2020年5月18日月曜日

ヨガとは:ヨガ・スートラ1.2  
Complete Mastery Over the Modifications of the Mind is Called YOGA


Yogas Chitta Vrtti Nirodha
「精神の波に対する完全なる統御をヨガと呼ぶ」



ヨガ(Yoga):結合、均衡、精神の調和した状態、人生の異なる局面の隙間を埋める、個人の意識と最高位の意識を繋げる、2つのものの結合ー愛する者と愛される者、探求者と神、シヴァとシャクティ、イーダとピンガラ、太陽と月、能動と受動。

チッタ(Chitta):精神、思考と感情の収納場所、その者が考え感じる物、考え感じ受け止め認識する内なる媒体、意識がその出現を探求するために使う道具、感覚の統率者、魂の居場所。

ヴリッティ(Vrtti):思考の構築、変化、車輪のように回転するもの、動き。


ニローダハ(Nirodha = ni + rodha)
ニ(Ni):完全に、全ての面において、全ての方向から。
ローダハ(Rodha):制限する、制止する、律する、当てなく放浪させない


ヨガの定義


パタンジャリが作成した極めて重要なたったひとつの経典の中に、紡がれた一本の知識がヨガの実践の全てを結びつけている。


チッタ(精神)の変化の統御を得ることは、ヨガの実践における中心である。パタンジャリによれば、精神は、曖昧で人間の知識を超えた現実と明白な世界との間にある。つまり肉体と魂の間にある。


精神は税関職員のようなものだ。魂と肉体(純粋な意識と物質の世界)の間で税関を通ってあれこれと輸入されたり輸出されたりする。私たちの内にある聖なる神はいつも愛や知識、幸福などを与えてくれており、私たちもまた愛を神に捧げる。しかしこの税関職員が墜落すると、この交流が妨げられ、全ての伝達や贈り物の交換が困難となる。ヨガの目的は精神を訓練し律し、そしてその墜落の傾向を取り除くことである。


瞑想や熟考は、精神を訓練し制御する協力な道具である。瞑想で精神は一方向に集中し注意深くなる。瞑想を練習することで、精神を常に注意深くあるよう訓練する。熟考は精神にその仕事は、内の世界と外の世界の交流を促進することだけだと理解する機会を与える。熟考の練習を通して、精神の役割というのはこの2つの領域を行き来するもの全てを見つめ認識することだけであり、他には何もないと私たちは気付くことができる。


ヨガの目的は精神の制御や制止、制限ではなく、ヴリッティを鎮めることである。つまり精神の常に忙しく動き回り続ける傾向を鎮めるのである。精神への完全な支配を得ることは当てもなくあちらからこちらへと放浪する精神の傾向を乗り越える必要があり、ヨギが私たちに伝えるごとく、混乱し集中を欠いた精神はヨガの実践とはそぐわない。


しかし実際問題、肉体や精神、意識はお互いに混ざり合っている。どれかを他のふたつから切り離して体験することなど絶対に不可能だ。私たちは精神よりも肉体をより感じやすいため、肉体のことばかり主に心配している。ヨガの核を練習(精神の波を統御)すると、肉体が必要とするものや欲するものに対応するのが重要ではなくなる。すなわち肉体レベルで健康になり強くなることに役立つこの練習のことを「ヨガ」と呼ぶようになった。精神の波を統御するため、その妨害を最小限まで小さくするのに役立つのだ。だから、アサナ、呼吸、リラクゼーション、集中するテクニック、そして良い栄養を摂るという信念は全てヨガの一部なのである。しかし、ヨガとは究極的には「結合」を意味することを誠実な生徒ならば忘れてはならない。究極の結合は、個人と究極の存在の間にあるもので、その結合をもたらすために不可欠となる道具が精神なのである。





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