ヨガ哲学では欠かせないバガヴァット・ギータですが、そこにある人生の真実とは何でしょうか。
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クルクシェートラの戦いの直前、クリシュナは彼の軍隊全てをドゥルヨーダナに差し出した。サドグルは、この場面を述べ人生には黒も白もないということを説く。
質問:
もしクリシュナがダルマ(訳注:徳、正しい行い)を行おうとしていたなら、なぜ彼は自身や彼の軍をドゥロヨーダナに差し出したのでしょう?
サドグル:
クルクシェートラの戦いの状況では、誰もが中立のままでいることは出来ませんでした。どちらかを選ばなければなりません。ヤーダヴァの長として、クリシュナはパンダヴァ側(訳注:パンドゥの息子5人兄弟)にもカウラヴァ側(訳注:クルの子孫100王子)にも多くを捧げなければなりませんでした。彼自身はこの戦いを望んでいませんでしたし中立でいたかったのですが、それは不可能なことでした。ハスティナプールに対して彼には憎しみなどありませんでした。彼はドゥルヨーダナ、ビシュマ、ドローナチャリヤ、クリパチャリヤを選ばなかっただけでなく、多くの立派なリーダー達は敵側でした。彼らと敵対していたわけではないし、彼らもクリシュナには大きな尊敬を持っていました。ドゥルヨーダナ側にもパンダヴァ側にも遠縁の親戚関係がありました。クシャトリヤのダルマに従えば、親戚が助けを求めてきたら断ることは難しいことでしょう。
戦士階級のダルマはクシャトラ・テジ、そして霊的階級にはブラフマ・テジがありました。クリシュナは、クシャトリヤとブラフミンの間になんらかの同盟をもたらそうとしました。こうした指針や規則というのは、社会を円滑に機能させるために作られたものです。ブラフミンは、毎日決められた時間だけヴェーダ(訳注:聖典)を座って研究しなければならないと言われていました。同じダルマをクシャトリヤの一人に課すとしても、その者には適していないかもしれないし、もしそうしたとしてもよき管理者にもなれず、またよき戦士にもなれないでしょう。これは全ての階級にも言えることです。ですから、それぞれ社会で行うべき義務を持つカテゴリの人それぞれにダルマが存在するのです。クリシュナやヴィヤーサは、全ての人がまとまって大きな力として機能できるように、クシャトラ・テジとブラフマ・テジを近づけようと努力したのです。
クシャトラ・テジによれば親類が助けを求めてきたら断ることはできないとなっているため、クリシュナは自身と彼の軍隊との選択を任せたのです。軍事的視点から、軍隊こそよい判断です。ドゥルヨーダナは軍隊をとることが賢明だと信じていましたが、すぐには決められず悩みました。選択が取られるとパンダヴァはクリシュナに言いました。「生きようと死のうと、我々が生きるならあなたと生きたい。もし死ぬのならあなたと死にたい。あなたがいなくては我々に何ができようか?」そしてそれが彼らに違いをもたらしたのです。
さて、問題は「クリシュナがダルマを守るのなら、彼の力をダルマに反するようにできるのか?」彼は、誰に対しても白黒で判断するような道徳主義の人間ではありませんでした。パンダヴァが完全に純粋な存在と考えたわけでもなければ、カウラヴァが完全な悪だとも考えていません。彼はそんな風に人生を見ていませんでした。彼は常にカウラヴァと良い関係を保っていました。ドゥルヨーダナの妻バヌマーティは彼の信者の一人でした。カウラヴァを悪だとは見ず、ただその時の多くの悪の原因となっていただけでそれを終わりにしたいと思っていたのです。彼らにどんな嫌悪や怒りを持っていたわけでもなく、悪とみなしていたわけでもありません。ですから、ダルマを自身の中に築こうと努力しなければならないのです。そうでなければダルマに反することになります。どんな人間も人生の中でダルマに反する時があります。決してダルマに反しないという保証などありません。それに気付かなければなりません。正しい道にいるよう努力しなければなりません。さもなければ簡単に滑り落ちてしまいます。これは、もう絶対に落ちることがない意識のレベルに達するまで、すべての人間にあてはまるのです。
様々な方法で、クリシュナはドゥルヨーダナにダルマのために努力させようとしました。彼にクリシュナか軍隊かを選択させた時でさえ、戦いを避けようとしました。ある意味では、ドゥルヨーダナに軍隊を与えたのは大変賢い方法だったでしょう。そうした意味で、ドゥルヨーダナは「クリシュナは自分側にいる」と感じたのです。10万人の強固な軍隊ではなく一人の人間をとるなんてパンダヴァはなんてバカなのだと考えていたでしょう。これでドゥルヨーダナが理解して平和になることもありえましたが、失敗しました。
様々な方法で、クリシュナはドゥルヨーダナにダルマのために努力させようとしました。彼にクリシュナか軍隊かを選択させた時でさえ、戦いを避けようとしました。ある意味では、ドゥルヨーダナに軍隊を与えたのは大変賢い方法だったでしょう。そうした意味で、ドゥルヨーダナは「クリシュナは自分側にいる」と感じたのです。10万人の強固な軍隊ではなく一人の人間をとるなんてパンダヴァはなんてバカなのだと考えていたでしょう。これでドゥルヨーダナが理解して平和になることもありえましたが、失敗しました。
そのものになる
質問:
サドグル、あなたは3つの局面について話しました。クリシュナの遊び心、次に包含性、そして3つ目には愛と献身です。このコンテクストにおいて3つの質問があります。まず、行動が引き起こした熱を失うことなく遊び心を持ち続けられるのはなぜか?次に、私は友人や家族のためにますます行動しなくなっています。ただ一人で居たい。周りを含むことの意味がよくわからないのです。そして3つ目には、常に動きすぎる心や判断が愛や献身を邪魔すると思っています。日々の生活の中でこの3つの局面をどのように応用できるでしょうか?
サドグル:
応用はできませんが、成し遂げることはできます。生活の中で応用できるような類の方針や秘訣ではないのです。そのものにならなければならないのです。含まれたもの(全て)にならなければなりません。愛にならなければなりません。あなたが行なったり利用したりできるものではないのです。委ねるべきものなのです。あなた自身を燃やすものなのです。もう自分が重要ではなくなります。
なにかを使おうというあなたはまだ応用レベルなのです。プログラムの中のその訓練を撤廃できればと思って居ます。確かに美しいものです。人間が本当に持続できる力ではありますが、プログラムを評価したりそれを持ち去ろうと私といる人たちは愚かです。その意味で、彼らはどこにも行けません。健康になるかもしれませんが、人生においてそれ以上知ることは何もありません。
応用することはありません。持ち帰ることもできません。信心深くなろうとしないでください。愛そうとしないで、全体になろうとしないで。それはできないのです。そのものになる必要があるのです。愛することはできません。愛とはあなたよりもずっとずっと大きなものです。その一部になることはできます。恋に落ちるのに筋道はありません。自分自身をもう重要だと思わなくなった時、愛がそこに起こるのです。内面が自分でいっぱいだとしたら、人生において愛の可能性はありません。人間関係や協調のことをわかってはいるでしょうが、どうすれば燃えるのか知ることはありません。燃やし方を知らなければ自らの光を得ることはありません。
(出典)https://isha.sadhguru.org/us/en/wisdom/article/no-black-and-white-in-life
(出典)https://isha.sadhguru.org/us/en/wisdom/article/no-black-and-white-in-life