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「陰ヨガ」といえば何が頭に浮かびますか?あなたはおそらく、生徒たちが受け身の長く深いストレッチに耐えている間、ヨガの先生が教室の前の方で静かに座っている光景を思い浮かべるでしょう。これが私たちの多くが知っていて、そしておそらく定期的に練習している陰ヨガでしょう。
しかし、ますます人気のこのヨガの創設者ポウリー・ジンクは、陰ヨガを全く異なる形で40年間教えてきました。ジンクの教えの背景にあるヴィジョンとこの芸術的な練習の総体的効果を探りましょう。彼の陰スタイルが他とどう違うのかを知れば、陰ヨガが全く異なったものに見えるようになるでしょう。
あなたの陰ヨガの定義は?
陰ヨガは、中国の古代シャーマンの伝統、そして他とひとつであり自身の本質との調和にあるという中国の道教哲学に起源しています。陰ヨガのポーズは、動物の特徴、そして私たちの周りと私たちという宇宙の生命力を作り上げている五行に基づいています。気やプラナとして知られる生命力は微細ですが、自然界に影響力を与えるほどとても力強いエネルギーです。陰と陽、女性と男性、宇宙の満ち引きの脈動なのです。
(中国伝統医学では)五行とは「地」「金」「水」「木」「火」です。これらの全てのエネルギーが、安定や堅牢、流動、弾性、明度などの異なった質を表します。陰ヨガは、身体と心を目覚めさせ、行っているポーズのエネルギーとなることです。ポーズを深め、ポーズの五行を活性させることで柔軟性が高まります。
例えば、毎日数分間カエルのポーズをしたとすれば、ついにはポーズが深まりとても弾力のある質を持つカエルの本質あるいは魂となります。陰ヨガの目的は、生物や五行のエネルギーを取り込むことでポーズの本質を備えるようになることです。
陰ヨガの目的は、流れるように動くという私たちの生まれ持った能力を取り戻すことです。
これが、身体中の気の流れを養います。私にとって最も重要なのは、安定したポーズができるようになることではなく、それよりもポーズの本質を掴み取ることです。もし動物や五行のポーズをしていてそのポーズのエネルギーを取り込んでいなければ、生命のない死んだポーズとなるでしょう。しかし、ポーズの五行や動物のエネルギー質とともに流れることができれば、そのポーズを理解したということです。
楽譜に例えてみましょう。ある一音だけを弾き、そして次の音を弾き、それが歌の一部とならなければその楽譜は良い物と言えるでしょうか?ポーズそのものは練習の中では全く重要ではありません。最も大切なのは、ポーズの移行と流れをもたらす魂を、メロディを奏でることです。これが、動物のように自然に本能的に動くことがポーズの意味なのです。私たちは動物だからです。
あなたが最初に道教的なヨガを学び始めた頃から、陰ヨガはどのように発展してきたのでしょう?
私はハタヨガを14才で始めました。道教の先生に出会った時にはハタヨガを練習して9年が経っていました。先生は、導引と呼ばれる古代中国の医術や他の気功を教えてくれました。いくつかの動物や各元素のためのポーズ1、2種を学びました。そして、自発的に動物園などに出かけて動物を観察し、他の動物たちについてやかれらの動きについて学び始めたのです。そうして先生から教わったポーズを練り上げていくつかのバリエーションを作りました。また、より多くのポーズやバリエーション、フローや動き、瞑想、エネルギーの理解を深めていきました。
ある動物が動いているのを見るとその動物のエネルギーを体現したくなり、よく見て私の精神とを融合させ、私の身体の中でそのエネルギーを感じることで一体になるのです。こうすることで、何かを象徴的に示すものというより生きている物を基にしたポーズをつくることができるのです。それは、自然や私たちのまわりの動物たちを鋭く観察することと、彼らと意識をエネルギー的に結合することで一体となることです。
ある動物が動いているのを見るとその動物のエネルギーを体現したくなり、よく見て私の精神とを融合させ、私の身体の中でそのエネルギーを感じることで一体になるのです。こうすることで、何かを象徴的に示すものというより生きている物を基にしたポーズをつくることができるのです。それは、自然や私たちのまわりの動物たちを鋭く観察することと、彼らと意識をエネルギー的に結合することで一体となることです。
私たちは実際に他のものとは切り離せないものであり、だからこそ、この世界のあなたの周りにある何かを体現したければそれは可能なのです。私の先生はこれを教えてはくれませんでいた。自分で見つけたのです。私自身の芸術だと言えるでしょう。不思議な力については先生はあまり教えてくれませんでしたが、私が学んだことのほとんどは自分自身の内なる経験によるものです。
西洋では多くの場合、ヨガは精密な科学として解剖学などに重点を置いて教えられています。あなたは陰ヨガは正確な科学というよりは芸術だと表現しています。これについて詳しく説明していただけますか?
私は解剖学は教えません。ヨガを練習している体験を感じることに完全に集中するよう教えています。生まれ持った能力のまだ使われていない可能性を開くことを教えています。私は理論と練習は別のものだとわかりました。本の理論は実際には機能しません。なぜなら理論とは分析的な心から出た複雑な思考プロセスの塊だからです。
野生の動物は理論など使いません。彼らはそんなことに興味を示さないのです。ただ本当の本質であるだけ。身体をどのように使っているのかという分析も現実というあいまいな概念もなく感じたり行動したりします。だから、ヨガを練習しながら解剖学や理論を考えるなら、その流れを感じることなどできません。今何をしているか完全に集中し感じることなく、考えることに心が忙しいからです。
動物たちは流れるような動きの本当の達人であり、行動に理論を使ったり考えたりはしません。しかし私たちも動物、霊長類ですから、彼らのようにできるはずです。でも私たちの心は、どうするべきかを判断したり様々な考えに邪魔され気が散ってしまうのです。もし私のヨガの練習の中で、本や講義から学んだ伝統的なヨガの理論や魔法の力を使おうしていたら、それは芸術ではなく頭脳の公式になるでしょう。
例をあげて教えるのが本来の方法でしょう。私がポーズを見せながらそのエネルギーを体現すれば、どのようにできるのかどう感じるのかがわかります。しかし、その方法を講義を聞いて誰かの解釈を聞いても、あなた自身の本当の方法で行うことはできません。やっているところを見る方が、それについて聞くよりもずっと効果的です。
自然界の動物のように動こうと思うなら、何かの体系の法則や理論に沿ってもできません。他の霊長類たちは科学的理論など考えません。しかし彼らは流れと動きの達人です。どんな理論も必要ないと彼らが証明しています。限界や概念に沿うことを教える理論は、あなたの邪魔になりかねません。ヨガとは何か、何がヨガでないかという誰かの考えに賛同するのは、ポーズの中で成長し動きと流れを行うことを妨げます。というのも、あなたは限られた信念体系の虜になっているからです。そして、知性に集中することは、直接体験を感じるという直接性を遠ざけることになります。
自然界の動物のように動こうと思うなら、何かの体系の法則や理論に沿ってもできません。他の霊長類たちは科学的理論など考えません。しかし彼らは流れと動きの達人です。どんな理論も必要ないと彼らが証明しています。限界や概念に沿うことを教える理論は、あなたの邪魔になりかねません。ヨガとは何か、何がヨガでないかという誰かの考えに賛同するのは、ポーズの中で成長し動きと流れを行うことを妨げます。というのも、あなたは限られた信念体系の虜になっているからです。そして、知性に集中することは、直接体験を感じるという直接性を遠ざけることになります。
西洋の科学モデルは、私たちの文化の中で広く受け入れられているパラダイムです。西洋の科学や分析に公認されない限り、どんな分野や修養も正しくはないというイデオロギーに私たちは閉じ込められています。ヨガが西洋社会に取り入れられてから、私はそれをずっと見てきました。しかしヨガは、西洋科学を全く学んだことのない他の文化の中で多くの師たちに何世紀にもわたって非常に素晴らしく実践されてきています。しかしながら、ヨガは今では、ヨガについての哲学や理論、科学的解釈など様々な研究に人々が関わっているという意味で、学問的に組織化されています。ですから指導者養成は、講義や本でより多く行われ、ヨガの実践や技術の開発方法などは少なくなりがちです。昔は、多くの真のヨガ・マスターたちが心頭しただ実践していました。
実践するということが最も重要なことです。生徒たちの健康や幸福は、誰かが話すのを聞くことよりも、ヨガの練習に時間を使い、呼吸や感覚に注意を向けることでより多くの効果が得られるのです。
ヨガの実践者が科学としてではなく芸術としてアプローチすると何が違うのでしょう?
個々人には個性がありそれが陰ヨガを練習すると心を通して現れるので、陰ヨガは科学でななく芸術なのです。つまり、自己表現の唯一性です。あなたがある動物のポーズしても他の人のポーズとは同じではありません。しかし、その時のあなたの状態はあなたにとって本当なのです。
もしヨガを科学として捉えたなら、揺るぎなく変化のない機械的な枠組みの中に封じ込めることになります。芸術の自然にわき起こる創造的表現は生きています。しかし、何度も何度もただ先生のやることを繰り返して真似をするなら、あなたはただ誰かの方法のレプリカを作り上げているだけです。私は生徒たちに私を真似して欲しくはありません。自身の内にある芸術的表現と動きとともに流れる能力を発見して欲しいのです、私と異なる方法で。このように、ヨガとは常に進化し続ける生きた芸術なのです。
科学とは、客観的観察が基本です。知的な構造物です。しかし芸術は、生命のように主観的です。私たちの、感じたり受け止めている「生きている」という体験は有機的で直感的です。
私たちは有機体であり機械ではありません。変化し適応する能力が重要なのです。
私たちは、形が変わる容器に注がれる水のように、生きていて全体的でそこに存在しなければなりません。水のように身体や意識の中で流れれば、周囲の環境により簡単に適応できます。もっとしなやかに力強く優雅に動くことができます。自然界の高まった気付きを感じ、自身の中、身体の中でより安らげるでしょう。
多くの人は、自分は類人猿ではないと考えています。私たちが何なのかという生まれ持った基本的な側面への気付きを忘れています。このような芸術を練習すれば、それぞれの内にある原始的な自分を解き放ち、その生命力と陽気さを表現する助けになります。そしてそれが起こった時、自分が霊長類なのだとわかり、そして霊長類として理論や組織的に規定された方法は必要ないと気付くのです。
多くの人は、自分は類人猿ではないと考えています。私たちが何なのかという生まれ持った基本的な側面への気付きを忘れています。このような芸術を練習すれば、それぞれの内にある原始的な自分を解き放ち、その生命力と陽気さを表現する助けになります。そしてそれが起こった時、自分が霊長類なのだとわかり、そして霊長類として理論や組織的に規定された方法は必要ないと気付くのです。
それは、ライブ音楽を聞くことと録音を聞くことの違いに似ています。録音はいつも同じです。しかしプロ音楽家のライブを聞きに行けば全く同じ演奏は二度とありません。そこには革新と自発性、感情やテンポの揺れがあります。それこそが私が教えてきたことです。同じクラスやワークショップは二度とはやりません。公式や前もって書かれたセリフでは教えません。また、自身の練習も全く同じ方法ではしません。どんな規制にも従わないのです。いつも異なるのは、一瞬一瞬がいつも新しいものだからです。
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次回に続きます。
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