2017年9月27日水曜日

愛の四つの質 ティク・ナット・ハン 
The Four Qualities of Love


今回は、マインドフルネスを普及するベトナム出身の禅僧ティク・ナット・ハンの教えからです。仏教を開いたブッダもそもそもはヨギでした。心、体、エネルギーをどのようにコントロールすべきか、そこの根源は同じだと思います。

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Thich Nhat Hahn


ブッダがくださった愛の教えは、明確で科学的、応用的です。愛、共感、喜び、平静は、まさに悟りを開いた人の特徴です。私たちの中にある真の愛には四つの局面があり、それは全ての人と物の中に存在します。
– ティク・ナット・ハン

幸福とは、真の愛によってのみ可能になります。真の愛は癒しと周囲を変化させる力があり、人生に深い意味をもたらします。真の愛を理解し、どのように築き育てるかを理解している人がいます。ブッダがくださった愛の教えは、明確で科学的、応用的です。誰もがその教えから恩恵を得ることができます。

ブッダの時代、バラモン教信者らは、死後、万能の神であるブラフマーとともに永遠に天国に居られるよう祈りました。ある日、バラモンの一人がブッダに尋ねました「どうすれば必ず死後ブラフマーとともに居られるでしょうか?」ブッダは答えました。「ブラフマーは愛の源だから、ともに居るためには、愛、共感、喜び、平静であるブラフマヴィハラ(四無量心)を実践しなければならない」

ヴィハラとは住居のことです。サンスクリット語で愛は「マイトリ」といいパーリ語では「メッタ」と言います(慈)。共感はどちらの言葉でも「カルナ」です(悲)。喜びは「ムディタ」(喜)。平静はサンスクリット語で「ウペクシャ」、パーリ語で「ウペッカ」。四無量心は真の愛の四つの要素です。これらは「無量(量れない)」と呼ばれます。というのも、これを行うと毎日内側で大きくなり、全世界を包含するまで続くからです。あなたはより幸せになり、周りの人々もまたより幸せになるのです。


四無量心を通してブッダの精神を引き継ぐ


ブッダは、人々の信心を尊重していたので、そのバラモンの質問にそうするように答えたのです。座って瞑想することを愉しんでいるのなら、座って瞑想をしなさい。歩く瞑想を愉しんでいるのなら、歩いて瞑想しなさい。しかし、自分のユダヤ、キリスト、イスラムのルーツを守り続けなさい。それがブッダの精神を引き継ぐ方法です。自分のルーツを切り離すと幸せにはなれません。

四無量心を学べば、怒りや嘆き、不安、悲しみ、 嫌悪、孤独、不健康な愛着などの病を癒す方法を知ることができます。

(慈)

真の愛の最初の局面は「マイトリ(慈)」で、喜びや幸福を与える意思や能力のことです。この能力を開発するには、他者を幸せにするために何をして何をしないかを知るため深く見て聞く練習をしなければなりません。彼女に欲しくないものをあげたとしてもそれはマイトリではありません。彼女の真の状況を見て、彼女を不幸にさせないようにする必要があります。

理解がなければ、あなたの愛は真の愛ではありません。愛する人が欲しているもの、念願、悩みなどを感じて理解するために深く見るのです。私たちは皆愛を必要としています。愛が喜びや幸福をもたらします。これは空気のようなものです。私たちは空気に愛されていて、幸せで健康であるために新鮮な空気が必要なのです。健康であるために木が必要です。愛されるためには、愛さなければなりません。つまり理解するのです。愛を持ち続けるため、空気や木や愛する人たちを守るために適切な行動を取らなくてはなりません。

マイトリはまた「愛」や「慈愛」とも訳せます。「愛」は危険すぎるので「慈愛」を好む仏僧もいます。しかし、私は「愛」の方が好きです。言葉は時に病気になり、私たちが癒さなくてはなりません。私たちは「ハンバーガーが好き(I love...)」などのように「愛」という言葉を食欲の意味で使ってきています。もっと慎重に言葉を使うべきです。「愛」は美しい言葉です。その意味を取り戻さなくてはなりません。「マイトリ」は友という意味のマイトラを語源にしています。仏教では、愛の最初の意味は友情なのです。

私たちは皆、愛の種を内側に持っています。この素晴らしいエネルギーの源を、何の見返りもない無条件の愛を築き育てることができます。誰かを深く理解すれば、それが私たちを傷つけた人だとしても、彼らを愛することを拒めません。釈迦牟尼仏陀は、次の累代のブッダは「マイトレーヤ、愛のブッダ」と呼ばれるだろうと宣言しています。


共感(悲)

真の愛の第二の局面は「カルナ」で、悩みを解決して変換し、悲しみを軽くする意思と能力です。カルナは通常「共感」と訳されますが、これは厳密には正しくありません。「共感(compassion)」は「com(一緒に)」「passion(悩む)」からなっています。しかし、私たちは、他者の悩みを取り除くために悩む必要はありません。例えば、医師は同じ病気にならなくて患者を治すことができます。あまりに悩みすぎると、壊れてしまって助けることができなくなります。それでも、他にいい言葉が見つかるまでカルナの訳語として「compassion」を使うことにしましょう。

共感を築くには、マインドフルな呼吸、深く聞いてみることを練習する必要があります。ロータス・スートラには、「共感の目で見、世界の嘆きを深く聞く」菩薩としての観世音について記述があります。誰かが悩んでいたら、近くに座るでしょう。その人の痛みに触れるため、深く見て聞くことでしょう。深いコミュニケーションの中で深く関わり、それだけが幾らかの安心をもたらすのです。

一つの思いやりの言葉、行動、思いが、その人の悩みを軽減し喜びをもたらします。一つの言葉が、安らぎと自信を与え、疑いを解き、誰かが間違いを防ぐ、争いを解決する、あるいは解放へのドアを開ける手助けになるのです。一つの行動が、ある人の命を救い、その稀な機会を活用する手助けとなります。一つの思いでも同じことができます。思いは常に言葉や行動に繋がるからです。心の共感によって、思い、言葉、行動全てが奇跡を起こすのです。

私が新信者だった頃、世界が悲しみに満ちているのになぜブッダはこんなにも美しい笑顔でいられるのか理解できませんでした。なぜ悲しみにとらわれないのだろうかと。後に、ブッダは、十分な理解と平静と強さを持っていることがわかりました。だから、悲しみが彼を圧倒することなどなかったのです。悲しみにどう対処しどう変換すればいいのか知っていたので、悲しみに対して微笑むことができるのです。悲しみに気づかなければなりませんが、状況を変換するために明晰、平静、強固でいなければなりません。カルナがあれば、涙の海に溺れることはありません。ですから、ブッダの微笑みが可能になるのです。


喜び (喜)

真の愛の第三の局面は「ムディタ」です。真の愛は常に私たちと愛する人に喜びをもたらします。もし愛がお互いに喜びをもたらさないのであれば、それは真の愛ではありません。評論家は、幸福は体と心どちらにも関係するといいますが、喜びはまず心に関係しています。

この例はよく語られます。砂漠を旅している人が、冷たい水の流れを見つけて喜びを感じます。水を飲んで幸福を感じます。Ditthadhamma sukhavihari とは「今の瞬間の幸福に浸る」という意味です。「未来に急ぐことはありません。今ここに全てがあることを私たちは知っています」

良い状態の両目があるという気づきなど、多くの些細なことが大きな喜びをもたらしてくれることもあります。ただ目を開いて青い空を見、紫の花、子供達、木、そして様々な形や色を見るのです。マインドフルネスの中でこれらの素晴らしく生き生きとした物に触れられると、喜びの心が自然に湧き上がってきます。喜びは幸福を含み、幸福は喜びを含むのです。

ムディタは「同情的な喜び」または「利他的な喜び」という意味だという人もいますが、私たちは他者が幸福な時に幸福だと感じるものです。ムディタのより深い意味は、平穏と満足に満たされた喜びだと言えるでしょう。他者が幸せであるのをみると嬉しいが、自分が幸せでも嬉しい。自分自身に喜びを感じないならどうして他者に喜びを感じることができるでしょうか。喜びは全ての人に対するものなのです。


平静 (捨)

真の愛の第四の要素は「ウペクシャ(捨)」で、平静や無執着、公正、冷静、放免を意味します。「Upa」は「上」を、「iksha」は「見ること」を意味します。一方に固執せず状況全体を把握するため、山に登ります。もしあなたの愛が、執着、差別、偏見、愛着の要素を持っているなら、それは真の愛ではありません。

仏教を理解せずにウペクシャは無関心だと思う人が時々いますが、真の平静は冷たくも無関心でもありません。子供が複数いたとしても、全てあなたの子供です。ウペクシャは愛さないという意味ではありません。子供達が差別なくあなたの愛を受けられるように愛するのです。

ウペクシャは「平等の知恵」であるサマタジナナと呼ばれる印です。自分自身と他者を区別なく全ての人を公平に見る能力です。争いの中でどんなに深く関与していても、偏見なくどちらのサイドも愛することができるのです。全ての差別や偏見を捨て、自分と他者の境界を取り除きましょう。

自分自身を愛する者で他者を愛される者と見たり、他者より自分を評価したり、自分を他者と違って見たりする限り、真の平静は得られません。真に愛し理解したいのなら、自分自身を他者の皮膚下に置き彼と一つにならなければなりません。それができれば、「自身」と「他者」の区別は無くなります。

ウペクシャがなければ、愛は所有的になります。夏の風はとても気持ちの良いものです。しかし、それをブリキ缶に入れてずっと持っていたいと思っても風は死んでしまいます。私たちの愛する人も同じです。彼は、雲、風、花のようなものです。ブリキ缶に入れたら死んでしまいます。でも多くの人はそんなことをしているのです。彼の自由を奪い、彼は彼で亡くなってしまいます。自分自身を満足させるために愛する人を利用するのです。それは愛ではありません。破壊です。

あなたは彼を愛しているという。でも、彼の熱望や必要や困難を理解しなければ彼は愛という名の牢獄の中です。真の愛はあなたにも愛する人にも自由を与えます。それがウペクシャです。


愛が真の愛であるためには、共感、喜び、平静がなければならない。真の共感であるためには、愛、喜び、平静がなければならない。真の喜びには愛、共感、平静がなければならない。そして真の平成には愛、共感、喜びが必要なのです。


これが四無量心の相互に存在する性質なのです。ブッダがバラモンに四無量心を実践するよう説いた時、私たち全てにとても大切な教えをくださったのです。しかし、この愛の四つの局面を自身や愛する人たちの生活にもたらすには、深く見てそれらを練習していかなければならないのです。


From Teachings on Love by Thich Nhat Hahn

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