2022年1月13日木曜日

ヨガとエゴ  Vol.1
Yoga and the Ego

自我とは、意識とは何でしょう?
目に見えているものは本当にそこに存在しているのか、目に見えないものの存在はどうなのか。ヨガ哲学の一部についての記事です。
ーーーーーーーーーーー



エゴ(自我)。よく耳にするごく当たり前の意味を持つこの言葉は、心の中にある「自分」、自分自身について持っている感覚のことを指します。普段、エゴについて考えるときは、感情と結びついています。エゴは、安心や自信を感じたり、怯えていたり不安だったり、あるいは傷ついていると感じることもあるでしょう。希望や欲望に押しつぶされたり、気まずい選択に葛藤していたり、あるいは他人の要求や非難に抑制されたりするかもしれません。言い換えれば、エゴが落ち着きと喜びを求めているにもかかわらず、それが常に楽しみや歓喜の源というわけではありません。


「エゴ」という言葉を使うことの多い精神分析医の間でさえ、エゴが何なのかについて心からの同意はありません。この言葉自体はラテン語の借用です。ラテン語の短い文章 Ego「私は(それだ)」のように「自分」を意味します。ジグムンド・フロイドが、精神の一部を示すために使用していた言葉から、現代の意味を持つようになりました。その精神の部分が、本能的な衝動を抑えて倫理や社会的規範に対処しようとすることから生まれる葛藤を解決するための手段だ、と彼は信じていました。しかし後に、エゴは実際に存在するのかという議論が心理学界で起こります。そして、もちろん、エゴを顕微鏡で確認することは誰にもできないのです。


「そうかもしれない」とあなたは考えるでしょう。「でも、人生で確固としたエゴを何回か見てきたし、エゴの存在について全く疑問を感じない」そうした観察は、この言葉にもう一つの意味を与えます。私たちが「エゴ」という言葉を使うのは、他人との関係の中で映し出す自尊心の物差しとして捉えています。大きくなったエゴは、自分をかなり過大評価した自尊心です。またそれは、良心の声を軽視してしまっていることを示唆します。


こうした見解を前提に、健康的なエゴとはどのようなものなのでしょうか?そして、どれが健康的なエゴだとわかるのでしょう?これはもちろん本が一冊書けるほどの内容ですが、話を戻すと、ヨガではこの問題についていくつかの興味深くやりがいのあることが語られています。




ヨガにおけるエゴ


ヨガでは、哲学と心理学が密接に結びついており、一方の概念が他方を明らかにしています。例えば、ヨガ哲学の信条では、すべての個人は意識や気づきで満たされています。しかし、ヨギたちは、現代の理論とは異なり、意識は自然に湧き起こり、進化によって宇宙の奇跡がもたらされたわけではないと考えています。彼らによれば、意識は永遠で、それだけで存在し、現存する宇宙の中心に存在しています。それはあらゆるところに、いつの時も、そして全てのものに存在しています。全ての植物や動物、人間の命はその一部を映し出しているのですが、意識はそれらの存在の表れには全く依存していません。


この純粋でそれだけで存在する意識という哲学的背景のもと、精神(心)がどのようなものかという像が生じます。精神は自覚はしてはいませんが、意識の道具です。精神は、個人を外の世界と(感覚を通して)交流させ、内省の道具となります。ですから、サンスクリット語での精神を指す言葉のひとつは「Antah karana (内なる道具)」なのです。そして、古代のある時点で、この類稀な精神的道具を所有した種が「man(人)」であり、「考える、思考する」という意味のサンスクリット語の動詞 「man」が語源となっています。


同様に、精神には四つの機能があります。内なる傍観者、霊的理知と倫理観の源として働く、知性。日々の思考や気づきの手段として機能する、より低い精神。維持する能力や記憶。そしてエゴ。この意味においてのエゴはサンスクリット語で「Ahamkara」です。興味深いことに、これはサンスクリットの代名詞「I(aham)」と「作り手」「引き起こす人」という意味の「particlekara」の組み合わせです。つまり、この言葉は文字通り「自らを作る、あるいは引き起こすもの」という意味になります。


つまりヨガは、哲学的なもの心理的なもの、二つの注目すべき考えを示しています。一つは、ヨガにおける「見る者」が伝えてくれるのは、内側に知覚している意識、そして精神だと捉えているものは、実は実際には見えない内側にあるより深い意識の表れであるということです。そして、当たり前だと思っている個人のアイデンティティの感覚は、私たちの最も根底をなす自我ではありません。それは心理的なプロセスの結果です。精神は、エゴあるいは個人という自我という一時的なアイデンティティを与えてくれ、それは心理的な外見として作用します。しかし、この外見はもっとより深みにある主要なアイデンティティ、つまり根底をなす自我を、知り得る純粋な意識を覆い隠します。しかしながら、エゴのバランスが崩れれば崩れるほど、意識をそのまま受け止めることが難しくなります。

ーーーーーーーーーーーーー
次回に続きます。

0 件のコメント:

コメントを投稿