2021年11月22日月曜日

アサナは何のため? 
What is the Purpose of Asana?

今回の記事は、ヨガポーズ、アサナに関するQ&Aです。
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Q:私は、これまで様々な先生のヨガクラスを受けてきました。先生達が教えているのは基本的には同じエクササイズで、「ハタヨガ」だとか「アサナ」だと言います。先生達の多くは、アサナは体に良いだけでなく、精神を開く方法でもあるという印象を持っていて、アサナがクンダリニを目覚めさせると言う人もいます。私は、こうしたポーズと精神性にどう関係があるのかわかりません。何かを見落としているのでしょうか?アサナが精神的な成長にどのように役立つのでしょう?


A:アサナについては、本来、考えられ教えられていた方法と、現在教えられているものとの間にはとても大きな違いがあります。古代では、目的は瞑想であり、アサナは、できるだけ気を散らすことなく長時間座って瞑想できるよう、心と体の能力を高める方法でした。体が健康で、精神が内に向かって一点に集中している時にのみ、人は人生の内なる局面を見つけることができるのです。この自己発見が、精神的修養の真髄です。


自己発見のプロセスで、修行者は、体と呼吸、呼吸と精神、精神と魂の間にある繋がりを見出します。しかし今日では、体の健康を高めるために「ヨガ」クラスに行く人がほとんどで、アサナは、ほとんどのクラスで体に関することに対処する方法として教えられ、体や呼吸、精神、魂のこの内なる繋がりに注意を向けることはほとんどありません。ヨガは、結びつきの道であり、ヨガの実践は、自身の異なる局面間の繋がりがあることに気づかせてくれるものです。肉体的なレベルのアサナはヨガではなく、精神的な成長にはほとんど役に立ちません。


例えば、ブラナヤマ(呼吸法)の実践は、精神を内側へと集中させ、精神の変容を支配する力を得るための最も確実な方法のひとつだと言われています。アサナを呼吸法から切り離すのは、現代のやり方です。プラナヤマのないアサナの教えというのは、どんな聖典にもありません。しかし、現代の指導者の中には、アサナを教える際にプラナヤマの方法を伝えない人が多く存在していますが、それでも自分たちが教えているものをハタヨガと呼んでいます。こうした種類のアサナの実践は健康を促進するでしょうが、精神の明晰さを高めることはできず、すなわち精神的な目覚めが生じることもありません。


言い換えれば、あなたの言うクラスはハタヨガクラスではありません。聖天によれば、ハタヨガとは、体の健康と精神の明晰さ、そして霊的な輝きへの完全なる道です。ハタヨガの実践とは、アサナ(ポーズ)、プラナヤマ(呼吸法)、集中、そして瞑想を組み合わせたものです。ハタという言葉自体が、その目的を示しています。ハは「太陽」タは「月」です。つまりハタヨガとは、陰陽のエネルギーのバランスを取る能力を得る実践なのです。ハタヨガの実践により、自身の陰陽や男女の性、受動能動の局面のバランスを取ることで、精神と体の調和した状態が作り上げられるのです。肉体的なポーズに呼吸や瞑想の訓練を組み合わせなければ、こうした調和状態になれると考えることはできません。そして、この内なる調和がなければ、内側そして外側の世界の両方から沸き起こる気を散らすものや邪魔するものに抗う時間とエネルギーが、膨大な無駄となるのです。




Q:ヨガとはアサナと同じ意味で、瞑想は別のものだと考えていました。アサナはハタヨガの一部にすぎず、プラナヤマや瞑想が伴わなければアサナの実践だけではハタヨガではないということですが、なぜ、現代ではアサナと瞑想との繋がりがなくなったのでしょうか?


A:私は、生活のあらゆる場面にヨガが浸透している環境で育ちました。ヨガをはっきりとした道や修練ではなく、生き方だと考えていました。ヨガを実践しながら大人になりましたが、26歳でアメリカに来て初めて、そのことに気づきました。どんな種類のヨガをしていたのかと尋ねられた時、その意味がわかりませんでした。私にとってヨガはヨガでした。総合的な知識とそれにもっぱら集中することから、一部を切り離すというテクニックには馴染みがなかったのです。もう一つ私が驚いたことは、肉体的なポーズに焦点を当てていることでした。常に、プラナヤマや瞑想とともにポーズを実践してきたからです。


1時間やそれ以上の体系的な体のストレッチは、心が落ち着くと共に活力を得られます。その効果はすぐに現れて明らかです。呼吸や体のエネルギーの流れに働きかけた効果、つまりプラナヤマの効果の一つですが、長く続きます。こうした効果は力強いですが、とても微細です。それよりも微細なのが瞑想によって得られる効果です。ヨガが西洋にもたらされた時、ポーズを普及させるのは容易でした。人々の、体に働きかけるという概念を理解する準備ができていたからです。しかし、呼吸や精神に働きかけるという概念を受け入れるほどではありません。ですから、アサナはすぐに市場に広まりましたが、プラナヤマや瞑想のより微細な実践はほとんど広まりません。そうして、アサナの実践は、瞑想から切り離され、それだけで洗練されていき、多くの人々の間で、アサナがヨガの同意語となったのです。彼らは瞑想がヨガの欠かすことのできないテクニックだということを知らないのです。


ヨガと瞑想に違いがあると考えることは、無知からきています。聖典には、別の実践だとは決して書かれていません。実際、最も権威のあるヨガスートラは、ヨガは精神の変化をコントロールすることだと定義しています。そのコントロールする力を得るテクニックこそがヨガのテクニックなのです。そして、すべての解説者らの言う通り、完全にバランスの取れた精神状態とその状態へ至る道のどちらもがヨガなのです。





Q: 実際には、何がハタヨガを精神的なものにするのですか?


A:ハタヨガを精神的な道へと変える初めの一歩は、生活の中に「ヤマ」と「ニヤマ」を取り入れることです。ヤマとは、非暴力、誠実、禁欲、不盗、不貪の実践のことです。これら5つの原則は、不健康な生き方をしないために役立ちます。ニヤマとは、5つの守るべきことで、清浄、知足、鍛錬、自己探求、神への降伏で、健康的に生きるために役立ちます。これらの10の原則とともにアサナやプラナヤマを実践することで、内から外へ、そして外から内へと自分自身を変化させ始めるのです。


ハタヨガを精神的な道へと変化させる次のステップは、聖なる音やシンボルへの瞑想です。これによって、自分自身と神を繋ぐことができます。精神的な結果を目指して実践を行って初めて、精神的なものとなり得ます。精神的なものへの瞑想は精神的な実践です。ただ一点に集中する力念力を目指すような瞑想はそうではありません。精神的なゴールを目指すには、精神的な方法で行わなければなりません。


ハタヨガのアサナという部分は、自身を体へと導いてくれます、プラナヤマによって、エネルギー鞘へ近づくことができます。集中するテクニックによって、精神を統一できるようになります。しかし、これらの修養が必ずしも精神的な目覚めにつながるというわけではありません。


瞑想の全てが精神的というわけではありません。水に瞑想すれば、穏やかで集中した精神を養うことができるでしょう。火に瞑想すれば、力強い精神を養い、エネルギーのレベルを向上させることができます。特定のマントラに瞑想すれば、透視力や他者を癒すような特別な力を得ることもできます。しかし、ヨガの実践でこうした特別な能力を得られたとしても、まだ本当の自分には辿り着けないかもしれません。


精神を内に向けることは簡単ではありません。世界の魅惑や誘惑は力強く、心は一つのものから次のものへと走り続ける癖があります。一点に集中する能力を養えたとしても、内に向かって内なる神を求める理由を見つけられないでしょう。


この世の体験や物質は束の間のものに過ぎず、内にある命の源は永遠であることを、心に納得させなければなりません。聖なる存在との関係性は永遠で、内なる神を抱くことで受ける喜びはどんな感覚的な喜びをも凌ぎます。こうした理解のみが、私たちの精神を内へと向けるきっかけとなり得るのです。そうした動機をもった瞑想は、精神統一を養うだけでなく、心を内側へと向かわせてくれます。そうして内への旅、一歩進むたびに価値を言い出せる旅が始まるのです。

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