2021年12月17日金曜日

ヨガポーズの魅力の影にある気まずい真実 
The Uncomfortable Truths Behind Our Fascination with Yoga Poses



ヨガはポーズの見た目を完成させるものではない、という概念について。
ヨガといえばエクササイズという認識が広いと思いますが、ある意味それでもいいのかなとも思います。それぞれの解釈でそれぞれのやり方で。その気になれば哲学を深めるもよし、体の健康維持のためでもよし、見た目を追求するもよし。ただ、その人のヨガを誰かに押し付けたり、エゴを大きくしすぎないことは大切かもしれません。
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ヨガと聞けば、おそらく体のエクササイズのことだと思うでしょう。伝統的なヨガの指導者たちは、ずっとヨガ的な精神性を称賛してきましたが、それでもなおヨガといえばポーズだと米国(訳注:日本でも)では考えられています。


ポーズは、基本的なヨガの実践における導入部として素晴らしいものですが、精神的な理解への唯一の道だというわけではありません。ポーズは、子供たちに瞑想の準備をさせる素晴らしい方法です。ヴィンヤサのヨガクラスは、実は、子供たち、特に少年たちのエネルギー維持のために開発されたものです。
 

最初にマットの上に立つ時は、年齢がどうであれ誰もがヨガの旅では幼い子供です。ポーズは、信心を超えた精神性という中心的な要素への導入です。時には、悟りへの道に旅立つのに必要なのは、単に体を動かして呼吸とつながるということなのです。


アメリカ人にとってポーズは、その世界観にあっているので理解しやすいのだと思います。アメリカ人は、他の何よりも身体的な美に価値を見出すので、身体的な鍛錬に身を捧げることに価値を感じます。


それと同様に、ポーズを取ることは、生まれてからずっと養ってきた慣れ親しんだものです。身体的な健康が究極の財産であり、身体の衰えはそうした大切なものの終わりを告げるものです。


けれど、身体を完璧な状態に保つ本当の目的は何なのでしょうか?年を取らないため?時を止めるため?けれど、年を重ねる能力は人生の最高潮(クレシェンド)です。年を取ることは、最も鮮やかな瞬間で、最も深いものです。あなたは、年を重ねるために存在しているのです。私は、年を重ねる能力とは、謙虚さと優雅さをもって年をとることだと思っています。年を重ね、そのプロセスを楽しむこと。手を広げて年を取ることを迎え入れること。身体の状態やポーズに執着することは、年を取らないでいようとすることと同じです。


実は、ポーズはそんなに重要ではないのですが、ヨガ業界によれば、ヨガの確固とした実践とは、「エクソシスト」のリンダ・ブレアみたいに背骨を反らして、山の崖っぷちで逆立ちをし続けなければならないのです。一般的な考えでは、より多くのポーズを知っているほどヨガが上手で、ヨガが上手であればあるほどうまく生きられると言われます。そんな風に体を捻じ曲げられれば、良い人間であり、おそらく他の人よりも良い人間なのです。けれど、それがヨガなのでしょうか?他の誰かよりも良い人間であることが?


そんなことは全くありません。どうやって他の人よりも良い人間になれるというのでしょう?そんなものはありません。そしてそれこそが、ヨガ業界が物事をダメにしている部分です。なぜなら、ヨガは誰かよりも上になろうとするものでは決してないからです。それは、優位性です。優位性とは、周りの人よりも良くあってより多くを得るということです。
 

資本主義は優位性の子供であり、資本主義のおかげで、私自身を含めた多くの人がヨガについて耳にした唯一の原因でもあります。けれど、ヨガは、資本主義が大声を上げ始める以前からありましたし、資本主義が定義できるものを超えて存在しています。そして、どれほどたくさんのポーズを練習しようと、逆さになったりプレッツェルみたいに曲がったりしようと、最終的には全く同じ結論を描くことになるでしょう。どんなヨガポーズも、あなたを他の誰かよりも良くするものなどありません。


根本的に、ポーズをマスターすることは議論に値しないのです。ポーズは、完璧になるためではありません。結局、あなたは、ポーズを取ったり練習したりする以前にすでに完全であり、その真実は変わりません。


ヨガポーズをとりつかれたように練習すること、特に同じポーズを何度も何度も練習することは、痒みをかきむしったりかさぶたを剥がすようなものだと、私は考えています。正直にいえば、私はポーズを自傷行為として行っていました。太陽礼拝や深いバックベンド、逆転ポーズなどを、ベッドが血に染まるまで爪を噛むのと同じ理由で行っていました。なぜなら、自分を傷つけるのが心地良いからです。


ヘッドスタンドやスプリット、車輪ポーズなどをやり続けたかったのは、私が真実を知っている証拠だと感じられたからです。まるでガールスカウトのバッジのように、まるで額に付いた金の星かのように、練習の写真を欲しがっていました。ママ、見て、今日、学校で至福に至る方法を見つけたわ。どうすれば大丈夫かわかった。生き方がわかった、正しくやる方法がわかったわ。


どんなに腹筋が締まったとしても、何らかの精神的な報いは常に地平線にあります。ポーズは体を疲弊させ、精神を今の瞬間に落ち着かせることができます。ヨガポーズが身体をボコボコにやっつけた時、精神は(やっと)休むことができます。筋肉や骨、靭帯が共に働いて、全ての真実のコンセントにつなぐように、そして全身がひとつになった時に初めて、自分自身の内側を見ることが可能になるのです。けれど、ヨガの道とは、死、つまり、避けることの出来ない崩壊の最終段階への準備です。それは、予防策ではなく、永遠の旅とその行先に、完全に存在する道なのです。


どう言うわけか、体はかつて動いていたようには徐々に働かなくなります。そして、皮膚に皺や弛みができ、その根底にあるものに気付かされます。そして、その避けることのできない報いから得た知恵は、常に、浅はかな栄光や身体的特徴に優るのです。


ポーズは、特に複雑である必要はありません。正直に言って、本当に知っておかなければならないのは一つだけ、座るポーズです。実際に、今、やってみましょう。座って静かになりましょう。脚は必要ないので、脚を組む必要はありません。仰向けに横たわっても構わないので、真っ直ぐ座る必要もありません。今は快適ですか?いいですね。では、このポーズを保ってみましょう。


心が早っていますか?息を止めていますか?ソワソワしますか?話したくてたまりませんか?昨日のことが心配?今日この後の予定について考えていませんか。


おそらくは。恐怖。結局、あなたは人間であり、そうした諸々は完全に普通のことです。時間を止めようとしないでください。ただ、今ここにいましょう。ただ、自分自身の目撃者となりましょう。


今この瞬間へと呼吸するのが、ヨガポーズの機能の全てです。全てのポーズのたった一つの目的は、止めている呼吸やソワソワや、心の中で耳障りに響きわたるノイズの目撃者となることです。そして、私の経験では、こうしたことを全て行うには、胡座を組んでやるのも難しく、シルクドソレイユのコントーショニストを真似するのも無理です。


けれど、ポーズがヨガの最重要ポイントではないからといって、意味がないわけではありません。集中を体に向けている時は、自分自身を今この瞬間へと結びつけています。今以外に向かう場所はありません。ポーズに取り組むことは素晴らしく、多くを教えてくれます。ポーズの練習は、本当に良い暗喩のようなもので、本当に良い暗喩のように、全てのポーズは表面で見えているよりも実際はより深いのです。

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