2017年9月30日土曜日

ポーズができないのは柔軟性のせいだけではないかも 
Why Inflexibility May Not Be What’s Stopping You From Doing That Pose

アサナができない時、柔軟性が足りないのだとみんな思いがちだ。しかしバーニー・クラークは、全ての人に向いたポーズはないと説く。自分自身の特性を解剖学的に捉え、そのポーズができないのは実際的に何が原因なのかを見つける地図を、彼は示してくれる。


個性を賞賛し抑えきれない衝動でセルフィーを撮るこの時代は、不自然で歪んだ次元へと入ってしまった。テクノロジーは、常に新しい製品を生み出し、我々の外観を騙し本当の自分をピクセルのフィルターの影に隠してしまう。だから、高尚なるダンサーのポーズをしようとしてつま先が頭頂につかない時、自分の組織と骨の形状という事実があなたを襲うのだ。あなたの体は、ただそれができない。これは、能力がないとかヨギっぽくないということではなく、人間なだけだ。冷静に人は皆違うということを気づかせてくれるものだ。「あなたは唯一であり、その唯一性によって『誰もができる』ようなものとあなたができるものの違いを作っている。ヨガには全員ができるポーズはないし、誰も全てのポーズができるわけでもない」バーニー・クラークはいう。ヨガの実践においては、あるポーズが全員に適しているわけではない。


ヨガのアナトミーはユニークだ -- 学ぼう


違いと唯一性を統合することは、全ての社会が適合するわけではないという複雑性を示している。5人の生徒がいるヨガクラスでは、全員のニーズに応えるのは簡単だが人数が増えるにしたがってそれは難しくなる。つまり、一般化とは塩をひとつまみしなければダメになってしまう可能性があるということだ。ヨガクラスにおいては不安があるが。もっと適した体が欲しいと思ったり、「正確なポーズ」ができなければ目立ってしまい欠陥品だと非難されると恐れてしまうかもしれない。

「違いは欠陥ではない」クラークは遺伝学者テオドシウス・ドブザンスキーの言葉を引用し、違いを認め受け入れることを勧めている。「なぜ、他の人ができないから自分も失敗すると考えるのか?今の自分にできることがあり、そのうちにできることもあり、そして永遠にできないこともある」

好奇心があれば、徐々に自分の身体のユニークな機能を最も理解する者になれる。ほとんどの先生はあなたのことをそんなには知らないし、自分で理解できるほどには理解してくれない。

あまりにも熱心すぎる先生などは、あなたに怪我をさせてしまうような間違った憶測さえするかもしれない。家でもクラスでも自分のマットの上で自分の練習をすることが不可欠なのだ。つまり自分の強さ、弱さ、限界、技術を探求することに時間をかけるということだ。


なぜできないのか?


クラークは、様々なヨガポーズで感覚を系統的に記録することで自分の体の限界を知る効果的な方法を勧めている。まずは質問から始める。「なぜできないのか?」言い換えれば、何が可動域を限定しているか?二つの要素があると彼はいう。第一は伸張で、ストレッチに対する組織(筋肉、靭帯、筋膜)の抵抗であり、もう一方は圧迫で、骨と骨(硬い圧迫)、肉と肉(柔らかい圧迫)、骨と肉(中間の圧迫)など接触によって起きる。

つまり、ヨガの練習で伸張か圧迫かの感覚に注意を向けることで自分の体の特別なアナトミーと限界を探ることができる。今度は、与えられたポーズではなく自分の体と向き合うことを可能にするのだ。このプロセスのため、クラークはアナトミーを探りどこで圧迫と伸張が起こっているかを観察するため彼の著書の中でどの抵抗でどんな感覚を感じるかを説明している。以下は、彼のYour Body, Your Yoga からの引用で、「止まってしまう」3つのポーズを探っている。


バックベンド




あなたの最大可動域は、骨がお互いに当たるか他の組織を圧迫するかにかかっている。例えば、上にある腰椎の二つの例を見てみよう。見るからに左側の人は右の人のように脊椎を伸展(バックベンド)することができないが、他の点は一緒だ。しかし、抵抗のあろう場所を見てみると、右の人はどんどん伸展を深めていける一方で、左の人は圧迫点にすぐ到達してしまう。


スクワット



スクワット(マラーサナ)を邪魔しているのは何だろう?膝が足の前方に行きながら踵をがずっと地面に着けておくためには、足首の背屈を最大にする必要がある(B)。足首の背屈の限界のせいで、この点でかかとが床から浮き始める(C)生徒も多い。かかとをあげると背屈はそんなにしなくてもいい。Dの位置では、背屈ではなく股関節屈曲が最大であり、足首が原因でないことがわかる。


三角形のポーズ


股関節を外転する(脚を体の中心線から遠ざける)には二つの方法がある。大腿骨か骨盤を動かすのだ。第一の例では(a)、股関節を外転させるのに十分な空間があり、三角形のポーズで床に手を伸ばしながら脊椎をまっすぐにキープできる。(b)では、そんなに股関節を外転できない人の方法をみることができる。脊椎の側方への湾曲だ。(c)は、もう一つの方法だ。股関節の屈曲を深めながら骨盤を大腿骨の圧迫点へと回転させるのだ。(d)はまた違う方法だ。あまり外転できないことを受け入れて、手を脚かブロックの上に載せる。


(出典)https://www.yogajournal.com/teach/why-inflexibility-may-not-be-whats-stopping-you-from-doing-that-pose

2017年9月27日水曜日

愛の四つの質 ティク・ナット・ハン 
The Four Qualities of Love


今回は、マインドフルネスを普及するベトナム出身の禅僧ティク・ナット・ハンの教えからです。仏教を開いたブッダもそもそもはヨギでした。心、体、エネルギーをどのようにコントロールすべきか、そこの根源は同じだと思います。

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Thich Nhat Hahn


ブッダがくださった愛の教えは、明確で科学的、応用的です。愛、共感、喜び、平静は、まさに悟りを開いた人の特徴です。私たちの中にある真の愛には四つの局面があり、それは全ての人と物の中に存在します。
– ティク・ナット・ハン

幸福とは、真の愛によってのみ可能になります。真の愛は癒しと周囲を変化させる力があり、人生に深い意味をもたらします。真の愛を理解し、どのように築き育てるかを理解している人がいます。ブッダがくださった愛の教えは、明確で科学的、応用的です。誰もがその教えから恩恵を得ることができます。

ブッダの時代、バラモン教信者らは、死後、万能の神であるブラフマーとともに永遠に天国に居られるよう祈りました。ある日、バラモンの一人がブッダに尋ねました「どうすれば必ず死後ブラフマーとともに居られるでしょうか?」ブッダは答えました。「ブラフマーは愛の源だから、ともに居るためには、愛、共感、喜び、平静であるブラフマヴィハラ(四無量心)を実践しなければならない」

ヴィハラとは住居のことです。サンスクリット語で愛は「マイトリ」といいパーリ語では「メッタ」と言います(慈)。共感はどちらの言葉でも「カルナ」です(悲)。喜びは「ムディタ」(喜)。平静はサンスクリット語で「ウペクシャ」、パーリ語で「ウペッカ」。四無量心は真の愛の四つの要素です。これらは「無量(量れない)」と呼ばれます。というのも、これを行うと毎日内側で大きくなり、全世界を包含するまで続くからです。あなたはより幸せになり、周りの人々もまたより幸せになるのです。


四無量心を通してブッダの精神を引き継ぐ


ブッダは、人々の信心を尊重していたので、そのバラモンの質問にそうするように答えたのです。座って瞑想することを愉しんでいるのなら、座って瞑想をしなさい。歩く瞑想を愉しんでいるのなら、歩いて瞑想しなさい。しかし、自分のユダヤ、キリスト、イスラムのルーツを守り続けなさい。それがブッダの精神を引き継ぐ方法です。自分のルーツを切り離すと幸せにはなれません。

四無量心を学べば、怒りや嘆き、不安、悲しみ、 嫌悪、孤独、不健康な愛着などの病を癒す方法を知ることができます。

(慈)

真の愛の最初の局面は「マイトリ(慈)」で、喜びや幸福を与える意思や能力のことです。この能力を開発するには、他者を幸せにするために何をして何をしないかを知るため深く見て聞く練習をしなければなりません。彼女に欲しくないものをあげたとしてもそれはマイトリではありません。彼女の真の状況を見て、彼女を不幸にさせないようにする必要があります。

理解がなければ、あなたの愛は真の愛ではありません。愛する人が欲しているもの、念願、悩みなどを感じて理解するために深く見るのです。私たちは皆愛を必要としています。愛が喜びや幸福をもたらします。これは空気のようなものです。私たちは空気に愛されていて、幸せで健康であるために新鮮な空気が必要なのです。健康であるために木が必要です。愛されるためには、愛さなければなりません。つまり理解するのです。愛を持ち続けるため、空気や木や愛する人たちを守るために適切な行動を取らなくてはなりません。

マイトリはまた「愛」や「慈愛」とも訳せます。「愛」は危険すぎるので「慈愛」を好む仏僧もいます。しかし、私は「愛」の方が好きです。言葉は時に病気になり、私たちが癒さなくてはなりません。私たちは「ハンバーガーが好き(I love...)」などのように「愛」という言葉を食欲の意味で使ってきています。もっと慎重に言葉を使うべきです。「愛」は美しい言葉です。その意味を取り戻さなくてはなりません。「マイトリ」は友という意味のマイトラを語源にしています。仏教では、愛の最初の意味は友情なのです。

私たちは皆、愛の種を内側に持っています。この素晴らしいエネルギーの源を、何の見返りもない無条件の愛を築き育てることができます。誰かを深く理解すれば、それが私たちを傷つけた人だとしても、彼らを愛することを拒めません。釈迦牟尼仏陀は、次の累代のブッダは「マイトレーヤ、愛のブッダ」と呼ばれるだろうと宣言しています。


共感(悲)

真の愛の第二の局面は「カルナ」で、悩みを解決して変換し、悲しみを軽くする意思と能力です。カルナは通常「共感」と訳されますが、これは厳密には正しくありません。「共感(compassion)」は「com(一緒に)」「passion(悩む)」からなっています。しかし、私たちは、他者の悩みを取り除くために悩む必要はありません。例えば、医師は同じ病気にならなくて患者を治すことができます。あまりに悩みすぎると、壊れてしまって助けることができなくなります。それでも、他にいい言葉が見つかるまでカルナの訳語として「compassion」を使うことにしましょう。

共感を築くには、マインドフルな呼吸、深く聞いてみることを練習する必要があります。ロータス・スートラには、「共感の目で見、世界の嘆きを深く聞く」菩薩としての観世音について記述があります。誰かが悩んでいたら、近くに座るでしょう。その人の痛みに触れるため、深く見て聞くことでしょう。深いコミュニケーションの中で深く関わり、それだけが幾らかの安心をもたらすのです。

一つの思いやりの言葉、行動、思いが、その人の悩みを軽減し喜びをもたらします。一つの言葉が、安らぎと自信を与え、疑いを解き、誰かが間違いを防ぐ、争いを解決する、あるいは解放へのドアを開ける手助けになるのです。一つの行動が、ある人の命を救い、その稀な機会を活用する手助けとなります。一つの思いでも同じことができます。思いは常に言葉や行動に繋がるからです。心の共感によって、思い、言葉、行動全てが奇跡を起こすのです。

私が新信者だった頃、世界が悲しみに満ちているのになぜブッダはこんなにも美しい笑顔でいられるのか理解できませんでした。なぜ悲しみにとらわれないのだろうかと。後に、ブッダは、十分な理解と平静と強さを持っていることがわかりました。だから、悲しみが彼を圧倒することなどなかったのです。悲しみにどう対処しどう変換すればいいのか知っていたので、悲しみに対して微笑むことができるのです。悲しみに気づかなければなりませんが、状況を変換するために明晰、平静、強固でいなければなりません。カルナがあれば、涙の海に溺れることはありません。ですから、ブッダの微笑みが可能になるのです。


喜び (喜)

真の愛の第三の局面は「ムディタ」です。真の愛は常に私たちと愛する人に喜びをもたらします。もし愛がお互いに喜びをもたらさないのであれば、それは真の愛ではありません。評論家は、幸福は体と心どちらにも関係するといいますが、喜びはまず心に関係しています。

この例はよく語られます。砂漠を旅している人が、冷たい水の流れを見つけて喜びを感じます。水を飲んで幸福を感じます。Ditthadhamma sukhavihari とは「今の瞬間の幸福に浸る」という意味です。「未来に急ぐことはありません。今ここに全てがあることを私たちは知っています」

良い状態の両目があるという気づきなど、多くの些細なことが大きな喜びをもたらしてくれることもあります。ただ目を開いて青い空を見、紫の花、子供達、木、そして様々な形や色を見るのです。マインドフルネスの中でこれらの素晴らしく生き生きとした物に触れられると、喜びの心が自然に湧き上がってきます。喜びは幸福を含み、幸福は喜びを含むのです。

ムディタは「同情的な喜び」または「利他的な喜び」という意味だという人もいますが、私たちは他者が幸福な時に幸福だと感じるものです。ムディタのより深い意味は、平穏と満足に満たされた喜びだと言えるでしょう。他者が幸せであるのをみると嬉しいが、自分が幸せでも嬉しい。自分自身に喜びを感じないならどうして他者に喜びを感じることができるでしょうか。喜びは全ての人に対するものなのです。


平静 (捨)

真の愛の第四の要素は「ウペクシャ(捨)」で、平静や無執着、公正、冷静、放免を意味します。「Upa」は「上」を、「iksha」は「見ること」を意味します。一方に固執せず状況全体を把握するため、山に登ります。もしあなたの愛が、執着、差別、偏見、愛着の要素を持っているなら、それは真の愛ではありません。

仏教を理解せずにウペクシャは無関心だと思う人が時々いますが、真の平静は冷たくも無関心でもありません。子供が複数いたとしても、全てあなたの子供です。ウペクシャは愛さないという意味ではありません。子供達が差別なくあなたの愛を受けられるように愛するのです。

ウペクシャは「平等の知恵」であるサマタジナナと呼ばれる印です。自分自身と他者を区別なく全ての人を公平に見る能力です。争いの中でどんなに深く関与していても、偏見なくどちらのサイドも愛することができるのです。全ての差別や偏見を捨て、自分と他者の境界を取り除きましょう。

自分自身を愛する者で他者を愛される者と見たり、他者より自分を評価したり、自分を他者と違って見たりする限り、真の平静は得られません。真に愛し理解したいのなら、自分自身を他者の皮膚下に置き彼と一つにならなければなりません。それができれば、「自身」と「他者」の区別は無くなります。

ウペクシャがなければ、愛は所有的になります。夏の風はとても気持ちの良いものです。しかし、それをブリキ缶に入れてずっと持っていたいと思っても風は死んでしまいます。私たちの愛する人も同じです。彼は、雲、風、花のようなものです。ブリキ缶に入れたら死んでしまいます。でも多くの人はそんなことをしているのです。彼の自由を奪い、彼は彼で亡くなってしまいます。自分自身を満足させるために愛する人を利用するのです。それは愛ではありません。破壊です。

あなたは彼を愛しているという。でも、彼の熱望や必要や困難を理解しなければ彼は愛という名の牢獄の中です。真の愛はあなたにも愛する人にも自由を与えます。それがウペクシャです。


愛が真の愛であるためには、共感、喜び、平静がなければならない。真の共感であるためには、愛、喜び、平静がなければならない。真の喜びには愛、共感、平静がなければならない。そして真の平成には愛、共感、喜びが必要なのです。


これが四無量心の相互に存在する性質なのです。ブッダがバラモンに四無量心を実践するよう説いた時、私たち全てにとても大切な教えをくださったのです。しかし、この愛の四つの局面を自身や愛する人たちの生活にもたらすには、深く見てそれらを練習していかなければならないのです。


From Teachings on Love by Thich Nhat Hahn

2017年9月23日土曜日

シャヴァサナ:解放と静寂、静止のポーズ 
Shavasana: The Posture of Relief, Silence, and Stillness

今回はシャヴァサナについてです。
まだヨガを始めて間もないという方でも、一度は必ずしたことがあるのではないでしょうか。回復・休息のポーズですが、最後のシャヴァサナの時間にマットを丸めて帰ってしまう方が(私のクラスではありませんが)時折いらっしゃいます。「シャヴァサナがなければヨガではない」と教えられてきた私にとって、この至福の時間を経験せずにいるなんてもったいないと思うのですが。
瞑想への第一歩とされるこのポーズについて、少し見てみましょう。
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まだヨガを始めたばかりの頃、すごく難しいポーズと軽々とこなす熟練した先生のワークショップに参加しました。その週末、彼女にとってヨガがどんなに大事かを語りながら、先生は将来の夫となる人と出会った時の話をしてくれました。彼がヨガの何がそんなにすごいのかと尋ねたので、先生はシャヴァサナ(屍のポーズ)を教えました。そうしたら「これすごいね。これがヨガだというのならぜひやりたいよ」と彼は言ったそうです。そしてヨガを始めたのです。それ以来二人は幸せに過ごしているのだそうです。

どんなアサナでも教えることができたはずなのに、屍のポーズを選んだとは少し変に思えます。簡単そうだし、どんなバカでも床に横たわって目を閉じればいい。それで?屍のポーズを過小評価するのは簡単です。アサナといえば、やったことのない人には絶対にできない筋肉と骨を複雑に組み合わせたような、体操選手がやるようなポーズをイメージします。つまり、筋肉レベルの努力と技術が必要なポーズです。

シャヴァサナは、面白くもおかしくもないという人が多いでしょう。じゃあなぜやるのか?なぜなら、その効果は数えきれなく、他の多くの精神的な練習の基本となるからです。シャヴァサナは、心を落ち着かせ意識に集中してポーズの準備をするために時にセッションの初めに行われたり、疲れを取るためにポーズの合間に少し行われたり、そして大抵は体を休ませ心を落ち着かせエネルギーを全身に行き渡らせるために練習の最後に行われます。全てはリラクゼーションのためなのです。


シャヴァサナでリラックスするということ


私たちは、本当にストレスにさらされています。現代社会の高度のストレスが健康に悪影響を与えるという文書が今まで多く書かれてきました。簡単にいえば、出勤途中で事故に遭いそうになったとか、大切な人と口喧嘩をしたとか、突然の来客があったりなど、ストレスは普段の生活の中でどんどん積み上がっていきます(ストレスの多い出来事が常に悪いとは限りませんが)。身体的、感情的に危険を感じると、自律神経が赤信号にかわり(「闘争逃走」シンドローム)、内分泌、呼吸器、循環器、消化器の調整など維持・回復機能が犠牲になります。自律神経が常に興奮していると、体は休んで回復する時間を持つことができません。緊急モードでは誰も長時間、正常に機能することはできないのです。

屍のポーズは神経を回復モードに戻す手助けをしてくれます。これはとても大切で、神経が素早く「闘争逃走」モードに入っても回復モードにゆっくり戻してくれるからです。リラックス状態で神経と身体機能を落ち着かせることで、私たちはエネルギーを使えるようになります。自律神経に支配されている筋肉から緊張が解け、閉じ込められていたエネルギーが解放されます。そうしてリラクゼーションの後に爽快さを感じるのです。またこの新しく使えるようになったエネルギーが意識をより高くし、防御を外して無意識に向かわせ、私たちの創造的な局面が目覚めるのです。そしてより深いレベルのエネルギーに触れることができるのです。

リラックスするには今の瞬間にいることです。力を抜き、評価、義務、自己批判、周囲の環境、他者を手放します。リラクゼーションには信頼が必要です。屍のポーズでは、体の前面と内臓があらわになって脆弱になります。目は閉じられ、注意を向けることもできません。ただ横たわるのです。深いシャヴァサナでは意識全体が変化します。「今」に完全に意識を向けながら別の次元に存在します。心は活発で注意深く、それでいて安定して穏やかです。その結果、肉体と精神の両局面の力強い回復が得られるのです。


シャヴァサナの練習


誰にも邪魔されないような静かな場所と時間を見つけましょう。両脚を前に伸ばして床に座ります。床が硬いようであればブランケットか薄いマットを敷きましょう。背中を丸めて床に両肘を下ろしながら、両足と骨盤は動かさずに徐々に脊柱を床に下ろします。体全体が床に降りたら、両脚をリラックスし、つま先が自然に外側に向くよう骨盤の外に向かってゆったりと力を抜きます。尾骨は床につけたまま、腰は自然な曲線を保つよう少し浮かしましょう。腰が楽になるよう、お尻の肉は仙骨から遠ざけるようにしましょう。骨盤の背面全体が広く柔らかに感じるでしょう。腰に不快感を感じたら、膝の下に枕を置くか、両膝を内側でつけたまま曲げます。

さて、下腹部を解放し、胴体全体も力を抜きましょう。そうすれば、脊柱の中心から広がる開放感を感じるでしょう。両肩を下げ、両腕の内側が見えるよう広く外へと下ろします。肩は床に平らにしておきましょう。手のひらは上に向け、指は自然に曲げておきます。もし手が床に着かなければ、枕で前腕を支えましょう。

特に長いセッションの場合は、頭の下に平らで硬めの枕を置きます。頭を左右に何回か振って首を緩めます。そして、両耳が両肩から同じ距離になるように頭骨を中心に戻しましょう。顎先は少し引いて柔らかくし、喉元と下あごをリラックスさせ、首の背面を長くします。

目を閉じましょう。脳の活動は目の動きに密接に関係しているので、目は動かさず柔らかくしておきます。両目を覆う布、あるいは目的に合ったアイバッグを使って目の緊張を解くと良いでしょう。心が落ち着きます。視覚以外の感覚も落ち着かせ、顔と顎を完全にリラックスさせて自分の内へと向かいましょう。

数分してから、まっすぐでない箇所を調整します。脊柱を長く、肩甲骨は広く、骨盤も広く、頭と首と胴体はまっすぐにしましょう。最小の動きで調整したら、動きを止めます。
心を受け身にしていきます。心が集中できれば、平穏と静穏が訪れるでしょう。



2017年9月19日火曜日

プラナヤマを実践するタイミング 
When to Practice Pranayama

今回は、前回のインド最高齢のヨギニも最も大切にしているというプラナヤマ(呼吸法・調気法)についてです。Himalayan Institute の Spritual Head である PANDIT RAJMANI TIGUNAIT 氏が質問に答えています。

ヨガには様々な解釈があり、その方法も様々です。VYASAでのヨガセラピーにおいてはクンバカは行わず、またアサナとプラナヤマを同時に練習していきます。

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プラナヤマを実践するにあたりどのような準備をすればいいですか?安全に効果的に行うために何をすべき(してはならない)でしょう?


プラナヤマを行うのにはアサナの練習は前提となります。アサナを完全に確立するまではプラナヤマを行うべきではないと聖典にもはっきりと記されています。どんなに健康であっても、内臓にはまだ気づいていない隠れた問題があることを常に念頭におくべきです。心臓、肝臓、肺、胸腺、甲状腺、膵臓、脾臓、腎臓、膀胱、生殖器、内分泌腺、神経系などです。総合的なアサナを毎日行うと、自分の身体や問題、そしてそれを克服する必要性に気付きます。優れたハタヨギは、ついには直感的な分析を行う能力を開発します。結果として、プラナヤマなどのさらに上級のヨガの訓練について実際的になります。


安全に行うには、自分の体力やスタミナを過信しないことです。まずは基本的な哲学を理解し伝統的なアサナを練習しながら、科学としてヨガを学び実践してください。ヨガの果てしない微妙な違いを試したいのなら、思いのままに様々な技術やスタイルを学ぶと良いでしょう。しかし、84の伝統的なポーズの系統だった練習がプラナマヤ・コーシャ(プラナ鞘)へのドアを開けてくれるのです。


こうした伝統的なアサナには二つの目的があります。第一は、特に神経系など身体や内臓を浄化し活性させます。第二には、通常はプラナ鞘に眠っている生命力を目覚めさせます。神経系や体内の微細なエネルギー経路が浄化されていないと、このプラナ鞘にある並外れた生命力が目覚めた時に身体を圧倒してしまうでしょう。そのような理由から、古典にあるような完全なアサナを実際に実践するために浄化というヨガのテクニックを取り入れる必要があるのです。


現代のヨガを教えている現場では、上級であっても浄化のテクニックに触れているものが少ないのに驚かされます。ハタヨガ・プラディピカやヴァシシュタ・サムヒタ、そして多くのウパニシャッドなどの文献は、はっきりと「ネティ(鼻腔)」「ドーティ(胃、食道)」「バスティ(腸)」「ナウリ(内臓)」「アグニ・サラ(消化器)」「トラタカ(目)」などの浄化法を練習に取り入れなければ、アサナの練習の効果は完全には得られないと述べています。完全なヨガ・アサナの究極の結果は、本当の休息と弛緩から始まります。体内の空間から不快を完全に取り除き、喜びで満たされます。


そして、伝統的なアサナにより、安定して快適に座れる体を作るのに役立ちます。心と身体の快適と安定はプラナヤマの練習に不可欠のものです。いかに快適に座れるかは内臓がいかに健康かを示しており、いかに安定した座法を行えるかはエネルギーがいかに自由に流れているかを示しているのです。


よくわかりません。特に84の伝統的ポーズに比べて、プラナヤマはアサナよりもゆっくりとしていて難しくないように見えます。なぜアサナのように上級の練習にプラナヤマのようにシンプルなものが前提となるのでしょう?


プラナヤマはシンプルではありません。説明しましょう。最も上級のアサナは坐法です。手足を捻り身体をプレッツェルのように曲げることができるかもしれません。スプリット(前後開脚)やピーコック、スコーピオンのポーズ、指先の逆立ちが(ヘッドスタンドよりさらに高難度)できるかもしれませんが、じっと座ることはできないと気づくでしょう。


快適で安定した坐法をするには、脊椎が健康で強く柔軟である必要があります。背中、腰、腿の関節もまた良い形状でなければなりません。さらに、体重は会陰を中心に臀部に平均にかからなければなりません。呼吸器や消化器は強く、完全にバランスが取れている必要があります。交感神経、副交感神経もまた完全にバランスがとれ調和していなければなりません。脊椎は上に伸び、胸は開き、肩はリラックス、横隔膜を完全に自由に拡張、収縮させなければなりません。さらに、脊椎の曲線は正しい必要があります。これらの条件が全て満たされた時にやっと快適で安定して座れるのです。そしてこの安定した快適な坐法は、身体的なポーズの練習によって達成されるものなのです。これらのポーズは坐法よりも重要ではなく、坐法はプラナヤマに必要不可欠なのです。


プラナヤマの実践は、骨格系、呼吸系、筋肉系を超えたところにあります。内分泌系や神経系だけでもありません。本来の意味では、プラナヤマとは生命力そのものの統御を得ることが目的です。そしてこの目的は呼吸の法則を超えることで得られます。通常は、健康な呼吸とは優しくスムーズで急激な動きや雑音がない呼気吸気によって行われます。円を描くような流れで呼吸をしなければなりません。


勝手に呼吸が止まりそれをコントロールできないとすれば、それによって身体の機能が妨げられ心の落ち着きがなくなり、生命力も影響を受けます。健康的な呼吸においては、停止してはなりません。呼吸を止める度にゆっくりと死んでいくのです。ヨガのゴールである心と身体の奥深くにある並外れた能力を支配するには、呼吸の停止を制御する必要があります。これを意思で行うのです。これをクンバカと呼びます。同様の呼吸の停止を正しい準備と共に行うと、それは長寿の源となります。伝統的なプラナヤマは全てクンバカを含みます。実際、ヨガの世界ではプラナヤマとクンバカは同義語です。しかし、正しい坐法をしておらず、内臓が不健康で、神経系のバランスが取れておらず強固でもないとしたら、プラナヤマ(クンバカ)は体と心どちらにも悪影響を及ぼすでしょう。なので、プラナヤマは上級の練習であり、アサナの完成が条件となるのです。

2017年9月13日水曜日

汗をかくヨガは間違い 最高齢インドのヨギニが語る 
India’s oldest yogini says you’re doing yoga wrong if you’re working up a sweat

今回は、インドで長く伝統的なヨガを教えてきた女性とその家族についての記事です。
米国に渡ってどんどん新しくなっていくヨガ、そしてインド古来のヨガについて彼らの意見が書かれています。
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太陽礼拝(スリヤナマスカラ)を一度に100回できるような、パワーヨガのファン、ホットヨガの愛好者に対し、インドの最高齢のヨガ・ティーチャーは、それは間違いだと主張する。

インドの南、タミルナドゥ州の98歳になるヨガのエキスパートV・ナナンマルは、ヨガは正しくやれば過酷な運動ではなく汗をかいたり息が上がったりするものではないと信じている。それは平和的でリラックスするもので、それこそが彼女が1世紀近く実践してきているものである。

その年齢にも関わらず、何事もなくどんなアサナもやってしまうその才能で、ナナンマルは称賛とを得てきた。食事とエクササイズのおかげで、彼女は今日まで病院に行ったこともなく大抵の若者よりも健康そうに見える。現在、ヨガ界や健康関連の有名人となり、複雑なアサナをとっているビデオは人気を博し何百万人もの視聴者を魅了している。

ヨガに関しては、ナナンマルと子供達、孫たち、ひ孫たちをも含む家族は、世代を超えて受け継がれてきた伝統に従っている。1972年に設立されたコインバトールにあるオゾン・ヨガセンターで、プラナヤマ(呼吸法)に焦点を当てた伝統的スタイルのヨガを教えている。

しかし、ここではルルレモンのヨガパンツもヨガマットもない。ナナンマルは伝統的な服装でシンプルなカーペットの上でヨガをする。彼女のスタイルはミニマリストに近く、雑穀粥の朝食に野菜と米の昼食、牛乳と果物の夕食といったシンプルな食事をとる。また、生徒たちにも肉やタバコ、アルコールを取らないよう勧めている。

これらは、インドの都市部や世界中にある10億ドル規模のヨガ業界とは大きくかけ離れている。強く速い動きのパワーヨガ、高湿度で行われるホットヨガの人気は、特に米国で衣類やアクセサリー、クラスの人気にますます火をつけている。しかし、ナナンマルや彼女の家族のような伝統主義者にとって、これらは単なるエクササイズであり本当のヨガの形とは程遠いものである。例えば、ナナンマルは、太陽礼拝のアサナは伝統である12回以上行うべきではないと主張する。しかし、ヨガ愛好者の中にはそれをエクササイズとして行い、できる限りの回数を行うこともある。


セレブなどではない 


ナナンマルにとって、ヨガで世界的に有名になることは意識したものではなかった。彼女と子供達がヨガを「フルタイムの職業」にする前は、それは単なる家族の行動であり、107歳まで生きた母親ポナンマルを含む家族で行うものだった。

「父と祖父はどちらもインドの登録医師で、家族以外にヨガを教えることもなかった」息子でヨガ・ティーチャーであるV・バラクリシュナンは語った。「家族の伝統であり外に出ることはなかった」当時、ケララの主要産業は農業であり、カシューナッツとココナツの農場を持ちながら伝統的なシダ医療を行なっていた。

ヨガが人助けになる可能性があるとナナンマルに気づかせたのは、義母が関係する事件だった。
「義母が農場にいた時に脚をくじいた」ナナンマルはタミル語で説明した。「医者に見せる代わりにヨガのポーズをいくつか教えたら、脚が治った」

それからというもの、義母は彼女の最初の生徒となった。その後、近所の人や子供たちに教えるようになり、1970年代にはもっとたくさんの人に教えたいと思うようになっていた。そこでオゾン・ヨガを設立しナナンマルと家族はその後10万人以上の人を教えてきた。しかしその規則は厳しく(例えば裸足でヨガを行うなど)、それに従わなければ帰るようにと遠慮なく生徒に言う。

約20年前、ヨガを教える人を訓練することも始めた。資格を与えるため、インド政府イニシアチブであるバーラット・セヴァク・サマジと手を組みプログラムを開発した。オゾンが提供した自然療法ヨガ・サイエンスのプログラムは1000人以上が修了し、その多くが中国やシンガポール、マレーシアなど様々な国でヨガを教えているとバラクリシュナンは言う。

しかしもちろん、時とともに変化していくものだと彼は付け加えた。今や、授業はナナンマルが望むよりもだんだん甘くなり、クラスで伝統的でない服装をしたりプログラムに喫煙者がいることもある。そして、ナナンマルがヨガはブラフマ・ムフルタム(吉兆の時間)である午前3〜5時だけに行うべきだと固く信じている一方で、仕事を持つ人や生徒たちのためにオゾンでは一日中クラスが行われている。そして、以前そうであったようにヒンズー教徒に限らず、インド全域や海外からのすべての宗教を信じている人々へとクラスを開放している。

「もっと多くの人にヨガを学んでもらいたいので、厳しくはしない」とバラクリシュナンは言う。しかし、彼らの原点であるヨガの形は変わることはなく、ビールヨガゴートヨガなどといった流行りとは一線を画している。

「次の世代が私たちの伝統を学び引き継いでいけるよう、今まで行ってきたものを教えるということに集中している」ナナンマルは言った。


2017年9月6日水曜日

柔軟性について科学が教えてくれること Vol.3 
What Science Can Teach Us About Flexibility Vol.3

固有受容体神経筋促進法... って?


西洋における近年の柔軟トレーニングは、素早く劇的に柔軟性を得るため進展反射を再訓練する神経のテクニックを使います。これらの中には、(さあ、一呼吸して)固有受容体神経筋促進法(proprioceptive neuromuscular facilitation)と呼ばれるのものがあります。(幸いなことに、通常はこれを単にPNFと呼びます)

パスチモッターナサナでPNFの原理を用いるには次のようにします。前屈をしながらストレッチを少し緩め、ハムストリングスをアイソメトリック(等尺)に収縮させます。かかとを床に向かって押しつけるようにすると良いでしょう。そして約5〜10秒続けます。この動きをやめ、前屈が少し深くなっているか見てみましょう。

PNF法は、最大に近い長さに保ったまま筋肉を収縮させることで進展反射を得ようとするものです。ハムストリングスを使うと、筋紡錘の圧を緩めることができ、筋肉をもっと緩めても大丈夫だという信号を送ります。これは矛盾しているように見えますが、筋肉を収縮すると実際は伸ばすことができるのです。この様に筋繊維に力を入れたあと解放すると、おそらくたった数秒前に限界に近かったストレッチが楽になっていることに気づくでしょう。さあ、もう少し踏み込んで神経活動の小休止を使ってストレッチを深めましょう。神経系が調整されて、可動域が大きくなります。

PNFは科学的なストレッチと言えるでしょう」理学療法士のマイケル・レスリーは言います。レスリーは、サンフランシスコ・バレーのメンバーの柔軟性を高めるのにPNF技術を変更した組み合わせを使用しています。「私の経験では、静的トレーニング1週間で得られる効果がPNFでは1セッションで得られます」

これまでのところ、ヨガはPNFタイプのテクニックに系統的には注目してきませんでした。しかし、同じポーズを数回行いながらアサナの慎重なシークエンスや繰り返しを重視するヴィンヤサは、神経的なコンディショニングを促進することができます。

アメリカン・ヴィンヤサ・インスティチュートの創設者で、T.K.V. デシカチャーのヴィニヨガ系で最も尊敬されるティーチャーの1人であるグレイ・クラフトソウは、ヴィニヨガをPNFに例えています。「収縮と伸展を交互に行うと筋肉が変わる。収縮の後は、筋肉が弛緩して伸展する」


プラナと柔軟性


クラフトソウはまた、呼吸は意識と自律神経系をリンクさせると指摘し、どんな神経的な動きにも呼吸が重要だと強調しています。「自己開発のどんな科学においても最初のツールとされるのが、この呼吸の質なんだ」

プラナヤマあるいは呼吸のコントロールは、サマディ(三昧)に至るヨギの道の4つ目の肢則です。ヨガの訓練の中で最も重要なものの一つで、身体中のプラナ(生命エネルギー)の動きの調整を行うことができます。しかし、深淵なヨガの生理学、西洋の科学的な生理学のどちらから見ても、リラクゼーションとストレッチ、呼吸の関係性はとても深いものです。生理学者らはこの機能的で神経的な動きと呼吸の相互関係を随伴運動の例だととらえています。つまり、他の場所の動きとともに起こる身体のある部分の不随意の動きです。

パスチモッターナサナを行なっていて深く安定した呼吸をしていると、呼吸の流れを反映する流れに気づくでしょう。息を吸うと筋肉がやや緊張し、ストレッチが浅くなります。呼吸をゆっくり完全に吐くと、腹部が脊柱に向かって凹み、腰の筋肉が長く伸びる様に感じ、胸を腿に向かって下ろすことができるでしょう。

息を吐くと肺が小さくなり横隔膜が胸の方に引き上がるものですが、それによって腹部の空間が広くなり腰椎が前方に曲がるのを助けるのです。(息を吸うと反対になり、風船の様に膨らんだ腹部のせいで完全に前屈できなくなります)しかし、息を吐くとまた、実際には背中の筋肉がリラックスして骨盤が前傾することは気づかないかもしれません。

パスチモッターナサナでは、腰の筋肉組織は受動的に伸長しています。Science of Flexibilityに書かれている研究によれば、吸気は能動的な腰の収縮、すなわち前屈に対して全く逆の収縮を伴います。呼気は腰の筋肉を緩めてストレッチを促します。腰の上あたりの背中に手のひらを置いて深く呼吸をすると、脊椎の両サイドにある脊椎起立筋が、吸気で緊張し呼気で緩むのを感じられるでしょう。もっとよく観察してみると、吸気で脊椎の先にある仙骨あたりの筋肉が緊張し、骨盤が少し後傾することもわかるでしょう。呼気ではそうした筋肉は緩んで骨盤が自由になり、股関節周りの回転を可能にします。

肺が空っぽになって横隔膜が胸に引きあがると、背中の筋肉が緩んで完全なストレッチへと前屈していくことになります。一旦そうなると、心地の良い、永遠の内的安定の時間を感じ、伝統的に前屈の効能だと考えられてきたものの一つである神経系の安定が得られるのです、。

この時点では、特にヨガの霊的要素に触れた様に感じられるかもしれません。しかし、この経験の実際的な説明はまた西洋科学も行なっています。アルターのScience of Flexibilityによれば、呼気で横隔膜が心臓を押し上げると心拍がゆっくりになります。血圧が下がり、肋骨の圧迫、腹壁、肋間筋もまた下がります。弛緩が起こり、伸長への耐性が高まり幸福感も上がるのです。


柔らかくなる近道?


しかし、ヨガの全ての時間が平穏とは限りません。ハタヨガを極めていくと実践者は痛みや恐れ、危険などを伴う飛躍を経験することがあります。(結局のところ、ハタとは「強引な」という意味があります)B.K.S.アイアンガーのLight on Yogaの中で、生徒がパスチモッターナサナをしている生徒の背中の上でマユラサナ(孔雀のポーズ)をし、もっと深く前屈させるようにしている写真を見たことがあるかもしれません。あるいは、バダコナサナ(合蹠のポーズ)をしている生徒の腿の上に立つ指導者を見たことがあるかもしれません。そういう方法は外部者から見れば危険で残酷とすら見えるでしょうが、経験のある指導者によって行われるととても効果的なのです。そしてそれらは、神経的なメカニズムの再調整に焦点を当てた西洋の柔軟トレーニングの最新の技術に著しい類似性があると言えるのです。

この記事をリサーチしている時、何年もハヌマナサナ(「スプリット」として知られています)を練習していたある友人が、このメカニズムに気づいて驚きの躍進を経験したと伝えてくれたのです。ある日、彼がこのポーズを試みて、左脚を前に右脚を後ろに開き両手は床に軽く置いて支えていました。いつもより遠くに両脚をストレッチした時、胴体のほとんどの全荷重を腰の方へ下ろしていました。突然、強い熱を骨盤に感じ、思いがけず素早く解放されて彼の両坐骨が床に着いたというのです。彼はストレッチの時にはほとんど出会わない生理学的な反応を起こし、伸長反射に逆行、解除する神経の「回路ブレーカー」にスイッチを入れたのです。伸長反射が筋組織を緊張させる一方で、この別の反射は(「逆伸長反射」と言います)腱を守るために筋肉の緊張を完全に解いたのです。

これはどのように起こるのでしょう?各筋肉の先端には、筋膜と腱が交わっており、荷重をモニターする感覚器があります。これらはゴルジ腱受容器(GTOs)です。筋肉の収縮や伸展が腱に与えるストレスが強すぎるときに反応します。

旧ソ連の巨大な国営のスポーツ組織は、このGTO反射を大きく操作したものに基づいて神経的な柔軟トレーニングの方法を開発しました。「完全なスプリットや難しいアサナ
の多くに必要となる筋肉の長さはすでにそこにある」ロシアの柔軟エキスパートのパヴェル・ツァツーリンは言います。「しかし、柔軟性をコントロールするには自律神経機能をコントロールする必要がある」彼は、脚を椅子の背に持ち上げながら説明するのです。「これができるなら、スプリットができるだけの柔軟性はすでにある」ツァツーリンによれば、できないのは筋肉でも結合組織でもないのです。「素晴らしい柔軟性は、脊椎にある多くのスイッチを入れ替えることで可能になる」

しかし柔軟性を高めるためにGTOメカニズムを使うには、ある種の危険を伴う、というのも筋肉は完全に伸展させ、GTO反射を起こすために極度の緊張が必要だからです。ロシアのシステムや上級のヨガ・テクニックのように、強度の柔軟トレーニング法は、骨格が正しく調整されておりストレスに耐えられるほど身体が強いかどうかを確認することのできる経験のある指導者が必要だということです。自分が何をしているのかよくわからずにやれば、すぐに怪我をしてしまうでしょう。

しかし、これらの方法を正しく使えばとてつもなく効果的です。柔軟トレーニングをしたことのない体の硬い中年の男性であっても約6ヶ月でスプリットができるようになるとツァツーリンは主張しています。


応用生理学


さて、「これらの西洋のストレッチの技術がヨガにどう関係しているの?」と自問していることでしょう。

もちろん一方では、プラナをより多く流せるような体を作るためストレッチは重要な要素です。そのため、多くのハタヨガの流派では練習を伝統的なアサナや身体の理想的な可動域を作るためのポーズを基本にしているのです。

しかし、良い指導者なら誰でも、ヨガはストレッチだけではないと言うはずです。「ヨガは世界を体験する新しい方法を教えてくれる訓練です」理学療法士のジュディス・ラサター博士は説明します。「そして苦しみへの執着を手放すのです」ラサターによれば、意識と無意識の二種類のアサナしかないと言います。言い換えれば、あるアサナの位置を決めるのは私たちの集中力であって、身体の外観だけではないのです。

身体の完璧性を追求することに捕らえられてしまって、サマディ(悟り)というアサナのゴールへの見解を見失ってしまうことは大いにありうるでしょう。しかしまた同時に、伝統的なヨガの「内なる肢」を得るのに必要な一点への集中を開発するには、身体の柔軟性を限界まで探ることが完璧な道具となりえます。

アサナの長年の実証に基づいた洞察を伝えるために西洋の生理学的な科学理解を利用することは、全くもって矛盾するものではないのです。実際、西洋ではハタヨガの中でおそらく最も影響力のあるヨガ・ティーチャーのB.K.S.アイアンガー氏は、常に科学的調査を勧め、洗練されたアサナを育成するために正確な生理学的な論理の応用を提唱していました。

すでにこの考えに熱心に取り組んでいるヨギもいます。マサチューセッツ州ボストンにあるメリディアン・ストレッチング・センターでは、ボブ・クーリーが柔軟性の不足を診断しアサナを処方するというコンピューター・プログラムを開発試験中です。クーリーのストレッチング・センターに来る新しい患者は、16のヨガポーズを行うように言われ、CADで使用されるのと同様のデジタル・ポインタでクーリーによって生理学的な身体の目印が記録されていきます。これらの身体の点を読む作業は、患者と人間の平均的及び最大柔軟性を比較するために測定されるのです。このプログラムは、患者の基準と経過をまとめ、改善が必要な場所を見つけて特定のアサナを勧めるのです。

クーリーは、伝統的なヨガのアサナとPNFに類似した技術を組み合わせ、彼の考える東洋と西洋の知識の最良の融合点を用いているのです。(折衷的実験者であるクーリーは、西洋の心理療法の知識エニアグラムとヨガへのアプローチとして中医学の経絡理論を取り入れている)

もし、ヨガの純粋主義者であるなら、古代からのヨガと新参の科学知識を混ぜる寄せ集めなど好きではないかもしれません。しかしながら、「新しく改善」するのはいつの世もアメリカの国是であり、ヨガの発展を鑑みれば、東洋の経験に基づいた知恵と西洋の分析された科学の融合は、重要な貢献になるのではないでしょうか。