2018年9月13日木曜日

人生に白黒はない 
No Black and White in Life

Sadhguru のページからです。
ヨガ哲学では欠かせないバガヴァット・ギータですが、そこにある人生の真実とは何でしょうか。
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クルクシェートラの戦いの直前、クリシュナは彼の軍隊全てをドゥルヨーダナに差し出した。サドグルは、この場面を述べ人生には黒も白もないということを説く。



質問: 
もしクリシュナがダルマ(訳注:徳、正しい行い)を行おうとしていたなら、なぜ彼は自身や彼の軍をドゥロヨーダナに差し出したのでしょう?


サドグル: 
クルクシェートラの戦いの状況では、誰もが中立のままでいることは出来ませんでした。どちらかを選ばなければなりません。ヤーダヴァの長として、クリシュナはパンダヴァ側(訳注:パンドゥの息子5人兄弟)にもカウラヴァ側(訳注:クルの子孫100王子)にも多くを捧げなければなりませんでした。彼自身はこの戦いを望んでいませんでしたし中立でいたかったのですが、それは不可能なことでした。ハスティナプールに対して彼には憎しみなどありませんでした。彼はドゥルヨーダナ、ビシュマ、ドローナチャリヤ、クリパチャリヤを選ばなかっただけでなく、多くの立派なリーダー達は敵側でした。彼らと敵対していたわけではないし、彼らもクリシュナには大きな尊敬を持っていました。ドゥルヨーダナ側にもパンダヴァ側にも遠縁の親戚関係がありました。クシャトリヤのダルマに従えば、親戚が助けを求めてきたら断ることは難しいことでしょう。

戦士階級のダルマはクシャトラ・テジ、そして霊的階級にはブラフマ・テジがありました。クリシュナは、クシャトリヤとブラフミンの間になんらかの同盟をもたらそうとしました。こうした指針や規則というのは、社会を円滑に機能させるために作られたものです。ブラフミンは、毎日決められた時間だけヴェーダ(訳注:聖典)を座って研究しなければならないと言われていました。同じダルマをクシャトリヤの一人に課すとしても、その者には適していないかもしれないし、もしそうしたとしてもよき管理者にもなれず、またよき戦士にもなれないでしょう。これは全ての階級にも言えることです。ですから、それぞれ社会で行うべき義務を持つカテゴリの人それぞれにダルマが存在するのです。クリシュナやヴィヤーサは、全ての人がまとまって大きな力として機能できるように、クシャトラ・テジとブラフマ・テジを近づけようと努力したのです。

クシャトラ・テジによれば親類が助けを求めてきたら断ることはできないとなっているため、クリシュナは自身と彼の軍隊との選択を任せたのです。軍事的視点から、軍隊こそよい判断です。ドゥルヨーダナは軍隊をとることが賢明だと信じていましたが、すぐには決められず悩みました。選択が取られるとパンダヴァはクリシュナに言いました。「生きようと死のうと、我々が生きるならあなたと生きたい。もし死ぬのならあなたと死にたい。あなたがいなくては我々に何ができようか?」そしてそれが彼らに違いをもたらしたのです。
さて、問題は「クリシュナがダルマを守るのなら、彼の力をダルマに反するようにできるのか?」彼は、誰に対しても白黒で判断するような道徳主義の人間ではありませんでした。パンダヴァが完全に純粋な存在と考えたわけでもなければ、カウラヴァが完全な悪だとも考えていません。彼はそんな風に人生を見ていませんでした。彼は常にカウラヴァと良い関係を保っていました。ドゥルヨーダナの妻バヌマーティは彼の信者の一人でした。カウラヴァを悪だとは見ず、ただその時の多くの悪の原因となっていただけでそれを終わりにしたいと思っていたのです。彼らにどんな嫌悪や怒りを持っていたわけでもなく、悪とみなしていたわけでもありません。ですから、ダルマを自身の中に築こうと努力しなければならないのです。そうでなければダルマに反することになります。どんな人間も人生の中でダルマに反する時があります。決してダルマに反しないという保証などありません。それに気付かなければなりません。正しい道にいるよう努力しなければなりません。さもなければ簡単に滑り落ちてしまいます。これは、もう絶対に落ちることがない意識のレベルに達するまで、すべての人間にあてはまるのです。

様々な方法で、クリシュナはドゥルヨーダナにダルマのために努力させようとしました。彼にクリシュナか軍隊かを選択させた時でさえ、戦いを避けようとしました。ある意味では、ドゥルヨーダナに軍隊を与えたのは大変賢い方法だったでしょう。そうした意味で、ドゥルヨーダナは「クリシュナは自分側にいる」と感じたのです。10万人の強固な軍隊ではなく一人の人間をとるなんてパンダヴァはなんてバカなのだと考えていたでしょう。これでドゥルヨーダナが理解して平和になることもありえましたが、失敗しました。


そのものになる


質問: 
サドグル、あなたは3つの局面について話しました。クリシュナの遊び心、次に包含性、そして3つ目には愛と献身です。このコンテクストにおいて3つの質問があります。まず、行動が引き起こした熱を失うことなく遊び心を持ち続けられるのはなぜか?次に、私は友人や家族のためにますます行動しなくなっています。ただ一人で居たい。周りを含むことの意味がよくわからないのです。そして3つ目には、常に動きすぎる心や判断が愛や献身を邪魔すると思っています。日々の生活の中でこの3つの局面をどのように応用できるでしょうか?

サドグル: 
応用はできませんが、成し遂げることはできます。生活の中で応用できるような類の方針や秘訣ではないのです。そのものにならなければならないのです。含まれたもの(全て)にならなければなりません。愛にならなければなりません。あなたが行なったり利用したりできるものではないのです。委ねるべきものなのです。あなた自身を燃やすものなのです。もう自分が重要ではなくなります。

なにかを使おうというあなたはまだ応用レベルなのです。プログラムの中のその訓練を撤廃できればと思って居ます。確かに美しいものです。人間が本当に持続できる力ではありますが、プログラムを評価したりそれを持ち去ろうと私といる人たちは愚かです。その意味で、彼らはどこにも行けません。健康になるかもしれませんが、人生においてそれ以上知ることは何もありません。
応用することはありません。持ち帰ることもできません。信心深くなろうとしないでください。愛そうとしないで、全体になろうとしないで。それはできないのです。そのものになる必要があるのです。愛することはできません。愛とはあなたよりもずっとずっと大きなものです。その一部になることはできます。恋に落ちるのに筋道はありません。自分自身をもう重要だと思わなくなった時、愛がそこに起こるのです。内面が自分でいっぱいだとしたら、人生において愛の可能性はありません。人間関係や協調のことをわかってはいるでしょうが、どうすれば燃えるのか知ることはありません。燃やし方を知らなければ自らの光を得ることはありません。





(出典)https://isha.sadhguru.org/us/en/wisdom/article/no-black-and-white-in-life

2018年9月4日火曜日

ヨガの呼吸:胸からお腹かお腹から胸か?  
Yogic Breathing: Chest to Belly or Belly to Chest?


ヨガの世界では、呼吸の方向性について議論があります。ヨガの呼吸法や技術はたくさんあり、生徒はこうよく尋ねます。「胸に吸うところから始めて次にお腹を膨らせるのか、お腹を先に膨らせてから胸を広げるのですか?」この一見無邪気な質問が、ヨガ・ティーチャーらに顔が青くなるまで議論させることになるのです。正しい答えはあるのでしょうか?あります、がその前に最初から始めましょう。

まず、事実を整理しましょう。お腹で呼吸はできません(お腹に空気が入ったとしたら、あなたはかなり深い問題に陥っています)。もちろん息を吸う時はお腹を広げないといけませんが、空気がそこに入るからではありません。



ヨガの呼吸:基本的な事実


ヨガでの複雑な呼吸のプロセスを理解するために、2つの重要な事実を知る必要があります。


事実 1: 空気は気圧の高い方から低い方へ流れる

事実 2: 肺に筋肉組織はなく、意思で肺は動かせません。その代わりに肺の外側が胸郭の内側と横隔膜の上部に着いています。それによって、肺はこれらの構造の動きに引っ張られて動きます。ですから肺を直接動かすことはできませんが、意図的に胸郭を広げたり、横隔膜の(これは筋肉なので)動きに影響を与えることができ、それが間接的に肺を動かすのです。



呼吸のしくみ

呼吸をする時、何が起こっているのかは以下です。



空気が肺に入ってきたら、全体が一度に満たされます。先に肺の底をそして上部を満たすことはできません。酸素は液体ではなく気体です。ですから、液体のように容器(肺)に下から満たすことはできないのです。

The degree of movement of the diaphragm and the ribcage in breathing can vary.
呼吸における横隔膜と胸郭の動きの範囲は様々です。
  • 横隔膜呼吸、深い呼吸では、動きを横隔膜に委ねています。通常、活動は最小レベルです。
  • 胸呼吸、浅い呼吸の時は、形を変える胸郭に委ねています。激しい活動のときや、腹部の内容物が横隔膜の動きを制限している時(例えば胎児がいる時など)に多く見られます。


この画像から見られるように、腹腔はいろんなものが詰まっています。生命維持のための内臓、消化管などです。吸気で横隔膜が下がると、腹部の中身が押し下げられ前方以外に行き場所がなくなり、それでお腹が前に出ます。

ここまでは、自然な呼吸パターンを見てきました。息を吸うと、胸とお腹が同時に膨らみます。息を吐くとどちらも元の形に戻ります。

なお、このパターンは筋肉をコントロールして、意識的にも無意識的にも変えることができます。無意識な筋肉の妨害の例のひとつは、「リバース・ブリージング」のパターンで吸気でお腹を押し出さずに引き込む場合などです。

吸気でお腹を引き込み続けたら、腹部が前方に行くのを妨害し、腹部はそのまま止まり横隔膜の動きが制限されます。なので、代わりに胸郭に委ねることになります。もしこれをずっと長い間していると、横隔膜の柔軟性が失われ、呼吸が短く浅くなります(誰もそうなりたくありませんよね?)



ヨガの呼吸


ヨガでは、しばしば意識的に自然のパターンを変える練習を行います。例えば、腹部を先に膨らませ次に胸を膨らますことがあります。あるいは、胸が先でそれから腹部をふくらましたりもします。どちらも多くの理由のために自発的に行うものです。


吸気ーまず腹部をそして胸部を膨らませる

  • 横隔膜の動きを強調するため
  • 「リバース・ブリージング」パターンを克服するため
  • 体のグラウンディング効果を作り出すため




吸気ーまず胸部をそして腹部を膨らませる


  • 背骨を伸ばし姿勢を向上させるため
  • 呼吸を徐々に深めるため
  • 体へ高揚感をよりもたらすため


    受動的な呼気では、吸気で収縮していた筋肉は弛緩し、元の場所に戻ります。

    能動的な呼気では、腹部の筋肉を使って腹部を引き込み横隔膜を上へ動かします。息を吐きながら徐々に腹部を収縮させると腰を支持し安定させます。



    ヨガの呼吸とプラナ



    もっとも重要なのは、呼吸の持つエネルギー効果にヨギたちはとても関心を持っていたことです。呼吸は、身体中を巡る生命力、プラナの媒体です。バガヴァッド・ギータに寄れば、呼吸ごとに生命力の2つの主要な流れであるプラナ・ヴァーユとアパナ・ヴァーユに繋がることができるとされています。



    アパナ・ヴァーユは、重力と平行しており下方に動き、老廃物や病、老化、死、意識の減少などをなど取り除きます。プラナ・ヴァーユは空と風の要素と平行しており、下方への動きをし、体に取り込んだ食べ物や水、経験、情報など全てに影響します。

    しかし、アパナ・ヴァーユは精神や感覚を通して上方に分散し、特に感覚や上方が溢れた現代には顕著です。これが体力の衰えや肉体と精神の調和の乱れに繋がります。



    プラナ・ヴァーユとアパナ・ヴァーユを1つにする


    2つの主要なヴァーユを結合させると、私たちのエネルギーが強まりより高みへの目覚めへと繋がります。ヨガの練習は、アパナ・ヴァーユを引き上げてプラナ・ヴァーユと結合し、プラナ・ヴァーユを引き下げてアパナ・ヴァーユと結合させる働きをし、その結合は体のプラナの中心であるお臍のあたりで起こります。

    プラナとアパナと結合させるために、吸気で意識的な筋肉の収縮を用いて息の象徴的な下方への動き(鼻ー喉ー胸ー腹)に集中します。また、呼気で象徴的な上方への動きに着目します(腹部を恥骨からお臍とゆっくりと収縮させ、胸郭を圧縮します)。




    では、最初の質問に戻りましょう。
    正しいヨガの呼吸とは、胸からお腹なのかお腹から胸なのか?
    答えは:状況次第です!
    ヨガの練習においてあなたが何を成し遂げようとしているかによるのです。