2020年5月30日土曜日

マハーバーラタの物語:スーリヤ神 
Tales from the Mahabharata: Lord Surya



世界で最も美しく、最も優しく、お金持ちで最も力を持った人と結婚したとしたらどうだろう?それはそれは幸せなはずだ。そんな夫を持ったサンジュニャーは、だけれど、とても不幸だった。


サンジュニャーの物語は、インドの偉大なる叙事詩マハーバーラタで語られる。彼女の夫は、太陽系の王、スーリヤ神。彼は何千年も前に死んだ歴史的な人物というわけではない。昼の間はいつでも外に出て、私たちが「太陽」と呼ぶ燃えるような光の玉に乗りゆっくり天空を横切っていくのを見ることが出来る。彼のサンスクリット語での名前 Surya は、「光り輝く」という意味の「sur」に由来する。


スーリヤは、誠実で献身的な夫だったが、サンジュニャーは彼のそばにいるのが耐えられなかった。問題は、あまりにも明るく輝くので彼を見ることができなかったことだ。そこである日彼女はメイドのチャーヤ(名前の意味は「影」で、見た目はサンジュニャーによく似ていた)に、こっそり彼女の代わりをするように頼み、地上で名前を伏せて住むために地球に逃げたのだった。


チャーヤは女王として振舞うのを楽しんだ。彼女はスーリヤ神との間に息子まで持った。ゆっくり動き、何方かと言えば陰気で全く明るくはないシャーニ(土星)。チャーヤはこの息子を溺愛し、サンジュニャーの子供達を放置した。子供達はとうとう父親に訴えた。「ママがママらしくない」子供達は彼に言った。「私たちを完全に無視してる。シャーニとしか遊ばないの!」


スーリヤの疑心が湧き上がった。そこで1日の終わりに家に帰り彼女を近くで見ると、確かに彼女は元の彼女の影でしかなかった。とうとう彼は気づいてしまいショックを受けた。妻ではなかったのだ!「お前は誰だ?」彼は聞いた。「サンジュニャーに何をしたのか?」


チャーヤは恐ろしくなった。スーリヤはいつもはとても寛大だが、こんな時にはとてつもなく恐ろしいのだ。そこで彼女は彼に辛い真実を伝えた。あなたの妻はあなたの存在が耐えられずあなたを捨て去ったのだと。


スーリヤは愛する人を探すため、地球へと急いだ。雌馬になった妻が牧草地を駆けているのを見つけたので、雄馬になって彼女を後を駆けた。追いついた彼は鼻を彼女の鼻に押しつけ、息を吹き込んだ。それでサンジュニャーは身篭り、すぐに二人の息子、アシュヴィン双神が生まれた。彼らは晴れた夜空に見ることができる。牡羊座の頭にある2つの明るい星だ。


しかしサンジュニャーは天空へ帰りたくなかった。「あなたのせいで目が痛い!」とスーリヤに文句を言った。「あなたは本当に明るすぎる!」


サンジュニャーを連れて帰るべく、この世を作った偉大なる創造者で義父のヴィシュワカルマンに助けを求めた。「妻が夫や子供を見捨てるなどあってはならない!」と叱責した。が、サンジュニャーは譲らず、より快適な地球に留まり続けた。


ついにヴィシュワカルマンが完璧な妥協案を持ってきた。太陽を旋盤の上に下ろしスーリヤ神の光の多くを注意深く切り落とした。そして落ち着いた義理の息子をサンジュニャーの元へ送った。彼女が夫の姿を見つけた時、自分の目を疑った。「そなたは今まで会った中で最も美しい男です!」そう叫んだ。この燃えるような夫婦は天空に戻り、その後幸せに暮らした。






内なる太陽


この奇妙な物語でマハーバーラタは何を言おうとしているのか?それはサンジュニャーが何者なのかを理解することが重要な手がかりとなる。サンスクリット語でサンジュニャーは「知る者」。つまり精神を意味する。サンジュニャーは思考そのものであり、この地球に住むために神の光から逃げているものだ。言い換えれば、サンジュニャーとは私たちのことだ。


この神話は、魂が真に愛するのは内なる神聖な精神で、多くのヨガの聖典はこの内なる精神を「1000の太陽のように輝く」と表現している。多くの人にとってその光は耐えられない。バガヴァット・ギータの有名な物語では、悟りを得たクリシュナが彼の友人アルジュナにこの内なる体験を示す。しかしアルジュナは、この神聖なビジョンの壮大さにはまだ準備ができていない。彼はパニックになってこう叫ぶ、「クリシュナよ、どうか止めてくれ!耐えられない!」


私たちの精神的な修練の目的は、この神聖な光の中で意識的に生きることができるまで気付きを拡げることだ。しかしサンジュニャーのようにほとんどの人は、気付きを大きくするための訓練をしていない。それどころか、私たちのほとんどはその光から逃げている。外の世界の物質に心を奪われていて、内にある光を見失っている。そしてサンジュニャーが子供達を失ったように、照らされた気付きからくる多くの恵みを失っているのだ。


しかし神はこの影の中に私たちを永遠に彷徨わせることはない。私たちを探し出してくれる。ヨガの伝統では、馬はプラナ、つまり生命力を意味する。プラナは肉体を生かし、正しく維持することで治癒力の源となる。この神話では、内なる太陽は息の力でサンジュニャーを「受胎」させる。サンジュニャーが産んだ双神アシュヴィンは、左右の鼻腔を象徴している。インドの文化では、この2神は聖なる治癒者として知られる。生命力であるプラナが肉体と精神の繋がりをもたらすため、子供が生まれる時は必ずそこに彼らがいる。(そして聖書の創世記はこう言っている「神が人の鼻に生命の息を吹き込むと、彼は生きる魂となった」)この神話は、ヨガでいうプラナヤマ、呼吸の練習が内なる光にもう一度つなげてくれることを私たちに思い出させる。



神を見ること


なぜ瞑想するのかを尋ねると、率直に「神様に会いたい」と認めるヨガの生徒もいる。これはアリがエンパイア・ステイト・ビルディングを見たいと思っているのに少し似ている。私がインタビューしたヨギが、スーリヤ・ヴィッディヤ(内なる太陽の科学)を実践した後は精神が光でいっぱいになって実際に盲目になってしまうと言っていた。そして、キリスト教の黙示録では、神に関して「彼の顔は太陽のようにとてつもなく輝いていた」と述べている。


死ぬべき運命の者はただ永遠を得ることはできない。至高の真実の際限ない力と美は、私たちの精神の理解力を完全に超えている。しかしサンジュニャーとスーリヤの神話は、人間の魂ともう一度繋がりたいという強い欲望があれば、神はそのエネルギーと明るさを少し弱めてくれると言っている。物質世界の旋盤に囚われて、私たちが一眼見られるような形を装ってくれるのだ。


ヴェーダーンタの伝統では、普遍の真実であるブラフマンではなく、内なる自我であるアートマンにより焦点を当てている。そして超越した存在は擬人化され、瞑想のなかで手の届く存在となる。そして内なる光に焦点を当てることで、無限の光の世界へ入る権利を得る。悟りを得た魂は精神の光の中で生き続ける。その魂は、雨粒が海に落ち完全にひとつとなるように、私たちの自身のより高みの自我であるアートマンが普遍の精神と完全に「ひとつ」になるという真実を体験するのだ。


地球への逃亡の後、サンジュニャーは天空の光であるスーリヤ神とまたひとつとなった。おそらく、私たちもいつの日か逃げることを止め、我が家へと帰るのだろう。






2020年5月27日水曜日

ウパニシャッドの物語:神々の王インドラ 
Tales from the Upanishads: Indra, King of the Gods

ノルウェイにルーツを持つ筆者が、インドの神インドラについて書いている記事です。
北欧の神話との間に類似性を見出しているところが興味深いです。
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激しい嵐が町にやってくると、私の父はいつも私を窓辺に急いで来させ、巻き上がる黒い雲を指差し「ほら!彼がいるぞ!」と叫んだものだ。


私はまだ4歳だったけれど、父が何を言っているのかよくわかっていた。月のように大きく太陽のような金髪の神トール(北欧の雷神)が、彼のハンマーで空の屋根を激しく打ちつけ、ギザギザの光を地面に落とし、それが岩にぶつかり雷鳴を鳴り響かせているのだ。トールの戦車が天空を横切って疾走するのを一目見ようと、いつも私は窓辺まで走っていった。この雷王を見たことは一度もなかったが、彼のハンマーが天を裂くほんの少し前の瞬間を一度か二度見たと信じていた。


現在ノルウェイはキリスト教になって1000年が経ち、古い神々は徐々に消えている。トールはトロンヘイムの北で育った父の幼少期の一部であり、そして私の幼少期の一部でもある。思いもよらなかったことは、トールはまたヨガの伝統の中でも重要視され、彼の力や威厳は今なおインドのヨギ達によって祈りの対象となっている。


インドに現存する最古の書物であるヴェーダに書かれたトールの記述は、私が抱いていたイメージといくつかの面で驚くほど類似している。ヴェーダによると、彼は金髪の天界の戦士で雨を降らし雷を操る。彼の存在理由は強い大蛇に打ち勝つことで、そしてとても酒好きだ。これがトールと同じ神だと疑う印欧歴史学者はいないが、ヴェーダでは違う名前を持っている。彼はインドラと呼ばれ、神々の王である。近年スカンジナヴィアでは彼はアニメにしか出てこないが、インドではヨガの書物によってこの雷神の深淵なスピリチュアルな伝説が今も伝えられている。



インドラの探求


ヨガでのインドラは、突然の轟音を鳴らす厄介な空の神というだけではない。彼は本当の精神的追求者だ。チャンドーギャ・ウパニシャッドには、インドラ神と悪魔のヴィローチャナのどちらもが神聖な真我の話を聞いたと書かれている。その神秘をマスターすれば、全ての欲望を達成できるとされていた。もっと知りたいと思ったインドラとヴィローチャナは、プラジャパティという偉大なグルを探し当て勤勉に仕えた。彼らの見習い期間が終わった時、グルはこう説明した。「真我とは己の目を通して見る者である」


どちらの弟子もそれを理解しなかった。聞き間違えたのだと考えた。きっと「真我とは己の目を通して己が見る者だ」と言ったに違いないと。生徒達が理解していないと気づいたグルは、こんな見込みのない生徒達に時間を無駄にかけることはないと決め、鏡を見れば真我が見えると彼らに伝えた。


鏡に映る姿を覗き込んで二人は同意した。「私の肉体が私の真我だ」それからというもの、彼らは自身の肉体を崇め、出来る限りの手入れをし、運動をしハタヨガをし、最高の食事だけを摂った。そして全ての欲望は満たされた。そうして心地よく彼らは過ごした。


さて、今日ではヴィローチャナとその他の悪魔たちはいまだにこれを信じている。しかし、インドラは帰る途中でもう一度考えた。「ちょっと待て。そうじゃない」彼は考え込む。「肉体は病気にもなるし、老いるし、死んでしまうじゃないか。不滅の真我であるわけがない!」すぐにグルのもとへ引き返しこの教えは意味をなさないと訴えた。


「お前は正しい、インドラよ!私の試験に合格して嬉しい」プラジャパティは答えた。「本当の真我は夢の中で己が経験するものだ。これが恐れや死を超えた真実なのだよ」


この知らせにインドラは喜んだ。より理にかなっていた。もし目が見えなくても夢なら見られる。もし足が悪くても夢の中なら歩ける。そしてヨギによれば、たとえ肉体が死んだとしてもこの夢自体は存在し続けるのだ。しかし、帰る途中インドラはまた不安になった。「悪夢はどうなんだ?」と思った。「夢自体も痛みや恐怖、疑念、失望の影響をうけるじゃないか。本当の真我であるわけがない」彼はグルの元に戻って懸念を示した。


「ちょっとはお前を騙せたね?」プラジャパティは笑った。「本当の真我は深い眠りの状態で己が体験するものだ」


本当にこれは前の教えよりも理にかなっていた。深い眠りの中では、痛みや恐れを完全に超える。しかしまた、戻る途中でインドラは思いついた。「ちょっと待て!残りの無意識はどうなんだ?またやられたのか。この教えには全く価値がない」そこで彼がグルの元へ戻るのが4度目となった。


「真我はこれらどの状態でもない」プラジャパティは明かした。「真我とはこれらの状態を知覚するものだが、それらを超えて存在するものであり、空を照らし出す稲妻のように輝く。己の目で見る者、己の耳で聞く者、己の思考で考える者を探しなさい。それが己の不滅の真我である。偉大なる師達はこの純粋な内なる存在に瞑想し、人生の最も高みにある目標に到達する。馬がそのたてがみからホコリを払い落とすがごとく全ての悪をふるい落としなさい。そして月が月食から自由になるがごとく肉体に縛られた己を自由にしなさい。心の中にある不死の真実に気付きを築くのだ」


とうとうインドラは満足した。家に戻って内なる真我に瞑想した。そして新たな冒険が始まった。これがケナ・ウパニシャッドに語られているものだ。


神々は遠くに明るく輝く人がいることに気づいた。しかしそれが誰なのか判らなかった。そこで彼らは調べるためにアグニを送った。「お前は誰だ?」アグニはこの輝く存在に問いかけた。


「お前は誰だ?」その不思議な見知らぬ人は答えた。

「私は火の神、アグニだ!世界を焼き尽くすことができる!」

「これを焼きなさい」見知らぬ人は一本の藁をかかげた。

アグニは侮辱されたとその乾いた草に怒りの火を向けたが、火はつかなかった。面目を失った彼は戻った。

見知らぬ人が誰かを明らかにするため、次はヴァーユが送られた。「お前は誰だ?」彼は横柄に尋ねた。

「お前は誰だ?」見知らぬ人は鸚鵡返しに言った。

「私は風の神、ヴァーユだ!世界を吹き飛ばすことができる!」

「これを吹き飛ばしなさい」見知らぬ人は一本の藁をかかげた。

ヴァーユは、ふう、はあと息をかけたが、その草は全く動きもしなかった。恥ずかしくなって、ヴァーユは急いで戻った。

そこで神々は王の元へ行き、見知らぬ人が誰なのか調べてくださいと請うた。インドラは責任を感じて出かけていった。しかし輝く者はもういなかった。その代わりに彼が見つけたのは金を身に纏った美しい女性だった。「あの見知らぬ人が誰なのかご存知か?」彼は聞いた。

「あれは至高の真実です」彼女は答えた。「この世の何もかもを照らし出すとても明るい一筋の稲妻のようなものです。あなたの行動を通して行動する内なる真我なのです」

すぐにインドラは、至高の真我が火や風で触れることが何故できないのかに気づいた。それは、神の存在へと人間の意識を導くためクンダリニと呼ばれる金色の女性が眠りから目覚めた時、瞑想の中で見つかる内なる光なのだ。この気付きの過程は、己に「お前は誰だ?」と尋ねるところから始まる。肉体や呼吸を超え、思考や感覚を超え、それを経験している純粋な気付きへと向かい、私たちは自身の不滅の魂と繋がるのだ。


内なる空を照らす


いったいインドラとは何者なのか?アイタレーヤ・ウパニシャッドでは、インドラの名前はサンスクリット語で「この全ての知覚者」という意味の「idandra」から由来している。ヨギは、五感であるインドリヤスの神である彼を「優れた魂」と呼ぶ。彼は酒豪だが、彼の好む酒はソーマと呼ばれ、高い瞑想の中で体験される至福のことだとヨギは言う。彼の支配する大蛇はクンダリニで、とてつもなく不思議な体験を作り出す微細な領域での大蛇の力だ。


ヨガの書物では、創造主がこの世を統制するために使う力、そして私たちが自身の身体や精神を調整するために使う力のことをヴィジュット・シャクティ、すなわち「稲妻のエネルギー」を呼ぶことがある。精神の空にある内なる力を制御することを覚えれば、私たちはインドラのように自身の主人となり、人生が照らされる。インドラは、彼自身の存在という隠された真実を見つけるまで探求を続ける霊的な探求者である。


ヨガ的な文献と古代のノルウェイの神話の間にある多くの類似性から、スカンジナビアの祖先達はトールの特性や冒険の霊的な重要性について気づいていたに違いないと私は思っている。しかし、何世紀も経ってこれらの物語の真の意味は西洋で失われてしまった。インドのヨガの血統はなんとも幸運なことに、こうした生ける神話の内なる局面への考察を失うことはなかった!ヨガの伝統の輝かしい力に感謝し、私は自身の気付きの空にトールを探している。




(出典)https://yogainternational.com/article/view/tales-from-the-upanishads-indra-king-of-the-gods

2020年5月18日月曜日

ヨガとは:ヨガ・スートラ1.2  
Complete Mastery Over the Modifications of the Mind is Called YOGA


Yogas Chitta Vrtti Nirodha
「精神の波に対する完全なる統御をヨガと呼ぶ」



ヨガ(Yoga):結合、均衡、精神の調和した状態、人生の異なる局面の隙間を埋める、個人の意識と最高位の意識を繋げる、2つのものの結合ー愛する者と愛される者、探求者と神、シヴァとシャクティ、イーダとピンガラ、太陽と月、能動と受動。

チッタ(Chitta):精神、思考と感情の収納場所、その者が考え感じる物、考え感じ受け止め認識する内なる媒体、意識がその出現を探求するために使う道具、感覚の統率者、魂の居場所。

ヴリッティ(Vrtti):思考の構築、変化、車輪のように回転するもの、動き。


ニローダハ(Nirodha = ni + rodha)
ニ(Ni):完全に、全ての面において、全ての方向から。
ローダハ(Rodha):制限する、制止する、律する、当てなく放浪させない


ヨガの定義


パタンジャリが作成した極めて重要なたったひとつの経典の中に、紡がれた一本の知識がヨガの実践の全てを結びつけている。


チッタ(精神)の変化の統御を得ることは、ヨガの実践における中心である。パタンジャリによれば、精神は、曖昧で人間の知識を超えた現実と明白な世界との間にある。つまり肉体と魂の間にある。


精神は税関職員のようなものだ。魂と肉体(純粋な意識と物質の世界)の間で税関を通ってあれこれと輸入されたり輸出されたりする。私たちの内にある聖なる神はいつも愛や知識、幸福などを与えてくれており、私たちもまた愛を神に捧げる。しかしこの税関職員が墜落すると、この交流が妨げられ、全ての伝達や贈り物の交換が困難となる。ヨガの目的は精神を訓練し律し、そしてその墜落の傾向を取り除くことである。


瞑想や熟考は、精神を訓練し制御する協力な道具である。瞑想で精神は一方向に集中し注意深くなる。瞑想を練習することで、精神を常に注意深くあるよう訓練する。熟考は精神にその仕事は、内の世界と外の世界の交流を促進することだけだと理解する機会を与える。熟考の練習を通して、精神の役割というのはこの2つの領域を行き来するもの全てを見つめ認識することだけであり、他には何もないと私たちは気付くことができる。


ヨガの目的は精神の制御や制止、制限ではなく、ヴリッティを鎮めることである。つまり精神の常に忙しく動き回り続ける傾向を鎮めるのである。精神への完全な支配を得ることは当てもなくあちらからこちらへと放浪する精神の傾向を乗り越える必要があり、ヨギが私たちに伝えるごとく、混乱し集中を欠いた精神はヨガの実践とはそぐわない。


しかし実際問題、肉体や精神、意識はお互いに混ざり合っている。どれかを他のふたつから切り離して体験することなど絶対に不可能だ。私たちは精神よりも肉体をより感じやすいため、肉体のことばかり主に心配している。ヨガの核を練習(精神の波を統御)すると、肉体が必要とするものや欲するものに対応するのが重要ではなくなる。すなわち肉体レベルで健康になり強くなることに役立つこの練習のことを「ヨガ」と呼ぶようになった。精神の波を統御するため、その妨害を最小限まで小さくするのに役立つのだ。だから、アサナ、呼吸、リラクゼーション、集中するテクニック、そして良い栄養を摂るという信念は全てヨガの一部なのである。しかし、ヨガとは究極的には「結合」を意味することを誠実な生徒ならば忘れてはならない。究極の結合は、個人と究極の存在の間にあるもので、その結合をもたらすために不可欠となる道具が精神なのである。





2020年5月11日月曜日

足裏のサポート 
Sole Support

ヨガをするときは裸足で行います。それは足の裏を感じきちんと使うためです。
窮屈な靴下を履き続け靴の中に足を閉じ込めていると、足裏の感覚を忘れて足指を使わなくなってしまいます。血流も妨げられますし、使うべき筋肉がどんどん弱っていきます。
今日の記事は、「足裏」です。

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足というのは大抵の場合目につかないし忘れられている、痛みを感じ始めるまでは。さていいニュースだ。地面から身体に力を与える強い土台を作るというヨガとアーユルヴェーダで緩和できる。


ヴェーダでは、足は「行動の臓器」と言われる。足は身体の土台で、体重を支えるための構造をした、様々な地形で動くことのできるプラットフォームだ。想像してみて欲しい。家の基礎が弱ければ全ての構造が軋み、壊れ始める。同様に、足の土台が弱ければ脚、膝、腰、背中、肩、首などに問題が起こり、筋肉の緊張、姿勢バランスの崩れ、疲労に繋がる。


アーユルヴェーダやリフレクソロジー、その他伝統的な治療法では、足は身体の他の部分の鏡とされている。今、足に緊張があるとしたら、きっと身体の他の部分でも緊張があるだろう。そして足が疲れているなら、体全体が疲れている。つまり、なぜヨガの実践者が、位置やアライメント、足にかかる体重のかけ方にこんなにも気をつかうのかということを説明できる。姿勢の土台としての機能だけでなく、足はまた身体全体のエネルギーの流れに影響している。木が枝を伸ばすため根から栄養を取り入れるのと同様に、私たちもまた地面からエネルギーを引くのに足を使うことができる。足の筋肉を引き上げ骨格を通して地面からの跳ね返りを感じることで活気のある姿勢となり、心が軽く、繋がって支えられているという感覚を得ることができる。


この跳ね返りの感覚の鍵となるのが足のアーチだ。骨そのものからと同様にアーチの下のスペースが作り出すその特有の構造や弾性のある支持なしでは、私たちの足は地面に崩れ落ち、歩くたびに関節の痛みを引き起こすことになるだろう。この足の自然な跳ね返りが足りない時は矯正用のアーチを使うこともできるが、アーチの正しい引き揚げができている人にとっても、身体の重要なこの部分に対する気付きを新たにすることができるだろう。


目標を定めた ハタヨガの練習は、足の強化と正しい使い方を知る完璧な機会となる。しかし、足に直接働きかけるには、シンプルで効果的な集中が必要だ。あなたの努力によって足の痛みを緩和できると気づくのに時間はかからないだろう。また、呼吸や血流を向上することもできるし、より微細なレベルでは内臓の健康と全体的なバランス、幸福感をも向上する。



軽やかな姿勢への鍵


ヨガに深い関連のある科学であるアーユルヴェーダでは、身体のエネルギーの点をマルマと呼ぶ。身体中のエネルギーの流れをコントロールする電源スイッチだと考えればいい。電機が正しく機能するために完全に機能している電源スイッチが必要なように、私たちの筋肉や内臓もエネルギーの妨げのない経路が活性化しているときに最適に働く。マルマ・ポイントは私たちの「電源スイッチ」なのだ。


足の重要なマルマ・ポイントのひとつであるクルチャシラ・マルマは、姿勢を左右し、身体全体そして特に足の筋肉システムの調和を作る。このマルマは踵の前にあり、アーチの高い部分にある立方骨の下だ。中医学では、湧泉と呼ばれるツボだ。足の裏でエネルギーが元気よく湧き出るのを示唆するこの名前を私は気に入っている。


クルチャシラ・マルマは、ちょっと探るようにマッサージすれば見つけられる。親指を使って踵のまっすぐ前の皮膚が少し柔らかい場所を探ろう。足指を上げると堅くなる2つの腱の間にある小さな窪みだ。土踏まずが弱かったり一日中足で立っていた時などは特に、親指でそこを触るととても柔らかいことに驚くかもしれない。鋭い痛みは、足裏から足首の後ろを通って脛骨へと走る深い筋肉、後脛骨筋が緊張しているか疲労している兆候だ。この筋肉の引きつれはまた、過労性脛部痛のよくあるタイプの原因となる。(ジョギング、ハイキング、スポーツなど、爪先の方へ体重が移動し足が平らになって足裏を疲労させ、土踏まずを撃ちつけることで起こる脛の骨の間の痛み)


クルチャシラ・マルマを親指でマッサージすることで足の緊張を解くことができるが、この痛みは姿勢の問題の症状のひとつでしかなく、この影響は足そのものにまで及ぶ。このマルマ・ポイントを手がかりとして使うなら、体全体を整えあなた自身に軽さとエネルギーを与えてくれる。以下がその方法だ。


足を床に付け、クルチャシラ・マルマの場所がわかるまで中指を土踏まずでなぞる。そして足指を床から持ち上げて土踏まずを引き上げる。このマルマ・ポイントで土踏まずの真ん中を意識的に特に力を入れて引きあげよう。土踏まずを目覚めさせるために指で上方に押す。もし足が回内しがちなら、そして特に膝を過伸展するくせがあるなら、このエクササイズは最初は難しいかもしれない。しかし、これは努力の甲斐がある。この場所への気付きと引きあげは過伸展の傾向を正すからだ。


このマルマ・ポイントから土踏まずを引き上げると、かかとにエネルギーの「輪」ができる。土踏まずが上がると踵骨の前が持ち上がり、踵骨の後ろが下がってアキレス腱が伸びる。かかとの高い靴(特にハイヒール)は大抵の場合土踏まずのアーチを逆方向へと促し、踵骨の前を落ち込ませ、踵骨の後ろが足首の方へ押し込まれてアキレス腱が短くなる。同様に、三角形のポーズ(トリコナサナ)のようなアサナでは、踵の前が落ち込み足首の後ろが締め付けられて膝が過伸展になる。こうした問題は脚の中心となる筋肉が弱いために起こるのだが、これはまさに土踏まずの中心が弱くなることから始まる。


クルチャシラ・マルマにおいて土踏まずを引き上げ軽くすることに敏感になることが、毎日の姿勢を正し、脚だけでなく腰や首の緊張を解くための最も重要なツールだ。ではいくつかの立位のバランスポーズの中でどのように働くのか見ていこう。足の感受性を高め強さとバランスを作るのに役立つはずだ。



中心を見つける


両足を快適な股関節の幅にして山のポーズ(タダサナ)で立ち、両手は腰に置く。膝をロックしたり過伸展しないよう、やや曲げておこう。足指を持ち上げて土踏まずに力を入れる。かかとの前から、脚の中央と身体の中心軸を通ってまっすぐ引き上げることに集中しよう。足の四隅 ー つまり母趾球と小趾球(親指と小指の根元にある肉厚のところ)とかかとの内側と外側だ ー は地面に向かってしっかりと均等に根付かせる。土踏まずの中央は軽く引き上げ、まるで木が栄養を土から吸い込むようにエネルギーを引き上げる。腰が自然に後ろに下がり、足で作られた土台の上で、よりよい姿勢になるのを感じてみよう。



正しいアライメント:
クルチャシラ・マルマから両脚の中心を通って引き上げると
尾骨が下へと伸び腰と首の緊張を解く




クルチャシラ・マルマの微細な引き上げによって踵骨の前側が上がり後ろ側が下がると、尾骨が下方へ長くなり、下腹が引き上がるのを感じ、仙骨のちょうど前にある骨盤のコアが引き上がり軽くなるだろう。これが腰の緊張を解いてくれる。また首の後ろが楽になって、頭は背骨の上でごく自然に浮き上がり始める。


では比較のため、足を緩めてかかとの前にあるクルチャシラ・マルマを下げてみよう。ゆっくり動かして、その連鎖反応を感じてみよう。腰は前方に動き、骨盤が重く押しつぶされた感覚があるだろう。腰はやや緊張し、腰椎に圧迫を感じるかもしれない。また頭の基部の辺りの骨まわり、首の後ろの筋肉も少し詰まった感じがするだろう。



悪いアライメント: 土踏まずの中心が押しつぶされ腰骨が前傾、
 骨盤に重さが生じ、腰と首を圧迫している



このように足が潰れると、中心がわからなくなる。それで、身体の後ろの姿勢を保つ筋肉(足裏、ふくらはぎ、ハムストリングス、腰や上背部、首)が、姿勢を維持するために詰まって堅くなり、同時に身体の前面(特にお腹、胸、腿)が崩れてしまう。 どちらの場合も、始点はクルチャシラ・マルマだ。もう一度このマルマを優しく引き揚げて姿勢の中心軸を見つけよう。どれくらいの引き上げが必要なのか探ってみよう。過ぎたるは及ばざるの如し。この「スイッチ」の「電圧」が低すぎると姿勢は消えてしまうし、高すぎると筋肉が刺激され過ぎて堅くなる。その間のちょうどいい場所を探そう。リラックスしているけれど目覚めているという姿勢だ。この姿勢の根から始まる中心軸を見つけ引き上げることが、体全体にエネルギーを与え、姿勢を保つ筋肉の慢性的な緊張や痛みを緩和する最も重要で最もシンプルなことなのだ。



強さを作る:木のポーズ


クルチャシラ・マルマを活性化させる足と脚の筋肉は、十分使われていないことが多く、エクササイズが必要だ。しかしこれらの深いコアの筋肉はなかなか使いにくい。腹筋や大腿四頭筋、二頭筋のようには使えない。とはいえ、特に木のポーズ(ヴリクシャサナ)などのバランス・ポーズなどハタヨガで鍛えることができる。木のポーズで根づき、引き上げ、開くようにイメージすることは、深いコアマッスルを活性させるのに特に適している。

木のポーズ:壁に膝を預けてポーズを安定させ
クルチャシラ・マルマから引き上げる



このポーズでバランスを取りながら同時に中心軸を見つけようとするのは難しいこともあるので、壁を使おう。まず、開いて持ち上げた膝が壁にちょうど支えられる程度の距離を開けて、足が壁に並行になるように立つ。左足を右の内腿のやや後ろ側に置き、大内転筋(坐骨に向かって走る長い内腿の筋肉)を押す。曲げた膝は股関節よりやや前にして、骨盤が左右並行にそして壁に直角になるようにする。もし軸足の膝がロックしていたら、少し曲げて爪先をやや持ち上げ脚の前方からエネルギーを引き上げるようにする。その間、腰は後方へ、かかとへと体重を移す。ヒップ・ポイント(両手を腰の前に置いた時に感じられる寛骨の骨張った点)が少し前に傾き背中のアーチが強くなることもあるが、それは構わない。 
 

軸脚の上でよりよいアライメントへと腰を動かしたら、軸足の四隅を根付かせながらクルチャシラ・マルマで中心を探ってみよう。母趾球とかかとの外側の間で体重のバランスを取り、小指を使って安定させる。根が地面から栄養を引き込むようにエネルギーを引き上げる。このエネルギーの繋がりと引き上げを感じられたら、ポーズは安定するはずだ。そして花が咲くだろう。 
 

下腹部を引き締め、恥骨のすぐ上の筋肉を内側そして上へと引くことで、胴部全体を引き揚げ続けよう。その引き上げと足の土踏まずの引き上げの間の関係を感じてみよう。下腹部を働かせると、尾骨が下がり曲げた脚の股関節が開く。同じように、胸が胸骨から引き上がって、肩もリラックスして広がる。喉の上を(顎のすぐ下)後ろ斜め上に引いて、頭頂に向かって首を長く伸ばす。これが口蓋の根元のスペースを開き、首の後ろのあらゆる緊張を解いてくれる。このポーズの名前の通り、あなた自身が木のように安定ししなやかになる。身体が徐々に開くとともに、その安定性を維持するために必要な筋肉を探し使おうとして立っている方の足が強く働らくだろう。ポーズから出る準備が出来たら、反対側の脚で繰り返そう。 



ハーフムーン・ポーズ


木のポーズと同じように、ハーフムーン・ポーズ(アルダ・チャンドラサナ)もまた土踏まずを活性化させ、その強さが膝や股関節、腰のアライメントへと繋げる。残念ながら、私たちは習慣的に体重を爪先に移動し立っている脚の膝をロックしてしまうのでこの効果を得ることは少ないのだ。 ハーフムーンの準備:右膝を曲げて前へ移動してポーズに入る。右足の指を引き揚げて土踏まずを活性化させて体重をかかとへと移動する。


 以下の傾向があるかどうか簡単なテストをしてみよう。アルダ・チャンドラサナをしている時、床を掴もうと足指を丸めて白くなっていないか?その場合はこれを試してみよう。右膝を曲げてポーズに入ろうと前に移動するときに、少し止まって足指、そして土踏まずを引き上げる。この調整が体重を右かかとの後ろへと移動させ、クルチャシラ・マルマを見つけやすくする。右の土踏まずの中央で引き上げ続けながらポーズに入ろう。

ハーフムーン・ポーズ: 右足の土踏まずの中心から
右脚のコアを通して引き上げ続ける



そして腹部から両脚へと外に向かって伸びる。 足指を使ってバランスを取ってもいいが、握る必要はなくなる。クルチャシラ・マルマをバランスの中心とし、右脚にそってエネルギーを引き上げると、膝のロックや脚の付け根の骨間の筋肉の締め付けを防ぐことができる。みぞおちから両脚に沿って伸び、ポーズをしながら先端まで伸展するようにしよう。 



クルチャシラ・マルマは全ての立位のポーズ、そしてマットの外での姿勢でも使える重要なエネルギーのスイッチだ。このマルマはエネルギー、アライメント、そして足と身体全体に活力をもたらし、内なる深みにある静かな気付きの中心を敏感に感じられる助けとなる。