2020年10月27日火曜日

マーシャル諸島のお話 Vol.1


核兵器禁止条約が発効決定したので
もう3年も前からずっと温めてきたお話、
米国の知人ブライアンがマーシャル諸島で体験した話をシェアしたいと思います。

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やあ、返事が遅くなったね。マーシャル諸島から帰ってきたよ。


今回の旅は、体力的にも感情的にも今までで最もキツイものだったと言わざるを得ない。人生ではしばしば起こるけれど、予め計画を立て予想していても突然何かが起こって何もかもが変わってしまう。今回の旅はそんな旅だったが、大惨事かのように見えていた変化が起こった時には、僕がいた場所の悲劇、そして魔法のような体験としか言いようのないものへの別の道が開いた。それは、マーシャル諸島とエニウェトクの人々の温かさと受容であり、僕の旅を特別なものにした。


この旅の目的は、地球上で最も放射線で汚染された場所のひとつであるルーニット・ドームを訪れることだった。米国は1946年から1958年までにエニウェトク環礁で43回もの核実験をした。43回のうち17回はこのドームが作られ残されたルーニット島で行われた。


1977年から1980年まで、米国が放射能汚染されていると認定した島の表土30ー45cm を4300人の米軍兵たちが削り取った。この汚染土は、1958年の5月5日にカクタスと呼ばれる核兵器実験によってできたクレーターの中に、180kgにも及ぶプルトニウムと他の核分裂物質とともに置き去りにされていた。そのクレーターの幅は110m、深さは11.5m。ルーニット・ドームを作った米兵たちは放射能汚染物質を扱う特別な訓練も受けていなかったし、保護具もなく、地球上で最も放射能が強いホットスポットのひとつで働いているということさえ知らされていなかった。4300人の兵士たちのうち今も生き残っているのはたった300人程度だ。彼らはこの任務について米国政府からは認定されてはいない。


悲しいことに、ここは放射能汚染のおかげで、僕が訪れた場所の中で最も美しく最も自然のまま残された場所のひとつだ。今後一切、ルーニット島や周りの島々に人が住めるようになることはない。


僕にとってルーニット・ドームは、核実験が行われた場所が気候変動とまさに遭遇している場所だ。ここは本当に恐ろしい場所で、僕らが気候変動の影響を止めなければ海がルーニット・ドームを飲み込んでしまい、致死性の内容物がこれまで経験したことのないような大惨事を世界中に引き起こしてしまうだろう。


ここに来て映画を作ることで、僕はこの場所を世界中に知らしめ、気候変動を止める緊急性に気づいて欲しいと、そしてこの恐ろしい場所を浄化する方法を見つけて欲しいと願っている。でも浄化するのは不可能なようだ。ラグーンや海の中にある土壌や沈殿物は最初からずっと漏れ続けているため、ますます危険になっていると、このドームを研究している科学者らは考えているらしい。


この近くにもうひとつのクレーターがあるのを知って欲しい。2年前の1956年5月4日に爆発させられたラクロスという名の核兵器実験の結果だ。





僕は、アルノ環礁の上院議員でマーシャル諸島の法務大臣でもあるマイク・ハルファーティ氏とともにエニウェトクを回った。僕らはエニウェトクの長老たちを尋ね、世界の人々にここに来てもらい何が起こったのかを知ってもらうためにどうしたいかと聞いた。すると彼らはこう答えた。ルーニット・ドームに行って世界に向かって歌いたい、その声を聞いた人々はきっと来てくれるだろうと。


2017年8月28日、21人の勇者たちがマイクに従ってルーニット・ドームに向い、自分たちのためでなく世界のために歌った。僕は彼らを「マグニフィセント22」と呼ぶことにした。






では、少し歴史について伝えよう。


アメリカ合衆国は、1946年から1958年の12年間に、エニウェトク環礁のあたりで43回の核兵器実験をしている。この時期、ビキニ環礁内とそのあたりでも24回行った。どちらもマーシャル諸島だ。最初の水爆実験「アイビー作戦マイク実験」は、エニウェトクで行われエルゲラブ島が消滅した。そこには大きなクレーターがあると聞いていた。エニウェトクの人々は私とマイク大臣をそこへ連れて行こうとしたが、時間がなかった。


エニウェトク環礁は現在、40のとても小さな島々で成っている。そこに住む人は1000人に満たない。マーシャル諸島共和国の最西端の環礁で、マーシャル諸島の人々にとってもかなり遠いところで、実際訪れたことのある人はとても少ない。


核実験の間は、米国はエニウェトクの住民をウジェラング環礁へ移動させたが、そこはエニウェトクの上院議員が言うところの大変「資源の少ない」場所だ。エニウェトクの人々はウジェラングに33年間置き去りにされたが、その間に何度も飢饉が起こり生きるために彼らはパンダン(タコノキ)の根や草を食べざるを得なかった。かなり酷い状況だった。1975年、彼らは政府の船に乗りエニウェトクへ帰ることを要求して抗議した。核兵器実験で残された放射性汚染物質浄化への国際的な圧力が合衆国政府にかかったのは、この時。


この環礁の島のひとつはルーニットと呼ばれる。12年間で17種類の核兵器の実験がルーニット島で行われた。1958年5月5日、「カクタス」と呼ばれる核実験は約110x11.5mのクレーターを残した。1958年のこの頃といえば、フェニックス・オブ・ヒロシマ(POH)号とゴールデン・ルール号がホノルルにいた。この一ヶ月後にPOH号は禁止区域に旅をする。


1977年から1980年、43もの核実験で残された放射能を「浄化」するため、合衆国は8000人強の兵士をエニウェトク環礁に送り込んだ。このうち4300人はロジュワ島に滞在し作業を行った。彼らの仕事は、合衆国によって汚染されるように決められていた島の地表約30〜45cmの土を削ることだった。


エニウェトク環礁のため米軍が用意した地図が以下だ。よく見れば特定の島名の横に黒い点があるはずだ。これらは汚染されていると考えられていた島だ。これはまったく正気の沙汰ではない。ロジュワとビジレに黒点は無いが、これらの南と北にはある。何故この2島だけが被害を受けなかったと言うのか。答えは簡単だ。受けなかったわけでない。嘘なんだ。






ロジュワ島のキャンプに送られた男たちは、放射能汚染物質取り扱いの特別訓練を受けてもいなければ、放射能から身を守る特別な設備も服も与えられず、地球上で最も汚染された環境のひとつで働くことになるとは誰も知らされていなかった。


長くなるからまた今度書くことにする。
それではまた。


ーブライアン

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