現代のヨガを最もよく表しているシンボルは、ヨガマット以外には無いでしょう。ヨガマットはもはやヨギが使う道具という以上の物です。ヨガマットは象徴です。ストレスが多く混沌とした予測できない毎日の中で、私たちの心が少し安らぐことのできる場所を表現しているのです。
ヨガマットの略歴
アンジェラ・ファーマーは、地球上で最もよく知られ尊敬されているヨガ・ティーチャーの一人です。彼女はヨガを40年以上教え続けています。若い頃に受けた手術が原因で、彼女の手足に汗がかけなくなったそうです。何もかもが乾ききった冬に、硬い木の床でヨガを練習したことはあるでしょうか?手足がスリップしてあちこちに滑ってしまう悲しくも可笑しい状況に似ています。ダウンドッグや立位のポーズは特に滑りやすいものです。
その症状があってもファーマーは、1960年代のロンドンで教えていたBKSアイアンガーとともに練習することをやめようとはしませんでした。アイアンガーは、気泡ゴムのマットレスを使ったり手に水をかけたりすることを許しませんでした。1968年にミュンヘンで教えていた時、彼女はカーペット工場で薄い下敷きに出会います。それこそが彼女の問題のための完璧な解決法だったのです。
ロンドンに帰った彼女の「カーペット下敷きヨガマット」は、生徒達の間でとても人気になりました。やがてアンジェラの父親が、ドイツのカーペット工場のオーナーと繋がり、故郷のヴァンクーバー・アイランドで最初のヨガマット小売店を始めました。
アンジェラ・ファーマーが開発したヨガマットは、治療の一環でした。マットの粘着性が症状を緩和することができたのです。
ヨガのストレッチ化
では、ある症状のために作られたヨガの道具が世界中のヨギの標準アイテムとなった時何が起こったのでしょう?
このマットの粘着性は、歩行の変わりに使われるモーター付きのカートと同じというわけではありません。モーター付きのカートは間違いなく便利ではあります、、、歩行に問題があれば、です。しかし、そんな症状を除けば、私たちの最悪の特徴を強める可能性もあります。ピクサー映画の「ウォーリー」を見たことがありますか?映画の中の未来の人間は、もう立って歩くことができず、一生テレビの付いたカートで移動しています。
芝生や砂の上でヨガをする時、あるいはブランケットの上でさえ、立位のポーズに柔軟性よりも強さが必要なことがわかるでしょう。手足が滑っていってしまわないようにする力はアイソメトリック(等尺性)の収縮です。
表面にある程度の不安定性がなければ、くさびのようにポーズをホールドすることになります。結果的に、膝や股関節、肘、肩が「ぶら下がる」ことになります。この関節の「ぶらさがり」は、ニューヨーク・タイムスに掲載されたウィリアム・ブロードの最近の誤診問題の主な原因ですが、この記事はヨガにおける柔軟性は不利になるということを示唆しています。股関節や膝の摩耗は、おそらく柔軟性ではなくマットかもしれません。マットの粘着性が高まると、ヨガの練習で必要となる強さと柔軟性のバランスが崩れることになります。
ウティタ・トリコナサナ(三角形のポーズ)の前足がいい例でしょう。マットの粘着性が十分なら前足は動かないでしょう。そして、脚の筋肉を上方にひきあげないまま、前足にまっすぐ「よりかかる」ことになります。前足をブランケットの上に置いて三角形のポーズをし、前足の感覚の違いに気付いてください。きっと力が入っています。前足が滑ってやるはずのなかったぎこちない開脚になってしまわないよう力が入って、少し震えているはずです。
ヨガマットは、ヨガをストレッチ化しています。おそらくアサナには、以前はより筋力が必要出会ったでしょうが、今はより柔軟性が必要となっています。
ヨガ・スペースのプライベート化
あなたが無限の宇宙へ広がるのを想像してみましょう...そしてマットから飛び出すのです!
想像してみましょう。
活気のあるヨガスタジオの大きなクラス。クラスが終わって、気分がすっかりよくなったヨギ達がドアから次々と出てきて、マットを持った熱心な生徒たちの次の波が入ってきます。彼らの大好きなヨガスタジオのワイルドウェストで、自分の取り分を探しているスピリチュアルな探索者で賑わっているゴールドラッシュです。
ヨガマットは、ただ粘着質の表面を与えてくれるだけではありません。マットはあなたのスペースを明確にします。実践者としての自分をより正しく表現するようなマットにします。ただ好きな色を選ぶというだけではありません。材質がPVCなのかエコなマットなのかを選択しなければなりません。また、サイズや厚み、運びやすさ、デザインも選ぶ必要があります。最新のスーパーエコのグリップが最強のジョン・フレンド・マンドゥーカのマットなのか、マイソールのラグなのか、ウォルマートで買ったハスの花の絵のついた10ドルのPVCマットなのか。
ヨガマットは垣根としての役目を果たします。個々人のスペースを分けます。誰も私のマットに足を入れることはできません。手足を「私の」ヨガスペースに伸ばすことはできません。混んだヨガのワークショップもクラスもプライベートなヨガスペースへの滑稽な一面を提供しています。並んだマットの間を爪先で通りすぎ、ボルスターや水筒の間を縫ってぴょんぴょんとんでトイレへと向かいます。おかしいですよね。
床は公共のスペース。誰もが好きなように歩いていい。ヨガマットはプライベートなスペース。ティーパーティーのモットー「私の上を歩かないで」の現代バージョンですね。
皮肉なものですよね。私たちは、自身の境界を緩めて、皮膚で分けられ拘束された自分およりもより広がりのある体験を得るための練習をしているのに。そして、私たちはこうすることで、自分の派手な色の四角いプライベートなヨガスペースに閉じ込められているのです。
選択と自由
ヨガが人間が自由になる技術だとしたら、ヨガマットはだめだから使うのはやめるべきだといって終わるのは馬鹿げています。それは自由ではありません。自由とは、選択に気付き自分の選択をする力です。私たちは時々、権力にしたがって決断することもありますが、それもまた選択です。
アンジェラ・ファーマーがカーペット下敷きを使っていたことでBKSアイアンガーを感心させることはありませんでしたが、彼女は、体だけでヨガをするべきだというアイアンガーのこだわりのために彼女自身のヨガの旅を閉じることはしませんでした。(おもしろい話があります。数十年後の1989年、ファーマーはアイアンガーが彼女のマットを使ってデモンストレーションを行っているのをみたのです!)
ですから、ヨガマットを使うか使わないかの問題では無いのです。決断を判断すること、そして練習に関する決め付けを見つけることをも時には意味します。ヨガの練習にマットは必要だと決め付けていませんか?そこにはどんな利点と欠点がありますか?憶測に対してより気付きを持てば、私たちのヨガもより自由へのマインドフルな練習となるでしょう。
(出典)https://yogainternational.com/article/view/yoga-mats-are-they-really-necessary
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