2021年4月9日金曜日

「ポーズを快適に感じないのはなぜ?」スッカの意味
“How Come I’m Not Comfortable?” The Meaning of Sukha


「安定した楽な姿勢を見つけましょう」と、ヨガのインストラクターが、ヨガスートラの第2章46節にあるパタンジャリの有名な格言(Sthila, Sukham, Asanam)を引用して生徒たちに言う。15分くらいたったら「限界までいきましょう、プルプル震えるゾーンまで」と言われ、励ますように「このポーズは楽ではありません」と。確かに楽ではない。ポーズをホールドするのは大変。


スッカを「楽」という意味にとるのはもうやめよう。多分「快適」がよりよい定義。でも、インストラクターがプルプル震える部屋いっぱいのヨギたちに「不快さを通して集中しましょう」などと言っているのを聞いたりする。辛いのは自分だけではないと知ると元気がでるかもしれない。でも「楽」でも「快適」でもないなら、いったいスッカとは何?努力が必要なポーズを練習したり、静かに瞑想している時、私たちは自分の快適なゾーンの外にいる。だったら、スッカが「快適」や「楽」の意味だとするのは紛らわしい。これまで私が聞いたことのある一番いい訳は「良い具合」。スッカのこの定義を心にとめていれば、実践の多くの場面で良い具合の組み合わせを見つけることができる。


この言葉を部分ごとに分ければ、「ス」は「良い」で「カ」は「穴」。この場合、この穴というのは、馬車の車輪と車軸が繋がる穴のこと。古代の印欧人は、インドからはるばるアイルランドに至るまでの土地にかれらの言葉と習慣をもたらした。彼らがそんなに遠方へ旅できることができのは馬車のおかげ。車大工と馬車大工がいい仕事をすれば、乗り心地はスッカとなり、よい組み合わせが車輪と車軸がスムーズに働かせることができた。


インストラクターが気づく以上に初心者が混乱することは多いけれど、ほとんどのヨギはパタンジャリの言うスティラ・スッカム(うまう具合に安定して、と訳せる)を維持しながら努力をどのように調和させるかの感覚を身につけていく。呼吸をしているかどうかが、スティラでスッカに練習しているかを判断する方法だと推奨されている。ヨガをしているのか自分を窒息させているのかを決める簡単な方法が呼吸ということに異論はないけれど、サンスクリット語とインドの歴史をみれば、私のお気に入りのパワーヨガインストラクターがよく言うような「プルプル震えるゾーン」でスティラ・スッカム・アサナムを維持することはどういうことかを理解しやすくなる。









スティラ・スッカム・アサナムのスッカとは、ヨガを実践する時には、体の全ての部分が良い具合に一体となるべきということを示している。これは、シャヴァサナで静けさを探しているときも難しいポーズで震えたり汗をかいたりしているときにも言えること。ヨガの基本となる文献のひとつバガヴァットギータは、その中心に、馬車を操るあらゆる方法を駆使することが求められる二輪馬車での戦争を例えている。このギータは短いけれど、マハーバーラタという壮大な叙事詩の中の欠かせない重要な部分で、戦場において神が啓示する場面だ。そんな戦いの中で、古代の御者たちは4頭の疾走する馬をコントロールしながら震えたり汗をかいたりしただろうし、戦車に乗った兵士は動く標的に並外れた弓矢の攻撃を行っていたことは間違いない!馬車をコントロールすることは、身体能力と精神集中を試すこの上ない方法だと考えられていた。スッカは通常私たちが理解している「楽」でも「快適」でもなく、調和をとりながら全てをうまく働かせるということだ。


弓矢や馬車、そしてハタヨガの偉大なマスターたちは、ごく自然な熟達の状態に到達しているということだ。けれど、スティラ・スッカムはまた、練習をしながら震えたり汗をかいたりしている私たちにも当てはまる。簡単な言葉にすれば、あなたの車輪がぐらついておらず、つまり身体が怪我をするような位置にないという意味になる。そして、それ以上の意味おある。ハタヨガは実際的な修養で、最も基本的なレベルにおけるスッカは、肉体(ヨガ哲学ではアンナマヤ・コーシャ、食物鞘と呼ばれる)が、強さとしなやかさと健康を安全にもたらすような形にあるという意味になる。そしてこの概念はまた、生気鞘(プラナマヤ・コーシャ)、意思鞘(マノマヤ・コーシャ)、理智鞘(ヴィジナナマヤ・コーシャ)、そして歓喜鞘(アナンダマナ・コーシャ)という身体の微細な鞘にも当てはまる。


ヨガの伝統の早期には、馬車が人間の身体の暗喩となり、御者である神によって導かれ、魂はその目的に狙いを定めていた。そして肉体ができることを賛美することはとてもよいことではあるけれど、ヨガは究極的には魂を大切に扱うことだということを忘れないでいたい。バガヴァッドギータでは、魂と神の会話が、弓の達人アルジュナが彼の御者であるクリシュナへ語りかけるというたとえ話で表現されている。私たちの練習の全て(体の四肢や存在のより深い部分も)が良い具合に組み合わさる時、そして結果に執着せずに注意をもって戦車から目的を狙う時、私たちは最も深淵な方法で自身を育み、より高い目的に仕えることになる。ギータの最後の節を引用しよう。




全ヨーガの支配者クリシュナの在すところ

弓の名手アルジュナの居るところ

必ずや幸運と勝利と繁栄と そして永遠の道義が実在することを

私は確信します




私たちはみなアルジュナ。弓は、練習や人生でささげる目標。古代の戦車の兵士たちにとって弓を引く訓練に何年も費やすこと、そして(結果に執着せず)今ある課題にただ取り組むことは、大変な実践となったに違いない。けれど、行動の結果に執着するなというギータは、私たちにそうであれと伝えている。その行動が、弓を射ることであれ、面接に向かうことであれ、ハンドスタンドを見事にやりとげることであっても。


ヨガの支配者であるクリシュナとは、私たちの高みにある自身、つまりアートマン。私たちの意思や行動を導く私たちの存在の原点。そして、弓の名手アルジュナとは、人生の目的に気づいた行動であり、個人の利に執着せず善行を選択すること。



私たちの車輪が、決してぐらつくことのありませんように。



(出典)https://yogainternational.com/article/view/how-come-im-not-comfortable-the-meaning-of-sukha 

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