのは宇宙の知性です。「mahad」から自己意識(ahamkar)が作られます。そして自己意識が五感(tanmatras)と5つの運動機関となり、サットヴァの力を借りて有機的な世界を作ります。同様の自己意識がさらに、タマスの力を借りて自己意識が5つの基本元素(bhutas)となり、無機的な世界を作ります。ラジャスは体内の動的な生命力であり、有機的、無機的世界をそれぞれサットヴァとタマスへと展開します。つまり、サットヴァとタマスは不活発な潜在的エネルギーであり、現れるにはラジャスの活発な動的エネルギーが必要となります。







個性の働き


全ての個々の意識には常にサットヴァ、ラジャス、タマス間の相互作用があり、個人個人の相対的優勢は精神的で倫理的な性質の違いに起因します。例えばサットヴァな性質は、気づき、純潔、認識の明確さとして現れ、結果として善良性や幸福をもたらします。サットヴァが優位にある人は、敬虔で愛情深く、思いやりがあり純粋な心を持ちます。そうした真実や道徳的な正義に従う人は、礼儀正しく、良い行いをします。すぐに動揺したり怒ったりしません。精神的に勤勉ですが、心が疲労することはありません。健康的で注意深く、また意識が高く、輝きや知識、喜び、幸せに満ちています。


動きやエネルギーはラジャスによるもので、これが感覚的な楽しみや喜び、痛み、努力、絶え間ない動きなどをもたらします。ラジャスな性質が優勢な人は、自分本位で野心的、意欲的、
誇りや競争心が高い、また他人をコントロールする傾向があります。力や名声、地位を好み、完璧主義です。彼らは勤勉ですが方向性を欠いています。落ち着かず、活動的で動きを止めません。感情的には、彼らは怒り、嫉妬し、野心を持っていますが、成功しても喜びがもたらされることはありません。精神的な意識に誠実ではないのです。かれらの活動は自己中心的でわがままです。


タマスには、暗い、不活性、重いなどの特徴があり物質主義な考え方を持ちます。タマスな性質が優勢の人は、他の人に比べてあまり知的ではありません。鬱や怠惰の傾向がありよく眠ります。頭を使う仕事ですぐに疲れます。あまり責任のない仕事を好み、食べて飲み寝てセックスをすることを好みます。貪欲で独占欲が強く、執着し怒りっぽい、そして他人のことは考えません。彼らは瞑想に集中することは苦手です。




ドーシャの働き


精神的な性質に加えて、ヴァータ、ピッタ、カパという生物学的な気質(ドーシャ)が3つあります。体内の心理学的、精神病理学的な変化の全てを司り、全ての臓器や細胞組織に存在します。「空」と「気」が組み合わさってヴァータとなり、火と水がピッタとなり、水と地がカパとなります。


ヴァータとピッタとカパは誰にでも存在しますが、個々人によって異なる組み合わせになっています。例えば、基本的には体質は7つあります。ヴァータ、ピッタ、カパが優勢なモノタイプ、ヴァータとピッタ、ピッタとカパ、カパとヴァータが優勢なデュアルタイプ、そしてヴァータ、ピッタ、カパが同じ比率になる均等タイプがあります。ドーシャのバランスはまた、個人の体質におけるサットヴァ、ラジャス、タマスによっても影響を受けます。


ヴァータは軽く、動きがあり活動的、鮮明で収斂、分散します。そうした性質によって、ヴァータの人の髪や肌、腸は乾燥していて、便秘しやすい傾向にあります。ヴァータの軽い性質により、体重が軽く痩せていたり体重不足することがあります。冷たい性質が、手足の冷たさや血流の悪さとして現れます。ヴァータはよく動くので、ヴァータタイプはとても活動的です。


ピッタは熱く鋭く、軽く、流動的で酸味があってオイリー、広がる性質を持ち、ピッタが過剰になるとそれらが現れてきます。ピッタは熱いので、ピッタの人は食欲が強く温かい肌をしています。またピッタは鋭く、ピッタの人は尖った鼻、歯、目、心を持っています。鋭い言葉を使います。記憶力が良いです。オイリーな性質のため、柔らかで温かくオイリーな肌、ストレイトでオイリーな髪を持ち、オイリーで水分の多い便をします。ピッタは軽いため、ピッタの人は中肉中背で明るい光を嫌います。


カパは重く、遅い、冷たい、オイリー、水分が多い、密集、厚い、安定して濁っています。こうしたドーシャの優位性を持った人は、重い骨、筋肉や脂肪を持ち、体重が増える傾向があります。代謝や消化が遅く、冷たく湿った肌をして、太くウェーブのかかった髪をし、大きく美しい目をしています。遅い性質のため、カパの人はゆっくりと歩き話します。ジョギングやジャンプは好まいのですが、座って何もしないことが好きです。


個人の体質(プラクリティ)は、受胎時のヴァータやピッタ、カパの異なる組み合わせによって決まります。人は全て唯一の存在です。男性の種(精子)と女性の卵(卵子)が両親の体質を伝えますが、精子の受精時における優勢因子が、卵子の劣性を中立させたり同様の性質を促進したりします。例えば、強いヴァータ性質を持った精子は、卵子のカパの特徴をいくらか抑制します。乾燥して軽く、粗い動的な質のヴァータが、オイリーで重く、滑らかで安定したカパの性質を抑えるのです。ヴァータとカパはどちらも冷たいので、この性質は胎児の中で促進され、子どもは寒さに敏感になります。この場合の子供は、ヴァータ・カパの体質を受け継ぎます。一方で、精子も卵子も共にヴァータの場合、その子孫はヴァータ体質を受け継ぎます。



バランスが崩れること


アーユルヴェーダにおける健康とは、体と心と意識とのバランス、そしてヴァータ、ピッタ、カパという内的なバランスが取れている状態です。体そのものは3つの質(ドーシャ)、7つの組織であるダートゥ(血漿、血液、筋肉、脂肪、骨、神経、生殖器)、3つの老廃物であるマーラ(便、尿、汗)、そして火または代謝のエネルギーであるアグニから成っています。病気とはこれらのどれかのバランスが崩れている状態のことです。言い換えれば、病気の根本原因はドーシャ(ヴァータ、ピッタ、 カパ)の悪化であり、さまざまな要因で起こります。そして一度悪化すると、そのドーシャがそれぞれの場所で蓄積し始めます。ヴァータは結腸で、ピッタは大小腸で、カパは胃です。その誘因が続けば、蓄積されたドーシャが元の場所から溢れ出して全身に広がり、すでに弱った組織に入り込んでそこに病変を作り出します。ついには、影響を受けた臓器、あるいは全身に病変が現れるのです。


アーユルヴェーダでは、遺伝的、先天的、内的、外的、季節的、習慣的、超自然の要因が7つの病気の主な原因とされます。また病気は、五感(聴覚、触覚、視覚、味覚、嗅覚)の使い方が間違っている、使いすぎている、使わなすぎていることからも起こり得ます。病気そのものは、関係するドーシャの数、影響している特定の組織、、悪化したドーシャの組み合わせ、その病気は一次的なのか二次的なのか、悪化の強さ、そして病気が現れたてからの期間などによって特徴を述べることができます。


知られている遺伝病は多く存在し、特定の問題や実際の異常への傾向や性質などがあります。先天的な原因には、母親の生活スタイル、食事、習慣、活動、感情、人間関係など胎児に影響を与えます。潰瘍や肝臓の損傷などの内的な状態は、味覚の使いすぎ(例えば過度に辛い食べ物)が原因となることもあります。ドーシャに影響する外的なトラウマは、交通事故や銃創など暴力的行為です。


病気の季節的要因は、大抵はあまり直接的ではありません。例えば、夏は明るく軽く、熱い、つまりピッタの季節です。秋は冷たく風が吹き乾燥していて、ヴァータの季節です。冬は冷たく風が吹いて湿っているのでカパの季節です。早春は涼しく湿っていてカパ、そして晩春はピッタです。個人の体質がどうであれ、それぞれ関係するドーシャが対応する季節で悪化するでしょう。例えば、ヴァータの人は秋に便秘や坐骨神経痛、関節痛、リューマチする傾向があります。ピッタの人は、夏に蕁麻疹や吹き出物、ニキビ、胆汁異常、下痢、結膜炎などを起こすかもしれません。カパの人は、春に風邪や咳、便秘、くしゃみ、カパ性の鼻腔炎を起こします。


過食、不適切な食生活、喫煙など生来の傾向もまた問題にあり得ます。超自然の原因としては、日焼け、避雷、惑星の動きなどがあります。また、バランスの崩れた感情、深く根差した消えない怒り、恐怖、不安、悲嘆、悲哀などもまたドーシャに影響を与え病気の原因となります。



病を診断する


病気の経過診断の数多くのテクニックには、脈や舌を読む、尿を確認するなどの技術があります。脈には主に3つのタイプがあり(ヴァータ、ピッタ、カパ)、それぞれが異なる12箇所の橈骨動脈拍動でみられるはっきりとした特徴を持っています。もちろん、左右で6箇所ずつで、3つは表面で3つは深部です。これらの脈と内臓には関連性があり、指で各内臓の強さ、活力、生理学的状態などを知ることができます。


舌診断はまた、伝統的なアーユルヴェーダの技術です。この技術は、内臓の機能状態を明らかにする特徴的なパターンを基本としています。舌は内臓を写す鏡で多くの病気の状態を反映しているので、舌の表面を単に観察するだけでそれがわかります。こうしたパターンの中には伴う図形として見られます。


舌の特定の部分における変色や過敏は、その部分に対応する臓器の不具合を示します。白っぽい舌はカパの乱れと粘膜の蓄積を示します。赤い、あるいは黄緑の舌はピッタの乱れ、そして黒いから茶色の変色はヴァータの乱れを示します。乾燥した舌は血漿(ラサ・ダートゥ)が減少している兆候を示しており、青白い舌は赤血球(ラクタ・ダートゥ)の減少を示しています。


またアーユルヴェーダの医師は、体内ドーシャのバランスの乱れを理解するため尿検査をします。血液(ラクタ)やリンパ(ラサ)などの体液は、老廃物(マラス)を生み出した組織から運びだす役割をします。排尿システムは、水分(クレダ)、塩分(クシャール)、窒素性物質(ダートゥ・マラス)を体から取り除きます。また体液の水分(アパ・ダートゥ)や電解質の正常濃度を維持し、量を調整するのにも役立ちます。このように、尿はヴァータとピッタ、カパのバランスを維持する一役を担っています。


尿検査のためには、清潔な容器に早朝の尿を排尿途中で取ります。色を観察しましょう。もし黒っぽい茶色ならヴァータの異常を示しています。暗い黄色ならばピッタの異常です。尿が出ない、あるいは体があまり水分を取り込まない時にも、尿は暗い黄色になります。尿に濁りがあるなら、カパの異常があります。赤い尿は血液(ラクタ)の異常を示します。


正常な尿は典型的な尿の匂いがします。悪い匂いは、体内の毒素(アーマ・ドーシャ)を示しています。酸性の尿は、焼け付くような感覚があり、過剰なピッタを示します。尿の甘い匂いは糖尿病の状態を示しており、排尿中に皮膚の表面に鳥肌が出ることもあります。尿の結砂は、尿管の結石を示します。


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次回に続きます。



2024年7月26日金曜日

熱さをしのぐ呼吸:シタリとシトカリ 
Beat the Heat: Sitali and Sitkari


夏の暑さにイライラしていませんか?怒りに顔が赤くなったり、ホットフラッシュに悩まれていませんか?昔々のヨギは、コップ1杯の水を飲む間に体を落ち着かせることができる、涼しくするプラナヤマ(調気法)を見つけました。


ヒマラヤの山奥で古代の聖人たちは、体や呼吸、精神を制御しようという壮大な試みのため、周りの世界を観察して模倣しました。鳥の曲がったクチバシ、新芽が伸びる様子、コブラのシューっという声に気づき、こうした形状と音を真似てシタリという実践(涼しくなる呼吸)を行いました。このプラナヤマでは、吸気は丸めた舌を通って湿り気を帯び(鳥のクチバシと新芽)、水分で飽和した空気を「飲む」ことになります。


この実践は、呼吸への気づきを確立する以外にも空腹感や喉の渇きを落ち着かせ、一人で過ごす時間への愛を養うと言われています。また、シタリは体を冷やすとともに水分を与え、そしてそれはアーユルヴェーダ的に言えば夏によくみられるピッタバランスの崩れを落ちつかせます。さらに、この呼吸法は、疲労感、口臭、熱、高血圧を軽減します。







シタリの実践法


  • 頭と首、背骨をまっすぐにして心地よい姿勢で座ります。

  • 目を閉じて数分間、腹式で呼吸してから、口を開けて口元を「O」の形にします。

  • 舌を縦に丸めて口から突き出します(約2cmほど)。

  • ストローで飲む時のように、舌から口の中へと深く息を吸います。

  • お腹と胸の下が膨らむと同時に、呼吸の涼やかな感覚に注意を向けます。

  • 舌を引き込んで口を閉じ、鼻腔から息を吐き切りましょう。

  • シタリを2、3分間続けたら、腹式呼吸に戻ってまた数分、そしてまたシタリを2、3分間長く繰り返します。そうやって徐々に10分間まで延ばしていきましょう。



舌を丸められない?シトカリを試しましょう


  • 目を閉じて心地よく座ります。

  • 上下の歯を優しくくっつけて、心地よい範囲で唇を開き、歯が空気に触れるようにします。

  • 歯の隙間から息をゆっくりと吸い込み、呼吸のシューっという音に意識を向けます。

  • 口を閉じて息を鼻からゆっくりと吐きましょう。

  • 20回まで繰り返します。この実践をシトカリと呼びます。ハタヨガ・プラディピカによれば、シトカリには冷やす効果に加えて内分泌系のバランスを取り活力を高めます。



シタリとシトカリの注意点


シタリやシトカリは体温を下げるため、暑い季節や力強いアサナの後、または熱をつくるプラナヤマ(バストリカなど)の後に行うのが最適です。


ヴァータやカパの体質の人にとっては、冬季のシタリやシトカリは適切ではないかもしれません。また、いつ練習するかにかかわらず、体温に近い温度の空気を吸い込むようにしましょう。息が鼻腔で温められないため、冷たい空気は肺を害する可能性があるからです。






2024年5月24日金曜日

アシュタンガヨガ伝承(パタンジャリ)によるサマディの段階 Vol.1
The Stages of Samadhi According to the Ashtanga Yoga Tradition

パタンジャリのヨガスートラに書かれている最終段階のサマディについての解説です。
かなり深く難解なものですが、アサナだけでなく瞑想の練習の先には何があるのかを知っておくのもいいかもしれません。

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紀元前350年以降のいつ頃か、賢人パタンジャリとして知られる偉大なヨギがヨガの解説書を識し、現在では古典ヨガとして知られる伝統の定義的な書物であると見做されている。この書物はヨガスートラで、今まで地球上で作られた高度な意識の最も詳細な地図のひとつである。主に精神の本質について、そしてカイヴァリヤ、つまり解脱の状態がついに現れるまでサマディ(三昧)の異なる段階を通して精神がどのように変化していくのかについて書かれている。また、理論と実践が驚くほどまでに統合がされている。ヨガスートラにおいてパタンジャリは、ヨガの二つのシステムについて言及している。クリヤヨガ(禁欲、自己探求、神への帰服)と有名な8段階の道アシュタンガヨガである。これらがヨガの実践を体系的に解き明かし、ヨガの実践の目標とその目標へと到達する方法を非常にはっきりと示している。



ではここで、アシュタンガヨガ(ラジャヨガ)の観点から瞑想体験を詳しくみていくが、パタンジャリのシステムは実際には直接的に瞑想体験については述べていないことを理解しなければならない。そうではなく、我々が何年間ものサダーナ(霊的鍛錬)の間に展開する精神の変化について述べられており、精神と瞑想の対象との関係性に注目している。これは、瞑想鍛錬過程の中で起こるべきことについてあまりにも間接的なアプローチであるため多くの瞑想者が全く関係付けられないように思えるが、パタンジャリがこのようにしたのは相当な理由がある。



サムプラジュニャータ・サマディ(高度な知識のサマディ)の最も低い段階で起こる体験の多くは、個人的そして文化的な要素が含まれる(例えば宗教など)。さらに、それらは瞑想者が選択した特定の対象に関係する。サムプラジュニャータ・サマディのより高い段階では多くの普遍的要素が存在するが、それは全てのものは同じ根源を持つためである。しかしそれでも、この段階を得た瞑想者の体験は必ずしも全てにおいて一致するわけではない。その体験そのものの内容に焦点を当てるのではなく、瞑想の対象との関係性において精神の活動を述べることで、パタンジャリはより普遍的に応用できるシステムを作り上げたのである。したがって瞑想体験は、その段階の基準全てにあてはまると見えた時においてのみ、サマディの特定の段階に到達しうる。この論説で私は、私の博士号論文の準備中にインタビューしたヨギである私の兄弟姉妹たちの瞑想体験(ふさわしい実例だと私は信じている)を提示することで、精神と体験の間のギャップを埋めるのを助けられればと考えている。




以下のサマディの解説を理解するには、最初に3つの基本的な点を理解すると良いだろう。まずは、サマディはインドの洞窟に住む禁欲したヨギだけが体験できるものではないということだ。20年間ヨガを指導してきた私がしばしば驚かされるのは、アサナは勤勉に練習しているがプラナヤマや瞑想を練習しない北米の人たちの数である。彼らは世帯を持っていては瞑想をしても前進できないと信じているのだ。しかし、ウパニシャッドやプラーナ、ヨガ・バシシュタなどの中には、世帯をもったり親であったりする偉大なヨギやヨギニたちの話が多く存在する。また、ヨガの実践者やアサナの指導者であっても多くの人が瞑想をしない。彼らは瞑想の価値を理解していないか、ヨガのより深い教えを気にしないからであろう。また、プラナヤマや瞑想はアサナを完璧にしてからでないと始められないと間違って信じている人もいるが、人生の最も重要な活動を始めるのを漠然と遅らせる致命的な誤解である。


実際のところ、サマディの第一段階サヴィタルカは、ディヤナを単純に深めたものである。私の師であるババ・ハリ・ダスによれば、毎日休まず1、2時間実践するほとんどの瞑想者は、正しい指導を受けていればこの段階まで数年で到達する。1977年のババジのヨガスートラのあるクラスで、サヴィタルカ・サマディ中心の議論をしたことを私は覚えている。ある時、ババジが20人ほどの瞑想者たちのいる部屋をぐるりと指で示し「ここにいるほとんど全員がこれを得る」と書いた。だから、実践が実際に望んだ結果をもたらし得るからこそヨガ・マスター達は私たちに実践しなさいと言うのだということを、まず信じなければならない。実践が進むにつれて、体験が私たちの信じたものは間違っていないと裏付けてくれる。サマディに到達するのは容易ではないが、確実に可能である。



第2に、人は瞑想の実践中にサマディを得るというのは、精神は常にその状態にあり長時間絶え間なく存続することを必ずしも意味するものではないと理解することが重要である。これが起こる時には、瞑想者のサマディ体験は大抵の場合短時間であり、精神はまた外へと出てしまい意識の低いレベルへと落ちてしまう。この精神の外へ流れることをヴィユッターナと呼び、私たちの外の世界に関する思考、執着、欲望、記憶など(サマディでは一時的に抑えられている)が再び活動的になる時に起こる。精神が同じ深さの集中へと戻ることが可能なら、またサマディに入ることも可能だろう。このように、一回の瞑想の中で何度もサマディに入ったり出たりするものである。サマディとヴィユッターナのプロセスを通し、精神はこの2つの状態を比較しサマディ状態の微細と平穏をより感じる。これにより瞑想者はより高度な状態を得ようとする。



第3に、サマディはひとつの状態ではなく、進歩することで展開する一連の段階である。サマディの全ての段階は変わることなく2種類の結果をもたらす。いくつかのタイプの直接体験「知識」といくつかの度合の非執着である。ヨギがサーダナの道を進むにつれ得られる知識は一層深く、非執着はより深く長い効果を精神に与える。段階を達成するのにそれぞれ数ヶ月から数年を要し定着させるにはより時間がかかる。どれだけかかるのかは人により大きく異なり、瞑想者の解脱への欲求の強さや、実践の回数や深さ、そして過去の人生で行った瞑想の実践によるその人のサムスカラ(精神印象)による。そして、パタンジャリが言うよう、サマディは神への帰依によっても得られる。サマディの全ての段階において、修行者はまずその段階が示すものを完全に体験し、次に進む前にそれに対する興味を捨てる必要がある。サマディの段階を通して進むことはまた、浄化のプロセスでもある。全ての段階は精神を浄化し、精神をより微細にする。つまり、到達すべき次段階のため宇宙の存在のレベルまで深く洞察する能力を得る。




精神の準備をする


瞑想プロセスの第一段階が最も困難であるとしばしば言われるが、アシュタンガヨガの初めの部分はそれぞれサマディを得ることに一助している。ヤマとニヤマは精神を浄化する、アサナは長時間快適に座り続けることを可能にする、プラナヤマはより深く集中するエネルギーを与えてくれる。しかし実際にはパタンジャリは、ヨガは精神の中の思考の波の静止であると定義し(1:2)、このゴールへの最初の段階は (2:54 と 3:1)気付きを外界から引き込んで(プラティヤハラ)、対象物へと精神を集中することによって思考の波の現れをコントロールすること(ダーラナ)であると定義している。この「対象物」という言葉は物理的な対象物を指しているわけではない。瞑想者にとって霊的に意味のあるものなら何でも可能で、特定のチャクラや神の像、呼吸、悟りを得た存在の像、内なる光、内なる音、マントラなどである。究極的には、サマディによって作られる集中そのものであり、対象物ではない。そしてすべてのものの源は、より高い段階が得られた時に精神に自然に現れるものであるが、全て同じである。しかし、精神をひとつの本質だけに集中することを教えてくれるのは厳しい修業であり、個人的な親近感を感じる対象物を選択して瞑想することでそれを容易にすることができる。



ダーラナ(瞑想の間、それぞれの瞑想の対象物へ精神を戻すため繰り返す作業)は、ついにはディヤナ(精神から対象物への気付きの比較的努力を要しない流れ)へと発展し、ディヤナは時を経てサマディへと発展する。ディヤナが繰り返し得られると、湧き上がる平穏あるいは幸福に満ちた感情が、集中という修練への精神の憤りとのバランスを取り始める。サマディが始まるのは、精神と対象物の関係性が深まって、集中しているという精神への気付きが小さくなり対象物への気付きが精神そのものを圧した時である。





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2024年3月27日水曜日

足裏の英知:アーユルヴェーダの足マッサージの効能 
Sole Wisdom: The Benefits of Ayurvedic Foot Massage

今回は足のオイルマッサージについてです。
アーユルヴェーダでは、ハーブエキスの入ったオイルを使うことが多いのですが、手に入りやすい太白ごま油(透明のごま油)やココナツオイル(寒い時期、冷え性の人は避けましょう)などを使ってもいいでしょう。アレルギーの可能性のある人は、まずは少量を皮膚にのせてみて確認してみてください。

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多くの精神的伝統では心身はつながっていると信じられていますが、足裏もまたつながっていると考えられています。世界中の信者らが彼らの指導者の足に触れたり、洗ったり、キスをして愛や敬意を示します。ヴィシュヌ神の足跡は、アジアの至るところの寺院や聖地で崇拝されています。そして古代エジプトでは、死者の魂を肉体から解放するため、葬儀人がミイラにする時に死者の足裏を取り除いていました。



古代中国やインド、エジプトなどの伝統治療法でもまた、足裏は全身の健康を写す鏡の役割をすると考えられていました。今日では、米国足病学協会がこの知恵を踏襲し以下のように述べています。「関節炎や糖尿病、神経や血流障害などの初期症状は足に表れることがある。したがって足の病は、より深刻な医学的問題の最初の兆候である可能性がある」



扁平足だったり、単に1日の終わりに足裏の痛みや疲れがあったりする時は、5分間の時間を取ってアーユルヴェーダの足マッサージをしてみましょう。ストレスや疲労を緩和するだけでなく、免疫を活性化し、感情のや3つのドーシャのバランスを取ることができます。自分の足裏を意識しながらケアすることで、心身と魂の健康を基礎が作られます。アーユルヴェーダのエキスパートであるヴァンサント・ラド氏のご厚意による転載、シャノン・セクストン氏の Sleep Better Tonight! 6 Bedtime Rituals からの抜粋である以下の手順を参考にしてください。




  • 椅子やベッドに座り、温めたセサミオイルやブラフミオイル、ジャタマンシオイルなどを両手で擦り合わせます。手のひらや指先を交互に使い、頭皮に小さな円を描くように2分間マッサージします。それから、両足へと移りましょう。


  • さらにオイルを足して右足の足首から爪先まで、小さな丸い動きでマッサージします。そして、足首から踵へ、そして足裏へ。


  • 手の親指で足の甲のスネの付け根辺りを押します。優しくゆっくりと足の親指の方へ滑らせましょう。


  • スネの付け根まで戻り、手の親指を足の人差し指まで滑らせます。中指、薬指、小指にもこの動きを繰り返しましょう。


  • 右足首を左膝に乗せ、右手を右足の甲に置いて手足の指どうしを組み、足を内側、外側へ動かして、そして回しましょう。


  • 組んだ指を放し、右手の親指で足裏の内側を足の親指から踵まで押していきます。


  • 手の親指を足裏の外側にも、足の小指から踵まで滑らせます。


  • こぶしを作って足裏を小さな円でマッサージします。それぞれの足指を、関節を鳴らすかのようにゆっくりと外側に向かって引っ張りましょう。


  • この一連の手順を左足でも繰り返します。



マッサージが終わったら、温めた塩水をバケツに入れて両足を5分間浸し、ストレスや緩んだ毒素を引き出します。木綿のソックスを履き、枕にタオルを置いて眠りましょう。(朝は、長めのシャワーを浴びます。シャンプーで髪についたオイルを洗い流しましょう)













2024年3月18日月曜日

欲望との和解 
Making Peace with Desire

今回はヨガ哲学です。
ちょっと難しいかもしれませんが、自分とは何者なのか、真の自由についてどう捉えればいいのかの参考になればと思います。





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私は今、郊外の自宅で椅子に座って外の緑の丘を眺めている。そこには、鳥たち、花々、動物たち、樹々、心地よさ、誠実な家族、そして無私の奉仕の素晴らしい機会というような私を満たすものが全てある。ここには幸せに必要なものがいつも揃っている。それでも、このコテージの窓の外に、キャンピングカーが遠くの道を走ってくのが見えた時、心のどこかであのキャンピングカーに乗って虹を追いかけたい、そしていつか夢を叶えたいという落ち着きのない欲望が渦巻く。どこかに素晴らしい場所があるという思いが、どこに行っても追いかけてくるのだ。どこに行ったとしてもそれには辿り着けない、なぜなら「どこか」は絶対に「ここ」にはならないから。それに対して、もし喜びを今ここに、自分の中に見つけることができれば、それをどこにいてもどんな状況でも手にし続けることができる。これこそがキリストが言う「天の王国は内にある」ということなのだ。


欲望の対象は、「ここにある」もの、内側にあるもの、その価値次第だ。チョコレートケーキが食べたいと思っている限り、それはいくらかの喜びを与えてくれる、その欲望がなくなれば、チョコレートケーキに魅力を感じなくなる。目の前のテーブルの上に置くこともできるけれど、私に言わせれば、存在しなくなる。どんな欲望の対象にもその価値を与えるのは、欲望そのものだ。


少年が少女と出会って初めて手を握る時、彼はその興奮が一生続くと思うだろう。一年後にその少女に触れたところで意味はない。魅力が肉体的なものなら、その欲望が色褪せて消えてしまうのに長くはかからない。そこで少年は、他の少女に触れることで幸せが長く続くかもと考える、が、またがっかりするだけ。こういうことは何度も繰り返される。問題は少女のせいでも少年のせいでもない、ただ欲望は通り過ぎるものだからだ。


心というのは、終わりのない欲望だということができるだろう。ひとつ欲望が現れて、それが満たされて消え去ると、次から次から次へと現れてくる。心は欲望を持つものであり、そして欲望は変化するものだ。したがって、欲望を満たすことで永続的な喜びを見つけようというのは失敗に終わる運命にある。


例えば、ヨットが欲しいと思っている限りは、ヨットで航海することで幸せになれると信じている。もちろん、ヨットを所有してカリブ海に航海することでいくらか満足感はあるだろう。しかし、この満足感は欲望を持ち続けている間だけだ。その欲望が薄れ始めると(それは必然なのだが)その満足感もまた小さくなり始める。その欲望がついに消え去ると、満足感があった場所に退屈がおさまることになる。


欲望は何も悪いことではない。家を灯したり人を感電死させたりする電気のように、欲望に善も悪もない。私たちに行動させる最も強い力だ。悲劇が起こるのは、欲望が知性や意識的な意欲に対するものではない時だ。そして、私たちは運転席が空っぽでスピードをあげていくパワフルな車を持っている。あなたの街の全部の車が、運転手がいないままガレージから出てきてあちこち走り回る様子を想像してみてください。どれだけ事故が起こって、どれだけの命や物が失われるでしょう!自分の個人的な欲望に走れば、同じことが国家間や民族間、家族間、そして個々人で起こってしまう。私は欲しいものを追い求め、あなたも同じことをし、そうすれば遅かれ早かれ衝突する。



二元性の牢獄


圧倒的大多数の人間が、お金や所有物、快楽や名声を追い求めながら人生を過ごしている。これらは、泡のように持ち上げようとすると弾けてしまうはかないゴールに過ぎない。例えば、百万ドルを稼ごうとしている人は、その欲望の支配者というよりも被害者である。彼の目は自分の利益だけを見ていて、他者の幸福のことなど気づかない。


芸術もまた限界がある。多くの人に喜びを与えるかもしれないが、芸術家が自己中心的である限り全てを理解することはできない。目や耳といった感覚に制限された彼自身の人格に閉じ込められている。


科学者もまた二元性の牢獄に制限されている。彼らは「ここ」に座って「どこかの」星やバクテリアを研究する。最もパワフルな知能でさえ制限された道具にすぎず、物を分ける役にはたたない。絶えず一部分が働きその他が反応するという生きている全体像を見落としている。


命をひとつの全体として見るためには、個人的な快楽や利益、名声、権力のための欲望全てを削ぎ落とす必要がある。これらが私たちを突き動かしている限り、個人的な条件を通してしか命を見ることができない。命を、そのままではなく、自分の欲望に条件づけてとらえている。私があなたであるときのみ、私があなたを完全に知ることができるし、私が私である限り決して知ることはできない。誰かあるいは何かを完全に知るために、自分の人格だと信じている何かを削ぎ落とさなければならない。自分の人格だと信じているもの、それはサンスクリット語のアハムカラ、自分が世界の他のものとは異なる「私」であるとするものだ。


これは、マハトマ・ガンジーが言うところの彼自身をゼロにまで小さくが最後の目標だということだ。私は、こんな野望を抱く芸術家や科学者を知らない。ガンジーが何年もの霊的な修行を通してやがて自身をゼロにまで小さくできた時、命とは、その最も小さな部分が傷ついたとしてもそれは全体に及ぶ、分けることの出来ないひとつの命であるということを理解した。この命の一体化の認識により彼は暴力を放棄し、非暴力つまりアヒムサこそが地球上の国々や民族、家族を愛や奉仕によって一体にする最大の力であると明らかに示した。


偉大な芸術家の文化的貢献と偉大な神秘家の霊的貢献との極めて重要な相違を私たちは決して忘れてはならない。私にとって20世紀はスペース・エイジではなくガンジー・エイジだ。全ての命はひとつであるという不変の法則によって調和して生きる方法をこの時代に示してくれたのがガンジーだからだ。命のつながりについて絵を描いたり歌を作ったり、はたまた月に旅した訳ではなく(これらは価値のあることではあるが)、私たちの時代の最も恐ろしい問題に非暴力で直面することによってである。


もちろん文明は、芸術家や科学者、非凡な政治家たちのおかげで豊かになってきた。しかし、正しい道へと連れ戻し、自らの生涯を通して、全世界が試行錯誤を繰り返しながら向かう輝くゴールを垣間見させてくれたのは、偉大な神秘家たちである。ガンジーは自身の死ぬべき運命の肉体を脱ぎ捨てたが、彼の不死の魂、つまりアートマンは人々が暴力に背を向ける時はいつも体験することができる。


私のある友人は、瞑想でゾンビーにならないようにと知り合いから注意されたらしい。こんんな話を、意識から「私」という感覚を取り除くと人格を失うかもしれないと恐れる多く人から聞く。私は「人格(personality)という言葉はラテン語の仮面(persona)に関連している」のだよと気づかせる。アレクサンドル・ドュマの小説の中で、ルイ16世の双子の兄弟が鉄仮面を長年着けさせられたためにそれが彼の一部になるという話がある。どんなに試して見ても、仮面を取って彼の本当の顔を見せることができなかった。これは私たち皆と同じである。何年間も(あるいは人生何回分も)、私たちの心は、個人的な快楽や利益、権力、名声に対する欲望を満たすための終わりのない努力を通して、利己的で個人的でいるクセを身につけてきた。この分離の仮面を取払うことができたら、真の人格であるアートマンは美しく叡智と愛に輝くことだろう。


個人的な欲望がなければ、行動する動機などあり得ないではないかと言う人もいる。この問いに対してもまたガンジーの人生が最良の答えだ。彼の人格とゲームを楽しんでいる間、若いガンジーはロンドンで弁護士のディナーを食べ、バイオリンを練習し、ダンスを覚えようとした毎日を過ごして満足していた。その後南アフリカで、そこで酷く搾取されていた何千人ものインド人のために働くため自分の快楽や利益に背を向けた時、ガンジーは夢にも見たことのない深い心の源を見出した。自分の欲望を満たして生きていた間は、愛や叡智、勇気、素晴らしい行動の宝庫には気づかなかった。しかし自分のために生きるという小さな取るに足らない動機を放棄した途端、長く健康的で行動的かつ満たされた人生を過ごすための深い意識レベルにある途切れのない動機を見つけたのだ。




真の操縦者


自分のために生き、個人の功績への欲望に駆られている時は、自分自身が操縦者であり全てを行なっており、ハンドルを握っているのは自分だと信じずにはいられない。その結果、自分の行動の結果に固執し、成功に浮かれ失敗にがっかりすることになる。偉大な博愛家であっても神秘家らが締めそうとしている壮大な真実を垣間見ることもない。真の操縦者はこの小さな個人的な「私」ではなく、アートマン、真の我である。これが理解できていないと、努力が勝利となるか敗北となるかに悩んで消耗するのだ。ガンジーはインドの人々の社会的地位向上のため不断に働いたが、「行動の結果(個人の利益)」を放棄することによって、操縦者あるいは行うものとしての重圧から自由になった。


「あなたには行動する権利がある」とバガヴァド・ギータにある。「しかし行動の結果に対してはない」結果に対する不安、自分の思ったようにならない恐怖、見たところ最善の結果にならない恐怖は、消耗や疲弊をもたらす。行動の結果への欲望を捨て、無我の方法で無我の目的に向かって一所懸命働くことができれば、成功であろうと敗北であろうと最善の状態で働くことだろう。そして、敗北すらもまた機会となる。


行動の結果への執着を捨てることは、幾分か深いレベルの霊的な体験がなくては不可能である。霊的な気づきが深くなればなるほど、自分が行動の媒体であると信じさせる自己意志の制圧から自由になれる。


「自分が操縦者であるという思いからどうすれば自由になれるか?『神の意志が行われ」るためにどうすれば自己意志の自身を空にできる?自分の意思とは何か神の意思とは何かどうすればわかる?自分の自己を空にして、どうすれば聖フランシスコが言った「完全な神の平和の道具」になれるのか?」これらの問いは、誠実に、計画的に、そして持続的な熱意を持って実践すれば瞑想で得ることができる。答えは声や視覚では現れないが、ゆっくりと安定した識別と非執着の成長を通して得られる。古い欲望は私たちを掻き立てる力を失い、目の前にあったベイルが一枚ずつ落ちていき、視野が穏やかで明確になり、以前は自身の小さな部分しかなかった場所に全体を捉えることが可能になるのだ。


私はここに居て喜びはあちらにあると考えるのは、命の自分の一角だけを見ている時だ。一度全体を見れば、サマディと呼ばれる瞑想の境地を知れば、私はそこにもここにも居ることがわかる。私は誰の中にも何の中にも存在し、誰もかも何もかもが私の中にある。もう虹を追いかける必要もないし、人や物を所有する必要に駆られることもない。私は完全である。





 (出典)https://yogainternational.com/article/view/making-peace-with-desire/

2023年12月18日月曜日

ヨガの生命の樹
The Yogic Tree of Life



ほとんどの人にとって、樹木というのは地面から育つのが普通ですが、ヨガ的には樹木は逆さに成長します。「アシュワッタという永遠の木がある。その根は上にあり、枝は下にある」と、死の神秘を明かすヨガの書物であるカタ・ウパニシャッドでそう語られています。ヨガマスターや、シベリアのシャーマン、ペルシャの司祭、古代ケルト族、そしてバイキングたちもこの木のことをよく知っていました。


私の祖父母がイッグドラシルと呼ぶこの驚くべき木は、ノルウェーでは空から地面に向かって育つといいます。オーディンやトールなどの北欧の神は、私たちとは異なる枝に住んでしました。実際に古代のイギリス人たちは、自分たちのことを「ドルイド」つまり「その木を知る者」と呼んでいました。しかし、私がヨガを学び始めるまで、この逆さの木がいったい何なのか知りませんでした。


私が知る限りアシュワッタについて語る最古のものは、5000年以上前にインドで編纂されたリグ・ヴェーダです。「その木とは何か?何でできた木なのか?それが形作られているのは地なのか天なのか?」インド古代聖者たちは、文字通りその木を空に置きました。夜に外に出て、黄道(太陽や惑星の通り道)が天の川と交差するあたりの蠍座を探してみましょう。そこには、ヨギがムーラ「根」と呼ぶ空の蠍の尻尾に小さな星座が見えるでしょう。これが、世界の木が育つ天界の根です。ここはまた銀河の中心でもあるという驚くべき偶然が、もしあなたが偶然を信じるならですが、起こっています。


空に散らばる星たちを十二宮を逆さに辿っていくと、蠍座にアシュワッタの幹が生えていて、天秤座の方へ腕を伸ばしていて(インド星座では「分かれた枝」という意味のヴィシャカ)、そして獅子座や乙女座にある枝に実をつけています(「木の実」という意味のファルグニと呼ばれます)。古代聖者はここにカニャという若い女性を置きます(乙女座)。彼女は、木の実に片手を伸ばしています(からす座はハスタと呼ばれ「手」を意味します)。そしてそこで彼女の隣で木に巻きついた長い蛇がうみへび座で、古代インドではアシュレシャ「蛇の王」と言いました。インドの伝説によれば、この木の実はヨギ以外は食べてはいけませんでした。そのすざましい力は彼らにしか扱えなかったからです。


さて、ここでびっくりです。古代のインドやイランでは、天空の木は一本ではなく二本あったというのです。一方は金の実をつけ、もう一方は銀の実をつけます。これらは、蛇がイブに食べるよう誘惑した、聖書の知識の木やエデンの園の生命の樹を思い出させませんか?モヘンジョダロ(パキスタンの遺跡)で発見された粘土版の記述から、聖書の最古の部分がが編纂された1000年以上も前にインドではアシュワッタの木が崇められていたことがわかっています。古代アッシリア人もまた、女神イシュタル(乙女座)が世界の木のかたわらでライオン(獅子座)の上に立つ絵を残しています。これら星座の神話は、おそらく聖書のアダムとイブの物語の原型なのでしょう。イブは、黄道に沿ってなる木の実に手を伸ばしています。インドでは、ヨガの書物の中で十二宮のある黄道をアディチャスと呼び、木の実を食べたアダムとイブがとらわれてしまった死と再生の車輪、つまりサムサラ(輪廻転生)を表します。


ヨガの伝統では、行動の結果(木の実)への執着をなくすよう学びます。それはカルマをより複雑にするだけだからです。


ノルウェー神話では、木の世話をする三人の庭師が出てきます。一人目は過去を知るウルドという老婆で、二人目は現在を知るヴェルダンディという若い女性、最後は未来を知るロヒニという無垢な女の子で牡牛座の星アルデバランに関係があります。若いヴェルダンディはインドではチトラと呼ばれますが、西洋の天文学者からは乙女座のスピカとして知られます。運命をコントロールするとバイキングが信じている恐ろしい老婆のウルドは、インドの人がジェスタと呼ぶ赤く輝く星、蠍座のアンタレスです。この3つの星はそれぞれがほとんど同じ距離で離れていて、4方角を示す伝統的な天空の指標のうちの3つです。


古代インドで最も重要な儀式、馬の供犠で、この3つの星を表す3人の女性が儀式の頂点で午に手を置きます。この馬の供犠との関係が特に興味深いところは、世界の木の意味を持つアシュワッタは、実は「馬が立っている場所」という意味だということです。天空の馬とはもちろんペガサス座で、サンスクリットではダディクラス、4つ目の指標です。ペガサスは、天の北極の周りを永遠に駆け続けます。天の北極は、動くことのない北の空の一つの点です。それ以外の天空の全ては、周りを動きます。それは、時や変化の外にある魂を表します。私たちの内なる魂は完全な静寂の場所から、まるで回転する独楽の動かない車軸のように、周りで起こる物事を観察しているのです。


ノルウェーの天の北極はふたつめの木で、黄道の周りを回っている善悪の知識の木と直角に立っています。この北の木の銀の実は、有名なヨギの不死の蜜であるソーマの源です。これが、アダムとイブが食べることを禁じられた生命の樹です。カタ・ウパニシャッドは、わかりやすく暗示しています。「アシュワッタと呼ばれる永遠の木がある。その根は上に、枝は下にある。その輝く根はブラフマン、至高の真実と呼ばれ、それのみで死を超える。この世に存在する全てはその一点に根ざしている。それを超えるものは何もない」ウパニシャッドは、アシュワッタの樹の輝く根、つまり動かぬ一点を自分自身の中に見つけなさいと伝えているのです。では、実際にはどうすればいいのでしょうか?


ヨガで馬が象徴するのはプラナ、生命の呼吸です。呼吸は、ペガサスが北極星に繋ぎ止められているように、私たちの心に繋ぎ止められています。呼吸の周期は、ペガサスが天空を終わることなく回り続けるように、何度も何度も巡ります。しかし、ヨギたちは、自分の存在の動かない中心に意識を統合し、呼吸をゆっくりに、そして最後には呼吸を止める方法を知っています。これがサマディの状態で、瞑想の最も深いレベルです。


深い瞑想の中で、木に登り始めることができます。あなたの中にあるアシュワッタは背骨です。背骨の最下部にあるムーラダーラ・チャクラのことを根のチャクラと言いますが、超自然の根は実際には頭頂にあるサハスララ・チャクラにあり、そこが聖なる意識のある中心です。それが目覚めるのは、自身の外にある実を欲するのをやめ、内側に意識を向ける時です。そして、意識の力であるクンダリニの蛇が背骨に対応する微細な経路を頭頂へと上り始めます。インドからスカンジナビアに渡る世界の樹にまつわる伝説はどちらも、蛇が辿り着こうとする樹のてっぺんの近くに鷲がいると伝えています。鷲とはアジナ・チャクラで、眉間の後方にある意識の中心です。蛇が鷲を過ぎて超自然的な神経樹の最高地点に達した時、悟りが開かれると言われています。


バガヴァッドギータで、最上のヨギであるクリシュナは言います。全ての樹の中で聖なる意識が最も存在しているのはアシュワッタであると。もうひとつの聖典バガヴァータ・プルナでは、クリシュナは死の間際、意識を内なる存在へと引き入れアシュワッタの樹に沈思したと伝えています。死の時にすべての意識を内なるアシュワッタの天空の根に向けることができれば、ヨガの実践において何か素晴らしいことを成し遂げたといえるでしょう。






ところで、アシュワッタの木は実際に存在します。植物学者はそれをインド菩提樹と呼びます。その木の下に座って、ブッダは悟りを開きました。バニヤンツリーの一種で、最初は地面から生えますがその後たくさんの根を枝から下に伸ばします。その先が地面に到達すると、それがまた根となり新しい樹となります。このように、ひとつのアシュワッタがアシュワッタの森となります。そこで「どれが元の木なんだろう」と自問した時、森に生えている全ての木が実は元の木なのだということに気づくのです。見た目はたくさんの木が生えているようですが、本当はたったの一本なのです。古代のヨギが世界を象徴するためにアシュワッタを選んだのは、それを完璧に表すからです。この世の全ては別々のものに見えるけれど、真実は、全てのものは同じ永遠の源を共有しているのです。










2023年10月12日木曜日

スーリヤ・ナマスカラの古い起源:太陽礼拝 
The Ancient Origins of Surya Namaskar: Sun Salutation

では前回に続き、ハヌマンのお話です。
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先生と生徒の関係性は、ヨガの中心にあります。心の解放、解脱の道は先生を通して学ぶものです。ヴェーダの時代、グルとシシャ(先生と生徒)の関係はとても近く、まるで家族のようでした。生徒がオンラインでトレーニングの申し込みができたり、ペイパルやクレジットカードで支払ったり、決められた時間でトレーニングを終えたりできる現代とは全く異なります。その昔は、選んだ先生に受け入れられた幸運な生徒は、修了したと言われるまで先生のアシュラムに住み込みました。その間、生徒は実際の生活でも先生に仕えなければなりませんでした。木を切ったり、水を汲んだり、先生の動物や穀物の世話をしたりと、基本的に頼まれたことは何でもしました。先生と生徒の関係性は文字通りお金で買えるものではありませんでしたが、修行が終わる時、生徒は謝礼(グル・ダクシナ)をする必要がありました。それはお金でもいいのですが、大抵はそうではありません。多くの場合それは奉仕であり、先生が頼んだものは何でもするものでした。



ヨガ・スートラ(第1章24-26節)においてパタンジャリは、古代から指導者の指導者、根元的グルとしてイシュワラについて言及しています。イシュワラとはもちろん一個人ではなく、高い状態の意識であり、普通の、抑制された、エゴに基づいた状態の私たちを、超越した無限の状態へと変容させるものです。


古代から、人間はそうした究極の指導者に象徴を用いてきました。最も長く用いられてきたものの一つが太陽、スーリヤです。ガヤトリ・マントラという美しいヴェーダのお祈りでは、太陽は「私たちの心を照らす」と唱えられています。


ラーマーヤナの偉大なる猿のヒーロー、ハヌマンは、生まれてまもなくスーリヤに魅了されました。赤ん坊の彼は、空の太陽を見て大きく育った甘いマンゴーだと勘違いしたのです。その力強い猿の脚で地面を蹴り、長い猿の腕を伸ばし、高く跳び上がって太陽を・・掴んでしまったのです(ハヌマンには赤ん坊の頃から超自然の強さがありました)。ハヌマンが太陽を口にポンと入れて食べ始めると、世界は暗くなり、何か悪いことが起こったことにもちろん神々も気づきます。太陽はハヌマンの口を焦がしましたが、強情な猿は離しません。とうとうインドラ神がダイアモンドの雷電(ヴァジュラ)をハヌマンの顎にまっすぐ放ちました。


そこでやっとハヌマンは口を開けて太陽を吐き出し、世界の光は元に戻りました。けれど、彼はヴァジュラで怪我をしてしまいました。実際、彼の顎(ハヌ)は潰れてしまい、今日知られる名前「つぶれた顎を持った者」が付けられたのです。神々はハヌマンの力を一時的に取り上げましたが、あまりにも顎がかわいそうだったので(太陽を助けるためではなく)特別な力を与えることにしました。強さ、速さ、姿を変える能力、禁欲する能力、並外れた記憶力、そして神を真に愛することのできる能力を。それらは全て、その後ラーマ王に出会い仕える時に取り戻すことになるのです。






それまでの間、ハヌマンには教えが必要でした。「スーリヤにお願いしてはどうですか?」彼の母親であるアンジャナは提案しました。「彼は毎日馬車で世界中を駆け、全てのものすべての場所を見ています。全ての聖典を知り、あなたよりも高く遠くまで跳びます。あなたが赤ん坊の頃の果物のささいな事件のことなど忘れておられるに違いない」


そこでハヌマンはスーリヤに先生になって欲しいとお願いしますが、スーリヤは断ります。ハヌマンが彼を食べようとしたことは許しているのですが、こう言いました。「予定が詰まっていて、全く空いた時間がないのだ。動き続けねばならぬ。立ち止まってお前に教えを与えることはできない。そもそも私が動き続けているのにどうやって学べるというのだ」


「一緒に動いたらどうでしょう?」ハヌマンは訊ねました。「そうしたら生徒にしてくれますか?」
「お前には無理であろう。だがそれなら構わない」スーリヤは答えました。


ハヌマンは跳び上がりスーリヤの方に向かって位置を定めました。そしてスーリヤは、この生徒の粘り強さを認め、空を駆け始めながら聖典を説きました。これで当然、ハヌマンは常に後ろ向きに動くことになりましたが、そうする以外にあったでしょうか?先生に背中を向けるなど失礼です。


このハヌマンが後ろ向きに動く道筋が、スーリヤナマスカラ、太陽礼拝の始まりだと言う人もいます。考えてみれば、太陽礼拝の動きをすると、マットの後ろの方で終わるので続けて動くためにはまた前に戻らなければならないことに気づくでしょう。



ハヌマンはとても熱心な生徒だったので、ヴェーダを1週間でマスターしました。そして、スーリヤへの謝礼は何だったのでしょう?おそらくハヌマンが去って少しホッとしたであろうスーリヤは、全てを断りました。「熱心な生徒が学ぶのを見ていたのが、私への報酬であった」



「それでは」ハヌマンは言いました。「私の感謝とナマスカラ(敬意を表す挨拶)のみを捧げましょう」そうして、ハヌマンのグル・ダクシナとして太陽礼拝が生まれたのです。





練習法



歴史的に見ると、スーリヤナマスカラとしてしられる一連のポーズは、世界のエネルギーと光の源であるスーリヤを讃えて早朝の日の出に行なわれた実践から発展したと考えられます。1920年台、アウンドの王が彼の小さな王国(現在のマハラシュトラの一部)の学校に、全ての男女や子供が心身の健康のためにこの実践を取り入れてほしいと、決められた太陽礼拝の動きを導入し、小さな本を出版しました。


現在、ほとんどのヨガの生徒が、いずれかのバージョンのこの実践を早い段階で学びます(動きに合わせてマントラを唱える場合も)。この実践にははっきりとした「正しい」方法はなく、おおよそ12ポーズの流れから成ります。左右対照の立位のポーズ(タダアサナ)、両腕を挙げ、前屈して地面に触れ、ランジになり、下向きの犬のポーズでよく知られるV字のアサナ(他の名前もあります)、うつむきから胸を引き上げる上向きの犬へと流れ、下向きの犬へと戻り、もう一度ランジ、そしてまた地面に触れて前屈、両腕をあげ、そして最初の立位ポーズに戻ります。それぞれの流れを通して、後ろ向きに動き、そして前に戻ります。
  

スーリヤナマスカラで動く時、先生、つまり他でもない世界を導き照らすスーリヤのようにあなたの人生を導き照らす理想の先生イシュワラと向き合っていることをイメージしましょう。動きに合わせて愛と感謝を捧げましょう。




考察


赤ん坊のハヌマンが太陽にしたように、あなたも状況や人に対して誤った判断をしたことはありますか?思い違っていたゴールに向かって衝動的に飛びついた時に何が起きましたか?大切な何かに進もうと決意した時のことを考えてみましょう。甘いマンゴーのように魅力的に見えた仕事や関係が、実は想像していたよりもっと大きく熱く受け入れ難いものだとわかったら。あなたの過ちを思いとどまらそうとしてくれた人はいましたか?それを聞き入れたでしょうか?あなたの想像の中で「果物」だったと思っていたものを手放すのに何が必要だったでしょう?その過程は辛いものでしたか?その結果何か期待していなかったご褒美があったでしょうか?あなたの過ちは霊的に重要なものだったと思いますか?










2023年10月6日金曜日

ハヌマナサナの神話 
The Mythology Behind Hanumanasana

この夏、久しぶりにシンガポールに行った時、インディアン・ヘリテージ博物館や何箇所かのヒンズー寺院を訪れました。久しぶりに直接見るヒンズーの神様たちに、懐かしさとワクワクした刺激を感じました。
ヨガでは、ポーズの中で実は何度もヒンズーの神様に出会います。今回は、その中でも見た目の個性が強いハヌマンについてみていきましょう。

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ハヌマンは、猿族ヴァナラのスーパーヒーローで、風の神ヴァーユと猿族のアンジャナの息子だと言われています。この類稀な生まれから、ハヌマンには霊界と俗界のどちらにも特別なつながりがあります。南アジア文化全てにおいて、肉体的な強靭さ、勇敢さ、霊的な忠誠心といった特性を具現化しています。ハヌマンとヴァナラの人々は、古代インド叙事詩ラーマーヤナにおいて、王女シータと愛するラーマとを再会させるというきわめて重要な役割を果たしています。


風の神の息子であるハヌマンは、その力強い跳躍力で知られています。最も有名な跳躍のうち、2つはランカ島の戦いに関係しています。1度目にハヌマンは、囚われたシータを慰めるため、インドからランカ島まで海岸の間を100ヨージャナ(1ヨージャナは、伝統的に高地から呼び声が聞こえる最も遠い距離だと定義されています。諸説あり)の距離を跳びました。砂を巻き上げ波を後ろへ流す力で、彼の強い脚を伸ばしたのです。


ハヌマンは、後ろの脚の力で空へ舞い上がり、前の脚で遠ぉーいランカ島の海岸へと降りたちました。お祈りのように胸の前で合掌した手には、ラーマの指輪を携えていました。シータが番兵たちに見張られた木の下で悲しそうに座っているのを見つけると、こっそり指輪を渡してラーマがこっちに向かっていることを伝えました。


その後、ラーマの弟ラクシュマナが戦に倒れ、瀕死の状態になります。その傷を治す薬草は遠いヒマラヤに生えています。「行け、ハヌマン!お前の跳躍がもう一度必要なのだ。薬草は、ヒマラヤの・・」とラーマが話し始めるとハヌマンはもう居ませんでした。ヴァナラのスーパーヒーローは、ラーマが言い終える前に薬草がいっぱいの山上に立っていました。ああ、どの草なんだ?ラーマはどこを探せと言った?ハヌマンは植物から植物へと走り回りましたが、すぐに気づきます。「わからない!俺は猿だ、医者じゃ無い!ああ、全部持って帰って先生に選んでもろおう」そして山を根こそぎ引き抜いた彼は、何も落とさないように注意深く頭にのせ、医者の待つ戦場まで跳んで帰ったのです。「ありがとう!」彼らはハヌマンに言いました。「今度は、山を元の場所に戻しておくれ」そうして、また並外れた距離を跳んでいる間に医者たちはラクシュマナの傷を治したのでした。






ハヌマナサナの完成形


ハヌマナサナ(猿のポーズ)は、前後開脚のポーズです。このポーズには練習が必要で、安定性を得るには何かサポートが必要かもしれません。(パタンジャリがヨガスートラで述べた「アサナは安定して快適であるべき、Sthira sukham asanam」という戒めを思い出しましょう)また、股関節や肩、鼠蹊部がしっかりと開くようになって初めてできるポーズです。


まずは犬のポーズになる前のように四つ這いになります。両手は床かブロックに置きましょう。右足を両手の間に出して、一度止まります。右脚を前にのばして、左脚を後ろに下げます。両脚で床を押しながら、腕や両手で体重を支えましょう。ポーズの完成形は、右腿の後ろ(ハムストリングス付着部の上部)が床に着き、左脚の前部(鼠蹊の上部)が床に着いた状態です。後ろの足の甲を床に押し付け、前の足の指をしっかりと開き、両脚を均等に伸ばしましょう。胸郭を持ち上げます。息を吐いて、胸の前で「ナマステ(お祈り)」の手をします。


胸郭全体を引き上げ続けながら、両腕を頭上に上げます。肩甲骨の上部を広げましょう。鎖骨の外側を腕の内側の方へと伸ばし、みぞおちを引き上げます。腕を上へと伸ばし続けながら頭の上で合掌しましょう。


では、尻尾が背骨の下から伸びているのを想像してみましょう。(全ての猿に尻尾があるわけではありませんが、ハヌマンにはあります)跳躍の力で後ろにたなびかせるように、尻尾を長く尾骨を先の方へと伸ばしましょう。頭の頂点へと引き上げます、背骨をできるだけ長く伸ばしましょう。


ハヌマナサナは難しいポーズです。ヤマのアヒムサ(ヨガスートラ2.35 非暴力)、サティヤ(ヨガスートラ2.36 誠実)、アステヤ(ヨガスートラ2.37 不盗)を思い出しましょう。正直なところ、自分の股関節はどれくらい開いているのでしょうか?バガヴァド・ギータのクリシュナの助言を思い返しましょう。自分のダルマ(この場合は自分のアサナ)を不完全に行う方が、他の誰かのものをやろうとするよりも良い(バガヴァド・ギータ 18.47)。アイアンガーや前の列の誰かがやっているのが格好良く見えるからと言うだけで、サポートのない完成系を試そうとして自分を傷つけるのはやめましょう。




猿のポーズのバリエーション


床にマットを置き、マットに対し交差させてボルスターを横にして置きましょう。マットの前の床(マットの上でなく)に、二つに折ったブランケットを置きます。ボルスターの後ろに左膝をつきます。右足をボルスターの前のブランケットに乗せます。かかとはボルスターに接しているかもしれませんが、足の裏はブランケットの上です。このブランケットは、あとで右脚を前にスライドさせるのに役に立ちます。両手はボルスターのそれぞれの両端に。より高くしたい場合はブロックを使いましょう。


左脚を後ろへ伸ばし、膝頭をマットに近づけ(着けないで)ましょう。(後ろの膝はローランジと同様に曲がります)。左腿をボルスターの後ろ端に下ろします。では、右脚を前にスライドしましょう。動かしながら足指は顔に向かって引きます。脚がまっすぐになるまで踵をスライドさせるのに、ブランケットが役立つはずです。今度は、右腿の裏がボルスターの前端についています。左ひざは後ろ端につきます。両方の腿を下へ押し下げましょう。ナマステの形に合掌します。数呼吸ホールドしましょう。そして、両腕を頭の上へ挙げ、両手を離します。


両脚を均等に使いましょう。左腰を前に右腰を後ろに引いて骨盤を揃えます。胸郭と胸の中心を引き上げます。首の後ろを長く保ったまま上を見上げましょう。


ポーズから出るには、腕を下ろし、両手に体重を戻します。左右を替えて行いましょう。   





考察


猿のポーズで努力が要るのはどこですか?目?舌?首?呼吸?脚?楽な場所はどこですか?ポーズが完璧でなくてもかまいませんか?



この努力に自分自身を全て差し出して心を開くことができますか?バガヴァド・ギータは、最善の努力を尽くし、その結果は神に託すよう、私たちに伝えています(2.47)。ハヌマンは、薬草を探すのをやめて代わりに山全体を持って帰ることでこれを体現しています。彼はできることとできないことを認識し、その結果ラクシュマナを助けることができました。自分にできることをやり遂げた時、そして神の手に結果を委ねる時だとどうすれば知ることができるのでしょう?


ハヌマンはラーマのためなら何でもしますが、何でもできるわけではありません。「正しくやる」ことはどれくらい重要なのでしょうか?最善を尽くしたいという欲求が完璧主義になっていませんか?完璧主義モードの時は、おそらく自分に暴力を与えているのではないでしょうか?



ハヌマンが跳躍するのは、シータを慰めたり、ラクシュマナの薬を届けたり、誰かを助けるためです。彼は早まって山へと跳びますが、正しい薬草を誰かが見極められるよう山全体を取ってこなければなりませんでした。役に立とうと躍起になって、実際にはことを複雑にしてしまった経験はありませんか?



ハヌマンはスーパーヒーローですが、あがめられるのは彼の献身と奉仕のためです。ハヌマンを見習うとすれば、私たちの最大の努力と最高の才能を最高に理想的な奉仕に用いることです。ハヌマンの跳躍は、あなたの何に当たりますか?彼がラーマを愛したように、あなたは何を愛しますか?











(出典)https://yogainternational.com/article/view/the-mythology-behind-hanumanasana/

2023年7月3日月曜日

コーシャとは:人の存在の5層 Vol.2
The Koshas: 5 Layers of Being

 

第5の体


圧倒的多数の人では、第5鞘がほとんど成熟していません。この鞘はアーナンダマヤ・コーシャといい、霊的な至福である「アーナンダ」として体験される最も微細な部分です。一般的に、聖者や賢者、真の神秘家だけが日々の生きた一部としてアナンダを体験するために心の鍛錬をしているものであり、このレベルの意識が自身の中にあることすら気づけない人が多いのです。


アーナンダマヤ・コーシャは、普通の意識とより高みにある自分自身との間にある最も薄い最後のヴェールであるため、ヨガにおいては極めて重要です。臨死体験をした人の多くは、明るく白い光が放たれて、知性や無条件の愛に包まれた体験をしたと証言しています。これがアナンダマヤ・コーシャの体験です。聖者や神秘家は心を清めることで、死の一瞬だけでなく人生を通してこれを体験するようになるのです。


タントラの伝統では多くの場合、精神は常に聖なる意識に身を沈めている超越的な神シヴァ神を象徴としています。物質やエネルギーは至高の女神シャクティと呼ばれ、この世界全てはこの女神の聖なる体です。シヴァとシャクティは言葉にできないほどの強く愛し合っていると言われています。この最高の愛は、アーナンダマヤ・コーシャで体験され、そこでは精神と物質は情熱的に結びついています。


私たちはこの至福の鞘を三つの実践によって覚醒させることができます。一つめは無私の奉仕、セヴァです。これによって他者と自身の内なる結びつきに心を開きます。二つめは神への献身、バクティ・ヨガです。これによってすべてに宿る聖なる存在と内なる結びつきに心を開きます。三つめはサマディです。非常に集中した瞑想で、自身の聖なる存在へ心を開きます。




輝く健康


あなたは多次元の生き物です。あなたの意識は、多くのさまざまなレベルに現れます。ヨガは、あなた自身へと導き、あなたという存在のすべてのレベルにおいて完全に優美に生きられるよう訓練してくれます。肉体の強化し調子を整えるハタポーズから生命力のバランスをとって活性化する呼吸法に至るまで、心をクリアに鎮める瞑想の実践から知恵と調和の内なる世界を開く自身の探求と無我の愛に至るまで、ヨガは人格の全ての部分を養い統合する総合的なシステムなのです。5つの体と内なる真我(その意識は全てを照らします)を知ることにより、健康と賢明な人生の満足感を体験できるのです。




5つの鞘を体験する


5つの鞘は空想的な概念ではありません。実際に体験できるあなたの存在の実在する部分です。以下の8段階の実践で、あなたの人格の内なる側面をより掴めるようになるでしょう。


心地よく座って、頭や首、胴体を直線上に置きましょう。無理をしないでまっすぐに座ります。気を配りつつ、もリラックスしていると感じるはずです。


両目を閉じて、視覚と周りの音から意識を離していきます。意識の全てをあなたの体に集中しましょう。気づきを頭、肩、胸、腰、背中、お腹、腕、脚へと向けます。これがあなたのアンナマヤ・コーシャです。


意識を鼻腔の間の一点に集中し、呼吸していることを感じます。徐々に呼吸がゆっくりと、スムーズにそして静かになります。体の中に脈うつエネルギーに意識を向けましょう。そのエネルギーのおかげで、心臓が脈打ち、肺が膨らんだり萎んだりし、血液が血管の中を流れ、お腹がグゥグゥと鳴ります。この動き(肉体そのものではなく)を統合している力がプラナマヤ・コーシャです。


意識を頭に移します。感覚のインプットと動作のアウトプットを調整している意識の部分に注意を向けましょう。この部分が、鼻が痒いと気づき、手に鼻を掻くよう命令する部分です。ここで、同じ姿勢で長い間座り続けたため不快だと、脚を動かしたいと気づきます。絶え間ななく心の中に湧き起こる反射的な心のおしゃべりが作られるところです。これがマノマヤ・コーシャです。


意識を、頭の中の高いところへと引き上げましょう。意識のこの部分が、意志を持ってこの練習をすると決めて、今も終わりまでじっと座っているよう命令しています。ここが自己認識を広げる価値を認識し、ベッドの中で微睡むほうが気持ちがいいとしても、朝早く起きてハタポーズや瞑想をするように言うのです。これがヴィジュナーナマヤ・コーシャです。


意識を胸の中心へと向けます。深くリラックスして、スムーズで均等な呼吸を続けます。それでは、必要なだけ時間をとって、深い静けさの中へと落ち着いていきましょう。その心の平穏に深く沈んだ状態が、純粋な幸福感です。これは感情的な幸福感ではありません。この状態を離れても、大きな喜びや感謝という感覚として内から流れ出してくるものです。完全な満足感、完全な調和、そして普遍の穏やかさの場所です。欠陥、恐れ、欲望の感覚はありません。これがアーナンダマヤ・コーシャです。


それでは、自身の意識へただ気づいてみます。この体験をした純粋な意識が、この体験を超えて存在します。それがあなたの本当の真我で、あなたの不死の存在です。そこに意識をおいたままできるだけ長く自分自身の中で安らぎを感じましょう。


意識を呼吸に戻します。ゆっくりとスムーズにそして均等に呼吸します。目を開けて。リラックスしてこの体験に浸る時間をかけてから立ち上がりましょう。




死から生へ、そしてその向こうへ


ヨガの書物の多くで、この5つの鞘が3つに分類されているのを見つけるかもしれません。肉体と生命力はシュトゥラ・シャリラ「粗大体」と呼ばれます。精神と知性はシュクシュマ・シャリラ「微細体、霊体」と呼ばれます。歓喜鞘はカラナ・シャリラ「因果体」と言います。これらはさまざまな霊的な伝統のなかで認識されています。1世紀にデルフィ神殿で最高神官を務めたギリシャのプルタルコスは、それらをそれぞれソーマ、プシュケー、ヌースと呼んでいました。


肉体は死とともに崩壊します。霊体は転生とともに崩壊し、次の人生の新しい人格を作ることができます。因果体は何度も何度も生まれ変わり、荷物のようにカルマを運び続けます。それは解脱、高度な真我が生と死のサイクルから自由になる時に最後に崩壊するのです。




(出典)https://yogainternational.com/article/view/the-koshas-5-layers-of-being/