前回からの続きです。
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エゴを評価する
ありふれた4つの言葉「私は、私に、私の、私のもの(I, me, my, mine)」というの使い方に気づくことで、エゴの相対的なサイズ感を得ることができます。これらの言葉はもちろん日々の考えや発言の中で意味を持ちますが、時には特別の意味を含むこともあります。「私の考えでは・・・」と、誰かに向けて意見を言います。こうした時、これらの無害な言葉は、自分自身についての便利な言い方以上のものになります。
例えば、ブリハダラニャカ・ウパニシャッドという聖典のガルギャという高慢な男は、賢王アジャタシャトルに純粋な自我(「ブラフマンについてお教えしましょう」)を教えることを提案します。王はそのような智慧を聞きたいと思いその提案を受けます。しかし、どうしてもガルギャは王を満足させることはできず、王はガルギャの語る自我を認識してはいるが完全にではないと言います。ガルギャはついに、実は自分の語っていることを理解していないので王の指導に従うと認めざるを得ませんでした。ガルギャのプライドと彼の知識が不完全である問題に言及した王は、ガルギャに教えを与えるのです。
チャーンドギャ・ウパニシャッドにも同様の物語があります。このお話は、遠方で学ぶ間にエゴを大きくしてしまった、賢者アルニの息子であるシュヴェタケトゥについてです。彼が父の元に戻った時の彼は「熱心で、自分のことを読書家であると認識しており、そして傲慢であった」と書かれています。
彼の父は問題を感じとりシュヴェタケトゥに、高みにある自己について先生に教えを乞うたことがあるかと尋ねました。シュヴェタケトゥは、先生たちはそれについて何も教えてはくれなかったし、もし先生たちが知っていたら、そう教えてくれたはずだと答えます。素晴らしいことに彼の自惚れはすぐに消え去り、自己についてもっと教えてくださいと父に頼み、そうして教えが始まりました。
先生の助けがなくても、いくつかの段階を通して自身のエゴのバランスを取り戻すことはできます。大きくなりすぎたアイデンティティの感覚を変える方法のひとつは、自分自身を一人称で言及することをやめることです。三人称で自分を言及することは、エゴの大きさの観点を得るための古くからの方法です。「私は、私に、私の、私のもの」という言葉を使おうとするたびに自分の名前で置き換えます。「ポールの考えは・・・」「ポールは・・・したい」「ポールが強く感じるのは・・・」この置き換えを何度も強く行うことがエゴの評価する力強い方法となるのです。
しかしまた、この方法は裏目に出ることもあります。長期にわたると、異常な傲慢につながる可能性があります。自分自身を名前で呼ぶことは、「王位のあなた(つまり「王は話したいと願っている」というような)」が話しているような印象を与えます。そして、あなたは何か霊的なことを行っているが他の人はそうでないという意味を他人に与えてしまう可能性もあります。
エゴを把握しておくもう一つの方法は、より捉え難いものです。自分のエゴを守るために真実を曲げてしまうのに気づくことができます。ちょっとした誇張や、偽りをほのめかす過度の強調、情報の隠蔽、エゴのために物事を円滑に進めようと見え透いた嘘をつくこと。こうしたことは自分の正当化であり、隠し事をしているように感じさせます。エゴの問題に警告を与えてくれます。
チャーンドギャ・ウパニシャッドには、エゴに関する真実を語る人物が出てくる素晴らしい物語があります。聖典を学ぶ資格を得たいと願うサッチャカーマ(「真実を求める者」)という少年がいました。しかし彼は、自分の出生に疑いを持っていました。そして自分の経歴に自信がないので、サッチャカーマは先生に受け入れられるかどうか不安に思っていました。そこで、母親に助けを求めます。ところが母親は「あちこちの家でメイドとして働いていた時にあなたを身籠ったので、父親が誰なのかわからない」と驚くべきことを明かします。少年は、教わりたいと考えていた先生に、母親が言った通りに話をしました。「私の母親は、あちこちの家でメイドとして働いていた時に私を身籠ったので、父親が誰なのかわかりません」すると先生はこう答えます。「こんなことを説明することは、徳のない者には敵わない。私についてきなさい、息子よ。真実を偽らなかったお前を弟子として受け入れよう」
エゴを広げる
サッチャカーマのエゴは、非常に力強いものでした。多くの場合、人のエゴというのは根底にある弱さに苦しみます。その欠陥はヨガではアシュミタ、「自分であること」と呼ばれますが、内にそれだけで存在する純粋な意識に気づくことなく、世界とその中にある自分の役割を本能的に認識した結果です。短期的には、エゴは、「内」からの教訓を聞くことよりも外見(名声、評判、利得)を保つことの方が簡単です。そして、精神的な導きが通り過ぎていく日々の生活の中では、エゴは、多忙な電話オペレーターがメッセージを長い間保留にしすぎて不注意から無くしてしまうかのように振る舞います。
それでも、自分自身のどこかで、指の爪や経歴を長くする(自分自身で作り上げた外観を大きくする)ことが人生の目的ではないのではないかと感じています。そして、ヨガは、この世界に行きながらもより高みの源から強さとアイデンティティを得ることは可能だと伝えています。重要なのは、どこに優先順位を置くかということです。外観を保つという巨大な作業で費やすエネルギーを少しだけでも手放すことができた時、自分の内側にある何かもっと実りあるものが手に入ります。
その方法は?精神的な教えの素晴らしい集積であるバガヴァッド・ギーターが、それを垣間見せています。ギーターは、人生の精神的な目的は、心とエゴに隠されている無限の意識を紐解くことだと思い出させてくれます。それによれば、自制がなければエゴが健康であることはあまりありません。内にあるより意味のあるアイデンティティの覆いを外すことで、アイデンティティを見かけと同一視するエゴの癖を止める必要があります。これは、まずは瞑想の中で可能となり、そして徐々に日々の暮らしに広げていけます。あるいは、その順序が逆のこともあるでしょう。
柔軟性、謙虚さ、陽気さ、献身、誠実さ、他者を傷つけようとしないこと、こうしたことが進歩の印です。しかし、この世で行うべき行動から身を引くことは、そのリストにはありません。「行動に完全に心身を向けよ。行動しないことや不十分な行動から、何が得られるというのか」これは、ギーターのメッセージの素晴らしい意訳です。エゴが、傲慢に振る舞う時、責任を逃れようとする時、批判や非難の圧力にもがいている時には、ただ注意すること。これらは、エゴには、より高い観点により沿う必要があるという兆候です。
「どんな観点?」と思うでしょう。ギーターの観点の先端は、その結果への個人的な執着を捨てて行動することに向けられています。これは、朝から晩まで(寝ている時も)自分のために行動を行う欲望とともに暮らす毎日の生活でも同様です。つまり、エゴの根底にある欠陥は、目的を持った人生を通して正すことができると言えるでしょう。奇跡は必要ありません、ただ静かに気づくだけです。エゴが期待を持たずに働く時、偽りのアイデンティティは消え去り始めます。それは間違いありません。
ヨガの目的はエゴを消滅させることだと恐れる人もいます。その人たちは、エゴは捨ててはならないアイデンティティを与えてくれ、瞑想は自我の基本そのものを脅かすものだと言います。そんな考え方に、ヨギは驚きを隠せません。ヨギにとってエゴとは、自分のアイデンティティのもっとより深い状態に到達する限りは、ただの道具にすぎないからです。ヨガの道はエゴを消滅させることではなく、満たすものだと考えます。ペルシャの有名な神秘主義者ルーミーはこう記しました。
「間違った行いと正しい行いを超えたところに草原がある。そこであなたに会おう。魂がその草の上に横たわる時、世界は語れないほどに満たされる」
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