今回はヨガ哲学です。
ちょっと難しいかもしれませんが、自分とは何者なのか、真の自由についてどう捉えればいいのかの参考になればと思います。
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私は今、郊外の自宅で椅子に座って外の緑の丘を眺めている。そこには、鳥たち、花々、動物たち、樹々、心地よさ、誠実な家族、そして無私の奉仕の素晴らしい機会というような私を満たすものが全てある。ここには幸せに必要なものがいつも揃っている。それでも、このコテージの窓の外に、キャンピングカーが遠くの道を走ってくのが見えた時、心のどこかであのキャンピングカーに乗って虹を追いかけたい、そしていつか夢を叶えたいという落ち着きのない欲望が渦巻く。どこかに素晴らしい場所があるという思いが、どこに行っても追いかけてくるのだ。どこに行ったとしてもそれには辿り着けない、なぜなら「どこか」は絶対に「ここ」にはならないから。それに対して、もし喜びを今ここに、自分の中に見つけることができれば、それをどこにいてもどんな状況でも手にし続けることができる。これこそがキリストが言う「天の王国は内にある」ということなのだ。
欲望の対象は、「ここにある」もの、内側にあるもの、その価値次第だ。チョコレートケーキが食べたいと思っている限り、それはいくらかの喜びを与えてくれる、その欲望がなくなれば、チョコレートケーキに魅力を感じなくなる。目の前のテーブルの上に置くこともできるけれど、私に言わせれば、存在しなくなる。どんな欲望の対象にもその価値を与えるのは、欲望そのものだ。
少年が少女と出会って初めて手を握る時、彼はその興奮が一生続くと思うだろう。一年後にその少女に触れたところで意味はない。魅力が肉体的なものなら、その欲望が色褪せて消えてしまうのに長くはかからない。そこで少年は、他の少女に触れることで幸せが長く続くかもと考える、が、またがっかりするだけ。こういうことは何度も繰り返される。問題は少女のせいでも少年のせいでもない、ただ欲望は通り過ぎるものだからだ。
心というのは、終わりのない欲望だということができるだろう。ひとつ欲望が現れて、それが満たされて消え去ると、次から次から次へと現れてくる。心は欲望を持つものであり、そして欲望は変化するものだ。したがって、欲望を満たすことで永続的な喜びを見つけようというのは失敗に終わる運命にある。
例えば、ヨットが欲しいと思っている限りは、ヨットで航海することで幸せになれると信じている。もちろん、ヨットを所有してカリブ海に航海することでいくらか満足感はあるだろう。しかし、この満足感は欲望を持ち続けている間だけだ。その欲望が薄れ始めると(それは必然なのだが)その満足感もまた小さくなり始める。その欲望がついに消え去ると、満足感があった場所に退屈がおさまることになる。
欲望は何も悪いことではない。家を灯したり人を感電死させたりする電気のように、欲望に善も悪もない。私たちに行動させる最も強い力だ。悲劇が起こるのは、欲望が知性や意識的な意欲に対するものではない時だ。そして、私たちは運転席が空っぽでスピードをあげていくパワフルな車を持っている。あなたの街の全部の車が、運転手がいないままガレージから出てきてあちこち走り回る様子を想像してみてください。どれだけ事故が起こって、どれだけの命や物が失われるでしょう!自分の個人的な欲望に走れば、同じことが国家間や民族間、家族間、そして個々人で起こってしまう。私は欲しいものを追い求め、あなたも同じことをし、そうすれば遅かれ早かれ衝突する。
二元性の牢獄
圧倒的大多数の人間が、お金や所有物、快楽や名声を追い求めながら人生を過ごしている。これらは、泡のように持ち上げようとすると弾けてしまうはかないゴールに過ぎない。例えば、百万ドルを稼ごうとしている人は、その欲望の支配者というよりも被害者である。彼の目は自分の利益だけを見ていて、他者の幸福のことなど気づかない。
芸術もまた限界がある。多くの人に喜びを与えるかもしれないが、芸術家が自己中心的である限り全てを理解することはできない。目や耳といった感覚に制限された彼自身の人格に閉じ込められている。
科学者もまた二元性の牢獄に制限されている。彼らは「ここ」に座って「どこかの」星やバクテリアを研究する。最もパワフルな知能でさえ制限された道具にすぎず、物を分ける役にはたたない。絶えず一部分が働きその他が反応するという生きている全体像を見落としている。
命をひとつの全体として見るためには、個人的な快楽や利益、名声、権力のための欲望全てを削ぎ落とす必要がある。これらが私たちを突き動かしている限り、個人的な条件を通してしか命を見ることができない。命を、そのままではなく、自分の欲望に条件づけてとらえている。私があなたであるときのみ、私があなたを完全に知ることができるし、私が私である限り決して知ることはできない。誰かあるいは何かを完全に知るために、自分の人格だと信じている何かを削ぎ落とさなければならない。自分の人格だと信じているもの、それはサンスクリット語のアハムカラ、自分が世界の他のものとは異なる「私」であるとするものだ。
これは、マハトマ・ガンジーが言うところの彼自身をゼロにまで小さくが最後の目標だということだ。私は、こんな野望を抱く芸術家や科学者を知らない。ガンジーが何年もの霊的な修行を通してやがて自身をゼロにまで小さくできた時、命とは、その最も小さな部分が傷ついたとしてもそれは全体に及ぶ、分けることの出来ないひとつの命であるということを理解した。この命の一体化の認識により彼は暴力を放棄し、非暴力つまりアヒムサこそが地球上の国々や民族、家族を愛や奉仕によって一体にする最大の力であると明らかに示した。
偉大な芸術家の文化的貢献と偉大な神秘家の霊的貢献との極めて重要な相違を私たちは決して忘れてはならない。私にとって20世紀はスペース・エイジではなくガンジー・エイジだ。全ての命はひとつであるという不変の法則によって調和して生きる方法をこの時代に示してくれたのがガンジーだからだ。命のつながりについて絵を描いたり歌を作ったり、はたまた月に旅した訳ではなく(これらは価値のあることではあるが)、私たちの時代の最も恐ろしい問題に非暴力で直面することによってである。
もちろん文明は、芸術家や科学者、非凡な政治家たちのおかげで豊かになってきた。しかし、正しい道へと連れ戻し、自らの生涯を通して、全世界が試行錯誤を繰り返しながら向かう輝くゴールを垣間見させてくれたのは、偉大な神秘家たちである。ガンジーは自身の死ぬべき運命の肉体を脱ぎ捨てたが、彼の不死の魂、つまりアートマンは人々が暴力に背を向ける時はいつも体験することができる。
私のある友人は、瞑想でゾンビーにならないようにと知り合いから注意されたらしい。こんんな話を、意識から「私」という感覚を取り除くと人格を失うかもしれないと恐れる多く人から聞く。私は「人格(personality)という言葉はラテン語の仮面(persona)に関連している」のだよと気づかせる。アレクサンドル・ドュマの小説の中で、ルイ16世の双子の兄弟が鉄仮面を長年着けさせられたためにそれが彼の一部になるという話がある。どんなに試して見ても、仮面を取って彼の本当の顔を見せることができなかった。これは私たち皆と同じである。何年間も(あるいは人生何回分も)、私たちの心は、個人的な快楽や利益、権力、名声に対する欲望を満たすための終わりのない努力を通して、利己的で個人的でいるクセを身につけてきた。この分離の仮面を取払うことができたら、真の人格であるアートマンは美しく叡智と愛に輝くことだろう。
個人的な欲望がなければ、行動する動機などあり得ないではないかと言う人もいる。この問いに対してもまたガンジーの人生が最良の答えだ。彼の人格とゲームを楽しんでいる間、若いガンジーはロンドンで弁護士のディナーを食べ、バイオリンを練習し、ダンスを覚えようとした毎日を過ごして満足していた。その後南アフリカで、そこで酷く搾取されていた何千人ものインド人のために働くため自分の快楽や利益に背を向けた時、ガンジーは夢にも見たことのない深い心の源を見出した。自分の欲望を満たして生きていた間は、愛や叡智、勇気、素晴らしい行動の宝庫には気づかなかった。しかし自分のために生きるという小さな取るに足らない動機を放棄した途端、長く健康的で行動的かつ満たされた人生を過ごすための深い意識レベルにある途切れのない動機を見つけたのだ。
真の操縦者
自分のために生き、個人の功績への欲望に駆られている時は、自分自身が操縦者であり全てを行なっており、ハンドルを握っているのは自分だと信じずにはいられない。その結果、自分の行動の結果に固執し、成功に浮かれ失敗にがっかりすることになる。偉大な博愛家であっても神秘家らが締めそうとしている壮大な真実を垣間見ることもない。真の操縦者はこの小さな個人的な「私」ではなく、アートマン、真の我である。これが理解できていないと、努力が勝利となるか敗北となるかに悩んで消耗するのだ。ガンジーはインドの人々の社会的地位向上のため不断に働いたが、「行動の結果(個人の利益)」を放棄することによって、操縦者あるいは行うものとしての重圧から自由になった。
「あなたには行動する権利がある」とバガヴァド・ギータにある。「しかし行動の結果に対してはない」結果に対する不安、自分の思ったようにならない恐怖、見たところ最善の結果にならない恐怖は、消耗や疲弊をもたらす。行動の結果への欲望を捨て、無我の方法で無我の目的に向かって一所懸命働くことができれば、成功であろうと敗北であろうと最善の状態で働くことだろう。そして、敗北すらもまた機会となる。
行動の結果への執着を捨てることは、幾分か深いレベルの霊的な体験がなくては不可能である。霊的な気づきが深くなればなるほど、自分が行動の媒体であると信じさせる自己意志の制圧から自由になれる。
「自分が操縦者であるという思いからどうすれば自由になれるか?『神の意志が行われ」るためにどうすれば自己意志の自身を空にできる?自分の意思とは何か神の意思とは何かどうすればわかる?自分の自己を空にして、どうすれば聖フランシスコが言った「完全な神の平和の道具」になれるのか?」これらの問いは、誠実に、計画的に、そして持続的な熱意を持って実践すれば瞑想で得ることができる。答えは声や視覚では現れないが、ゆっくりと安定した識別と非執着の成長を通して得られる。古い欲望は私たちを掻き立てる力を失い、目の前にあったベイルが一枚ずつ落ちていき、視野が穏やかで明確になり、以前は自身の小さな部分しかなかった場所に全体を捉えることが可能になるのだ。