意識とは何か、科学が意識(真実)を探求できるのかについての考察です。
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ここ数年、より多くの科学者らが現実の非二元性という性質に対する洞察を主張してきている。しかし、この主張は基本的な真実、つまり「意識は、科学的究明の範疇を超えている」ということを見落としている。したがって、その真の性質のため、こうした主張は有効ではありえない。
これまで科学と精神性の間には、いつもなんらかの反目が存在している。地球が宇宙の中心ではないと主張したガリレオに対するカトリック教会の迫害だけでなく、天地創造を主張する人々とより現実的なダーウィンの進化論を好む人々との間にある現在の議論も頭に思い浮かぶ。それゆえに、科学者らが非二元性について著したより多くの書籍や論説を目にする機会も多いのだろう。「科学と非二元性」と題された年次大会すら存在し、同じフォーラムでこの2つの知識を探求することも可能になっている。
逆説的に、現実の性質を探求する道具としての科学の力とその決定的な欠点は、その客観性にある。実験的観測とその後の論理的思考の科学的手法は、ヴェーダンタと共通するものであり、前に経験した者の発見を受容するということも含まれる(より新しい発見と矛盾がない場合に限る)。
この世界が私たちの限られた知覚器官で感じ取れるままではない可能性を、人々に考えさせることに、科学は大きな貢献をしてきた。極論を言えば、走査型電子顕微鏡によって指先の物質の想定されている硬さを調べられる。その一方で、ハッブル望遠鏡によって裸眼では見ることのできない銀河の渦まく雲の無限まで覗くことができる。「現実」とは日常の体験によって私たちが信じているよりもずっと微細なのだ。私が今、書き物をしているテーブルの硬さは、電子の回転と原子の周りの共通軌道に関する覆ることのない法則によるものだ。宇宙の膨大なエネルギー源は、ブラックホールに吸い込まれていく数々の星雲からきている。私たちの体の感覚は周りの出来事を説明するにはほとんど役に立たないが、科学には可能であるように見える。
科学によれば、すべては原子でできており、原子はより小さい粒子の集合で、同様にその粒子はより基本的なもので形作られているという。光ですらエネルギーの塊でできていて、時には粒子のように、時には波のように振る舞う。最終的には、全ては純粋なエネルギーに還元され、それ自身が作られたり壊されたりすることはなく、ただ変化していくだけだ。すなわち全ては「ひとつ」である ー そしてこれこそがアドヴァイタ(ヒンズーの一派、非二元論を謳う)もまた述べていることではないか?そして、量子力学者ハイゼンベルクは観察者と被観察者は複雑につながっていると示し、この非二元性の観念を支持していたのではないか?
少なくとも、科学がどのように古代の文献に示された真実を立証し、より洗練された現代の精神により受け入れられる言葉で表現しているかを説明する表面的な論争に至る。残念ながら、この整理された説明には著しい欠落がある。意識を物質の体系内に置いていることだ。その結果、科学はそれを附帯現象だと、ある程度の複雑性に達した物質進化の偶然の結果だと言い逃れをするしかない。もちろんこれは、物質は意識の現実化であるというアドヴィイタとは全く相反している。
表面的には、意識と物質ははっきりと分かれた「もの」だ。サンキャ哲学とヨガ哲学において宇宙の材料はプラクリティやプラダーハナと呼ばれ、プルシャと呼ばれる意識の原理とは異なる。主要なインド哲学の他方は(ニャイヤとヴァイシェーシカ)、宇宙の要素は「原子」あるいはパリマヌスと考え、ここでも意識とはまったく別のものとしている。プールヴァ・ミマンシャカとウッターラ・ミマンシャカ(アドバイティンを含む)のみが意識を創造物の要素と認識している。
アドヴィイタによる科学が意識を調査できない理由は難なく理解可能である。この意識はブラフマン、真我であり、究極の対象である。ケーナ・ウパニシャッド(1.4–7 and 2.3) では、「言葉で悟らぬもの、精神で考えられぬもの、目で見えぬ、耳で聞こえぬもの。理解していると思う者はそれを理解しない」また、シャンカラの弟子であるシュレシュヴァーラがナイシカルミャ・シッディ(3.48)に記したように「真我は、知覚力などという知識の経験的手段を通しては理解することはできない。命への渇望によって喀出された痰にすぎない。全くもって経験的認知の対象ではなく、それは最も奥にある真我である(そして感覚と分つことなく感じることもない)からだ」
科学の手法はまた、因果関係という概念に縛られている。常に探しているのは観察した現象を説明するための原因である。しかし、ゴウダパーダがマンドゥキャ・ウパニシャッドに関するカリカで指摘するように、非二元的現実、チュリヤはカリヤ・カルナ・ヴィラクシャナであり、原因と現象に関連性はない。空間や時間、因果関係を超越ている。それゆえに、科学に基づいた現実の探索は矛盾でしかない。
科学とその手法は、表面的な世界の物質やメカニズムを観察するには素晴らしいものだ。事象の最も見込みのない中でのその巧妙さは、おそらく果てしない。そしてこれらの究明の中には、私たち以外のものへの究明に価値があるものもある。例えば、アドヴァイタのネティネティ(ブラフマンが何なのかを探求するために、何がブラフマンでないのかを自問する方法)などだ。
しかし、科学が物質を探求するのに素晴らしい方法であるとしても、物質の本質は究極的には非二元的現実と同じであるため、失敗に終わるしかない。「Notes on Spiritual Discourses (1386)」でアトマンダ・クリシュナ・メノンが記したように、「主観性の影が少しでも残る限り、客観性が消えることはない。そして客観性が完全に消えない限り、対象の真の性質は決して視覚化できることはない。これこそが、インドの内外どちらにおいても、精神の媒体を通した真実に近づこうとする試みにおいて科学と哲学が犯す基本的間違いである」
意識なくして、何ものも知ることはできない。しかし、意識そのものが知識の対象となることはなく、それは真っ暗な部屋の中で、周りを照らせる明かりがそれ自身を照らすことはできないのと同様である。意識を知るためには、それは知りうる客観的対象でなければならず、すでに知っている主観的対象ではならない。私たちが意識を「知っている」のは、私たちが意識だからだ。意識は私たちの真の性質である。究極の観察者(本質的な自分自身)は、どのような客観的探求もただ不可能である。探求するための究極の観察者を超えるものは誰もいないからだ。
この事象の見かけの逆説的状況は、真実レベルの混乱の現れだ。科学領域である世界においては、脳などの対象の探求は精神によって行われる(意識の内省)。この世は、知るものと知られるものの二元性の世界だ。絶対的真実の視点からは、ただ意識があるのみである。世界は、名前と形の現れでしかなく、その意識からは決して分かれない。しかし、意識そのものは、この世レベルの精神では決して探求することはできない。科学で得られるものは、知識ではなく情報だ。そこには終わりがない。より多くを調べるほどにより多くを見出す。そして、どんな論理も良しとされるのは疑うべき情報が出てくるまでである。「私」は情報ではない。絶対であり覆らない。
科学の発見は常に、より深い観察のもとに修正されて行くものだ。これが方法論の性質である。しかし、自身を非二元性とする認識は客観的知識ではない。どんな感覚器官を通しても直接的に知るものではなく、どんな根拠も必要とせず、修正される対象でもない。決定的であり絶対だからだ。
科学は、どうしようもなく客観的探求の領域に制限されている。これは科学の強みであり、科学者が霊的な探求に役立つ貢献を望むなら、その道程にあるネティネティの段階で努力することに集中すればよい。ハイゼンバーグの不確実性は、主観と客観の間にある妥協できない対立によってそれ以上の情報を収集できない時に、物質のますます微細な行動を探求する地点に到達したことを明確に示していた。これが、科学的探求の終着点である。意識そのもものは主観と客観の対立そのものが消滅した時、観察をも超えた微細のなかの最も微細である。ということは、誰もそこには到達できないということなのだ。
これまで科学と精神性の間には、いつもなんらかの反目が存在している。地球が宇宙の中心ではないと主張したガリレオに対するカトリック教会の迫害だけでなく、天地創造を主張する人々とより現実的なダーウィンの進化論を好む人々との間にある現在の議論も頭に思い浮かぶ。それゆえに、科学者らが非二元性について著したより多くの書籍や論説を目にする機会も多いのだろう。「科学と非二元性」と題された年次大会すら存在し、同じフォーラムでこの2つの知識を探求することも可能になっている。
逆説的に、現実の性質を探求する道具としての科学の力とその決定的な欠点は、その客観性にある。実験的観測とその後の論理的思考の科学的手法は、ヴェーダンタと共通するものであり、前に経験した者の発見を受容するということも含まれる(より新しい発見と矛盾がない場合に限る)。
この世界が私たちの限られた知覚器官で感じ取れるままではない可能性を、人々に考えさせることに、科学は大きな貢献をしてきた。極論を言えば、走査型電子顕微鏡によって指先の物質の想定されている硬さを調べられる。その一方で、ハッブル望遠鏡によって裸眼では見ることのできない銀河の渦まく雲の無限まで覗くことができる。「現実」とは日常の体験によって私たちが信じているよりもずっと微細なのだ。私が今、書き物をしているテーブルの硬さは、電子の回転と原子の周りの共通軌道に関する覆ることのない法則によるものだ。宇宙の膨大なエネルギー源は、ブラックホールに吸い込まれていく数々の星雲からきている。私たちの体の感覚は周りの出来事を説明するにはほとんど役に立たないが、科学には可能であるように見える。
科学によれば、すべては原子でできており、原子はより小さい粒子の集合で、同様にその粒子はより基本的なもので形作られているという。光ですらエネルギーの塊でできていて、時には粒子のように、時には波のように振る舞う。最終的には、全ては純粋なエネルギーに還元され、それ自身が作られたり壊されたりすることはなく、ただ変化していくだけだ。すなわち全ては「ひとつ」である ー そしてこれこそがアドヴァイタ(ヒンズーの一派、非二元論を謳う)もまた述べていることではないか?そして、量子力学者ハイゼンベルクは観察者と被観察者は複雑につながっていると示し、この非二元性の観念を支持していたのではないか?
少なくとも、科学がどのように古代の文献に示された真実を立証し、より洗練された現代の精神により受け入れられる言葉で表現しているかを説明する表面的な論争に至る。残念ながら、この整理された説明には著しい欠落がある。意識を物質の体系内に置いていることだ。その結果、科学はそれを附帯現象だと、ある程度の複雑性に達した物質進化の偶然の結果だと言い逃れをするしかない。もちろんこれは、物質は意識の現実化であるというアドヴィイタとは全く相反している。
表面的には、意識と物質ははっきりと分かれた「もの」だ。サンキャ哲学とヨガ哲学において宇宙の材料はプラクリティやプラダーハナと呼ばれ、プルシャと呼ばれる意識の原理とは異なる。主要なインド哲学の他方は(ニャイヤとヴァイシェーシカ)、宇宙の要素は「原子」あるいはパリマヌスと考え、ここでも意識とはまったく別のものとしている。プールヴァ・ミマンシャカとウッターラ・ミマンシャカ(アドバイティンを含む)のみが意識を創造物の要素と認識している。
アドヴィイタによる科学が意識を調査できない理由は難なく理解可能である。この意識はブラフマン、真我であり、究極の対象である。ケーナ・ウパニシャッド(1.4–7 and 2.3) では、「言葉で悟らぬもの、精神で考えられぬもの、目で見えぬ、耳で聞こえぬもの。理解していると思う者はそれを理解しない」また、シャンカラの弟子であるシュレシュヴァーラがナイシカルミャ・シッディ(3.48)に記したように「真我は、知覚力などという知識の経験的手段を通しては理解することはできない。命への渇望によって喀出された痰にすぎない。全くもって経験的認知の対象ではなく、それは最も奥にある真我である(そして感覚と分つことなく感じることもない)からだ」
科学の手法はまた、因果関係という概念に縛られている。常に探しているのは観察した現象を説明するための原因である。しかし、ゴウダパーダがマンドゥキャ・ウパニシャッドに関するカリカで指摘するように、非二元的現実、チュリヤはカリヤ・カルナ・ヴィラクシャナであり、原因と現象に関連性はない。空間や時間、因果関係を超越ている。それゆえに、科学に基づいた現実の探索は矛盾でしかない。
科学とその手法は、表面的な世界の物質やメカニズムを観察するには素晴らしいものだ。事象の最も見込みのない中でのその巧妙さは、おそらく果てしない。そしてこれらの究明の中には、私たち以外のものへの究明に価値があるものもある。例えば、アドヴァイタのネティネティ(ブラフマンが何なのかを探求するために、何がブラフマンでないのかを自問する方法)などだ。
しかし、科学が物質を探求するのに素晴らしい方法であるとしても、物質の本質は究極的には非二元的現実と同じであるため、失敗に終わるしかない。「Notes on Spiritual Discourses (1386)」でアトマンダ・クリシュナ・メノンが記したように、「主観性の影が少しでも残る限り、客観性が消えることはない。そして客観性が完全に消えない限り、対象の真の性質は決して視覚化できることはない。これこそが、インドの内外どちらにおいても、精神の媒体を通した真実に近づこうとする試みにおいて科学と哲学が犯す基本的間違いである」
意識なくして、何ものも知ることはできない。しかし、意識そのものが知識の対象となることはなく、それは真っ暗な部屋の中で、周りを照らせる明かりがそれ自身を照らすことはできないのと同様である。意識を知るためには、それは知りうる客観的対象でなければならず、すでに知っている主観的対象ではならない。私たちが意識を「知っている」のは、私たちが意識だからだ。意識は私たちの真の性質である。究極の観察者(本質的な自分自身)は、どのような客観的探求もただ不可能である。探求するための究極の観察者を超えるものは誰もいないからだ。
この事象の見かけの逆説的状況は、真実レベルの混乱の現れだ。科学領域である世界においては、脳などの対象の探求は精神によって行われる(意識の内省)。この世は、知るものと知られるものの二元性の世界だ。絶対的真実の視点からは、ただ意識があるのみである。世界は、名前と形の現れでしかなく、その意識からは決して分かれない。しかし、意識そのものは、この世レベルの精神では決して探求することはできない。科学で得られるものは、知識ではなく情報だ。そこには終わりがない。より多くを調べるほどにより多くを見出す。そして、どんな論理も良しとされるのは疑うべき情報が出てくるまでである。「私」は情報ではない。絶対であり覆らない。
科学の発見は常に、より深い観察のもとに修正されて行くものだ。これが方法論の性質である。しかし、自身を非二元性とする認識は客観的知識ではない。どんな感覚器官を通しても直接的に知るものではなく、どんな根拠も必要とせず、修正される対象でもない。決定的であり絶対だからだ。
科学は、どうしようもなく客観的探求の領域に制限されている。これは科学の強みであり、科学者が霊的な探求に役立つ貢献を望むなら、その道程にあるネティネティの段階で努力することに集中すればよい。ハイゼンバーグの不確実性は、主観と客観の間にある妥協できない対立によってそれ以上の情報を収集できない時に、物質のますます微細な行動を探求する地点に到達したことを明確に示していた。これが、科学的探求の終着点である。意識そのもものは主観と客観の対立そのものが消滅した時、観察をも超えた微細のなかの最も微細である。ということは、誰もそこには到達できないということなのだ。
