2026年8月30日日曜日

ギータを生きる 
The Gita in Action



バガヴァドギータ(神の詩)は、二人の類稀な人物の間で交わされた会話です。才能あふれるヨギであり大軍隊の将軍でもあるアルジュナと、生命の神の生まれ変わりであるクリシュナ。ギータは、クリシュナがアルジュナの戦車を戦場の中心部へと走らせているなか、アルジュナがおびただしい数の戦士が集まっているのを見渡しているところから始まります。彼自身の軍隊と敵とがどちらも集まり、厳しい内戦を戦うのです。しかし、尊敬する師と愛する家族が軍隊にいるのを見たアルジュナは呆然とします。戦車の床に倒れ落ち、戦うべきかどうか確信を得られずにいました。クリシュナの助言を得るために彼は懇願するのでした。「明らかに良いのはどちらなのか、教えてください」クリシュナは、すべての世俗者から脱俗者まで届くよう、そして現在まで力強く響き渡るように答えました。


並外れて雄大で劇的なギータですが、最初に読んだ人の多くはよくわからないと感じます。もっとずっと長い叙事詩であるマハーバーラタから抜粋されたギータには、アルジュナの危機に繋がる出来事への手がかりがたくさんあります。その文節のかなり多くは何度も繰り返されているように見えます。そしてわかりにくい信仰的、哲学的言及を多く含んでいます。加えて多くの場合、ギータが重要なヨガの文献だと聞いた現代のヨガの生徒たちは戸惑います。通常ヨガのマニュアルに書かれている練習についてはほとんど語られず、ギータで使われているヨガという言葉は、どうも聞き慣れたものではなさそうです。概して、この3000年前のマスターピースに取り組むことは難しいことが多いのです。



ヨガの3つの道


ギータの不可解さは、始めから現れます。序章でアルジュナは、この戦争は忌まわしいと嘆き悲しんでいます。彼の王国を引き裂かれるのを見るよりも、戦いを放棄したいと考えます。精神的な信念がこの考えを正当化してくれることを、彼は望むのです。


しかしクリシュナは、戦わなければ、臆病で愚かだと歴史に残るだろうとアルジュナを譴責します。アルジュナが戦いを離れて当惑した思考へ逃げ込むのなら、決して精神的な平穏は訪れないと断言します。クリシュナによれば、アルジュナの当惑がヨガに導くことはなく、ヨガから遠ざけます。アルジュナへの「詩」の中でクリシュナ神は、行動のヨガ、献身のヨガ、識別のヨガという3つの精神的な道について述べています。最終的には、どの道も精神の均衡を保ちながら活動的な人生を生きる方法を与えてくれます。しかし、これらヨガの道とはどんなものなのでしょうか?それらの基礎になる信念とは?クリシュナがある人生がよりヨガ的だと確信できるのはなぜでしょう?この記事では、行動のヨガ、つまりカルマヨガから引き出されるこれらの問いへの答えに注目していきます。



行動の果報


クリシュナのアルジュナに対する助言は、単純で説得力のある観察によるもので、2つの要因の間にある因果関係として現れます。


行動と結果:行動は結果につながる:どんな行動も「行動の果報」とギータの言葉にある結果を伴います。いずれかの結果を伴わない行動はありません。単純な例がすぐに思い浮かべられます。皿洗いをすればお皿がきれいになる、走れば心拍が上がる、まぶたを閉じれば目に入る光が減る、などです。すべての行動には結果が伴います。


しかし、行動と結果の関係性は、これらの例のように単純に現れることは稀です。多くの場合、行動は複数の結果につながり、正確な結果は予測不可能なことがほとんどです。また、行動の結果が予測できるとしても、その行動をした人が意図したことではないこともあるでしょう。時と共に、例えば、皿洗いの途中でお皿が何枚か割れてしまうのは、洗っている人の意図ではないとしても、避けられません。走れば心拍が上がりますが、脚の筋肉もまた固くなります。まぶたを閉じると目に入る光が減りますが、眠くもなるでしょう。


行動の様々な結果を見極めるのは、深刻な問題にもなり得ます。医師が患者の投薬の選別に考えを巡らす際は、本来の薬の効能と意図しない効果、つまり副作用とを念入りに検討しなければなりません。本当に、注意深く調べれば、すべての行動は複数の影響を与えます。行動した人が意図した結果もあれば、そうでないものもあるのです。


アルジュナは、多くの場合、行動の副次的影響というのは避けられないのだとよくわかっていました。軍隊を戦争へ導くことで、両軍にいる尊敬する長老たちが殺されるとあろうこと、そして女性や子どもの命もまた壊れてしまうだろうことを理解しています。戦うことをやめればこうした結果な避けることができる、だからこそ彼は悲しみに暮れているのです。


しかし、アルジュナのジレンマを考察する前に、因果応報についてもう少し深く議論する必要があります。クリシュナによれば、私たちの思考に影響を与えるもうひとつ要素があります。動機の要素です。



動機が行動より先行する


動機から行動、結果(意図した、意図しない)へ:先ほどの例に戻りましょう:食べ物の残りを取り除くための必要(動機)から、皿洗い(行動)をします。お皿を洗うことできれいになります(結果)。心臓が弱いので(動機)走ることにします(行動)。走ることで心臓がより強く働きます(結果)。明るい光を避ける必要性(動機)から、まぶたを閉じます(行動)。まぶたを閉じると目に入る光が減ります(結果)。どのケースも、動機が行動より先行し、結果が行動の後に続きます。




ものごとがうまくいかない時


さて、クリシュナの行動のヨガの分析は、ほとんど理解できたでしょう。最後の課題は、動機>行動>結果という3要素がどのように裏目に出るかを見るだけです。一緒に見ていきましょう。


あなたは、家族の庭の世話をする役目をしているとしましょう。戸外で植物の世話をするのを楽しんでいて、自分の努力でたくさんの花や野菜ができたときに幸せを感じています。ある夏の午後、あなたは地元のガーデニング・コンペに参加することを思い付きます。あなたと家族の名を挙げるチャンスです。優勝賞金もまた、シーズンを通した努力の嬉しいご褒美になるだろうとあなたは考えます。そこでそんな考えから、あなたはもっともっと庭で過ごし始め、家族と過ごす時間がどんどん減ります。近所の誰よりも良い庭をつくりあげようと、ますます没頭していきます。そのつもりもなかったのですが、自分の仕事をガーデニングコンテストに勝つことだと考えるようになりました。賞金への思いが頭から離れず、ガーデニングの喜びがどんどん遠のいていきました。今あなたは行動の結果に動機づけられていますが、行動そのものは動機ではありません。


「行動=結果」は「行動から結果」とは異なる:行動を結果と同一視すると、焦点がぶれます。やることと得ることの区別が曖昧になります。結果のために行動することが動機となり始め、クリシュナによれば、トラブルの種を撒くことになっています。この瞬間と調和して生き行動するという感覚を失います。ヨガから遠のいているのです。


行動が、気持ちのいい結果への願望で動機づけられたとき、人生はギャンブルになります。願望の実現を願っていると、行動が成功すれば幸せで、結果が悪いと不幸せになります。幸せと不幸せはどちらも未来の予測できない影に隠れていて、その未来が来るまで不安に付き纏われるのは避けられません。このように心が願望に支配された人のことをギータでは、ボークタ「結果のためだけに行動する人」と呼びます。そんな人は「気の毒である」とクリシュナは言います。




行動のヨガ


私たちがみなしなければならないのは、今ここに心を保つことだとクリシュナは言います。しかし、行動の果報に動機を探すべきでないという訓告にも関わらず、そうした結果に盲目かのように行動するのは賢明ではないと思われます。勝つ願望を全く持たずに競走に出るでしょうか?きれいにすることを意図せずしてお皿を洗うでしょうか?

 
ギータの4つの問いによって、クリシュナのメッセージを明確しやすくなり、正しい行動の道へ導いてくれます。

  • この行動をするのは私の性質からなのか、私の義務なのか?

  • その行動は正しいか間違っているか?

  • この行動の結果を受け取って欲しいのは誰なのか?

  • 特定の結果に執着しているか?

  • これらの質問を少し見ていきましょう



個人の性質:私たちはみな個人的な性質を持ち、それは成長するに連れて徐々に明らかになっていきます。幸運ならば、経験によってその性質が強化され、自信がつきます。クリシュナの説明によれば、私たちはみな自分の性質に合った行動をとる傾向があり、自然に現れる義務を果たすことになります。自分には実際には合わないことや、他人の義務を行おうともがくことは過ちなのです。


ですから、アルジュナが俗世を離れて森の中で修行僧として生きると夢見た時、これまでの人生、アルジュナは正義を守ることに尽くしてきたことをクリシュナは思い出させるのです。彼は戦士です。彼の本質は、世捨てした僧のものとは違います。彼の王国を盗もうとする軍隊に直面した彼は、戦わなければならないのです。


同様に、私たちが何者なのか、自分の本質と義務に相応しい行いをせよという状況がきます。陸上選手なら、レースに勝たなければなりません。詩人なら、自身を言葉で表現しなければなりません。そして今、皿洗いをすることが仕事なら、皿をきれいにしなければなりません。そんなとき、行動の結果は動機ではありません。それはどのみち私がすることをしたことの結果にすぎません。これを理解して行動することがヨガです。これこそが、「自身のダルマ(天性)に従って行動する」というよく聞くヨガの言葉の基本的な意味なのです。




正しいか間違いか:ヨガの行動はまた、有害な行動とそうでない行動、すなわち、正しい行いと間違った行いのどちらを選択するかを身につけることも含まれます。難しいことですが、その結果、行動を遅らせたり行動しないことになるかもしれません。


クリシュナによれば、この葛藤を解決するのに役立つのがヨガです。内面の識別と決断の能力であるブッディに訴えることでこれが可能になります。クリシュナは、ブッディとは鏡のようであり、客観的に見られるように内面の体験を映し出したり意識を表現するのだと説明します。日常の思考のおしゃべりを意識的にしずませれば、その鏡を磨いて活性化させることができる。そして自身の欲望や出来事への反応、記憶、目標などすべてが瞑想の時に目に見えるようになる。ブッディの鏡のような静けさに映し出されるのだと。覚醒したブッディはまた、内側から映し出される性質である平穏や正義、内面のバランスなどの性質へのつながりを与えてくれるのだと。


しかし心が欲望で曇っていれば、客観性は失います。欲望は、まさにその性質により、感情で思考プロセスに色付けをし、混乱へと導きます。その意味で、欲望は賢明でない行動の中核に存在します。そのため、クリシュナは意識的にブッディを覚醒させることを身につけよと私たちを促します。そうすることで、内面の明晰さから現れる「ブッディヨガ」というものの精神で、バランスの取れた心で行動を見ることが可能になります。そのような瞬間には、正しい行動と誤った行動の違いが直感的に明確になります。私たちのなかで引き起こる欲望と混乱を超えるのです。



行動の果報を手放す:私たちにはみな、決められた人生の義務巣あります。自身に食物を与え、住む場所を見つけ、個人的な出来事を処理しなければなりません。また、親、配偶者、家族、同僚、そして人間としての義務を果たさなければなりません。こうした義務を仕方なく負うこともできますし、負担を軽減させる愛とともに快く果たすこともできます。「愛で行動をなめらかにする」すなわち、思いやりを持って自身や他者への責務を行うことがカルマヨガの重要な側面です。


しかし行動は全てが義務によって動機づけられているわけではありません。それ以上のものもあります。例えば、他者のためにドアを開ける、価値ある大義にお金や時間を提供する、「ヨガセンター清掃日」に参加するなどの行動は異なる感覚をくれるでしょう。それらはある種の犠牲のようなもので、果報を手放す行為です。この種の行動は清新な気分を感じさせます。これらの心地よさを記憶した私たちは、精神的な自由を経験します。あなたのヨガクラスで「カルマヨガ」をいう言葉が使われている時、多くの場合はこうした行動を示しているのです。



執着を捨てる:人の性質、その時の義務、行動の正義、愛を持って人間関係をスムーズにしたいという願望、また純粋な親切心や無私無欲などどんな動機による行動であれ、もうひとつ不可欠な質である行動の結果を考慮しない、つまり「執着を捨て」なければカルマヨガは完成しません。クリシュナがアルジュナに語ったように、「成功や失敗に心を動かされてはいけない、心の平穏がヨガだと言われている」


無執着の概念の導入部で、クリシュナは庭づくりにも進行中の戦にもあてはまる3つの行動指標について述べています。動機を誠実に評価すること、巧みに決意を持ちながらも結果に執着しない行動を行うこと、それがカルマヨガです。アルジュナの思考プロセスがまだこの指標に至っていないことをクリシュナは指摘し、彼が陥っている執着を克服するべきだと言います。勝利するかどうかに関わらず、十分な決意をもって戦わねばならないと。ギータが終わるまでにクリシュナは、この教えの真意をアルジュナに説き、ヨガの力で彼の信念を改めさせます。



行動を超えて


バガヴァドギータの会話は、執着の無知との戦いを示して、人の行動の謎を解いています。しかし最後には、クリシュナの教えは既知の行動の概念を超えたところへと導いていきます。あらゆる行動の行為者は実際は誰なのか、そして行動全ての性質について洞察しています。もし読んだことがないのなら、あるいは読むのをやめてしまったのなら、ギータの表紙のほこりをはらってみましょう。カルマヨガの道に焦点をおいた1章から6章までを読んでください。これら古代の概念を熟考し、あなたを待っている全く新しいヨガの世界を見つけるでしょう。それは、あなたの人生を変容させる力を持つヨガの道です。