2025年12月29日月曜日

ヨガと認知症 Vol.1 
Yoga and Dementia



現在アメリカ人の500万人がアルツハイマー病を患っており、高齢者の三分の一が亡くなる際にアルツハイマーなどの認知症にかかっています。近年、認知症は全体的に減少しましたが、アメリカの人口でこの障害に最もかかりやすい世代である90歳以上の数が最も急速に伸びているため、今後の罹患数は増えることが予想されます。


近年の研究では、ストレスを軽減し記憶機能を向上させるヨガの可能性が、老人ホームで暮らす人々の認知機能を改善することを示唆しています。瞑想とヨガを使ったある多面的プログラムでは、記憶機能をいくらか取り戻すことに成功しています。また、英国の小規模試験プログラムでは、認知症患者が優しいヨガを介護人と一緒に行うことで、より行いやすくまた参加者に受け入れられやすいことが分かりました。


ヨガの効果を考えれば、ヨガは認知症の家族や友人、患者に良いのではと考える人もいるでしょう。


「そうかもしれないし、そうでないかもしれません」と電話インタビューでペニー・ガーナー氏は言いました。ペニーさんは、英国バーフォードの中核的研究拠点にあるコンテンテッド・デメンシア・トラストの創設者であり医療ディレクターです。


この施設は、統合されて開発改良されたペニーさんの「SPECAL(スペックル)法」を用いており、現在ロンドンのキングスカレッジで科学的に研究されています。SPECALという頭字語が初めて使用されたのは約27年前で、ペニーさんがアルツハイマー病と関連する認知症のための特別な早期ケアを開発し始めたころです。ヨガが認知症患者に良いかもしれないしそうでないかもしれない、というペニーさんの言葉を理解するには、この手法の中核にある類似点をまず理解する必要があります。それは、「SPECALフォトアルバム」というものであり、通常の記憶がどのように機能しているかの概念、歳をとると何が起こるのかということ、そして認知症によって起こるある変化についてです。



SPECALフォトアルバム ー 記憶の象徴


この進行性の障害の、基本的に記憶システムに新しい出来事を保存する際の問題だというペニーさんの洞察は、1970年代にアルツハイマー病を患った母親の介護を通して得られました。「私たちは記憶システムを持って生まれます。それがフォトアルバムで、体験したものは全て写真として自身のアルバムに無意識に保存されます。このアルバムは、私たちの基準点であり大切な資産です。今何をしていたかが全て保存され続け、事実やそれに関する感情が含まれます。「ええっと」という度に、私たちは「アルバムを見てみよう」としているのだとペニーさんは説明しました。


「いつも自身のアルバムを参照して、光速でこの簡単に繋がれるデータベースから情報を取り出して、今何を、誰と、どこで、いつ、なぜしているのかの意味を理解するのです。そうやって今ここで何が起きているかのスピードについて行っている訳です。歳をとると、アルバムの写真を無意識に取り出したり保管するプロセスは変わりませんが、必要な時にアクセスする速さが遅くなります。遅くなることは普通のことで認知症とは関係がありません」そうペニーさんは指摘しました。「しかし認知症患者には、新しいタイプの写真が現れるのです。この新しい写真は、日常生活で今起きたことに関係のある現実は含まれないのですが、それに関連する感情だけは感じます。この認知症に関連した写真を『ブランク』と呼んでいます。まず、ブランクは現実の情報が途切れたほんの数秒に現れますが、ランダムで散発的に、そしてより頻繁にブランクが起こるようになり、やがて認知症と診断され、アルバムの半分が感情だけの写真となり、ブランクの長いリボンとなっていきます」


認知症患者は理性を失っているわけでもなく、少し前の現実を判断する能力を失っているわけでもないと、ペニーさんは強調しました。「アルバムのずっと昔のページは、現実もその時の感情もとても理性的に開くことができて、今日見たことをちゃんと説明することができます」


SPECAL法は、この対処手法でプラスに効果を出すことを探っています。その人にとってどの古い写真が最も卓に立つのかに注目し、そうした古い写真と毎日の日課との間に有用なリンクを作るのです。SPECALが尊重するのは、その人の過去の活動や体験を試すことであり、新しい活動には挑戦しません。「私たちのモットーのひとつは『新しいことは何も無い!』」だとペニーさんは言います。「新しい活動をするには順序立った新しい現実が必要ですが、認知症患者の新しい現実の保存機能はどんどん損なわれて行くことがわかっています」


何か新しいことを日課に取り入れると、自分のアルバムに役立つものをあまり見つけられないことの多い認知症患者は、自問して不安になってしまう傾向があります。「答えのない自問は疲弊しますし恐怖です」認知症の人は苦痛が起こる前にこう感じているのだろうとペニーさんは述べました。「ええっと、自分のアルバムを見てみよう、確かめなきゃ、私はどこにいる?どれくらいここにいる?どうやってここに来た?おやまあ、今していることの情報があまりない、本当に不安になってしまう、知ってるはずだけど・・?」






「鳩の群れに猫を投げ入れるようなことはしていないと願います」ペニーさんは続けました。「けれど、認知症患者が初めてヨガをしようとしたら、ヨガクラスですることは彼らのアルバムに筋が通るものは何一つないのです。今日の現実という情報のいくつかは今日のページにばらばらの順番で保存されます。認知症が進行するに従ってそれも少なくなっていきます。そして、少し時間が経って確認しても意味が通らなくなってしまいます。今の体験の内容が明確とは程遠いものになるのです」


「認知症にもかかわらずヨガの体験を楽しめる人を見つけることはできないという意味ではありません。けれど、ヨガをしたいという気持ちは、認知症患者自身から出てこなければなりません。楽しめたかどうかがはっきりとわかっていなくても、ヨガをした後も『あれをもっとやりたいからあの場所に戻りたい』と言うようであるべきです。患者からしか知ることができないこと、つまり患者と患者が記憶している感情に導かれない限り、うまく行うためにはあるべきでない余計なプレッシャーを与えてしまうことになります」


ヨガに効果がると介護人が確信していたら?「そうですね、ヨガをすべきなのは介護人のほうでしょう。けれどヨガは、認知症になる前にヨガをしていた人にとってはとても良い考えかもしれません。つまり、ヨガの写真がすでにアルバムに入っていたら、認知症以前の場所にあるものを参照することができるからです」


当初ベビーブーマー世代のアメリカ人に広く行われていたヨガは、それ以降ますます人気となり認知症になる可能性のある人の写真アルバムの大切な部分となっているかもしれません。ペニーさんによれば、そうした生徒たちにとって、特にウェルビーイングを高める技術に精通している指導者や仲間がいれば、人生を通してヨガを練習することには価値があるでしょう。



認知症の生徒のためのヨガへのアプローチ


もし長期間ヨガを実践してきた認知症の人から、もう一度練習をしたいと言われたらどこから始めればいいでしょう?


最初のステップは目標を明らかにすることです。「認知症を克服するという目標はありえません」ペニーさんは助言しました。「認知症はすでにそこにあります。それよりも、どのように寄り添えるかです。何がプラスで何がマイナスか。私たちの目標は、彼らの状況にかかわらず、生涯を通して24時間週7日間ウェルビーイングを維持することです。そしてそれは可能です」


SPECAL法が目指すところは、オリバー・ジェームズ氏によって Contented Dementia という本の中でより明らかにされていますが、ペニーさんが考えているウェルビーイングの要素、すなわち全ての人間に不可欠であり認知症患者の介護者がとても注意深く認識する必要があることを養うことです。価値があるという感覚(自己肯定感)、自立性(決断能力とそれが行われるのを目撃する)、社会的快適性(他者とのつながり)、そして安心感(基本的に全ては大丈夫だという信頼感)です。


「これらウェルビーイングの4要素がきっちりとあるべき場所にあれば、人は自信を持つことができます。その自信によって最大の能力が引き出されます」とペニーさんは述べました。(注:この4要素は、患者中心の認知症ケア分野の先駆者であるトム・キットウッドさんとの1990年代初期に行われた対話に基づいています)


以下のSPECAL法にから得られる助言は、認知症患者個人や患者グループに対応するヨガインストラクターに対応するためのものです。ペニーさんは、全参加者がSPECALの方針に馴染みがあるのでなければ、認知症患者が通常のグループに参加すること、またその生徒のために作った練習に介護者が参加することもお勧めはできないと言います。


というのは、認知症はさまざまな身体的要求を伴い、アプローチよりも内容が懸念されるからです。身体的に兼好でハタヨガの立位ポーズをたくさんすることができる人もいるでしょう。また運動により制限があったり空間的関係性に困難がある人もいるでしょう。そうした人にはリストラティブヨガやチェアヨガの方が良いかもしれません。以下の8番で説明しているように、「ヨガ」という概念を広げるような、認知症患者らの提案に敏感にオープンでありながら、彼らの能力を尊重した練習を作り、彼らが導いていくようにすることが重要です。


ペニーさんは、SPECALの基本原理である(以下の)3つの黄金律は、直感に反したものかもしれないと認めています。彼女の言うように「『根底を覆せと言われている!』と思うかもしれません。しかし、私たちには認知症患者の言葉を学ぶ必要があります。その人を変えようというわけではありません。彼らとどう関わるかを変えることができ、それこそが私たちが人のためにただすべきことです」



認知症患者に対応できるヨガティーチャーとは?


ペニーさんによれば、より高度なヨガの訓練を受ける必要はありませんが、SPACAL写真アルバムや3つの黄金律、以下のコツなどに精通した人であり、Contented Dementia Trust などによるコースを使ってSPECAL基本原理の理解をより深めた人が適していると言えるでしょう。また、認知症患者とのさまざまな交流のなかでその理解を練習に活かしていける経験を持つ必要もあります。



「SPECALのアプローチを基本理念を理解するには、ヨガの範疇外で開発し実践する必要があります。そうすることでのみ、ヨガティーチャーはそうした基本原理を、長期間慣れ親しんだヨガの練習を続けたいと思っている認知症患者に、最もうまく適用する方法を考慮できるのです」



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次回に続きます

2025年12月5日金曜日

科学と意識 
Science and Consciousness


意識とは何か、科学が意識(真実)を探求できるのかについての考察です。

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ここ数年、より多くの科学者らが現実の非二元性という性質に対する洞察を主張してきている。しかし、この主張は基本的な真実、つまり「意識は、科学的究明の範疇を超えている」ということを見落としている。したがって、その真の性質のため、こうした主張は有効ではありえない。


これまで科学と精神性の間には、いつもなんらかの反目が存在している。地球が宇宙の中心ではないと主張したガリレオに対するカトリック教会の迫害だけでなく、天地創造を主張する人々とより現実的なダーウィンの進化論を好む人々との間にある現在の議論も頭に思い浮かぶ。それゆえに、科学者らが非二元性について著したより多くの書籍や論説を目にする機会も多いのだろう。「科学と非二元性」と題された年次大会すら存在し、同じフォーラムでこの2つの知識を探求することも可能になっている。


逆説的に、現実の性質を探求する道具としての科学の力とその決定的な欠点は、その客観性にある。実験的観測とその後の論理的思考の科学的手法は、ヴェーダンタと共通するものであり、前に経験した者の発見を受容するということも含まれる(より新しい発見と矛盾がない場合に限る)。


この世界が私たちの限られた知覚器官で感じ取れるままではない可能性を、人々に考えさせることに、科学は大きな貢献をしてきた。極論を言えば、走査型電子顕微鏡によって指先の物質の想定されている硬さを調べられる。その一方で、ハッブル望遠鏡によって裸眼では見ることのできない銀河の渦まく雲の無限まで覗くことができる。「現実」とは日常の体験によって私たちが信じているよりもずっと微細なのだ。私が今、書き物をしているテーブルの硬さは、電子の回転と原子の周りの共通軌道に関する覆ることのない法則によるものだ。宇宙の膨大なエネルギー源は、ブラックホールに吸い込まれていく数々の星雲からきている。私たちの体の感覚は周りの出来事を説明するにはほとんど役に立たないが、科学には可能であるように見える。


科学によれば、すべては原子でできており、原子はより小さい粒子の集合で、同様にその粒子はより基本的なもので形作られているという。光ですらエネルギーの塊でできていて、時には粒子のように、時には波のように振る舞う。最終的には、全ては純粋なエネルギーに還元され、それ自身が作られたり壊されたりすることはなく、ただ変化していくだけだ。すなわち全ては「ひとつ」である ー そしてこれこそがアドヴァイタ(ヒンズーの一派、非二元論を謳う)もまた述べていることではないか?そして、量子力学者ハイゼンベルクは観察者と被観察者は複雑につながっていると示し、この非二元性の観念を支持していたのではないか?


少なくとも、科学がどのように古代の文献に示された真実を立証し、より洗練された現代の精神により受け入れられる言葉で表現しているかを説明する表面的な論争に至る。残念ながら、この整理された説明には著しい欠落がある。意識を物質の体系内に置いていることだ。その結果、科学はそれを附帯現象だと、ある程度の複雑性に達した物質進化の偶然の結果だと言い逃れをするしかない。もちろんこれは、物質は意識の現実化であるというアドヴィイタとは全く相反している。


表面的には、意識と物質ははっきりと分かれた「もの」だ。サンキャ哲学とヨガ哲学において宇宙の材料はプラクリティやプラダーハナと呼ばれ、プルシャと呼ばれる意識の原理とは異なる。主要なインド哲学の他方は(ニャイヤとヴァイシェーシカ)、宇宙の要素は「原子」あるいはパリマヌスと考え、ここでも意識とはまったく別のものとしている。プールヴァ・ミマンシャカとウッターラ・ミマンシャカ(アドバイティンを含む)のみが意識を創造物の要素と認識している。


アドヴィイタによる科学が意識を調査できない理由は難なく理解可能である。この意識はブラフマン、真我であり、究極の対象である。ケーナ・ウパニシャッド(1.4–7 and 2.3) では、「言葉で悟らぬもの、精神で考えられぬもの、目で見えぬ、耳で聞こえぬもの。理解していると思う者はそれを理解しない」また、シャンカラの弟子であるシュレシュヴァーラがナイシカルミャ・シッディ(3.48)に記したように「真我は、知覚力などという知識の経験的手段を通しては理解することはできない。命への渇望によって喀出された痰にすぎない。全くもって経験的認知の対象ではなく、それは最も奥にある真我である(そして感覚と分つことなく感じることもない)からだ」


科学の手法はまた、因果関係という概念に縛られている。常に探しているのは観察した現象を説明するための原因である。しかし、ゴウダパーダがマンドゥキャ・ウパニシャッドに関するカリカで指摘するように、非二元的現実、チュリヤはカリヤ・カルナ・ヴィラクシャナであり、原因と現象に関連性はない。空間や時間、因果関係を超越ている。それゆえに、科学に基づいた現実の探索は矛盾でしかない。


科学とその手法は、表面的な世界の物質やメカニズムを観察するには素晴らしいものだ。事象の最も見込みのない中でのその巧妙さは、おそらく果てしない。そしてこれらの究明の中には、私たち以外のものへの究明に価値があるものもある。例えば、アドヴァイタのネティネティ(ブラフマンが何なのかを探求するために、何がブラフマンでないのかを自問する方法)などだ。



しかし、科学が物質を探求するのに素晴らしい方法であるとしても、物質の本質は究極的には非二元的現実と同じであるため、失敗に終わるしかない。「Notes on Spiritual Discourses (1386)」でアトマンダ・クリシュナ・メノンが記したように、「主観性の影が少しでも残る限り、客観性が消えることはない。そして客観性が完全に消えない限り、対象の真の性質は決して視覚化できることはない。これこそが、インドの内外どちらにおいても、精神の媒体を通した真実に近づこうとする試みにおいて科学と哲学が犯す基本的間違いである」


意識なくして、何ものも知ることはできない。しかし、意識そのものが知識の対象となることはなく、それは真っ暗な部屋の中で、周りを照らせる明かりがそれ自身を照らすことはできないのと同様である。意識を知るためには、それは知りうる客観的対象でなければならず、すでに知っている主観的対象ではならない。私たちが意識を「知っている」のは、私たちが意識だからだ。意識は私たちの真の性質である。究極の観察者(本質的な自分自身)は、どのような客観的探求もただ不可能である。探求するための究極の観察者を超えるものは誰もいないからだ。


この事象の見かけの逆説的状況は、真実レベルの混乱の現れだ。科学領域である世界においては、脳などの対象の探求は精神によって行われる(意識の内省)。この世は、知るものと知られるものの二元性の世界だ。絶対的真実の視点からは、ただ意識があるのみである。世界は、名前と形の現れでしかなく、その意識からは決して分かれない。しかし、意識そのものは、この世レベルの精神では決して探求することはできない。科学で得られるものは、知識ではなく情報だ。そこには終わりがない。より多くを調べるほどにより多くを見出す。そして、どんな論理も良しとされるのは疑うべき情報が出てくるまでである。「私」は情報ではない。絶対であり覆らない。


科学の発見は常に、より深い観察のもとに修正されて行くものだ。これが方法論の性質である。しかし、自身を非二元性とする認識は客観的知識ではない。どんな感覚器官を通しても直接的に知るものではなく、どんな根拠も必要とせず、修正される対象でもない。決定的であり絶対だからだ。


科学は、どうしようもなく客観的探求の領域に制限されている。これは科学の強みであり、科学者が霊的な探求に役立つ貢献を望むなら、その道程にあるネティネティの段階で努力することに集中すればよい。ハイゼンバーグの不確実性は、主観と客観の間にある妥協できない対立によってそれ以上の情報を収集できない時に、物質のますます微細な行動を探求する地点に到達したことを明確に示していた。これが、科学的探求の終着点である。意識そのもものは主観と客観の対立そのものが消滅した時、観察をも超えた微細のなかの最も微細である。ということは、誰もそこには到達できないということなのだ。