ーーーーーーーーーーーーーーー
そして、自分の子どもや自分の身体との関係など、文字通り執着と定義されるような本当に解決困難な問題もあります。それを手放すことは命そのものを手放すかのように感じるそても本能的な執着にどう対応できるのでしょうか?
「自分の人生をどう生きるか彼が決めたこと」と、彼らが信じてきた精神的な教えを引っ張り出して彼ら自身に言い聞かせます。「彼の旅の一部だから。彼には彼のカルマがある」けれど、息子の幸せに執着することをどうしたら止められるでしょう?長い間育んできた配慮や責任の感情に繋がっているその絆をただ切れるでしょうか?こんな時、(成功を手放すことよりも困難なのは周知のごとく喪失であるため、多くの場合は喪失です)手放す実践についての辛い事実に対峙します。手放すことは、決定的に達成するということはほとんどありません。それは、瞬間ごと、日々、真実をそのまま受け入れるプロセスであり、結果に身を任せて正しいと考えている行動をとることに最善を尽くすことなのです。
私が初めて、執着を手放すことと自由の関係性について真剣に考えた時のことは忘れません。そろえは20代の頃で、ヴァーモント州の友人と一緒に、恋愛相手との辛い別れから立ち直ろうとしていた時です。ある夜、私の憂鬱に嫌気がさした友人が地元のラジオをつけたところ、ラム・ダス(訳注:心理学者でスピリチュアルなヨガの指導者)が話をしていました。彼は、インドでの猿の捕まえ方という有名な逸話のことを語っていました。ナッツ一掴みを口の小さな壺に入れておくのです、と彼は話しました。猿は壺に手を突っ込んでナッツを掴むのだけれど、掴んだ手は壺の口から出せないことに気づくんです。ナッツを手放せば逃げられる。でも、そうはしない。
執着は苦痛につながります、とラム・ダスは締めくくりました。それは「手放すことは自由につながる」のと同じくらいシンプルです。
彼は私に話しかけているのだと思いました。1日に2箱タバコを吸う習慣や、辛い恋愛関係、私は確かに執着していて、そして確かに苦しんでいました。けれど、一握りのナッツを手放すことは考えられなかったのです。恋愛というドラマ無しの、タバコやコーヒー無しの人生など想像できなかったし、ましてや、それ以外のちょっとした依存、つまり心配や憤り、判断など無しでは考えられませんでした。それでも、猿と壺の話は、いつか作動するエネルギーのように私の心に残りました。
一年後、私は駆け出しのヨギとなりました。最近のトラブルについて聞いてくれるような女友達と出歩かなくなりました。その代わり、不満を言うといつも「手放して」と答えてくれる人たちと過ごすようになりました。シンプルさを追い求めて、軽率にも、仕事を辞め、アパートを出て、彼氏と別れました。捨てられなかったものは、不安、憤り、そして批判する傾向。つまり、ある行動から他の行動へと単に移動しただけで、その結果、まだ苦しみ続けていました。
手放すとは?
数年の間、大切なものを無用なものの代わりに捨ててしまうまで、手放すとは外界の話ではないのだと私は気付きませんでした。実際、人生の大きな精神的な課題によくあるように、手放すことは深いパラドックスに関係しています。人生で混乱があまりない人は、精神的な実践のための時間をより多く持っているのは事実です。けれど、長い目で見れば、家族や所有物、政治行動や友人関係、仕事への注力などから自身を切り離すことは精神的な人生を貧しくする可能性があります。人や場所、スキルや考え、お金や所有物に関わることは、現実の世界で精神的な基礎となります。こうした外側の関係性や、それらの作るプレッシャーがなければ、思いやりを身に付けたり、怒りやプライド、心の冷酷さを減らし、精神的な洞察を行動に移すことが難しくなります。
ですから執着を手放すことは、生活の糧や力、自尊心、他人との関係性などという基本的な問題に対処しないことの言い訳にはできません。また、手放すことを、無関心や不注意、消極的態度と同一視することもできません。その代わりに、手放すことをスキルとして実践することができます。おそらく、人生に誠実さを気品を与えるために必要なスキルとして。
バガヴァッド・ギーターは、間違いなく執着を捨てる実践についての基本的な文献ですが、この点について素晴らしくはっきりと著されています。クリシュナはアルジュナに、執着を捨てて行動することは、それを行うこと自体が正しいことであり、成功するか失敗するかの心配することなく、それが為されなければならないゆえである、と語ります。(T.S.エリオットはクリシュナの助言をこのように言い換えています。「我々には試すことしかできない。あとは知ったことではない」)
同時に、クリシュナはアルジュナに、運命が求める彼の役割の中で最善を尽くすことから逃げてはならないと繰り返し思い出させます。ある意味で、バガヴァッド・ギーターは、最大のプレッシャーの下で最大の気品を持って行動する方法についての長い教えなのでしょう。ギーターは実際、手放すことについて私たちが持つ多くの質問について記しています。例えば、家族や喜びを感じる能力を諦めるべきではなく、自分を純粋で不死の意識としてではない身体や個人として識別する傾向を捨てるべきだと指摘しています。
執着を手放す方法
けれど、バガヴァッド・ギーターは全ての質問に答えてくれる訳ではありません。その方が良いでしょう。一歩ずつ、自分で答えを見つける方法を発見することが、精神的な人生の醍醐味ですから。例えば、恋に落ちた時にどうやって執着を手放せるのでしょう?どうやって、行動の結果を深く考えることなく、ビジネスを始めたり、小説を書いたり、司法試験の勉強をしたり、救急病棟で働くことができるのでしょう?欲望と執着を手放すことの関係とは?手放すことと燃え尽きから来る無関心との違いは?
社会的な行動はどうでしょう?例えば、怒りや不公平感に捕らわれずに正義のために戦うことは可能でしょうか?そして、手放すことと優秀であることに関係性はあるのでしょうか?精神的な実践を含めて何に対してであれ、優れることは、100パーセント身を投じる用意ができていなければほとんど不可能です。それでも手放すことはできるのでしょうか?
そして、自分の子どもや自分の身体との関係など、文字通り執着と定義されるような本当に解決困難な問題もあります。それを手放すことは命そのものを手放すかのように感じるそても本能的な執着にどう対応できるのでしょうか?
私のある友人の18歳の息子は、学校をドロップアウトし、働かないことを選択して今は路上生活をしています。友人と彼女の元夫は、息子を学校に止めるため、彼が選んだならどんな教育でも金銭的に支援すると約束するなど、あらゆることをしました。どれもうまくいかなかった時、彼らは専門家の助言に従って金銭的支援を打ち切りました。今では、彼に会いたいときは、彼がいる公演まで北へ6時間車で行って彼を探します。息子は全ての状況に満足しているようですが、それでも彼らは夜中に目が覚めて、凍えて空腹でひどい怪我をしていないかと思い、毎日、心配や恐怖や怒りのさまざまな感情を生きています。
「自分の人生をどう生きるか彼が決めたこと」と、彼らが信じてきた精神的な教えを引っ張り出して彼ら自身に言い聞かせます。「彼の旅の一部だから。彼には彼のカルマがある」けれど、息子の幸せに執着することをどうしたら止められるでしょう?長い間育んできた配慮や責任の感情に繋がっているその絆をただ切れるでしょうか?こんな時、(成功を手放すことよりも困難なのは周知のごとく喪失であるため、多くの場合は喪失です)手放す実践についての辛い事実に対峙します。手放すことは、決定的に達成するということはほとんどありません。それは、瞬間ごと、日々、真実をそのまま受け入れるプロセスであり、結果に身を任せて正しいと考えている行動をとることに最善を尽くすことなのです。
ホームレスになった息子のある誕生日に、彼の母親が彼を探して夕食に連れていき、新しい服を買いました。彼はそのパンツが気に入らず、着古した方を着て帰っていきました。「少なくとも息子には会えた。少なくとも、愛していると伝えることができたわ」後で私の友人は言いました。「他の選択がしたくなったらいつでも、ここに居る私たちが援助すると思い出させることができたわ」
この友人の、息子に対する複雑な感情を持つ様を素晴らしいと思います。できないことについて認め続けながらもできることを行い、困難を誤魔化すことなく、その状況で最善を見つける方法を探っています。彼女の手放しには、全く楽観主義的なところはありませんし、苦労してやっと手に入れたものです。人生ではこれが私たち全てに遅かれ早かれ必要となります。この世界が愛し方を教えるための学校ならば、それはまた、喪失への対処法をも教えてくれるからです。
ーーーーーーーーーーーーーーー
次回に続きます。
0 件のコメント:
コメントを投稿