2026年3月6日金曜日

悟りを得たエゴ 
The Enlightened Ego


私たちの奥底には、ミステリアスで力強い意識の道具である「精神」が潜んでいます。精神の主な機能には、マナス、ブッディ、チッタ、アハムカラの4つがあると言われます。今回は最後の機能、アハムカラ、すなわち個人としての自分、エゴについて深く見ていきましょう。まずは、自己認識、自我とは何を指すのか、それが瞑想でどのように変わるのかを詳しく見
ていきます。



真我とは誰なのか?


自分自身のことを表す時、わたしたちは「私、自分」という言葉を使います。この言葉にはたくさんの役割があります。自己認識感覚や、他人と区別する印をつける、周りの世界に自分自身を広げる際の所有物を示す(「これは私の自動車です」)などです。いつの瞬間にも精神からもたらされる自分という馴染みのある感覚は、サンスクリット語でアハムカラと言います。これは「アハム(自分)」と「カラ(作り手、行為者)」の2つの言葉から成っています。アハムカラとしての心は、「自分」の作り手です。全ての行動で、「私は行為者だ」「これらの行動は私のもの」と宣言しています。このように、「私、自分」という言葉を使う時、精神そのものの中で作られた自己を意味します。あなたの「私、自分」は特定の体、特定の個性、特定の思考パターン、特定の人生の独自性なのです。


わたしたちが、自分の独自性を詳しく調べることはほとんどありません。ただ役割(親、先生、テニスプレーヤーなど)や、特質(魅力的、率直など)を演じているだけです。このように、「自分とは何?」と正直に自問した時、好奇心が湧いてより質問がでてくるでしょう。「自分で認識していない自分の他の面があるだろうか?自分で思っているような自分なのだろうか?」


人の自己認識は、そう見えている以下でもあり以上であるという認識は、ヨガ哲学の中心にある矛盾です。自我の性質について言及している数多くの聖典のひとつであるバガヴァット・ギータ(6.6)の一節を考えてみましょう。「真我(Self)とは、その自我(self)こそがその真我(Self)によって克服された自我(self)の友である(心を克服した人にとって、心は最良のともである((田中嫺玉氏の訳))」


翻訳者らは、個人的な自我(self)は小文字で、そして超越した真実を表す真我(Self)を大文字で表すことで「自己(self、アートマン)」という言葉の曖昧さを読み解こうとしてきました。より下位の面では、私たちは制限された自我にしがみついていて、エゴやエゴが認識する物を掴んで離しません。しかし、誰もがまた見えている以上に永続的な何かの現れでもあるのです。海面の波がその下の大きな水の広がりの一部でしかないように、私たちもまた純粋な意識、Self、真我の一部なのです。



アイデンティティの性質


二元性を唱えるインド古典哲学であるサンキャの伝統によれば、人のアイデンティティとは集合体です。意識のある真我(体験の対象、知る者、プルシャ)、無意識の心身(意識の道具、体験の対象、プラクリティ)から成っています。あなたには体がありますが、体はあなたの全てではありません。あなたは考えますが、あなたの思考もまらあなたの全てではありません。私たち全ての中に内なる純粋な目撃者、知る者、意識が存在します。


心はピカピカに磨いた鏡のようで、意識の光を受け止めて、最も奥にある表面にその光を反射し、意識そのものの姿を真似ます。聖ヴィヤサによれば、それらが近しいものであるために、私たちは思考を「意識と同じ」だと認識します。


このプロセスは「私というもの」という意味のサンスクリット語、アシュミタと呼ばれ、真の気づきにとても似ています。この言葉はアイデンティティの誤った感覚、誤解を意味します。意識は、一旦、心に反射されればそれが純粋ではないことがわからないため誤解してしまうのです。そうでなければ制限のない、至福かつ永遠であるものによって、アシュミタの混乱を通して心は意識そのものに見えます。そして、アハムカラによって、心が「私」という制限された感覚を私たちに与えるのです。自身を深く知らない限り、アハムカラによって心の中に作られた有限のアイデンティティに執着することになります。


残念ながら、これには大きな痛みがあります。時間が経つにつれ、体を自分自身だと感じていることからくる不快な現実、すなわち当てにならない健康、常に忍び寄る老化のプロセス、確実に訪れる死に対処する方法を学ばなければなりません。


人生には、誤った自己認識からくる苦痛以外の選択肢はあるのでしょうか?その答えは、ヨガの中心にあります。深く染み込んだ誤った認識パターンにも関わらず、人生には知るべきものがまだあるのだと何かが囁きます。それが瞑想です。



瞑想の中の真我


聖人らによれば、瞑想は自己認識の誤りを徐々に取り除き、深い真の自己を露わにします。そのためには、エゴを浄化するプロセスが必要となります。


聖典では、瞑想中のアハムカラを浄化するために、補完し合う2つの方法を薦めています。まずは、「私は単なる身体ではない」「私は世俗的な欲望のみによって支配されているわけではない」などの言葉を熟考することで、制限された自己への執着を緩めます。次に、心をマントラに集中することで、心を無限の存在へと落ち着かせます。


バガヴァットギータ(6.25)では、

「十分な確信をもって一歩また一歩と
 知性に導かれてサマーディの峯に登れ
 そして心をただ一つ真我に固定し
 ほかの一切を思うな 考えるな」  (田中嫺玉「神の詩」より)


ヨガ・ヴァシシュタ(5.59)にも同様に、


「理解しやすいもの、物体を放棄せよ
 そこに残るのは純粋な意識であり、すべての疑念は去る
 我は無限の真我 この真我に限界はないからである
 すべての美であり、すべての光である」



この2つの方法の実践を通し、瞑想によって拡大した自身へと導かれます。徐々に、思い込んでいた限りあるアイデンティティの中に「私」は永遠の幸福を見つけられるという概念が薄れていき、純粋意識の存在の中に全面的な信頼とともに留まれるようになります。


しかし、聖典に書かれているからといって恐怖はまだ残るかもしれません。「瞑想で本当にリラックスしたら何が起こるのだろう?『私』が消える?今の自分を失うのだろうか?」と思うかもしれません。


実際のところ、私たちの真のアイデンティティは単に失われることはないと瞑想が気づかせてくれます。意識は、気づきの平穏な主体であり、束の間の物質ではありません。瞑想では、自己は真我の完全性を感じます。障害や誤ったアイデンティティは徐々に消えていき、全体性を取り戻します。喪失ではなく、自己を満たすのです。


このように、瞑想の本質は自己の拡大です。バガヴァットが言うところの「真我の無限の幸せ」を選択し、制限された自己の狭い境界を徐々に超越していくプロセスなのです。瞑想することは、深く喜びに満ちたその本質に留まることです。下位の心であるマナスは集中し、ブッディは内なる観察者として目覚め、前回の瞑想で得たチッタの印象が精神の支えとして現れ、そしてアハムカラによって作られた自己は徐々に真我という上位の感覚へとリラックスしていきます。これが瞑想の本質であり、自身の存在に落ち着くための心の調整なのです。



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