2019年8月7日水曜日

内なる幸せを見つけよう  Vol.2
Find the Happiness Within You

前回からの続きです。
より深い幸福へと入っていきます。
・・・なかなか普通の人には難しそうに見えますが。

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ムディタ(霊的な幸せ)


サントーシャの実践で心が落ち着くと、次のレベルの幸せ「ムディタ」が視界に入ってくるだろう。英語での最も近い訳は「Spritual Happiness(霊的な幸せ)」。ムディタの最も純粋な形は、ジョンが経験したような喜びだ。どこからともなく、自身の深いところからくるメッセージのようで、一瞬にして自身の状態を変えてしまうパワーが実際にある。感謝や高揚、平静などの感情を司り、歩道のゴミやファーストフードのハンバーガーのような普通は感じないものにでさえ、美を見出す力を与えてくれる。


ムディタは育めるもので、このような喜びを作ることを目指す霊的な修行は多い。私の知るあるヨガスタジオでは、他のどんなプログラムよりも週一回のチャンティングのセッションの参加者が最も多い。なぜだろう?チャンティングがムディタを起こすからだ。また特定のヨガポーズや、瞑想、繰り返すマントラ、悟りへの集中もそうだ。バクティ・ヨガやスーフィ教など伝統的な信仰は、ムディタを育む方法に特化していて、微細であっても意識への力強い道筋へとなりえる。




アーナンダ(理解を超えた至福)


ムディタが自身の体験全てにまで深まると、最も深いレベルの喜び「アーナンダ」を見出す。アーナンダは一般的に「Bliss」と訳されるが、個人的にこの英語はアーナンダの実際に持つ意味を正しく表現してはいないと思っている。アーナンダは、忘我、歓喜であり、世界のとても深いところから湧きあがる喜びであり、一瞬で純粋な存在の果てしない広がりへと私たちを繋げてくれる。アーナンダは言い換えると、幸福という形の聖なる力だ。それに触れるとわかる。そして真実の最も深いレベルに触れたこともわかる。

ウパニシャッドやシヴァ教、シャクタ・タントラなどの二元論を否定する優れた哲学者らによれば、アーナンダは神だという。身体中に染み渡る湧き上がる歓喜を感じる時というのは、神を体験しているのだと、私の先生がよく言っていた。喜びと神の体験との同様の関連づけがスフィの詩カバラにもあり、キリストの神秘主義の書物の中にも身体中を走るような体験がある。C.S.ルイスが自身の霊的自伝に Surprised by Joy と名付けたのは、神の存在を感じた彼の体験全てが全くの幸福感だったからだ。だから喜びを育むことは、内的体験への近道なのだ。それはただの手段ではなく、目的そのものでもある。

私にとってこの見識は実際的に役立ち、喜びの道をたどる秘策だ。これらの素晴らしい指導者らが言ったことを真面目に考えてみよう。喜びは実際に存在し、あなたの中に、あなたの周りの世界にあるという理解を試してみよう。そしてそれに近づけるあなたに合った練習や姿勢を探そう。喜びはあなたの前に突然現れるかもしれない。もしくは練習と自問によってゆっくりやってくるかもしれない。



喜びの練習をする


基本的には、ジョンが学んだことだ。彼が初めに感じた予期しない喜びは長続きしなかったし、そういう状況はめったに起こらない。数日後にはやや鬱ぎみで不安な元の状態に戻り、たまのユーモアで元気付けられたりしたが、すぐに喜びの体験は現実というより記憶となった。しかし、ジョンはその体験を忘れられず、それをまぐれだとは思いたくなかった。それで、少しづつ自身の道を作り上げた。スフィの詩を読んだ。瞑想を始めた。しかし、彼の本当の変化は、あの喜びの体験が真実の深いレベルから来たものであり、心の中やテレビ、街で見た困難や痛み、機能障害などではないという信念を選んだことだ。


ジョンはこんなような自問プロセスを作った。「OK、喜びは自分の中にあるという信念を僕は選んだ。でも今それを感じることはない。じゃあ何をすればいい?僕のどこを変えればいい?あの喜びを起こせるように何を実践すればいい?」


やがて誰もがそうであるように彼は気づいた。喜びへは前から一所懸命近づいてもうまくいくとは限らない。
シッダ・グルのグルマーイ・チドヴィラサーナンダはかつて喜びを蝶に例えてこう言った。それは手のひらに来てとどまるけれど、それを掴んで離さないでいることはできない。喜びを「得よう」とするのではなく、それを呼び寄せる練習や姿勢を見つけなさいと。心の扱い方を教える先生方から得られる手がかりの多くは、実は喜びを引き寄せる練習なのだ。思いやりの実践、どんな小さな恩恵でもまた困難であっても自身や他人への感謝を忘れないこと、悪意は意識的に手放すこと。これらは全て、心の周りに溜まって喜びを遠ざけるドロドロしたものを取り除いてくれる。もっと大切なのは、自身に語る物語に気づくこと、内に痛みが起こす思考を観察すること、喜びを引き寄せられる内面を作り出すため自身の創造的な精神力を使うことだ。


だから、ゆっくり進もう。幸福を育むプロセスとはこんな風に見えるものだ。まず幸福が現実だと単に理解することから始まり、そしてそれを感じることが可能になるまで精神と感情をオープンにしていく決心をする。自身の状態によって、サントーシャを練習する必要があるかもしれない。それは私にとっては、体や心をたった今かき乱している思考や感覚、不安や欲望に気づくことであり、そして今の現実に抗って起こっている動揺をうけ流すためできることをやるということだ。





近道をゆく


次の段階は、ムディタの練習だ。チャンティング、祈りの言葉、直接こころの真ん中に入っていきそこに広がるエネルギーを放つ、愛のイメージや視覚で瞑想する、他人の幸福のため祈る、敬愛する先生を思い出すなど数えきれない練習法がある。


タントラの書物では、上記すべての中心にある核となる練習がひとつある。とてもシンプルでいつでもできる。車の中、皿洗いの途中、この文を読んでいるときでさえ、とても短い時間で意識をシフトされられるものだ。


両目を閉じて本当に幸せだと感じた瞬間を思い出そう。そしてその瞬間へと移動する。感覚がその状況にある時のようになるかみてみよう。どこにいたのか、何を着ていたのか、誰が居たのかを思い出すなど、視覚を使ってもいいだろう。「あの幸せってどんな感じだった?」と自分に尋ね、体のなかにその感覚が出てくるまで待つなど、感覚を思い起こす方法もいいだろう。それがたとえ少しだとしても、本当にその幸福を感じるまでやってみよう。


そしてその情景や状況の記憶をはずして感覚だけを感じてみよう。その感覚の中心が体のどの場所にあるのか見つけ、それが体を満たすまで広げてみる。もしあなたがとても視覚的ならば、感覚に色をつけると(金色やピンクなど暖かい色)うまくいくかもしれない。あるいは呼吸を使って、感覚に呼吸を送り吐く息でそれを広げていくのもいい。


この感覚と幸福を感じながら座ろう。そのままで感じ続けられるかみてみよう。この時にその幸福感を自分の基本的な感覚にすることができるか試してみよう。これは小さいけれど、あなたの本当の真実を垣間見ることなのだ。





(出典)https://www.yogajournal.com/yoga-101/joy-story


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