2020年8月1日土曜日

不幸せの原因は何?
What Is the Cause of Unhappiness?


Himlayan Institute の Pandit Rajmani Tigunait 氏の記事からです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

聖典は、不幸も幸福もどちらもその根源は心にあると伝えています。不幸になりたい人は誰もいないにもかかわらず、自身の不幸せを無くすことはできないようです。苦しみの原因を探し取り除こうとあちこち走り回りますがうまくいきません。なぜなら真実を受け入れられないからです。不満の原因は私たちの中にあります。私たちは問題の原因を外の世界のせいにする方を好むのです。


心は、外の世界にあるものを受け取ることに慣れていますが、どのように内側に向けて心とは何なのかを見ることはできません。私たちの不幸が内側にあって心や感情に働きかけなければならないのではないかと思っていても、それでも外に原因を探してしまうものです。そうすることが妥当だと思うのは簡単です。世界はそのように回っています。しかし深いところでは、不幸は自分で作り出したものだと知っているのです。不幸をどこか他所に見つけようとするのは、ただ問題を悪化させるだけです。





私たちの内なる真我、アートマンはいつも目覚めています。いつも私たちと共にいて、何が真実で何が偽りかを教えてくれています。しかし、恐れや自律の不足、自信の欠如、そして他者に頼る習慣によって、それを見落としてしまいます。私たちの内なる自我が有害な行動を避けるように助言したのにそう行動してしまうたびに、私たちは罪悪感を感じます。もう同じ過ちは二度としないと自分自身に言っても、精神的弱さや、習慣や、社会的な圧力のせいでまたそれを繰り返してしまいます。内なる真我がまたこう言います「おい、馬鹿なことはよせ。なぜ自分に不幸を呼び寄せる?」それを聞いてもまだ同じ過ちを繰り返すのです。今度はさらに大きい罪悪感を感じます。内なる声に逆らい続け、過ちと何度も繰り返し、罪の意識を重ねていくのです。こうして自己非難をし、心はついにバラバラになって騒がしくなり、魂の声を押し流していくのです。


罪悪感や自己非難とともに生きるのはとても不快なことです。ではどうすればいいのでしょう?心を内側に向ける方法を知らないでいると、心を外側に向けて誰かのせいにする言い訳を探します。他人や周囲の状況のせいにするのは一時的な気晴らしになるので、全ての問題を外の世界に探すという習慣を作ってしまいます。私たちはこう考えます。「彼は悪い人だ」「彼女はずるい」「こんな不愉快な人たちがそんなことをしなければ私の人生はとても楽しいはずだ」「みんな意地悪だ」「世界は醜く残酷だ」一度こうした習慣がついてしまうと、周りの人から自分を切り離す壁を作り始めます。しかし、それは平穏や幸福をもたらしてはくれません。自尊心を失い、最後には自分から自分を切り離してしまいます。こうして不幸せは完成されるのです。



全ての問題、痛み、そして惨めさは心から生じます。不幸を克服する唯一の方法は、心を落ち着かせ平穏にすることです。聖典は、自分の精神を保護するよう教えています。さらに、精神が保護されればどこにいても安心と守られているという感覚を得ることができるとも書かれています。


恐怖に支配された心は身を守ろうとします。自己防衛の一部として、その過程で暴力的に反応し自身や他人を攻撃します。社会から課されるルールや政府から課される法律は短期的には外の世界の不幸の原因を減らすかもしれませんが、究極的には、心の底深くに根付いた苦痛を無くすのは、個人としての私たちの責任です。ですから、聖典は自己変容のプロセスについて教えを与えてくれており、自己変容によってのみ外的環境を良くすることが期待できるのだと伝えています。



不幸を克服するプロセスは、人生の目的と意味を考えることから始まります。知性でこの目的を理解することはそれを見つけることへの興味を作り出し、さらなる内省、熟慮、そして自己探求を通して、この興味を育みます。最後には、幸せを明日に延期する代わりに、今ここで人生の意味や目的を見つける情熱へと成長していくでしょう。「私は自己発見と自由への道の途中だ」というシンプルな気付きも喜びや熱意、やる気の源となり、そのゴールに向かっていくことに喜びを感じるのです。


言い換えれば、不幸を克服する第1ステップは、人生にはより高度な目的と意味があると気付くことです。全ての体験や物、すべてがこのゴールに到達するための手段なのです。これが分かっていれば、手段に執着することなく目標を達成するためその手段をうまく使う方法を得るでしょう。


第2のステップは、幸せとは世俗的でも霊的でもどちらも含めて全ての成功の基礎であるということ、そして幸せとは自身の精神がもたらすものであり自身の創造物であるということを理解することです。もし何かを達成することで幸せになると考えているなら、決して幸せにはなりません。幸福は決意から始まります。幸せになれるのは、あなたが幸せになるのだと決意した時だけなのです。あなたの幸福に条件があるのなら、その条件がなくなれば幸福は消えます。例えば、あなたの夫や妻が幸せにしてくれることに依存しているとしたら、早かれ遅かれあなたは惨めになってしまうでしょう。あなたの幸福が、子供や富や、友人や、所有物などからくると期待するなら、早かれ遅かれ失望することになります。何事も変わっていくものだからです。あなたがあなたの幸福に関心があるのと同じように、他の人もその人の幸福に関心があります。あなたが他の人をあなたの幸福の対象だと考えるのと同じように、他の人もあなたを彼らの幸福の対象だと考えます。周りの人の望みをかなえている間は敬意を払ってもらえるでしょうが、そうでなくなれば無用な人だと考えられるようになるでしょう。



この知識を聞いてがっかりしないでください。これが世界の本質なのです。しかし、この世を喜びいっぱいで生き、何も所有していないのだという完全な気付きをもって、巧みにそして愛を込めて自分の義務を行えば、流されてしまうような不幸せの海を作ることはありません。愛する誰かが離れて行ったり大切にしているものをなくした時でも、何があっても幸せでいようとあなたはすでに決意しています。その決意を曲げないでください。全てを失ったとしてもあなたは勝者なのです。なぜなら内なる精神的平和を得ているですから。


このような平穏な心を持って道を歩み続けてください。あなたの周りにあるものを、恐怖や執着をもたず存分に活用してください。あなたの心を苦しめる不要な記憶や不安は捨てましょう。あなたが何者なのか、なぜこの世に来たのか、そして何を学ぶべきなのかを知るという任務にあることを毎日思い出しましょう。知るべきことを今どの程度知っているのか?もし今この瞬間に自分の体が無くなったとしたら、そこに後悔はあるのか?このシンプルな瞑想が、道に止まり全ての不幸からの解放を得る助けとなってくれるでしょう。

0 件のコメント:

コメントを投稿