私たちは、周りの世界を見渡し、信じ難いほど苦しんでいる場所を目にして、それはなぜかと考える。病気や飢餓、暴力に見舞われる人もいれば、何事もなく人生を送る人もいる。不健全で非倫理的、あらゆる有害な活動に関わる者が繁栄していたり、正直で勤勉、善意にあふえれた人が失敗ばかりするのを目撃する。また、他者を癒したり人生を変えられるほど霊的に進化した人の話や、逆に痛ましく致命的な病気に悩む人の話を耳にする。なぜなのだろうか。
ヨガによれば、こうした質問の答えは、個人の知識と全体的なカルマにあるという。その知識は、生と死、そしてその間にある全ての謎を説く。若い頃の私は、幸運と不運の原因を理解するために哲学を学んでいた。しかし、読書や熟考を重ねたにもかかわらず、カルマの論理の意味をやっとつかみ始めたのは、何人かのヨギたちと聖典に出会ってからだ。彼らと共にいると、魂の達人たちは知識の説明を超えたところにある微細な謎を明らかにしてくれたのだ。
例えば、アラハバード大学でサンスクリットを学んでいた時、アラハバード郊外のガンジスのほとりに暮らす偉大な聖人スワミ・サダナンダに出会うという幸運を得た。この平和的で穏やかな聖人は、聖典だけでなく世俗的な科学にも精通していた。そして師匠シュリ・スワミ・ラーマに出会う前は、精神的な科学の最高位であるシュリ・ヴィディヤの教えを私が乞うていた一人でもあった。スワミ・サダナンダはこの科学を私に教えてくれるとは言わなかったが、シュリ。ヴィディヤの実践に関する聖典に導いてくれ、またシュリ・ヴィディヤを学び実践sるには神の恩寵とともに良いカルマが必要だと言った。師は、どちらもガヤトリ・マントラを唱えることで叶えることができると言い、このマントラが負のカルマを消し去り新しい良いカルマを作り出し、神の恩寵への道を開くのだと強調した。
師が聖典で解説するこうした指導や理論はどちらも当時の私にはピンとはこなかったが、スワミ・サダナンダの愛、哀れみ、親切、そして聖典の知識は、師への深い献身と信頼とともに私の心に深く沁み渡った。師は時折カルマの法則を説明したが、その教えにもかかわらず、私にとっては抽象的で不可解なままだった。
カルマの流れを変える
スワミ・サダナンダは誰にも優しく、病人に遠慮なく薬を与えた。しかし、私が病気になった時には全く気にかけなかった。私は全く理解ができなかった。そしてある日、遠くの村に住んでいた私の母が、ひどい頭痛に1ヶ月以上も悩まされており今では目も見えなくなったという知らせを受けた。私は動揺し、母のための薬をもらうようスワミに嘆願した。師の返答は「カルマの流れを変えるには、薬は弱すぎるのだ。お前が欲しいと言うなら薬をやるが、アディティァ・フリダヤム(聖アガスティアに明かされた太陽への祈り)を唱えた方がよい」
そうして私は、母の村から60マイルも離れたアラハバードに留まり、大学での日課を続けながら毎日この祈りを12回唱えた。ついには、突然、母の具合がよくなったと姉から知らせがあった。深く感謝しながらも、この祈りと母の回復の関係について好奇心をもった。「なぜ祈りやマントラは、それを実践している者だけでなく遠くにいる誰かの助けにもなるのですか?」私はスワミ・サダナンダに尋ねた。
師は微笑みながら言った。「集中したタパス、サマディ(精神の没頭)、マントラ・サーダナ、神の恩寵、無我の奉仕、そしてサットサンガ(聖者との同席)は、とても力強い正のカルマを短い時間で作りあげる。そしてこれは、前の負のカルマの影響をうち消す」師は立ち上がり、ヴィヤサの注釈のあるヨガ・スートラを取り出して今引用した文章を見せた。
この状況にカルマの法則を当てはめたことで、私はヨガ・スートラと他の聖典を以前より深く理解するようになったが、まだカルマや輪廻転生の関連性についえはよくわからないままであった。
そしてある日曜の朝、私がかなり早くにアシュラムに向かうと、スワミ・サダナンダがひとりの紳士といた。彼は、頻繁に激しいてんかん発作を起こすため、自分を傷つけないようにするためにいつも誰かに付き添ってもらわなければならなかった。師は、灰のようなものを彼に与えてこう指示した。「この薬を毎朝飲みなさい。ただし、野鳥たちに穀類を与えてからです。朝の沐浴を済ませたら、大麦と割れた小麦、その他の穀物を手にし、鳥たちを呼んで与えなさい。鳥たちが食べ終わったら、この薬を飲むのです。それから食事をとっても良いですが、必ず鳥たちが食べ終わってからにしなさい」
紳士が去ってから私はこう尋ねた。「先生、薬を飲むことは理解できますが、なぜ鳥に食べさせなければならないのですか?」
スワミ・サダナンダは答えた。「注意して見ていなさい。彼が治ったら説明しよう」
ほぼ3日間、この気の毒な男はずっと腹をすかせていた。鳥たちが彼の撒いた穀類を食べなかったからだ。そして4日目、やっと鳥たちが食べ始め彼も薬を飲み始めた。1日の初めに鳥に餌を与えることが彼の日課になり、1ヶ月のうちに発作の回数が減った。6ヶ月後には治っていた。
私がスワミ・サダナンダに説明を乞うと師はこう言った。「鳥は自然の一部である。彼らの人間との関係性は、利己や期待に汚されていない。彼らに与えれば彼らは幸福だが、与えなくても気にしない。ただ本能に従うだけだ。私的な選択もしないし、特別な予定もない。彼らへの行いは、われわれ全てのカルマの貯蔵庫である自然への行いである」
「個々人のチッタ(無意識)とカルマシャヤ(カルマの容れ物)は、常に自然、プラクリティにしたがって動いている。自然は、植物や川、その他の自然の環境を含んでいるだけでなく、この物理的世界の源であり中心となる根源的なエネルギー場をも含んでいる。自身の快楽を犠牲にし自分のものだと考えているものを諦めることで、微細な世界のカルマの負債を清算することができる。そして、今の不幸の原因となっているのがこうしたカルマの負債なのだよ」
ごく簡潔だったこの説明で、この後私は何年にもわたって勉強や熟考を重ねることになる。しかし、カルマの謎について勉強し考えをめぐらせるほど、頭に浮かぶ質問が増えていった。なぜ、他の生き物に食べ物を与えるだけでカルマの負債が清算できるのか?人間も自然の一部ではないのか?それが何なのかもわからないのにカルマの負債を清算することなどできるのか?一生のカルマは次の一生にも影響し続けるのか?そうならば、どのように?
母の回復や鳥に餌を与えた紳士の治癒は、カルマの法則をすり抜ける方法があることを示唆していたが、なお問題は残った。「全てのカルマの負債を清算しなければカルマの束縛から自由になることはできないのか?あるいは、激しいタパスや、サマディの会得、マントラ、無私無欲の奉仕、聖人や賢者とのサットサンガ、そして神の恩寵を得ることで免責されるのか?カルマの負債は他の方法では補えないほど大きいものだから、神の恩寵を得ることは破産宣告のようなものなのか?
0 件のコメント:
コメントを投稿