ヨガの視点からみれば、精神とは意識の洗練された道具です。外の世界と繋がり、精神体験の膨大な領域を与え、純粋な意識そのものへの橋わたしの役割を果たしています。精神の全体像を理解することで瞑想や日常生活がより楽に行えるようになります。
ヨガでは精神活動を、マナス(下位あるいは感覚的な精神)、ブッディ(内なる目撃者)、チッタ(記憶の基盤)、アハムカラ(自性)の4つに区別しています。最初の2つのマナスとブッディは前回「瞑想のための精神世界への地図」の中心でした。
瞑想中、意識している精神であるマナスは静かに集中しています。感覚(マナスと外の世界の間の通路)は感覚の対象への接触をやめます。想像力は弛緩し、穏やかな集中が築かれ、通常の精神を今という瞬間へともたらします。そのように、瞑想中は精神活動の日常の行動が集められ統合されます。
マナスのこうした変容は、ブッディの変化でより深くなります。ブッディは、道徳感を持ち、自己認識が可能な精神です。マナスが静まるとともに、ブッディが覚醒します。これは、意識の静かな展開として体験されます。ブッディが覚醒すると、意識はよりはっきりと輝きます。意識と心の中身の間にかすかな距離ができます。そうして、瞑想者は精神体験の静かな目撃者となるのです。
記憶
チッタは体験を記憶に留めることのできる精神です。印象や習慣、欲求などを溜めた広大な貯水地です。この無意識の貯蔵庫では、未来の種が、今の体験によって植え付けられます。
チッタは湖のようであり、体験のさまざまな川がその水の中にいつも流れこんでいます。こうした川は周囲の世界での敬遠から湧き起こります。見て、聞いて、味わって、匂いを嗅いで、触れます。しかしチッタはまた、精神そのものの中で起こったプロセスの経験も記録します。好きな歌の歌詞を思い出す度、より深くチッタに固定されていきます。
これらの経験で集めた情報は、無意識の中で停止しています。しかし記憶は、新鮮な体験に役立つためこの湖の表面に現れます。そのようにして、シャワーをしている時に突然好きな歌が頭に浮かんだりするのです。
しかし、無意識の中に貯蔵されたものをあまりにも狭い意味で定義するなら、チッタの本当の重要性の理解を見誤るでしょう。精神は、単に事実を不毛な情報だと保存するわけではありません。経験はもっと複雑なのです。それは感情的です。
桃を食べるのは好きだ。梨は、なぜか、好きではない。あの店でみたシャツは魅力的だが、その価格には狼狽してしまう。感情を体験に貼り付け、そして真実と心の中にある感情の組み合わせを残すのです。
喜びや痛みは感情の源です。それらによって、好き嫌い、欲しい物、願い、反感、切望、嫌悪、向上心などが起こります。誰もが幸福を追い求め、痛みを避けます。よって、チッタに保存された体験の種は無作為に置かれているのではなく、適切であろうがなかろうが、未来のための欲望が付いてきます。
動く心
瞑想中、精神の意識的な活動は主としてマナスとブッディの領域ですが、徐々に認識されうまく操れるようになります。これが瞑想の主な目的です。しかし、これまで見てきたように、心は無意識の中の印象も保存しています。こうした印象はサムスカラと呼ばれ、活動を始めるまでは姿を現しません。瞑想では、こうした隠れた印象にもある方法で取り組まなければなりません。その時に初めて、瞑想によって奥深くにある癒しや精神の本質的な要素の統合が可能になります。
スワミ・ラーマは、瞑想の始まりを覚えやすい方法で表現しました。あなたの足の親指を掴もうとしている人がいるとしましょう、と彼は言います。初めは面白がってあなたにもちょっとした影響があるふりをするかもしれません。しかし時間が経つにつれて、あなたは指をくねくね動かしてその人が掴もうとするのをやめさせようとするかもしれません。それが失敗に終わると、あなたはもっと力を入れて足を振り、それでもダメなら、そのやっかいな指つかみ屋を蹴って苛立ちを取り除こうとするかもしれません。
彼によれば、瞑想中に挑む苦悩もそれにとても似ています。精神を集中させるのは、足の指で精神を掴むようなものです。最初、心は勝手に動き回りって、ほんの時々あなたが真剣かどうか見るためにくねくねします。しかしそのうち、心の中の力が自由を求めて外に出ようとします。心はどんどん落ち着かなくなって、とうとう瞑想のプロセスを蹴って集中を振り切ろうとします。
こうした心の反応への解決法は、マナスを休ませる訓練をすることで、集中を深める際に自然に湧き起こるプロセスです。内なる目撃者であるブッディの本来の機能もまた、心の不安定さを鎮めます。
しかし、心の落ち着かなさというのは、多くは無意識、すなわち認識に向かって上へと押し上げるサムスカラの力の結果です。全ての瞑想者は、そうした思考に邪魔される体験を経験しています。一瞬で、「ここ」からどこか遠くの「あっち」に移動したり、一点集中から「あれを友達に言わなきゃよかった」に移動してしまいます。気を逸らす印象は、チッタの本質の一部です。機会があれば、瞑想の静けさの中に現れます。
こうした印象のいくつかは、気をつけなければいけない義務や時事問題だったり、希望や将来設計だったり、ニュースや天気予報、娯楽番組の映像だったり、ずっと忘れていた夢だったりします。良くも悪くも、感情は、水面を求めて湧き上がる泡のように、そうした印象とともに認識されるのです。
瞑想でのこうした印象の影響は、それらにどれほどの注意を払うかに拠ります。ある思考は重要で熟考する必要があるでしょう。他の思考は、不安や欲求によって掻き立てられ、瞑想のプロセスには必要がないでしょう。瞑想が深まるにつれ、前向きな思考ですら落ち着いた集中に道を開けるよう傍に移動します。
無意識の変容
そこにある印象の集まりを変化させたり取り除くために、無意識へと直接入っていくことはできません。しかし、瞑想はそれでもやはり無意識に影響を与えます。問題はどのように、です。
チッタの働きを思い出してみましょう。体験の倉庫であり、隠れた印象の貯蔵庫です。そこには楽しい体験も不快な体験もあって、後にこの同じ印象によって影響されます。こうして、心はさまざまに異なる質や強さの数えきれない体験によって色付けされています。
瞑想そのものは体験あり、チッタに蓄積されます。瞑想体験は、他の体験と同じくチッタの色を変化させます。記憶の中で他の体験が蓄積されるのと同様に、瞑想は心の奥深くに到達しその微かな印象を残します。しかし、瞑想は単なる新しい色ではありません。瞑想は色の変容です。微笑みが憂鬱な表情を変えるように、無意識を変容させます。
集中と手放し
チッタを変容するために瞑想では二つの方法が使われ、お互いに補完し合っています。一つ目は穏やかな集中です。二つ目は、気を散らし邪魔をする思考の洗練された手放しです。これらは伝統的な瞑想テクニックで、パタンジャリのヨガスートラ(1.12)やバガヴァットギータ(6.35)のどちらにも書かれています。
瞑想中、注意を徐々に瞑想的な集中へと移動することを身につけます。心を中心に集めることに集中します。この忍耐の必要な作業の成果は深遠です。瞑想は非生産的でつまらないように見えるかもしれませんが、真実はその真逆です。どの瞬間も、リラックスした集中の印象がチッタに蓄積されます。こうした印象が、心を明晰さと穏やかさへと導き、心を鎮めて瞑想の質を高めます。
しかし、手放しを養う努力はどうなのでしょう?瞑想中の非執着は、逆説的なアプローチが必要とされます。最初は湧き上がる気を散らす思考を、押しのけるのではなく受け入れることを学ばなければなりません。自分自身と戦っても仕方がないのです。瞑想で現れる思考、欲望、希望、夢、恐怖などは全て、少なくとも今の段階では、私たちの一部なのです。ですから、そうした思考が邪魔だったりつらいものであっても、受け入れることが必要なのです。そうすることで初めて、それをそのままの姿で見ることができ、その繊細さと動機の力を見ることが可能になります。
しかし、こうした気を散らす物を、意識の主な集中点にしてはいけません。通り過ぎる思考を見て、新しいエネルギーを与えることなく、それらの飢えた性質を観察するのです。心の表面に現れるものをしっかりと受け入れながら、執着せずに見ることで、チッタを浄化し、雑念の動きを緩め、心の集中力を高めるのです。
集中と手放し。これが深い瞑想の方法です。忍耐と自己需要の種を植え付けます。隠れた動機をあらわにし、利己的でない意思を強めます。自身の意識と無意識の要素間の会話を行い、チッタの変容の中で、心のより長く続く幸福への道を開くのです。
(出典)https://yogainternational.com/article/view/uncovering-the-unconscious-meditation-for-emotional-healing/
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